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【奈良時代の権力闘争1】橘諸兄と藤原冬嗣

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

今回は、『【奈良時代の権力闘争1】橘諸兄藤原冬嗣』というお話です。

 

 長屋王の変によって、左大臣長屋王がいなくなった朝廷では、大納言の藤原武智麻呂が実権を握り、弟の房前に加え、宇合、麻呂が参議となりました。

この4人の兄弟がたてた家系を藤原四家といい、南家・北家・式家・京家に分かれました。

 藤原氏が公卿(上級貴族)10人のうち半数近くを占めたので、「公卿はひとつの氏族からひとり出す」という朝廷の慣例が崩れました。

 しかし、武智麻呂は聖武天皇の意を組み、葛城王(後の橘諸兄)と長屋王の弟の鈴鹿王を参議にしてバランスを取りました。

 武智麻呂は聖武天皇の命令により、再建中の難波京を宇合に造営させ、麻呂を多賀城に派遣して朝廷に従わない蝦夷(東北地方の住民)への対策を立てようとしました。

 

 こうして藤原氏の4兄弟が朝廷の中心となって政治を進めていたとき、思いがけない災難が起こりました。

 735年から九州で流行していた疫病(天然痘)が東へと伝染してきて737年には平城京にも広がり、数えきれないほどの死者を出しました。

 疫病は朝廷にも蔓延し、4月から8月はじめにかけて藤原4兄弟の命を次々に奪いました。

聖武天皇は各国の神社に疫病退散の祈りをさせ、僧たちには経を読ませました。

 

 藤原4兄弟が相次いで死んだことで、藤原氏の政権は後退しました。天皇にとっては気を遣う人々がいなくなり、自由に政治を動かすことが出来るようになりました。

 この年、聖武天皇は重い病気だった母の宮子と36年ぶりに対面することが出来ました。唐(中国)から帰国した玄昉という僧によって病気が治ったからです。

 藤原4兄弟が急死した後、トップについたのが橘諸兄でした。

 738年、朝廷では皇族から臣下になった橘諸兄が右大臣に抜擢されました。棚ぼた式に権力の座についた諸兄でしたが、政権運営には優柔なブレーンを必要としました。

そこで起用されたのが、吉備真備や玄坊でした。

彼らは遣唐使として派遣されたのち、帰国し、聖武天皇の信頼も非常に厚く、唐の進んだ文化を知り尽くした学者たちでした。

また、この年、聖武天皇の娘で21歳の阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にしました。日本の歴史上、ただ一人の女性皇太子です。

 

740年、藤原宇合の子である藤原広嗣が反乱を起こしました。広嗣は「政治が混乱し、世の中に災いが起こるのは、僧の玄昉や吉備真備が朝廷で我がもの顔に振る舞っているからだ。彼らを追放するように」と訴えたのです。

広嗣は、藤原4兄弟の死後、藤原一族の勢力が弱まったことに不満を抱き、しばしば暴言をはいたりしたので大宰府に左遷されてしまい、それに我慢できずに兵を集めたのでした。

 

聖武天皇は怒りました。

「広嗣は小さいときから狂暴で、わたしが今までかばってきたのに、こういう振る舞いは許せない」

そう言って、大軍を送るよう命じました。

九州についた朝廷軍は広嗣軍に向かいました。

「広嗣は反逆者だ。朝廷軍に抵抗すれば罪は家族や親族におよぶぞ」

そう言われて、広嗣軍は次々に降伏していきました。結局、広嗣は捕らえられ、処刑されました。

 

以上。

参考文献

日本の歴史  旧石器~平安時代    ポプラ社