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【織田信長】こうして信長は上洛を果たした

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【織田信長】こうして信長は上洛を果たした」というお話です。

 

 1568年9月7日、信長は5万の軍勢を率いて、足利義昭を奉じて岐阜を発し、上洛の途につくと、行路に立ちはだかった南近江の六角氏を蹴散らし、同月26日には京に入った。今回はそれについてご紹介します。

 激しい戦国争乱の中で、室町幕府の統治力は全く失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって朝廷や幕府の権威をかりて全国にその名を轟かせようとするものが多く現れました。その中で、全国統一のさきがけとなったのは尾張織田信長でした。

 1560年、上京を企てて進撃してきた駿河今川義元の大軍を尾張桶狭間で破り、1567年には美濃の斎藤氏を討ち、美濃を岐阜と改め、岐阜に城を構えます。そして「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示しました。

 目標が天下統一になったことで、信長には合戦以外にも大きな仕事が発生しました。
天下を統一するには、当時、中央政権があった京を手中に治めなければなりません。
それに天下統一を目指す信長には決定的に欠けているものがありました。

 それは権力です。駿河の今川や、美濃の斎藤を打ち破り、徐々に実力をつけてきた信長ですが、権力に関しては全くでした。当時は現代とはくらべものにならないくらい身分や家柄、血筋が重視される時代です。

 天下統一を目指す信長の大きな仕事とは、時の天下人に近づき、その権力を後ろ盾に天下の政治を行うことです。時の天下人とは室町幕府の将軍のことですが、信長はいかにして幕府に近づくかを考えていました。

 

 京に向かうためには、京に向かうルート(道途)を確保し、さらに上洛する大義名分が必要になりました。

 当時は、現代のような都道府県を自由に行き来することは出来ず、領国間を行き来することは禁じられていました。もし、大軍を率いて他の領国に入れば、他の領国から宣戦布告とみなされ、戦いになります。

 したがって、信長は上洛のために通らなければならない領国を平定するか、若しくは、そこの大名と同盟を結ぶかの方法を取り、京へのルート(道途)を確保する必要がありました。


 大義名分としては「室町幕府の再興」というものがあるとして、問題は京に向かうそのルート(道途)の早急な確保でした。

 ここで、当時の信長の勢力図を確認しておきましょう。信長は1560年、駿河今川義元を打ち破り、人質だった徳川家康を解放し、家康と同盟を結びました。そして家康が遠江を得たことで、信長には砦が出来、甲斐の武田信玄からの侵略を直接受けることはなくなりました。つまり当面の間、東側の憂いはなくなったのです。

 南側は海だし、北側については美濃の斎藤氏を制圧したことで、もう自分の国となったので安泰です。

 残るは西側です。上洛するにはどうしても西側の伊勢(三重県)と近江(滋賀県)を通らなければなりませんでした。

 北近江は浅井長政という戦国大名が治める領地です。上洛のためには、この北近江の浅井を叩き潰す必要がありますが、この時点での信長には長政を叩き潰す兵力はありません。

 ならば、どうにかして浅井長政と同盟を結ばなくてはなりません。

 そこで、信長は自分の妹で絶世の美女と称されていたお市を長政に嫁に出すことで同盟を結びました。長政とお市は政略結婚でありましたが、お市は長政を、そして長政もお市を愛するようになりました。

 このように信長は着々と京へのルートを確保していきました。


 信長が美濃を攻略している頃、京の中央政界にも足利将軍家をめぐる大きな動きがありました。1566年5月19日、室町幕府13代将軍足利義輝が三好義重と松永久秀により暗殺されてしまったのです。

 同年12月5日、信長は義昭から出兵の要請を受けました。しかし、この時、信長は美濃の攻略戦に苦戦しており、余裕はない。切歯扼腕の思いでした。

 1560年、義輝は信長と面談しており、その当時は京の室町御所にいましたが、当時、26歳だった信長の目は京を見すえ、大きく開かれました。

 そして、すでに有名無実の存在になっている将軍家だが、その権威を利用すれば、自分にも天下に号令する可能性があることを知ったことでしょう。
 


 一方で義昭は兄である13代足利義輝将軍の後を継ぐことを示す、すなわち、14代室町将軍になりたいと考えていました。その際、自分を守ってくれる親衛隊を出してくれる大名を探していたのです。

 義昭は越後の上杉、越前の朝倉、安芸の毛利から薩摩の島津にまで御内書を発しました。

 義昭は何とか幕府再興のためにあらゆる大名にお願いしたのです。

 このとき、信長も義昭からの御内書を得ています。

 義昭は一刻も早く上洛し、将軍の座に就きたいと考えていたのです。

 一方の信長も、天下人に近づく絶好のチャンスが出来ました。まさに「飛んで火にいる夏の虫」です。

信長は美濃攻略を急ぎました。しかし、まだもう少しかかりそうです。

 

