日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【真珠湾攻撃1】大成功の裏に隠された不可解な謎に迫る【山本五十六】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【真珠湾攻撃1】大成功の裏に隠された不可解な謎に迫る。【山本五十六】」というお話です。

 真珠湾攻撃とは、帝国海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、「世界史に残る世紀の大勝利」となりましたが、日本人からすれば、日米開戦の幕開け的な戦いとして‘悪名高い作戦‘であるとされていることでしょう。実はこの「世紀の大勝利」はかなり無謀で無計画な作戦でした。

 真珠湾奇襲作戦における日米の被害状況をみると、アメリカ側は戦艦4隻が沈没、戦艦5隻が大破、航空機は300機近くも破壊されました。それに対して日本側は未帰還機が29機と特殊潜航艇5隻を失ったのみ。
 これだけみれば、この作戦はまさに「世紀の大勝利」と言えるでしょう。

 しかし、この真珠湾攻撃には不可解な点がたくさん存在します。
 とどめの一撃を喰らわしたわけでもない。
 そのまま陸戦隊を上陸させ、ハワイを占領したわけでもない。
 相手の度肝を抜き、すぐに講和に持ち込んだわけでもない。
 軍事の生命線である重油タンクを破壊したわけでもない。
 大きな標的の1つであったアメリカ空母は全て海へ出払っていた。
 撃沈された敵艦隊も浅海であったため、すぐに引き揚げられ、修理された。
 極めつけは、外務省の駐米大使館が事前に宣戦布告の文書を出し損ねるという大失態までやらかしている。

 

??????。

 

 なぜ、こんな詰めの甘い作戦をわざわざ実行してしまったのでしょうか。

 まさにクエスチョンマークがたっぷり付くくらい、無計画で無謀な作戦です。

 そんな中途半端でいい加減なことするものだから、真珠湾攻撃は‘だまし討ち作戦‘として多くのアメリカ国民の怒りを買ったばかりでなく、アメリカはすぐに態勢を立て直し、日本への早期反撃を可能にしてしまいました。 
 この真珠湾攻撃を指揮したのは連合艦隊司令長官山本五十六ですが、彼は何のためにハワイを攻撃したのでしょうか???

 山本五十六の「スパイ説」が絶えないのも、上記のような中途半端でいい加減な部分が多いからです。
アメリカのスパイ説」や、「ユダヤの陰謀説」、「フリーメイソン説」など、あらゆる理由で説明がついてしまうくらい真珠湾攻撃とは「下手くそな作戦」だったのです。

 今回はそんな無計画で無謀な作戦である真珠湾攻撃についてのストーリーを展開しながら、「奇襲作戦の裏に隠された不可解な謎」に迫りたいと思います。

真珠湾奇襲作戦は山本五十六という「博打打ち」によって1年間という短期間で生み出された全く無計画で無謀な作戦でした。その結果、妙な美学や先入観、さらには駐米大使館の指示系統の杜撰(ずさん)さが存分に発揮されてしまい、山本は大きな戦果と引き換えに、アメリカの早期反撃と復讐心に火をつけてしまう結果を招いてしまうのでした。

「長官、この際、ハワイでも占領しちゃったらどうです?」

 それは、日本とアメリカの対立が濃厚になってきた1940(昭和15)年末、黒島亀人(くろしまかめと)という連合艦隊の参謀が「ハワイ占領計画」を作戦案として山本五十六に提出したことがきっかけでした。

 この企画書を読んだ‘博打好き‘な山本五十六の血が騒いだ。

「ハワイ占領か。面白いね。黒島くん。」

 確かに今後、南方に兵を進めるうえで、ハワイに勢揃いした太平洋艦隊は非常に脅威である。可能であれば、早い段階から撃滅しておきたい。
 対米戦では長期戦に持ち込まれると日本は不利であることを知っており、短期決戦を強く主張していた山本にとって、それは非常に重要なことでした。

 

 ところで、もともとアメリカを仮想敵国としてきた帝国海軍は1907(明治40)年以来、対米決戦を以下のように計画していました。
 まず、米領フィリピンを占領し、米艦隊をおびき寄せる。それを迎え撃つカタチで艦隊決戦に持ち込む。艦隊決戦ならば、日本はかつての日露戦争における日本海海戦のように老大国ロシアを打ち破った実績があります。
 しかし、その際、制空権だけは取られないようにしておく。この当時は、航空機で戦艦を撃滅することは出来ないと思われていましたが、念のため。

