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【真珠湾攻撃2】帝国海軍の「成功の本質」に迫る【源田實】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【真珠湾攻撃2】帝国海軍の「成功の本質」に迫る【山本五十六】」というお話です。

 真珠湾攻撃とは、帝国海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した作戦ですが、「世界史に残る世紀の大勝利」であると言えます。

「そりゃ、不意打ちしたのだから勝つに決まっているでしょう。」

 そう考える人もいるかも知れませんが、決してそれだけではありません。

 実は真珠湾攻撃というのは、非常に成功が困難な作戦であり、当時の日本の軍事力を存分に投入した作戦でした。

 前回は連合艦隊山本五十六について悪いところばかり書いてしまいましたが、今回はそんな真珠湾攻撃の成功の本質について解説していこうと思います。

 

 真珠湾攻撃の「成功の本質」は以下の3つが挙げられると思います。

1.大きなリスク(危険)を冒せば、大きなリターン(戦果)が得られる。

2.日本人は「性能向上」や「グレードアップ」が得意である。

3.日本人スパイによる事前の情報収集

 

1.大きなリスクを冒せば、大きなリターンが得られる。

 これはあらゆる金融商品やビジネスにも言えることですが、戦争においても同じです。
 しかし、人間はどうしても出来る限り小さなリスクで、大きなリターンを得ようと考えてしまいがちです。
 さらに、人間は自分が考えていることを、相手もそのように考えるだろうと無意識に決めつけてしまいます。すなわち、相手も大きなリスクを冒してまでリターンを得ようとはしないだろうとするのです。
 したがって、リスクの低い(安全な)方法は、事前に対策されてしまうケースがほとんどですが、リスクの大きい方法であるほど、「意外性」や「予想外」を相手国に与えることが出来るので、痛烈なダメージを与えられるのです。

 以上の原則を踏まえたうえで、ハワイ作戦立案から実行に至るまでの経緯を見てみましょう。

 真珠湾攻撃の作戦計画は以下の通りです。

アリューシャン列島にある択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から真珠湾のあるオワフ島まで3000カイリ。およそ5500㎞の距離を、全長200を超える空母6隻を含む艦隊が、誰にも悟られずに12日間で移動する。そしてアメリカ太平洋艦隊の拠点であるハワイ真珠湾軍港に停泊する敵艦隊を、航空機によって殲滅する・・・・。」

 この計画を作成したのは、海軍中佐の源田實(みのる)という人物です。
 彼は「源田サーカス」と呼ばれるアクロバティックな飛行技術を持っており、編隊を率いて戦術を考えるブレーンでもありました。

 日米開戦が濃厚になってきた1940(昭和15)年末、源田のもとに連合艦隊司令長官山本五十六からの手紙が届きました。

「日米開戦となれば、長期持久戦に持ち込まれたら日本に勝ち目はない。したがって、緒戦でチマチマと勝ち抜いて徐々に講和に持ち込むのではなく、派手な一撃を喰らわして、米国の度肝を抜き、一気に戦意を喪失させる必要がある。そのためには、開戦劈頭(へきとう)、ハワイの米国太平洋艦隊を我が航空機による奇襲攻撃で撃滅させるのだ。」

 これを受けた源田は早速、研究に取りかかり、ハワイ奇襲作戦を練り上げるのでした。
 奇襲作戦を成功させるには、「意外性」や「予想外」を相手に与える必要があるため、大きなリスクを覚悟しなくてはなりません。

 まず、誰にも悟られずにハワイまで近づく必要があります。出撃前はもちろん、真珠湾を目指して太平洋を航行する間も、敵はもちろん、第三国の商船などにも見つかってはいけません。もし見つかれば、その場で海戦が始まります。

 

 これには海軍軍令部から猛烈な反対がありました。

「もし、見つかれば、大事な空母6隻は大打撃を受けてしまう。それよりも、南方戦線に兵力を割り振るべきだ」

 山本五十六は軍令部から真珠湾に向かう空母を6隻から3隻に減らすよう命じられていました。

 しかし、山本は空母6隻を絶対に譲らず、「この作戦が実行されなければ、連合艦隊長官を辞任する」と軍令部に脅しをかけ、ハワイ作戦を強引に通しました。
「博打打ち」の山本五十六にとって、「大きな兵力を投下するからこそ、大きな戦果が得られる。」というリスクとリターンの関係はもはや常識だったのです。

 ハワイへと向かう行路は、南方行路(マーシャル諸島→ハワイ)が最短距離で海面も穏やかなので非常に理想的でした。しかし、敵に見つかる可能性が大です。
 そこで、源田は北方行路(アリューシャン列島→ハワイ)から向かうことにしました。冬の北太平洋であれば、荒海なので商船のほとんどは北太平洋を避けて通るため、見つかる可能性は低いと考えられたからです。