 一方、義昭は上洛の意を伝えるため、上杉や朝倉の許(もと)に向かいました。
義昭自身は身分が高いので、上杉からも朝倉からも一応歓待はしてもらえます。越前の朝倉のところに行ったときなど、御殿を建ててくれたり、女をあてがってくれたり、朝夕、酒を飲ませてくれたりと大変な歓待を受けています。

 ところが、いざ兵を出して京で将軍家を再興してくれというと、してくれません。

 上杉にも朝倉にも、上洛したくても出来ない事情がありました。

 彼らは兵農一致であり、京に兵を派遣出来たとしても1年を通して常駐させることは出来ません。農繁期になれば必ず郷土に戻し、農作業に専念させなければなりません。さもないと、農民の生活はおろか、自分達の年貢米までおろそかになってしまいます。それだけでなく、大軍を京都に置いてしまったら、本国が侵攻されてしまう危険もあります。なので、彼らはしたくても出来なかったのです。

 しかし、信長は違いました。信長の兵は兵農分離がされた軍隊なので、1年を通して常駐が可能です。

 これを知っていた信長は美濃攻略を急ぎました。

 

 同年9月、義昭はとりあえず、朝倉義景を頼って、越前の敦賀金が崎に身を移しました。朝倉家なら自らを奉じて上洛を目指すというよりも、まず、身の安全を図ったのです。

 

 翌1567年9月、信長はようやく美濃の稲葉山城を陥落させました。すると、兵を休めることなく、すぐに全軍を伊勢に侵攻させました。京に通じるルート(道途)を開くためです。

 東は徳川、西は浅井と同盟関係を結び、その安全を確保した信長にとって、南につながる伊勢の平定にも乗り出したのです。はどうしても平定しておかなければならない。信長は重臣の滝川一益を大将に北伊勢への侵攻を開始しました。

 翌1568年早々、越前から義昭の使いとして明智光秀が信長の居城・岐阜城にやってきました。この当時、光秀は義昭の側近としてその外交を任されていました。

 信長は、後にその命を奪われる男と初めて出会ったのです。

 光秀は義昭の言葉を信長に伝えました。

「上洛軍を催して、京に入り、三好三人衆を討ち滅ぼしたうえ、義輝将軍の正当な後継者として自分を14代将軍に就けよ。これが公方様(義昭)の意向です。」

 光秀はそれだけでなく、義昭の上洛を有利に運ぶために自らが考えついた方策を提案しました。

光秀「信長殿、京へのご出陣の前には、必ず公方様を岐阜にお迎えいただきますように。」

信長「越前の一乗谷から直接京に向かうのでは、不都合なのですか。」

光秀「公方様が岐阜にご動座されれば、将軍の臣下である上杉、朝倉、武田氏などが信

長殿の留守に美濃・尾張に攻め込むことは出来なくなります。」

信長「なるほど、さすれば、浅井と徳川の軍勢を北と東の守りに置かなくてもよくなり、その分を上洛軍に回せるということですな。」

光秀「ご明察、畏れ入ります。」

信長「京に入るには、戦も覚悟しなければならぬ。大事ないか。」

光秀「軍勢に公方様をお迎えすれば、信長殿の軍勢は将軍親征軍となります。さすれば、公方様をお支えんとする畿内の諸豪族達は皆、協力的になるでしょう。それゆえ、さほど大きな戦になることはないと考えます。」

信長「だが、三好三人衆は敵対しよう。奴らは間もなく、新しい将軍を立て、それを盾に我が軍と対立しそうな気がしますが・・・・。」

光秀「公方様は一刻も早い上洛を望んでおられます。そのためなら、軍勢の先頭に立つご決意でございます。」

信長「それはたのもしいお方であることよ。義輝将軍の血を受け継いでいることはある。」

信長は続けて言いました。

信長「それにしても光秀殿、そなたは知恵者じゃ。」

光秀「畏れ入ります。」

 

