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【奈良時代の権力闘争3】称徳天皇と道鏡

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

奈良時代の権力闘争3】称徳天皇道鏡

藤原仲麻呂恵美押勝)の乱後、退位していた孝謙上皇が再び天皇の位につき、称徳天皇となります。称徳天皇は寵愛する僧の道鏡に大政大臣禅師とし、さらに法王という天皇に準ずる新しい地位を与えるという異例の待遇を与えます。

 764年、藤原仲麻呂恵美押勝)の乱後、孝謙上皇(女帝)は、淳仁天皇を退位させ、自らが再び即位(重祚)し、称徳天皇となりました。

 その後、称徳天皇は自分の病気を治してくれた仏僧の道鏡を身近に仕えさ、左大臣や右大臣と同じ立場の大臣禅師に任じました。

 さらに、766年には道鏡天皇に準じる地位である法皇に任じるという前代未聞の待遇を与えました。

 

 おそらく、称徳天皇道鏡は男女の関係にあったと思われます。

 これまで称徳天皇は独身を貫いており、今までまともな恋愛などしたことはなかった。

 そんな彼女が道鏡と出会ったのは44歳の時でした。ようやく運命の男性に出会えた称徳は、異例の待遇を道鏡に与えたのです。

 しかし、この背景には、当時、天災や飢饉などが相次いでおり、国家全体の安泰を願って、仏僧である道鏡とともに政治を行っていこうという称徳天皇の意図もあったと考えられています。

 いずれにしても、称徳天皇道鏡に対する信頼を非常に厚いもので、道鏡は仏僧という身分から天皇と同等の法皇になるという異例の出世を果たしたのです。

 

 これをいいことに道鏡は飽くなき野心をむき出しにし、自分の親族や弟子に寺院や朝廷で高い地位に就けました。例えば、道鏡の弟は九州の大宰府長官に就任しています。

 これに、貴族や仏教界は猛反発しました。

 さらに、道鏡は寺院の開墾地の所有は認めても、貴族の開墾地の所有は認めないという非常に偏った理不尽な政策を行いました。当時は墾田永年私財法の成立によって、開墾した土地はその開墾者が永久に所有することが認められていました。

 

 こんな道鏡の政策に貴族たちが黙っているわけがありません。

 

やがて、道鏡天皇になるかもしれないという事件(宇佐八幡神託事件)が起こります。皇族出身以外が天皇になるという前代未聞の事件を和気清麻呂が阻止し、称徳天皇が没すると、道鏡は後ろ盾を失い、下野薬師寺に左遷されました。

 そして769年、遂に道鏡天皇になるかもしれない事件が起きました。宇佐八幡宮神託事件です。

 宇佐八幡宮大分市)で神託(神のお告げ)がありました。

道鏡皇位につけよ。さすれば、天下は太平となるであろう」

これを聞いたのは、九州の大宰府長官である道鏡の弟でした。

しかし、朝廷内の貴族たちは、このお告げに不信感を持ちました。

「これは、道鏡の弟が宇佐八幡の神官に協力させて、神託を出させたのではないか。言うまでもなく、道鏡の策略だ。」

しかし、称徳天皇は大喜びです。

 

 一方で、貴族たちのあまりの反発もあり、称徳天皇はお告げの真偽を確かめるため、役人の中でも特に清廉潔白といわれた和気清麻呂宇佐八幡宮まで使わせました。

しかし、宇佐八幡宮に赴いた清麻呂が聞いた神託は全く別のものでした。

「我が国始まって以来、臣下が天皇になったことなど一度もない。天皇は皇族から選べ。無道(皇族でない血筋)の者が天皇になってはいけない」

この神託に従うならば、僧の道鏡は当然、皇位には就けない。今すぐ追放せよということになります。

 

 この清麻呂の報告を聞いた称徳天皇道鏡は腹を立て、清麻呂大隅国(鹿児島県東部)に流罪としました。

 しかし、朝廷内でも道鏡天皇にすることには猛反発が起きており、結局、称徳天皇道鏡皇位につけることはせず、翌年失意のうちに53歳で生涯を閉じた。

 彼女の死後、道鏡は深く悲しみ、読経の毎日を過ごしたといいます。しかし、これによって後ろ盾を失った道鏡は、まもなく下野国(栃木県下野市)の薬師寺に左遷され、それから2年後に亡くなりました。

 

以上。

参考文献

教科書よりやさしい日本史     旺文社

日本の歴史1       旧石器~平安時代