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【墾田永年私財法】なぜ公地公民制は崩壊したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

【墾田永年私財法】なぜ公地公民制は崩壊したのか

 

 狩猟しながら移動する人々にとって、土地をもつことはそれほど意味を持たない。

 人々が土地に執着するようになったのは、農業がはじまり、定住生活をするようになったからです。つまり、縄文時代後期から弥生時代にかけてです。

 そして、よりよい土地をめぐって戦争がはじまり、その争いに勝ち残っていった一族が豪族とよばれる支配階級になりました。

 

 古墳時代になると、豪族の連合政権として発足した大和政権でしたが、飛鳥時代になり、天皇に権力が集中するようになると、有力豪族らは次々に権力を奪われていきました。

 

 そして、ついに645年、豪族の中でも、強大な勢力をほこっていた蘇我氏さえも乙巳の変によって滅ぼされてしまいました。

翌646年、朝廷は4か条にわたる「改新の詔」を発表しました。

その一条に「公地公民制」がありました。

 これは、私有地すべてを接収し、国家の所有とする法律で、当時としては大変な土地制度の改革でした。

 このとき同時に、班田収授法という法律が制定されたといわれているが、同法が確実に施行されるのは701年の大宝律令以後です。

 同法は6歳以上の者に口分田(土地)を貸し与える制度で、国民を「良」と「賤」にわけ、良民には2段の面積を、賤民にはその3分の1を貸し与えた。

 もちろん、ただで土地が分配されるわけはなく、男には祖・調・庸といった租税が課された。これがかなり重い税で、土地を捨てて流浪する者、逃亡する者が続出してしまいした。男子のほうが女子よりも租が重かったので、女子と戸籍を偽り、脱税しようとする知恵者もいたようです。

 これによって、公田は次第に荒廃、それに伴って国税の収入も減少していきました。

 

 奈良時代になると、人口が増加し、新たに貸し与える口分田は不足していきました。

 また、土地の条件が悪かったり、日照りや水害で収穫のない田は、あれたままになりました。 

 もちろん、政府はこうした状況を打破するための対策を立てました。

 722年、百万町歩開墾計画をたて、墾田(未開の土地をあらたに開墾した田)を増やそうとするも、成果は出ませんでした。

 それもそのはず、農民たちは自分達の口分田を運営するだけで精一杯です。そんな中で、新たに土地を開墾するなど、とても出来ません。この時代、チェーンソーとかトラクターのような機械はないので、荒れ地をまともな田にするには何年もかかります。

 

 農民たちに新たに田地を開墾させるには、どうしても、そのモチベーションを上げる必要がありました。

 そこで政府は723年、「三世一身の法」を発令しました。これは既存の溝地を用いて田を開墾した者には一生のあいだ、新たに溝池をつくり、田を開けば3代にわたって、その土地の私有を認めるという画期的な法律でした。

つまり、孫の代までその土地は私有地にすることが出来るようになったのです。

 人々は先を競って開拓したものの、国家の接収期限が近づくと土地の耕作を放棄してしまった。

なぜだろう。

 現在であれば、3世代といえば、相当長い期間に思えます。しかし、当時は寿命も短く、逆に今の中学生くらいになれば子供をつくる時代でしたので、3世代などあっという間に過ぎてしまいました。

要するに、割に合わない制度だったので、農民は耕すことをせず、開墾した田は荒れてしまいました。

 

 そこで政府は743年、ついに「墾田永年私財法」を発し、土地の私有を公認しました。身分により開墾地の面積制限があったものの、原則として土地は自由化されたのです。

 力のある貴族や寺院などは、口分田を捨てて逃亡してきた農民などを使って墾田を増やし、私有地をどんどん広げていきました。

 

 こうして大化の改新以来の政策だった「土地と人民は国のものとする」公地公民制が骨抜きになり、律令国家の基本が土台から崩れていきました。

 つまり、この墾田永年私財法は、本末転倒ともいえる法律で、逆に朝廷の首を絞めることになったのです。

詳しくは、次の平安時代で詳しく説明することにします。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1  旧石器~平安時代          ポプラ社

オールカラーでわかりやすい 日本史         西東社

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

聞くだけで一気にわかる日本史   馬屋原吉博=著  アスコム