日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【平安仏教1】なぜ最澄は天台宗を開いたのか【最澄】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【平安仏教1】なぜ最澄天台宗を開いたのか【最澄】」

 

 奈良時代までの仏教は、現代の日本の仏教とは少し違っていました。寺院に一般人が参拝することは出来ませんでしたし、葬式が行われることもありませんでした。

 奈良時代の仏教は貴族などの支配者層のためのもので、民衆のためのものではありませんでした。しかし、平安時代の初期に最澄空海が現れたことで、それまで問題とされなかった「人々の救い」が問われるようになり、仏教は大きく変革されました。

 これには平城京から平安京に遷都した桓武天皇の、平城京の貴族や仏僧に対抗するために、民衆を味方につけようとした意図がうかがえます。

 いずれにしても、この改革が後の鎌倉時代に日本独自の仏教が民衆に広まっていく下地を形成するのでした。

 

 最澄は中国からの渡来人の子孫と呼ばれています。767年に近江国滋賀県)に生まれ、14歳で出家して僧となり、19歳になると、東大寺で正式な戒律(僧がまもるべき規律)を授かり、最澄と名乗りました。

 その後、比叡山にのぼり、一乗止観院(後の延暦寺)を建て、修行に励みました。最澄空海も、人里離れた山に寺を構えて修行をする山岳仏教を信仰していました。

 そんな中804年、最澄桓武天皇からスカウトを受け、留学僧として唐(中国)に渡ることになります。このとき、桓武天皇は奈良の平城京から京都の平安京に遷都しており、奈良の仏教勢力に対抗するために優秀な仏僧を探しており、その目に留まったのが最澄だったのです。

 

 804年、唐(中国)に渡った最澄は、天台山にのぼり、天台宗の教えを学びました。天台宗は、隋の時代に大成された大乗仏教の宗派で、『法華経』中心の教学と、密教、禅、戒律を基本とします。そして天台宗を学んだ最澄は戒律を授かり、灌頂(がんじょう)という頭に水をそそぐ密教の儀式を受けました。帰国の時には、460巻にもおよぶ経典を持ち帰りました。

 

 日本に戻った最澄は、日本におけるそれまでの仏教に疑問を抱きはじめました。

 平安時代の仏教も、奈良時代と同じく鎮護国家のための仏教であり、貴族などの支配者層を中心に受容され、現世利益を願って仏の加護を祈願する加持祈祷が盛んに行われました。しかし、それはあくまで貴族のためのものであり、民衆のためのものではありませんでした。

 最澄はここに疑問を持ちました。

 最澄が注目したのは、『法華経』の中で説かれている、すべての人間に仏性が備わっており、誰でも成仏の可能性があるという一乗思想でした。この考えは「一切衆生悉有仏性」という言葉で特徴づけられます。

しかし、最澄が19歳のときに受けた戒壇具足戒という小乗仏教の戒を与える戒壇でした。

806年、最澄桓武天皇の許可を得て、比叡山の一乗止観院を延暦寺と改め、日本の天台宗を開き、以下のように説きました。

「すべての人々に仏性が備わっており、僧、俗人に関係なく全ての人が悟りを開く可能性を持っている」と説きました。

これに対し、勢力の大きい奈良の仏教界では、最澄の新しい考えを厳しく批判しました。

「人間には生まれながらに能力の違いがあるので、それぞれにふさわしい教えを説かなければならない。また、全ての人が成仏できるわけではない。」

さらに、最澄法相宗の僧である徳一と三一権実争論とよばれる論争を行いました。法相宗には仏になれるかどうかはあらかじめ決まっているとする三乗思想がありました。

徳一は主張しました。

「仏になれるかどうかは先天的に決まっている。仏になることが出来るのは、3つの乗り物の中で最高の乗り物に乗っている人だけだ。」

これに対し、最澄も反論しました。

「全ての人が仏になる素質を備えているのだからその本性を自覚し、修行することが重要だ。」

 その頃、最澄の保護者的存在であった桓武天皇が亡くなり、最澄は孤立しました。しかし、弟子の円仁や円珍が出てきたことで天台宗は大きな宗派となっていきました。

 818年、最澄は52歳のとき、東大寺で受けた具足戒を棄て、比叡山に新たに太政菩薩を授ける大乗戒壇(仏教修行者に戒律を授ける場)を設置するよう朝廷に願い出ました。しかし、朝廷からの許可が下りず、このときも奈良の仏教勢力に激しく反対され、最澄も著書『顕戒論』で反論しました。

 結局、最澄の考えが認められ、戒壇が築かれたのは最澄の死後7日後だったといいます。最澄はその功績を認められ、朝廷から伝教大師の称号を贈られました。

 最澄の死後、延暦寺は日本仏教の中心地となり、大きな勢力をもつようになり、平安京の王城鎮護の寺院とされました。

 その結果、全国の僧が延暦寺で修行をするために比叡山にのぼりました。その中には、浄土教源信、そして後の鎌倉時代に新しい仏教をひらく法然親鸞栄西道元日蓮などの僧がいました。

 鎌倉新仏教の創始者たちも、みな最初は比叡山天台宗を学び、そこを出発点に自らの仏教を模索していきました。この意味で、最澄天台宗はその後の仏教が開花する これによって、それまでの仏教は国家事業として国家安泰や五穀豊穣などを祈っていたのですが、最澄空海以後、個々の心の平安を願うものとなったのです。

以上。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

聴くだけ 倫理   駿台予備校 三平えり子=著 Gakken

図解 眠れなくなるほど面白い 仏教 渋谷申博=著  日本文芸社