【鎮護国家思想】なぜ聖武天皇は大仏を造立したのか【行基】
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今回のテーマは「【鎮護国家思想】なぜ聖武天皇は大仏を造立したのか【行基】」
社会の動揺が続く中、聖武天皇は国分寺建立の詔・大仏造立の詔を出し、宇宙全体を照らし、人々を救うとされる廬舎那仏(大仏)によって混乱する世の中を平和にしたいと願っていました。このように奈良時代は聖武天皇によって、仏教の力で国を守ろうという鎮護国家の思想が発達した時代でした。
奈良時代といえば、奈良に都が置かれていた時代ですが、聖武天皇が在位していた元号から天平時代とも呼ばれ、唐風の天平文化が栄え、律令国家の発展期でもありました。
そんな奈良時代の仏教は、国家の庇護のもと、急速に支配者層に広まり、災いを除き、国家の安全を守る鎮護国家の役割を担っていました。
724年に即位した聖武天皇の治世下では、朝廷権力者が、藤原不比等、長屋王、藤原4子(不比等の子供達)、橘諸兄とコロコロとかわり、政情が非常に不安定なものでした。そして740年には、聖武天皇の腹心だった藤原広嗣が橘諸兄率いる吉備真備や玄昉の専横に抗議して謀反を起こしました。
また、聖武天皇自身も1歳に満たない息子・基王(もといおう)を病で亡くしており、さらに宮中に隕石が落ちるという大凶事まで起きました。
こんな不安定な政情や度重なる不幸にノイローゼとなった聖武天皇は平城京を脱し、恭仁京(京都府木津川)に遷都を決め、翌741年に恭仁京にて「国分寺建立の詔」を発しました。これによって、各国(各県)ごとに国分寺・国分尼寺が建設され、その総本山として都には東大寺が建設されました。
この頃、世間では疫病や飢饉が頻発しており、農民たちは重い税に苦しめられていました。食べるものがなくて、家のかまどには食事時になっても火がつかない、蜘蛛の巣まで張っているのに、それでも役人は税を納めろと鞭をふるう。
そんな農民たちを救う方法は、税負担を軽減することなのでしょうが、聖武天皇はそうは考えませんでした。というのも、一度軽減した税は、再び重くすることは不可能だからです。農民たちの相当な反発を受けることでしょう。
聖武天皇は世の中が荒れているのは、仏の御加護が足りないからだとすることにしました。
当時、仏教には、堂塔(仏教建築)を建てて、仏像を安置することによって災害や騒乱が収まり、五穀豊穣が実現する力があると考えられていました。これを鎮護国家思想といいます。
仏教を厚く信仰していた聖武天皇はこの鎮護国家思想のもと、仏教の力で混乱する世の中を平和にしたいと願っていたため、全国に国分寺・国分尼寺の建設を命じたのです。
続いて743年、聖武天皇は紫香楽宮(滋賀県甲賀市)で、「大仏造立の詔」を発し、大仏造立が始まりました。
以下の宣言は、「大仏造立の詔」の一部要約です。
「今、あらゆるものが仏の恩恵にあやかっているとはいえない。そこで、仏教を広く興隆したいという願いを込めて、国じゅうの銅を集めて廬舎那仏(大仏)をつくり、仏法(仏教)を全宇宙に広め、仏の恩恵をこうむりたいと思う。私の富や権力を用いれば像をつくるのはたやすいが、それではみなの幸せを願う私の気持ちには合わない。信仰心をもって像をつくりたいと願うものは、たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも運べばよい。」
聖武天皇が大仏をつくろうと思ったきっかけは、740年に聖武天皇が知識寺(大阪府柏原市)で本尊の廬舎那仏を見て、その光輝く姿をみて感動したことにありました。
同時に、この仏像は「知識」とよばれる寺院や仏像をつくったり、社会事業を行うときに寄付金を差し出したり、労力を提供する人々によってつくられたことを知りました。天皇は、そうした多くの人々(知識)が力を合わせてつくる廬舎那仏こそ自己の理想だと考えました。
