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【どう違う?】奈良時代の貴族と農民の生活

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【どう違う?】奈良時代の貴族と農民の生活」というお話です。

 

奈良時代の大きな特徴として、貴族と農民の生活水準に雲泥の差があることです。

まず、貴族の生活ですが、奈良時代律令制度が完成し、その制度が地方にもゆきわたると、都には、地方の農民たちが納める税として租や調(絹などの地域の特産物)が送られてきました。

つまり、貴族の生活は農民たちの苦労の上に成り立っていたのです。

 

では、貴族の生活から見ていきましょう。

まず、衣類ですが、貴族たちは遣唐使によってもたらされた唐風の暮らしぶりを好みました。華やかな色もようが流行し、衣類の材料も豪華な絹織物が使われ、女性のあいだでは現代人顔負けの髪型や化粧が流行りました。

次に食事ですが、奈良時代は、律令制が整い、都には、税として調(地域の特産物)が送られてきたのは先述通りです。

その中は、山の幸や、海の幸が非常に豊富で、貴族たちの食生活を豊かにしました。

奈良時代の貴族は、一日二食で、漆の器で食事をしていました。

白米の飯を食べ、おかずには、鯛のあえもの・鮎の煮つけ・かわめ汁・漬物・栗・里芋・枝豆・くるみ・梅・びわ・寒天などが揃えられ、酒もありました。

唐から持ち込まれた牛乳を飲む習慣も広まり、チーズやバターのような乳製品もありました。さらには米粉を使って油であげた菓子のようなものまでありました。

そして、特別な日には、ウニやサザエ、カニなども食べていたようです。

 

最後に住居ですが、貴族たちは位に応じて、土地を与えられました。

塀で囲まれた屋敷の中には、主人の家、その家族の家、そして家政を運営する人達(召使い)の住む家、倉庫、食事を用意する厨房、馬屋などが並んでいました。

部屋の中には、細工が施された机、いす、箱、置き棚(厨子)など豪華な調度品が室内を飾りました。現在、奈良の正倉院には皇室や貴族が使った家具や調度品が残されています。

 

こんな誰もがうらやむ生活をしている貴族とは、裏腹に、この時代の庶民の暮らしはかなりつらいものでした。

 

では、庶民の暮らしはどのようなものだったのでしょうか。

まず、身分制度ですが、人々は良民と賤民に分けられた。

賤民には自由はなく、官有(国が所有している者達)には陵戸・官戸・公奴婢と、私有には家人・私奴婢があり、合計で5種類(5色の賤)がありました。特にこの奴婢と呼ばれる人達は、いわゆる奴隷であり、売買の対象にされるというひどい扱いを受けていた。

 

万葉集』の歌人山上憶良の「貧窮問答歌」には、次のような内容の歌があります。

「わたしは、人並みに田をつくって働いているのに、麻布でつくった袖なしの服は海藻のようにぼろぼろだ。今にもつぶれそうな家の中で、家族は地面にわらをしいて寝ていている。かまどには火の気がなく、米を蒸すための‘こしき‘には蜘蛛の巣まで張っている。そこへムチを持った里長(役人)が税を取り立てようとやってきて大声でわめく、世の中を生きていくのはこんなにもつらいものなのか」

 

このように律令制のもとにある地方の農民たちの生活は非常に苦しいものでした。

衣類においては、二枚の布を縫い合わせて頭・腕・足が出るようにした粗末な服を着ていたようです。

食事は、貴族同様一日二食でしたが、玄米や雑穀、青菜汁などを土器を使って食べていたようです。

住居に関しては、旧石器時代から続く竪穴式住居に住んでいました。

 

律令制の税の主なものに租・調・庸がありますが、租は田にかかる税で稲2束2把(収穫の3%)で軽いものです。ところが、男子だけに課される調や庸はとても重く、雑徭という労働力を提供するものでした。

 

さらに、庸や調を都へ運ぶ運脚も税のひとつで、これも男子に課されるものでした。運脚に任命されると、食事、寝具、炊事道具などを自分で用意し、都までは野宿を続けなければなりませんでした。特に遠方から来た農民たちは、帰国の旅路で食料が尽き、餓えて行き倒れる人々も大勢いたようです。

その他に、21歳~60歳(正丁)の3~4人に1人の割合で、兵士として兵役に従事しなければなりませんでした。兵士は各国に設置された軍団で訓練を受けます。

その中の一部は1年間、皇居の防衛にあたる衛士になり、その他の者は防人となって、3年間北九州の防御のための兵隊となりました。この時代の外敵は朝鮮や中国が想定されていたので、一番近い北九州が防御のための対象でした。

この兵役の負担も大変で、命懸け任務なうえに、武器や食事も自分で用意するのが原則でした。

 

先ほど紹介した『万葉集』には防人の詠んだ歌もあります。

「父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねる」

これは、防人として旅立つ日に、父と母が自分の頭を撫でて「無事でいろよ。元気でね。」と言ってくれた言葉が心に残って忘れられない。という意味です。

 

また、こんな歌もあります。

「唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして」

自分の服の裾にすがりついて「お父さん、行かないで」と泣きつく子供たちを置いて防人に出てしまった。子供たちには母親もいないのに。という意味です。

このように働きさかりの男たちがいなくなった家族は悲惨で、ぎりぎりの生活をしいられていました。

 

今回は、奈良時代の貴族と農民の暮らしの違いを見てきました。農民に比べて貴族の暮らしは本当に豊かなものだったことがわかりました。

しかし、貴族社会には、ドロドロの権力闘争がありました。貴族社会では、身分の上の者に下手に逆らうと無実の罪を着せられ、ひどいときには処刑されることもありました。

また、身分の上の者同士でも位や役職をめぐって争いがありました。

そう考えると、貴族たちの生活も実は決して楽なものではなかったといえるでしょう。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

オールカラーでわかりやすい 日本史         西東社

読むだけですっきりわかる 日本史     後藤武士=著 宝島社文庫

中学 見て学ぶ 国語             受験研究社

教科書よりやさしい 日本史         石川正康=著   旺文社

日本の歴史1  旧石器~平安時代          ポプラ社