 こうして信長は光秀に義昭を伴っての上洛を約束し、光秀は室町幕府再興の可能性を感じ取って越前に帰っていきました。

 このとき、信長は光秀の外交能力に注目し、家臣として迎え入れてしまいました。一方の光秀も信長の描く理想国家に深く心酔していたのです。

 同年2月8日、畿内三好三人衆の保護下にあった足利義栄(あしかがよしひで)が室町幕府14代将軍の座に就任しました。朝廷を抑えている三好氏の工作によるものです。

 信長は焦りました。

 もし、義栄将軍が各大名に認められれば、義昭の価値は下がり、彼を奉じて上洛する大義名分がなくなってしまいます。

 7月25日、義昭は光秀を伴い、信長の居城・岐阜城にやってきました。

 義昭は当初、名門でも何でもないただの成り上がり者の信長に対し、半信半疑で、どうせコイツも他の大名と同じだろうと考えました。

 信長と義昭の初めての対面です。

義昭「信長殿、そなたは、余のために何をしてくれるのだ。御殿でも建ててくれるのか。それとも酒でも飲ませてくれるのか。ああん?」

信長「いいえ。私は御殿など建てません。」

義昭「何だと?」

信長「美濃に御殿を建てても仕方ないでしょう。私なら京に将軍御所を建てて差し上げますよ。」

義昭「それは真(まこと)か?」

信長「いかにも。それに、私の軍であれば、年中京に常駐することが出来ます。将軍の護衛はお任せください。」

しかし、義昭は終始、半信半疑でした。

 信長といえば、尾張守護の斯波氏の家老のそのまた家臣の血筋に過ぎずない。その信長を頼るのは、名流を誇る将軍家としては覚悟がいります。

 光秀は義昭を説得します。

「信長公は他の大名とは一味違います。彼を護衛軍として迎え入れれば、室町御所は強固となります。」

 義昭が光秀の説得に応じることにしたのは、一向に実現しない上洛や義栄の存在などで焦りを感じていたからです。

 

 信長は上洛の準備を着々と進めます。

 信長は南近江にたちはだかる六角義賢(ろっかくよしたか)を説得するべく、8月7日、義昭の使者を伴い、佐和山城に出向きました。

「義賢殿が人質を出したうえで上洛軍に加わってくれれば、摂津を与えた上、幕府の侍所の所司代に任命いたします。」

 信長は条件をだして六角氏を味方につけようとしました。

 六角氏と合戦になり、籠城でもされれば、攻城に時間がかかるうえ、上洛路の安全さえ保てなくなる。そのために懐柔しようとしたのです。

 義賢は決断がつきませんでした。

 すでに第14代将軍として三好三人衆に擁立された義栄がいるから、義昭の味方につけば逆賊の汚名を着せられる。信長軍も全兵力をもってしても、せいぜい2万がいいところだろう。

 これでは、上洛しても三好三人衆畿内の諸豪族はおろか、上杉や朝倉、武田からも京を守ることができないだろう・・・・。

 それに家柄も格式もない新興武将の信長相手では、どのような好条件を出されても納得できません。

 義賢は、信長には京を維持する力はないと判断しました。

 信長は六角氏を力攻めすることにしました。信長の平定した全領国は総国高は120万石余り、動員可能兵力は3万ほどでした。

 しかし、予想外のことが起きました。

 尾張、美濃、北伊勢だけでなく、北近江の浅井軍、三河の徳川軍からも参陣が相次ぎ、総数は5万を超えたのです。信長の銭で雇う兵の出兵は可能だとしても、刈り入れを控えての他国勢の参陣は「将軍の上洛軍」との宣伝がきいたからです。将軍といっても正確には次期将軍候補ですが、現将軍の義栄が名前だけで、京に入ることすら出来なかったのも追い風となりました。

 信長は改めて「将軍の威光」を知りました。

 六角義賢は京に在陣中の三好三人衆と連携し、領国の防備を固めていましたが、2万ほどと見ていた信長勢が5万もの大軍と聞いて戦意を喪失。六角方の砦であった箕作城、観音寺城は12日までに落とされ、義賢は翌13日に城を捨てて伊賀に逃れました。

 南近江はわずか2日で平定されました。

 六角氏が目立った抵抗も出来ずに逃げたと聞くと、三好三人衆も京を捨てて、摂津、和泉へと逃げました。

 

 こうして上洛ルートを確保した信長は岐阜城にいる義昭に使者を送って呼び寄せ、26日、義昭とともに京に入りました。義昭は1565年に松永久秀らに追われて流浪の生活になって以来、長年の夢が信長によってあっという間に実現したのでした。

 信長は約束通り、京に将軍御所として二条城を建て、義昭の住まいとしました。織田軍も将軍親征軍として京に常駐するようになり、室町幕府の権威は一気に復活しました。
 そして、1568年10月信長の奔走によって、天皇より義昭は室町幕府第15代将軍に任命されました。

 夢が叶った義昭は大喜びしました。

 そして義昭は信長に恩礼を示しました。

「信長殿、君のおかげで我が幕府は再興出来た。君には本当に感謝している。もし良けれれば、我が幕府の副将軍にならないか。」

 信長は答えました。

「せっかくですが、お断りします。私など、副将軍の器ではありませんので。その代わり、堺や大津、草津などの経済の拠点を掌握する権限を頂きたいと存じます。」

 義昭はまたしても驚きました。

「何だと?一体何をするつもりだ。」
「権威だけでは世を支配出来ません。経済を活性化させ、民衆からの支持も得る必要があります。私なら現在停滞している経済の息を吹き返すことが出来ます。どうかご検討の方を。」
 この信長の提案に義昭はまたしても喜びました。
「お前はなんて謙虚なやつなんじゃ。よろしく頼む。期待しておるぞ。」

信長の活躍は続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
戦国時代の組織戦略             堺屋太一=著     集英社
組織の盛衰                 堺屋太一=著     PHP文庫
教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著     旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業     井沢元彦=著     PHP
もういちど読む 山川日本史         五味文彦・鳴海靖=著 山川出版社