【平安京遷都】桓武天皇が平安京に遷都した本当の理由とは【桓武天皇】
こんにちは。本宮 貴大です。
【平安京遷都】桓武天皇が平安京に遷都した本当の理由とは【桓武天皇】
なくよ うぐいす 平安京
これは日本人なら誰でも知っているフレーズですが、794年、桓武天皇はそれまでの奈良の都(平城京)に代わって、新しい都を今の京都の地に建設しました。これが平安京です。
一般的な理由としては、平城京で強くなりすぎた仏教勢力を排除し、心機一転したうえで、天皇親政を再開するためとされています。
しかし、実は桓武天皇、その10年ほど前にも京都南部の長岡京に都を移しています。つまり、この時点で上記の目的な達成しているのです。
しかし、桓武天皇は、10年ほどのうちに平安京に都を遷都しています。そんな短期間での遷都ですから、よほど都を移したい理由があったのでしょう。
今回も、ストーリーを展開し、桓武天皇が784年に長岡京、そして10年後の794年の平安京に都を移した理由についてみていくことにしましょう。
8世紀後半、奈良の朝廷では藤原氏との権力闘争や、道鏡などの仏教勢力が政治に強い影響力を持つなど、政治的な混乱が続きました。桓武天皇はこれらの勢力を政治から断ち切るため、784年、都を水陸交通の便が良い長岡京に遷都しました。
770年、称徳天皇と道鏡の死後、藤原百川(藤原宇合の子)などに担ぎ上げられて後を継いだのは、天智天皇の孫である光仁天皇でした。
しかし、光仁天皇はすでに62歳というかなりの高齢でした。
それまでは7世紀末に即位した天武天皇の皇統に皇位が継承さてきました。しかし、光仁天皇は天武系ではなく、天智天皇の孫であり、以後、皇位は天智系によって継承されていきます。
光仁天皇を担ぎ上げた藤原百川は、天智系の天皇を立てることで、天武系を排除しようと画策したのです。
ちなみにこの頃は、貴族や寺院、地方豪族が土地の私有を進め、開墾した土地や買収した墾田に付近の農民を呼び込んで、初期荘園を形成していった時期です。
光仁天皇は、称徳天皇の仏教政治による混乱から、国家財政と律令体制の再建を目指しました。しかし、781年、高齢だった光仁天皇は譲位をし、その子・山部親王が桓武天皇として即位しました。即位当時、45歳だった桓武天皇は父の政策を受け継ぎました。
784年、桓武天皇はそれまで帝都とされてきた平城京を廃し、山背国長岡(京都市日向市)の地に新京をつくって移座する意向を示しました。
その意向は非常に唐突なものでした。その意向を告げたのが784年5月でしたが、同年11月には早くも桓武天皇は長岡に移っています。
桓武天皇が遷都を決断した理由はいくつか考えられます。
まず、桓武天皇はそれまでの天武天皇系ではなく、天智天皇系であったので、天武系に対抗できるだけの都を欲していたこと。
また、それまでの奈良の朝廷では藤原氏一族による権力闘争や、道鏡などの仏教勢力が政治に強く介入するようになったので、これを断ち切り、天皇親政を実現しようとしたため。
そして、当時は蝦夷征討を行っており、兵と物資の補給に便利な水陸交通に便利な地に都を移していたこと。
長岡京の造営中、桓武天皇の部下・藤原種継が暗殺されました。桓武天皇は、犯人であり、弟でもある早良親王を流罪にしました。すると、天皇の夫人や生母、皇后らが相次いで死去。これを親王の祟りと恐れた桓武天皇は長岡京の棄て、風水思想による四神相応の地に適した山城の地に遷都。名を平安京としました。
ところが、長岡京の造営が始まってからすぐ、暗殺事件が起きてしまいました。
785年9月23日、長岡京の工事責任者であった藤原種継が何者かに暗殺される事件です。犯人グループはすぐに検挙されましたが、なんとその中には桓武天皇の実の弟である早良親王が混じっていました。しかも、彼は皇太子の地位にありました。
これに激怒した桓武は、早良親王を廃太子とし、淡路へ島流しにした。そして皇太子には新たに息子の安殿皇子にすえた。
こうした処置に対して、早良親王は無罪を主張し、やがて憤激した早良親王は一切の食を断ち、淡路に向かう途中で衰弱死しました。
早良親王が死んでから数年後、桓武天皇のまわりで異変が起こり始めました。
巷では、天然痘が猛威を振るっており、多数の死者を出し、天候不順による凶作も続いていました。天然痘は、都にも流行し、桓武天皇の皇后や妻、近親の人々が次々に亡くなってしまいました。
788年、桓武天皇の妻・藤原旅子が病死し、翌789年には実母の高野新笠が、さらに翌790年には皇后の藤原乙牟漏、妻・坂上春子が急逝した。(天皇にはたくさんの妻がいました。その中の正妻を皇后といいます。)
さらに、792年には長岡京の近くを流れる川が二度にわたって氾濫したため、長岡京の工事は中断されるという事態にまで陥った。
凶事の連続にさすがに不安を覚えた桓武天皇は、卜巫(うらない)を行わせた結果、早良親王の祟りであると出ました。
驚いた桓武は、すぐさま淡路の早良親王の墓に勅使を派遣して墓地を清掃し、その霊を慰めました。
しかし、凶事が収まることはありませんでした。皇太子の安殿皇子が、原因不明の病に侵され危篤に陥ったのです。
もはや怯えるしかなくなった桓武は、794年、長岡京をわずか10年で棄て、北方の平安京(京都市)に都を移し、都づくりを始めました。
平安京とは永遠の平和、平安楽土をねがってつけられた名です。平城京と同じく唐の都の長安をモデルとしてつくられており、碁盤の目状に区画された条坊制の都市で、中央には朱雀大路を配している。そのなごりは現在も京都市の中心市街地で見ることが出来ます。
この地が選ばれた理由は諸説あります。
例えば、琵琶湖が近くにあるので、北陸や東国との兵や物資の運搬に便利であったことなど。
ですが、特に有力視されているのが、古代中国の吉凶を占う風水思想で、都にふさわしいとされる四神相応の地だったからということです。
四方を司る四神は、それぞれ東・青龍=水、西・白虎=道、南・朱雀=湖、北・玄武=山に宿るとされています。
平安京の地には、東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山があり、四神相応の地に合致しているのです。
このように桓武天皇の平安京遷都は、この早良親王の怨霊から逃れるために強行されたものでした。
しかし、こうした急な挙行は人々の負担を増やし、805年の藤原緒継による「これ以上の造作は万民を苦しめる」という進言で桓武天皇は平安京の造営工事を中止し、同時期に実施していた蝦夷征伐も中止し、桓武天皇は翌806年、死没しました。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
早わかり 日本史 河合敦=著 日本実業出版社
テーマ別だから理解が深まる 日本史 山岸良二=監修 朝日新聞出版
読むだけですっきりわかる 日本史 後藤武士=著 宝島社