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【人口10万人】平城京ってどんな都市?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【人口10万人】平城京ってどんな都市?」というテーマです。

 

707年、文武天皇(第42代)が25歳の若さで亡くなりました。文武天皇の子は首皇子(おびとのみこ)という後の聖武天皇ですが、彼はまだ幼かったので、成人になるまでのピンチヒッターとして文武天皇の母・元明天皇(第44代)が即位しました。推古天皇持統天皇に続く3人目の女帝です。

 

この元明天皇の治世下の710年、都を藤原京から奈良の平城京に移しました。奈良(奈良市)の地に都が置かれてから約80年間を奈良時代と言います。

藤原京は唐(中国)の首都・長安にならってつくられた本格的な都市でしたが、わずか16年で遷都(都を移すこと)になりました。

その理由としては、昔の都の飛鳥に近かったので、貴族たちが藤原京に移住しようとしなかったこと、大きな川がなく、ごみや下水の処理が上手くいかなかったことなどが考えられます。

 

そこで、思い切って奈良盆地の北部の平城京に都を移し、貴族、役人、そのほかの人々が移住せざるを得ないようにしたのです。

藤原京の宮殿や寺院などは解体され、平城京へ運ばれました。

平城京の都市計画も、唐の都・長安をモデルとし、碁盤の目状に土地を区画した条坊制都城でした。

長安が東西に長い長方形であるのに対し、平城京は南北に長く、東西約4.3㎞、南北約4.8㎞の広さでした。

中央にメインストリートの朱雀大路(幅70m)をつくり、北のはしに平城宮を造営しました。

朱雀大路の西側を右京、東側を左京といいます。

その外側の部分を外京といいますが、何のために造られたのかは、いまだわかっていません。

都の中には大路と小路が碁盤の目のように通っていました。

南北を一条から九条に分け、右京と左京を四坊ずつに分けました。

住所は「〇条〇坊」とあらわしました。

一区画は530m×530mで、それを16に分けたひとつを1町としました。

 

平城宮に近いところには貴族たちの邸宅が立ち並び、遠いところに下級役人や庶民の住居がありました。

 

平城京の人口は、20万人というのが通説でしたが、最近はその半分の10万人ぐらいではなかったかという説が有力になっています。

そのうち、約1万人が役人で、貴族(上級役人)は約100人、中級役人が約600人と推定されています。

 

また、平城京へは日本に帰国する遣唐使船に乗って、中国や東南アジア、インド、ペルシア(イラン)などから、僧や医師、音楽師など様々な人々がやってきました。

ですから、平城京は、世界有数の人口を持ち、外国の人々が各所で活躍する国際的な都市でした。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代                ポプラ社