 以上の戦闘教義に基づいて帝国海軍は40年近く、予算を取り続け、訓練を行ってきました。

 それがここにきて、いつの間にか「ハワイ占領計画」にすり替わったのです。

 しかし、ハワイを占領するには相当数の陸戦隊が必要です。そこで山本は日本からオワフ島まで向かうのは非常に労力が要るからと言って、陸戦隊は連れて行かないとしました。それに、ハワイまでは補給も続かないだろうから占領は物理的に不可能であるとしました。
 つまり、ハワイ奇襲攻撃は面白そうだから実行するけど、成功するかどうかわからないので、そこまで労力は割かないというのです。
 山本は航空機爆撃だけで停泊中の敵艦隊をどれだけ撃滅できるか試したかった。

 こうして「幻のハワイ占領計画」は、酒と女と博打が大好きな山本五十六の手によっていつの間にか「ハワイ奇襲作戦」にシフトダウンし、至急猛特訓が開始され、アメリカ太平洋艦隊に一撃を喰らわし、南方作戦が終わるまでの間、最低でも6カ月間はその動きを封じることが最大の目的とされました。

 しかし、当然ながら、こんな無謀な作戦は海軍軍令部から猛烈な反対がありました。そこで山本は「ハワイ攻撃を許可しないのならば、私は連合艦隊長官を辞める」として辞表をチラつかせ、ハワイ攻撃を強引に通しました。

 そして、1941(昭和16)年12月2日、大本営の方より「ニイイタカヤマノボレ一二〇八」という電報を受けた山本は、すでに太平洋上に布陣していた南雲忠一(なぐもちゅういち)率いる第一航空艦隊に12月8日午前0時より開戦を命じました。
こうして6隻の空母(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)に搭載された航空機は真珠湾攻撃のためにその準備に入りました。

「皇国の興廃繫(かか)リテ此ノ征戦(せいせん)ニ在り、粉骨砕身各員其ノ任ヲ完(まっと)ウスベシ」

 12月7日午前7時、勅語の伝達に続いて、山本の激励文が発せられ、翌8日午前0時過ぎ、赤城飛行隊長・淵田三津雄の指揮のもと、オワフ島から北方230海里(約426キロ)から99式艦上爆撃機、97式艦上攻撃機零戦で編成された第一次攻撃隊183機が飛び立ちました。
 続く午前2時45分、第二次攻撃隊167機も発進しました。

 

 現地ハワイ時間の8日、午前7時45分。第一次攻撃隊は真珠湾中央のフォード島の周囲に係留されていた戦艦群を発見し、淵田は奇襲作戦の成功を確信し、連合艦隊宛てに打電しました。

「トラ、トラ、トラ(ワレ奇襲二成功セリ)」

 当日は日曜日で、太平洋艦隊の乗組員の中には、まだ寝ている人も多くいました。
午前8時。国旗掲揚の準備中だった戦艦ネバダではアメリカ国家の演奏がされていました。その上を、魚雷を搭載した97式艦上爆撃機が超低空飛行で通過しました。

 最初の魚雷は戦艦ウエストヴァージニアに命中し、さらに戦艦アリゾナにも命中。8時10分、アリゾナの前部にあった火薬庫が大爆発を起こし、約1000人の乗組員が即死、海に投げ出された生存者もほとんどが大火傷を負っていました。

 第一次攻撃隊はその後も、雷撃(魚雷攻撃)と急降下爆撃、水平爆撃を組み合わせて攻撃を続け、オクラホマカルフォルニアテネシー、メリーランドと次々に敵戦艦を攻撃し、やがて湾内は爆音と黒煙で充満しました。

 間もなく米軍も対空砲火をはじめ、総指揮をとる淵田機も被弾するも構わず攻撃を続けました。

 

