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【長屋王の変】長屋王事件の真実とは? 

こんにちは。本宮 貴大です。

長屋王の変長屋王事件の真実とは?

 

大化の改新で活躍した2人の人物といえば誰とだれでしょうか。

そうですね。中大兄皇子中臣鎌足です。

この2人は、共に戦い、蘇我氏を滅ぼしました。

ですが、皮肉にも、この2人の子孫が後世になって熾烈な権力争いをするようになるのです。

 

中臣鎌足は、死ぬ間際に藤原の姓を賜りました。大化の改新の一連の功績を認められて褒美としてもらった姓でした。

以降、皇族勢力と藤原氏勢力の熾烈な権力争いをするようになるのです。

 

藤原氏のご先祖とは、藤原鎌足だったのです。

8世紀の初めに政治権力の中枢を担ったのは、中臣鎌足の息子である藤原不比等でした。

藤原不比等は、天皇家との姻戚関係を形成して権力を確保するとともに、和同開珎の発行や平城京遷都、そして718年には自らが先頭に立って大宝律令に変わる養老律令の制定を実現するなど律令国家の構築に大きく貢献した偉大な政治家でした。

 

この不比等には2人の娘がおり、1人目の娘・宮子は文武天皇の夫人とし、その間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)には、2人目の娘・光明子を嫁がせ、首皇子を皇太子にしました。

自分の娘の子、つまり孫と、さらに自分の娘を結婚させるという現在では、到底考えられないことですが、これによって、藤原氏出身の天皇の誕生が内定し、不比等天皇家外戚として権力者に成り上がりました。

 

しかし、720年に不比等がなくなると、その息子たちはまだ若かったので、皇親天皇一族)勢力を代表する長屋王がトップに立つようになりました。長屋王天智天皇天武天皇の孫にあたる非常に血統の良い皇族です。

長屋王は時の天皇元正天皇(女帝)に代わって、政治を運営しました。

 

724年、首皇子聖武天皇として即位しました。同時に長屋王左大臣に就任し、政権運営のトップに立ちました。聖武天皇は17歳年上の長屋王を右腕として信頼していました。

 

やがて不比等の息子たちが台頭してくるようになります。武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟で、光明子のお兄さんたちです。

彼らは長屋王を排斥して、聖武天皇の夫人・光明子を皇后にしようと画策し始めました。

これまで天皇には奥さんが何人もいました。しかし、正妻で皇后になれるのは一人だけです。しかも、皇族出身以外の女性は天皇の妻になることは出来ても、皇后になることは出来ませんでした。

これまでの女帝である推古や持統も、皇族出身で血統の良い家系です。

なので、長屋王藤原氏出身の光明子が皇后になることには当然反対です。前例がないからです。

聖武天皇にとって長屋王は、大事な側近です。しかし、藤原4子からすれば、煙たい存在であることは変わりありません。

ここに藤原4子と長屋王の権力争いがはじまりました。

 

ちょうどこの頃、首皇子光明子のあいだには、基王(もといおう)という男の子が生まれました。

この基王は、生まれてすぐに皇太子となりました。これは藤原4子の働きによるものですが、これによって藤原氏は家系の血を引いた天皇を誕生させることに成功しました。

しかし、この基王が1歳になる前に亡くなってしまいます。

当然、両親である首皇子光明子は深く悲しみ、藤原4子にとっても大きな痛手でした。

 

そこで、藤原4子は、基王の死は長屋王が呪詛したことが原因であるなどと、言いがかりをつけ、同時に「長屋王が謀反を企んでいる」と訴えました。

 

この時、長屋王は写経(経典を写しとること)に励んでいましたが、その後書きが基王を呪い殺したのだという噂が広まりました。

明らかな藤原4子の働きによるものです。

さらに、「長屋王がひそかに左道(邪悪な道)を学び、国家を傾けようとしている」という密告も入りました。

 

聖武天皇は事実を確認するために、長屋王の邸宅に使者を派遣しました。

しかし、すでに藤原氏長屋王体を兵で取り囲んでおり、長屋王は弁明の機会も与えられず、妻と子供とともに自害しました。

結局、聖武天皇自身は、事実関係を確認できないままとなってしまいました。

729年の出来事です。これを長屋王の変といいます。

長屋王が本当に謀反を計画していたかどうかはわかりませんが、平城宮からは呪術に使ったと思われる人形や人面墨書土器などが見つかっています。現代人からすれば、呪いなんて信じないでしょうが、当時は、そういった呪術行為が慣習的に行われていたようです。

いすれにしても、この長屋王事件によって朝廷の権力は藤原兄弟に移りました。

 

そして、長屋王の変後、光明子光明皇后としてたてられ、皇族以外の出身として初の皇后が誕生しました。これは、当時としては異例中の異例でした。

長屋王の事件後、藤原武智麻呂は大納言に昇格しました。これで聖武天皇光明皇后のあいだに、新たな皇子が生まれれば、武智麻呂は外戚として権威をふるうことが出来、藤原氏の皇室における権力はより強大なものとなっていきます。

 

 

以上

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