廬舎那仏とは、『華厳経』に説かれる仏で、宇宙の中心にあって、全宇宙を照らしてすべての人を救うとされています。奈良時代の主流の仏教には三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗の南都六宗という6つの学派がありました。廬舎那仏はそのうちの華厳宗に説かれている仏です。
さらに、経典で説かれている廬舎那仏は1000葉の蓮弁をもつ蓮華座に座っており、その蓮弁1つ1つに自身の化身である釈迦如来がいます。つまり、聖武天皇は自身を廬舎那仏に、各国の国分寺・国分尼寺を蓮弁上の釈迦になぞらえて大仏の恩恵と自身の権威を全国に示したかったのです。
しかし、当時は国分寺や東大寺の造立に加え、聖武天皇の恭仁京、難波京、紫香楽宮と度重なる遷都によって国家財政は最悪で、度重なる労役への動員で人々の生活は苦しくなっていました。こうなると、大仏造立には庶民はおろか、貴族などの支配者層からのボランティアも募る必要がありました。
「貴族から庶民まで大仏づくりに参加したい人は、一握りの土でも良いから運んでほしい。そして仏の恵みを受けて欲しい。」
当初、大仏造立は不可能だと思われましたが、聖武天皇にとって大仏造立は、生涯をかけた悲願でした。
民間に行基という僧侶が現れ、布教活動や社会事業に尽くしてしました。当初は朝廷から弾圧を受けていた行基でしたが、聖武天皇の発願した大仏造立に協力し、民衆を束ねて、大仏の完成に貢献しました。その功績から行基は僧侶の最高位の大僧正を賜りました。
そんな中、行基という僧が弟子を率いてやってきました。
行基は百済からの渡来人の子孫で、仏教による国家安泰を祈りだけでなく、実際の行動に移して実現しようと考え、寺を出て、布教活動をしながら、橋をつくり、港をつくり、池や堤防をつくったり、地方から都へ税を運んできた農民のための宿泊施設なども建設していました。
この時、行基はすでに恭仁京(京都府木津川)づくりのとき、木津川に橋をかける工事に協力していました。
しかし、行基は朝廷に許可なく出家した私度僧で、勝手に道場(修行の寺)をつくり、民衆に説法していました。当時、民衆に仏教を布教することは、僧尼令という法令によって禁止されていました。このため、行基は朝廷からにらまれていました。
しかし、民衆のために社会事業に尽くす行基の評判は非常に高く、人々からは「菩薩」とよばれ敬われていました。朝廷もこれを認めざるを得ず、聖武天皇はそんな行基の社会活動を知り、行基に頼れば大勢の人々の助力によって大仏造立が出来ると考えました。
聖武天皇は行基の建てた寺に出向いて大仏づくりへの協力を頼み、行基もこれにこたえました。聖武天皇は、行基を師と仰ぎ、敬いました。行基が人々に呼びかけると、大勢の人が大仏づくりに参加しました。
こうして大仏造立の詔から9年の歳月が経った762年4月、完成した大仏の大仏開眼供養会が行われました。このとき、太上大臣となった聖武は、妻の光明皇太后、娘の孝謙天皇とともに大仏のそばに座り、後に貴族や僧が並びました。
インドから招かれた開眼師が、大仏の目にひとみをいれた瞬間、大仏が完成しました。
行基は大仏づくりが行われるさなか、亡くなりましたが、その功績から僧の最高位である大僧正を与えられました。
「仏教が伝わって以来、最も盛大な儀式だった。」
聖武太上大臣は、このうえない感激を覚えました。
今回は、聖武天皇の大仏造立までのストーリーをご紹介しました。大仏造立は悪化する国家財政と生活に苦しむ庶民の力によって達成されたものでした。一時は不可能かに思われた大仏造立でしたが、行基という民間の僧侶の誕生によってそれは達成されました。しかし、国家の保護のもとに発展した仏教は、道鏡などの僧侶が政治に進出してくるきっかけをつくり、皇室を脅かす大変な事件(宇佐八幡宮神託事件)を招くのでした。
以上。
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参考文献
眠れなくなるほど面白い 仏教 渋谷甲博=著 日本文芸社
聴くだけ 倫理 駿台予備校 三平えり子=著 Gakken
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社