 やがて攻撃は第二次部隊に引き継がれ、第一次攻撃部隊は順次母艦に帰投しました。

「まだ、軍事工場や修理工場が残っている。再度出撃し、それらを破壊する必要がある。」

 淵田はすぐに第三次攻撃部隊の出動命令が下されると思っており、その命令を待ち受けていました。
 さらに、柱島(山口県岩国市)の連合艦隊司令部でも引き続き攻撃を開始し、重要施設の破壊を行うよう命じるべきであるという意見が相次ぎました。
しかし、山本は第三次攻撃部隊の出撃を中止するよう命じました。

「いや、待て。そりゃ無理だ。泥棒だって帰りは怖いのさ。やれる者は言われなくたってやる。やれない者は遠くから尻を叩いたってやりゃしない。南雲じゃ無理だ。」

 山本は突き放すように断言しました。

 

 山本の予想通り、南雲率いる機動部隊の司令部でも第三次攻撃部隊の出動は見送られました。淵田は再三出撃命令を催促するも、南雲は取り合わず、帰還を命じました。

「我々は役目を果たした。全艦反転帰路につく。」

 なぜ、連合艦隊及び航空艦隊は止めの一撃(第三次攻撃隊による攻撃)を行わなかったのか。
 後の淵田の回顧録によると、それが中止されたのは「獅子翻擲(ししほんてき)」という禅の心得に基づいたものだったと言っています。「獅子翻擲(ししほんてき)」とは、当面の敵に全力で一撃を加えた後は、もうその敵には執着せず、サッと翻って、次の新たな敵に備えるという考え方です。

 さらに高木惣吉(たかぎそうきち)の『太平洋開戦史』には次のようなことが記されています。
 第一次攻撃の際、奇襲攻撃こそ成功したものの、態勢を立て直したアメリカの対空砲火が意外に強力だったことで、第二次攻撃の時には、弾幕の中を進まなければなりませんでした。その結果、日本側にも修理を要する攻撃機が120機以上も出てしまい、それは応急処置が出来る程度のものではありませんでした。実際、日本側の未帰還機29機のうち、20機は第二次攻撃隊から出ています。
 さらに、現場では予想以上の黒煙が湾内を覆い隠し、敵陣にどの程度の損害を与えたのか上空からはうまく確認出来なかったこと。
(しかし、結果的に太平洋艦隊はその戦力の6割を失い、日本への反攻に相当の時間がかかっています。)
 そして何よりも、太平洋の長旅によって日本軍の疲労が著しかったこと。

 以上の理由から、このまま第三次攻撃を始めても、奇襲攻撃ほどの戦果は期待出来ず、却って大きな損害が出る危険性があったためでした。 

 

 こうして山本の真珠湾奇襲作戦は、航空機による艦隊撃沈は不可能とされていた従来の常識を覆し、その‘大博打‘を大成功させたのでした。

 一方で、そんな多大な被害を受けたアメリカ海軍は、別の意味でホッとしました。
 真珠湾攻撃の後、アメリカ太平洋艦隊司令長官に任命されたチェスター・ミニッツ元帥は次のような指摘をしています。

真珠湾を奇襲した日本軍は、その攻撃目標を専ら戦艦に集中しており、軍事工場や修理工場を攻撃しなかった。しかも奴らは、愚かしくも湾内近くの燃料タンクの貯蔵されている450万バレルの重油タンクを見逃した。もし、この燃料タンクが破壊されていれば、アメリカ太平洋艦隊の再起は絶望的なものであっただろう。」

 なぜ、日本海軍は真珠湾重油タンクを見逃してしまったのでしょうか。

 当時、大本営海軍部作戦課長だった富岡定俊大佐の回想には以下のように記されています。

「まさか地上に露出した燃料タンクに油が入っているとは思わなかった。日本海軍のタンクでさえ、地下に埋められている。アメリカは日本よりも科学技術が進歩しているから、地上のタンクに油は絶対に入れないであろうと思ってしまった。」

 こうした帝国海軍の妙な美学とアメリカの技術力に対する買いかぶりによって、修理工場や燃料タンクを残したことが、アメリカ軍の早期反撃を可能にしてしまいました。

 

 さらに、真珠湾奇襲攻撃は先述通り、宣戦布告なしの、あるいは事前の国交断絶通告なしの‘だまし討ち作戦‘となってしまいました。
 アメリカに対する最後通牒(外交交渉打ち切り通告)が真珠湾攻撃開始から50分も遅れて出されたのです。
 外務省は駐米大使館に対しワシントン時間の12月7日午後1時に手交するよう命じていました。これは真珠湾攻撃の30分前の時刻になります。