 しかし、ここでまたしても反対意見が出てきました。

「冬の北太平洋は航海だけでなく荒天も多く、補給が難しいから艦がもたない。」

 そう言って反対したのは、機動部隊司令長官の南雲忠一でした。
 源田は南雲を説得しました。

「何をおっしゃるのですか。南雲殿、そこにこそ勝機があるのです。この作戦は奇襲でなければ意味がありません。大変でしょうが、そのような障害は我々の努力によって切り開かねばなりません。」

 攻撃する日本側ですら反対の多い方法、すなわち、リスクの大きな方法であればこそ、奇襲作戦は成功するのではないか。源田はそう考えたのです。
 南雲は、源田の説得に加えて、北太平洋で母艦「加賀」の洋上補給訓練が成功したという知らせも聞いたことで、渋々作戦を承認しました。

 作戦実行時、南雲率いる機動部隊は作戦企図秘匿のために出航日時をわざとずらして単冠湾に集結しました。機動部隊は出撃前、島民や島外との接触・連絡はもちろん禁じられ、出撃の際も、仮に見つかっても部隊行動だとさとられないようにするため、縦27カイリ(約50キロ)、横20カイリ(約37キロ)という超巨大な輪形陣を取り、各艦が離れて進むことでカモフラージュする工夫がされました。

 さらに、機動部隊はハワイに近づくまでの間、無線封止を行います。しかし、攻撃機が発艦したあと、エンジン不調で着水した場合は救助のための位置通報を発信しても良いのかという問題が浮上した。
 通信参謀は「やってもさしつかえない。」としましたが、赤城の攻撃機分隊長である千早猛彦(ちはやたけひこ)大尉は以下のように言いました。

「乗るかそるかの大決戦のときに、どんな理由があろうとも、攻撃前に電波を輻射(出す)することは絶対反対であります。我々はエンジンが止まったら、黙って死んでいきますよ。」

 このように帝国海軍は奇襲作戦成功のためにあらゆるリスクを取りました。

 

2.日本人は「性能向上」や「グレードアップ」が得意である。

 現在、世界的にも「カイゼン」という日本語が知られているくらい、日本人の改良・改善は世界から高い評価を受けています。
 日本人は「0」から「1」を生み出す新商品の開発よりも、「1」を「10」まで高めるという既存商品の改良・改善を得意とする民族であるといえるでしょう。

 このことは、真珠湾攻撃のときも大いに発揮されました。
 帝国海軍は魚雷の徹底的な改造を行い、真珠湾攻撃を成功に導いたのです。
 ハワイ作戦が行われた当時は、航空機で艦隊を撃沈することは不可能であるとされてきました。

 航空機で軍艦を攻撃する場合、最も効果的なのは、魚雷攻撃です。
 魚雷で船腹を破ることが出来れば、火薬庫を爆発させ、大きな被害を与えることが出来ます。戦艦は装甲が厚いため、上空から水平爆撃や急降下爆撃をしてもそれほどの効果は見込めません。
 航空機が魚雷攻撃をする場合、高度100メートルくらいから、目標物の1000メートルくらい手前で魚雷を投下します。海中に投下された魚雷は一旦、海中を60メートルほど潜り、そこからスクリューで上昇して目標物に向かって走り始めます。

 しかし、パールハーバーは水深12メートルしかなく、湾内は最長でも500メートルしかありません。したがって、運よく魚雷を投下出来たとしても、目標物に到達する前に海底に突き刺さってしまいます。
 さらに、真珠湾内には煙突やクレーンなどの港湾施設が立ち並んでおり、そこまで高度を低くすることも難しい状況でした。

 そこで、日本人は得意な「カイゼン」を行いました。
 海軍は、あまり沈まない「浅沈度魚雷」という最新魚雷を開発したのです。
 魚雷には魚のヒレのようなベニヤ板製の側翼を取りつけられ、回転させずに、水平のまま海中に投下します。着水の衝撃でベニヤ板は吹き飛びますが、これによって魚雷の航行が安定し、水深10メートル程度の浅瀬でも海底に突き刺さることなく、目標物に向かっていく魚雷へと改造されたのです。

 さらに、パイロット達は鹿児島県の錦江湾に集められ、1カ月間におよぶ魚雷攻撃の猛特訓が行われました。この錦江湾は地形が真珠湾に似ており、パイロット達は海面すれすれを飛び、魚雷をそっと置くようなイメージで発射出来るようになるまで訓練を重ねました。

