【院政期1】院政はなぜ始まったのか【後三条天皇】
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【院政期1】院政はなぜ始まったのか【後三条天皇】」というお話です。
平安時代中期、藤原北家(摂関家)は、絶大な富と権力を手に入れました。中央貴族から寄進された荘園からの莫大な収入を得て、ライバルとなりうる有力貴族を都から追放し、さらに娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次の天皇とし、天皇の外戚(母方の祖父)として権力を握る。9世紀にはじまった摂関政治は、11世紀の前半、藤原道長・頼道父子の時代にピークを迎えました。
しかし、天皇家以外の家系でこれほど絶大な権力を握った藤原氏は、多くの有力貴族たちからの怨みや妬みの対象となりました。
7世紀半ば、藤原氏は先述通り、他の多くの有力氏族たちを謀略によって都から追放し、その繁栄を築いてきました。したがって藤原摂関家を外戚としない天皇が現れた瞬間、そのスキを狙って反藤原勢力の人々は、藤原摂関家の弱体化を図りました。
そして、その機会は意外にも早く訪れました。
11世紀半ば、藤原道長の子・頼道は天皇の外戚となることが出来ませんでした。摂関政治の前提は外戚政策です。まず、自分の子供に女子(娘)が生まれ、娘が天皇の妃になる。そして、天皇と娘の間に男の子が生まれ、最後に生まれた男の子が天皇になること。これが天皇の外戚となるための条件です。
頼道にも娘が生まれ、後冷泉天皇(第70代)の妃にすることには成功はしましたが、二人の間に子供が生まれませんでした。
反藤原勢力は、これをチャンスとばかりに、摂関家の急速な弱体化に乗り出しました。
藤原頼道は、後一条、後朱雀、後冷泉と3代の天皇の関白でしたが、1069年に関白職を弟の教道(のりみち)に譲り、自身は宇治に引退しました。
翌1069年、後冷泉天皇の次の天皇として、摂関家の血をほとんど引いていない後三条天皇(第71代)が即位しました。(ただし、彼の母の禎子は藤原道長の外孫)
後三条天皇の即位は、藤原氏の政権に大きな打撃を与えました。その後も、藤原氏は摂関家として摂政・関白の地位に就くものの、その権力は道長の時代ほど強大なものではありませんでした。
後三条天皇は即位当時、すでに35歳と壮年で学問にも深く、不屈の意志と精神を持っていたため、摂関家を気にせず、自由な立場で政治を行いました。
「今後、政治を運営するのは、皇族のみであり、摂関家の発言権は最小限にとどめなくてはならない。」
こうして醍醐天皇以来の天皇自らが政治を行う天皇親政が実現したのでした。
後三条天皇は、即位直後、荘園の増加が公領(国衙領)を圧迫していると考え、荘園を抑えるために荘園整理令(延久の荘園整理令)を出しました。後三条天皇の延久の荘園整理令は、それまで国司に任せて失敗していた荘園整理令と違い、中央政府が直接的に荘園整理を行う国策でした。これによって大江匡房を中心に記録荘園券契所が新設され、荘園の所有者(荘園領主)から券契を提出させ、荘園ひとつひとつを厳重に審査し、不正な手続きで税を逃れていた荘園を次々に没収していきました。
そして、それは藤原摂関家の荘園も例外ではなく、摂関家にも券契を提出させ、摂関家に寄進されていた土地の多くが停止・没収され、藤原氏の勢いにはかげりが見えてきました。
摂関政治のもとで摂関家に集中した寄進地系荘園は公領の減少を招き、受領の不満を増大させていました。後三条天皇は国司を歴任した地方政治に明るい者を記録所の職員に登用し、かなり徹底した荘園整理を行ったのです。
さらに、後三条天皇は考えました。
「今後、摂関家のような天皇をも凌駕するような権力者が政治に介入してくる余地を残してはいけない。」
そこで、後三条天皇が考えたのは、自分がさっさと天皇を辞めてしまい、天皇のさらに上の地位である上皇に就いた後も政権を握り続けるというものでした。
上皇とは、譲位後の天皇の呼称ですが、譲位後も政治の運営を行うことで、それまでの摂政や関白の代わりとするのが狙いでした。上皇は院とよばれる住まいに隠棲していたため、これを院政といいます。
天皇が引退後も政治を行うのは、当時としてはかなり画期的でした。それまでも、上皇が政治に関与した例として、持統・聖武・孝謙・平城上皇などが挙げられますが、それらは永続的・固定的な政治形態でもなければ、院庁のような特有な政治機関があるわけでもなかったので、院政とは区別されます。
1072年、後三条天皇は、白河天皇に皇位を譲ります。まもなく院の政治機関である院庁を開設して政務を執る意志を示すも、翌1073年に病死しました。
後三条天皇の意志を継いで院政を開始したのは、息子の白河天皇でした。
白河天皇は即位してから早々と息子の堀河天皇に位を譲り、自らは上皇となります。そして1086年、白河上皇はわずか8歳の堀河天皇に代わって政務を執る院政を始めました。摂政には藤原摂関家の藤原師実が就くも、摂政はこのときすでに名目的な地位でしかありませんでした。
政治の重要な会議は院庁で行われ、そこで働く役人は院司と呼ばれ、院から出される院宣(上皇からの命令書)によって政治が進められました。この院宣は天皇が出す宣旨よりも強い力をもつものとなりました。
白河上皇も藤原摂関家に遠慮せず、荘園整理令を強硬におし進めました。その結果、後三条天皇の荘園整理の効果もあり、不正に税を逃れていた荘園や公田からかすめとった荘園などが多数明らかとなり、没収された荘園は国衙領に組み込まれるのではなく、皇室領に組み込まれました。これが、その後の院政における強大な権力の根拠となりました。
白河上皇は「治天の君(天下を治める君主)」とよばれるようになり、院政が始まると、摂関政治は事実上終わりをつげました。
その後、堀河天皇のあとの鳥羽天皇、次の崇徳天皇も幼くして即位したので、白河上皇は出家して法皇となった後も院政を行い、43年間という長期間、朝廷と院庁に君臨し続けました。
今回の記事のまとめとしては、院政の開始は、それまで強大な権力となり過ぎていた藤原摂関家を弱体化させ、天皇親政を復活させることが主な目的でした。そのために摂関家の持つ寄進地系荘園を荘園整理令によって削り、新たに皇族以外の家系が政治に介入する余地を残さないために天皇は譲位後も政務をとり行うとしたのです。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】 東洋経済新報社
聞くだけで一気にわかる日本史 馬屋原吉博=著 アスコム
聴くだけ 日本史 古代~近世 東京大学受験日本史研究会 Gakken