 なぜ遅れたのでしょうか。

 この文書は機密文書であるため、外務省からはタイプ清書を雇い人のアメリカ人タイピストにやらせるなと指示しており、駐米大使館の書記官が慣れない手つきで打ったことが原因でした。
 しかも、前日に駐米大使館の日本人職員が全員、夕食会を楽しんでおり、書記官は2日酔いで寝坊するというにわかには信じがたい事情もあります。

 そんな最悪なコンディションでの慣れないタイプ清書は、はかどるわけもなく、結局、大使館はアメリカに対する最後通牒をワシントン時間の午後2時20分に手交したのでした。
 翻訳文は前日に届いていたのだから、その夜からタイプにかかれば十分に間に合ったはずですが、なぜそんな大事なことをすっぽかして、大使館は夕食会なんてやってしまったのでしょうか。
 しかも、ワシントンで日米交渉を担当していた野村吉三郎(のむらきちさぶろう)大使と来栖三郎(くるすさぶろう)特派大使には真珠湾攻撃が行われていることすらも知らされていませんでした。

 最後通牒を受け取ったアメリ国務長官コーデル・ハルは、怒りのあまり文書を机に叩きつけました。
 しかし、何も知らない野村と来栖がハルを訪ねると、2人は椅子も勧められず、ハルから数分程罵倒された後、ハルがアゴをしゃくってドアを示し、2人は部屋から追い出されてしまいました。
 現代もそうですが、当時の外務省も大使館も、まるで外交音痴で、ずさんな危機管理能力によって、「世紀の大勝利」は「だまし討ち作戦」に早変わりしてしまったのでした。

 山本五十六としては、この真珠湾奇襲攻撃の戦果報告を聞いて、これでアメリカ国民の士気は萎え、日本に立ち向かう気力を削ぐことが出来たと期待していた。
 しかし、結果は山本の予想とは真逆となってしまいました。
 この‘だまし討ち作戦‘の報道を聞いたアメリカ国民は一夜にして好戦的になりました。
 卑怯なやり方を嫌うアメリカ人にとって、この‘だまし討ち作戦‘は彼らの復讐心に火をつけ、それまで厭戦論は消失し、若者が続々と志願の列を作った。

「ジャパニーズ・トラチャラス・アタック」(日本人は騙し討ちをした。)

「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな。)

 これらを合言葉にアメリカは一致団結し、第二次世界大戦への参戦を決めたのでした。

 

 以上、真珠湾攻撃の不可解な謎についてご紹介してきましたが、山本五十六は40年前から計画されていたフィリピン艦隊決戦を白紙に戻し、いきなり真珠湾攻撃を1年間程度の短期間で実行してしまいました。
 そんな付け焼刃の作戦要綱がじっくり練られているわけもなく、全く無計画で無謀な作戦を生み出してしまいました。

 さらに、今回の真珠湾攻撃は、日本の航空機がアメリカ艦隊を沈めて見せたことで、アメリカ側はそれまで不可能とされていた「航空機で船は沈められる」という実験結果に気づいてしまいました。そこでアメリカは今後、航空機の大量生産に乗り出し、海上戦では空母を重視した戦法を行うようになります。

 しかし、一方の山本は、自ら航空機を重視したハワイ作戦を実行したにも関わらず、空軍創設には徹底的に反対しました。
 その理由は航空機もパイロットも陸軍が海軍を大幅に上回っており、空軍を創設すれば、主導権は陸軍に握られてしまうのは明白でした。山本は国益よりも、戦争に勝つことよりも、海軍の省益を優先したのです。

 映画『連合艦隊司令長官山本五十六 太平洋戦争70年目の真実』では山本五十六が名将のような平和主義者として描かれていますが、とんでもない。

 今回ご紹介した通り、山本五十六は名将どころか愚将と言えるでしょう。

 

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
大間違いの太平洋戦争       倉山満=著       KKベストセラーズ
太平洋戦争「必敗」の法則     太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
手に取るようにわかる 太平洋戦争 瀧澤中=文       日本文芸社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著      アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著      産経新聞出版
昭和史を読む50のポイント    保阪正康=著      PHP