 こうして新型魚雷の開発と、鹿児島の錦江湾での猛特訓の末、より確実に、浅い海でも魚雷を敵艦に当てることが出来るようになり、帝国海軍は真珠湾の地理的制約を打破することが出来たのでした。

 

3.日本人スパイによる事前の情報収集

 戦争とは、ある意味では情報戦でもあります。日本は太平洋戦争を通じて情報戦にはめっきり弱いものでしたが、真珠湾攻撃だけは例外でした。
 真珠湾の奇襲攻撃部隊は、攻撃当日、真珠湾に所属する全ての戦艦が碇泊していることを知っていました。この情報は奇襲攻撃の前日、つまり1941年12月6日(日本時間では7日、日曜日)に確認された最新情報でした。
ハワイ総領事館から外務省、軍令部、連合艦隊、南雲機動部隊と順に転電されたのです。
 この情報は、海軍からハワイ領事館に派遣されたスパイによって、発信されたものです。
 彼は「森村正」という名前で1938(昭和13)年3月にハワイ領事館に着任。本名は「吉川猛夫」といい、海軍兵学校を1933(昭和8)年に卒業したものの、病を得て、予備役となった人物でした。
 森村がハワイに赴任した当初は、まだハワイ奇襲作戦は考案すらされておらず、森村は日米関係が悪化しつつあった当時から、遊び人のグータラ職員を装うため、芸者遊びに明け暮れながら、真珠湾の情報を外務省に伝えていました。
 森村によると、ハワイに駐留するアメリカ海軍はレジャー気分を満喫しており、戦争の緊張感などまるでないとのことでした。
 そんな森村に対し、軍令部は「最も多くの戦艦が停泊している時間帯は?」と質問し、森村は「日曜日の朝です。」と答えました。
 実はこの時期になると、真珠湾奇襲攻撃は計画されていましたが、なんと森村はそれを知らされていませんでした。
 奇襲攻撃を成功させるには、たとえ味方であったとしても、ハワイに駐在している以上、作戦企図を漏らすわけにはいかなかったようです。「敵を欺くにはまず、味方から」ということなのでしょうか。帝国海軍も味方ながら、中々巧妙だなと思わされました。

 

 これ以外にも言えるのは、何より現場の攻撃部隊が非常に優秀だったことが挙げられます。これは帝国陸海軍ともに言える共通点ですが、大日本帝国の軍事はとにかく現場が優秀なのです。
 戦場では、予想外の出来事が常に起こりえます。
 したがって、たとえ計画と違った事態が起きても、その場で適切な戦術判断を行える人のことを言うことにします。
 通常ならば、標的の1000メートル手前で投下する魚雷を、わずか500メートル手前で投下するのは事前の猛特訓があったとはいえ、かなり難しいものだったはずです。実際、ハワイの停泊地はとても500メートルあるとは思えないほど狭く、そんな状況下で攻撃部隊はよく奇襲攻撃を成功させたものだと感心してしまいます。

 さらに、アメリカ側の迎撃態勢の不備もハワイ作戦の成功に拍車をかけました。日本の南雲機動部隊は、真珠湾への最初の一撃を喰らわすまで、アメリカ側にまったく悟られていなかったかというと、そうではありません。
 ハワイ時間の8日午前3時、正体不明の潜水艦(帝国海軍の特殊潜航艇)が発見されており、6時45分には全艦撃沈されています。
 さらに、午前7時6分にはオアフ島北端の監視所レーダーに第一攻撃隊は発見されましたが、米軍はこれを味方のB17の編隊と誤認し、適切な処置を取りませんでした。
 7時39分にはまたしてもレーダーに捉えられた第一次攻撃隊ですが、山陰のおかげでレーダーからかき消され、米軍は最初の一撃を喰らう直後まで対空防御の準備をすることはありませんでした。
 そんな前兆がありながら、防備を怠ったことで、当時の太平洋艦隊司令長官のハズバンド・キンメルはその職を解任させられました。

 このように真珠湾攻撃とは帝国海軍の覚悟と努力、そしていくつもの偶然が重なり合って達成された「奇跡の大勝利」であったといえるでしょう。

以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。

それでは。
参考文献
手に取るようにわかる 太平洋戦争    瀧澤中=文 日本文芸社
太平洋戦争「必敗」の法則        太平洋戦争研究会=編著     世界文化社
人物で読む 太平洋戦争         保阪正康、太平洋戦争研究会=著 世界文化社
子供たちに伝えたい 日本の戦争     皿木喜久=著          産経新聞出版
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著          彩図社