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【日蓮宗】なぜ日蓮は進んで迫害・弾圧を受けたのか【日蓮】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【日蓮宗】なぜ日蓮は進んで迫害・弾圧を受けたのか【日蓮】」というお話です。

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、日蓮日蓮宗をご紹介します。日蓮の生涯は弾圧と迫害の繰り返しでした。しかし、日蓮は自ら望んで弾圧や迫害を受けていた節があります。ということで、今回は日蓮の生涯と教えを見ていきながら、なぜ日蓮は進んで迫害を受けたのかについてみていきたいと思います。

日蓮は、末法の世を救えるのは、『法華経』の教えのみだとしました。一方で日蓮は、他宗派を批判し、それを逆恨みした者には命を狙われ、治安を乱す者と見なした幕府からは流罪にされるなど度重なる迫害と弾圧に遭いました。しかし、日蓮は「法華経を信じ広めようとする者は必ず迫害や弾圧に遭う」という法華経の教えから、苦難に遭うたびに、自分こそが真の法華経の行者であるという自覚を強めることが出来たのでした。

 日蓮は、1222年に安房国(千葉県南部)の武士の子に生まれたとされています。出家後は各地を修行してまわり、やがて法華経を知り、比叡山天台密教を11年間学びました。

 日蓮はたくさんの経典に触れる中で、釈迦の本当の教えを正確に解釈しているのは、法華経だけであり、末法の世を救える唯一の教えだという確信に至り、比叡山をあとにしました。

 そして1253年、日蓮が31歳のときに清澄寺(千葉県鴨川市)で初めて「南無妙法蓮華経」と唱えました。「南無」は「帰依する」という意味で、妙法蓮華経は『法華経』の尊称なので、「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」という意味です。日蓮宗では、この年を開宗年としています。

 法然親鸞などの浄土宗では、末法の世では、人々は現世利益を得ることは出来ず、ひたすら念仏を唱え、極楽往生阿弥陀仏のはからいに任せるとしていました。

 これに対し、日蓮末法の世であっても、人々は現世利益を得て成仏することが出来るとし、そのための唯一の方法は、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることであり、その結果、個人だけでなく、この世界をも救うことが出来ると説きました。

 また、日蓮を除くほかの鎌倉新仏教の各宗派では、専ら個人の救済に焦点が当たっているのに対し、日蓮の教えは、個人だけでなく、国家や社会全体をも救済しようとする点に大きな特徴があります。

 このように日蓮の教えの中心は、法華経主義にあり、「法華経を信じて『南無妙法蓮華経』と唱えれば、人間は現世で仏となることが出来る。そして、一国すべての人間が法華経を信仰したとき、理想国家(仏国土)が誕生するのだ。」としました。

 これが日蓮の願いであり、日蓮法華宗を重視した理由でもあります。

 法華宗には、すべての人は悟りを開くことが出来るという一乗思想と、久遠実成の仏への帰依が説かれています。

 久遠実成とは、遠い昔に、実際に仏となった存在のことで、法華経では、この存在のことを釈迦と定義しています。釈迦は人間の姿を仮の姿として、かつてこの世に現れ、教えを説きました。したがって、この現実世界は釈迦と特別な絆で結ばれており、この世界こそが釈迦の仏国土なのです。これに「南無妙法蓮華経」の文字には釈迦の功徳が全て備わっているため、「法華経」を信じてこれを唱える者すべてに成仏が約束されるという一乗思想が加わるのです。

 一方で日蓮は、間違った考えが広まっている国には禍(わざわい)が起きると説き、他の宗派を激しく非難しました。例えば、阿弥陀仏の住む極楽浄土は、この現実世界とは無関係な世界であり、死後の極楽往生を願う浄土宗は無意味な教えとして批判しました。

 日蓮が他宗派を批判した言葉に、四箇格言というものがあります。四箇格言とは「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」というもので、念仏は無間地獄に陥り、禅は悪魔の成せる所業であり、真言宗など信仰していると国が亡び、律宗を信仰する者は国を滅ぼそうとする国賊だ、としました。

 ところで、日蓮法華経を根本経典としている天台宗に対しては批判をしていないことに注意しておいてください。

 

 こうして他宗派を批判した日蓮は、それを逆恨みした者や幕府からの厳しい弾圧や迫害を受けることになります。

 日蓮が生涯で受けた大きな弾圧は4回あります。

 1回目は、日蓮が鎌倉に拠点を置き、その教えを説いてまわっているときに起きました。1260年、鎌倉の松葉ヶ谷にあった日蓮の草庵が、暴徒に襲われ、焼き払われてしまったのです。これを松葉ヶ谷法難といいます。

 2回目は、1261年に日蓮鎌倉幕府5代執権・北条時頼に『立正安国論』を上呈したときです。『立正安国論』とは日蓮の主著であり、その中には「幕府が『法華経』を唯一正しい仏法と認め、他の宗派を退けない限り、地震や飢饉、疫病などの災害が起き、ついには外国からの侵略を受けるだろう」と書かれていました。

 この日蓮の主張は、他宗派の多くの反感を買い、幕府も日蓮の排他的な思想は治安を乱す原因だとして逮捕のうえ、伊豆へ流罪としました。その伊豆への移送中、日蓮岩礁に置き去りにされたそうです。

 

 その後も日蓮は弾圧を受け続け、3回目の弾圧は1264年、日蓮が故郷の安房国に帰省した際、地頭の東条景信の軍に襲撃され、弟子2人が死亡。日蓮も負傷した事件です。これは小松原法難と言われています。

 それでもなお、日蓮は持論を曲げなかったため、再び幕府に逮捕され、佐渡へ流されました。その移送途中の瀧口で日蓮は処刑されそうになるも、そこに「輝くもの」が現れ、処刑は中止されたそうです。これは龍口法難といわれ、4回目の弾圧となりました。

 

 こうした度重なる弾圧や迫害を受けながらも、日蓮はついに持論を曲げることはなく、罪を赦されて、ようやく甲斐国山梨県)の身延山に隠棲したときには、53歳になっていました。以降、日蓮は弟子を指導しながら平穏な日々を送り、1282年に60歳で死去しました。

 それにしても、なぜ日蓮は弾圧や迫害を受け続けたのでしょうか。

 実は『法華経』の経典の中には、「法華経を信じて広めようとする者は必ず迫害や弾圧に遭う」と説かれています。日蓮が進んで迫害や弾圧を受けた理由はここにあります。それゆえに、日蓮はそうした苦難に遭うたびに、自分こそが真の法華経の行者であるという自覚を強めようとしたのです。

 

 幕府は日蓮の教えを受け入れず、逆に弾圧を強めたが、その後も飢饉などの天災が続き、ついには蒙古襲来という外国から侵略を受け、日蓮の予言が的中したとみなされ、支持者は急速に増えていきました。

 そして、日蓮の教えは日蓮宗法華宗)と呼ばれ、商工業者や地方武士を中心に広がっていきました。

 

 日蓮が、当時勢力を持っていた既成仏教や新興仏教に対し「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」などのあからさまな批判が出来たのも、権力者である幕府に対しても強気な姿勢で批判が出来たのも、迫害される者こそ正しく、その真理はやがて現実となるという強い信念が日蓮にあったからなのだと思われます。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

【曹洞宗】なぜ道元は只管打坐の禅を広めたのか【道元】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【曹洞宗】なぜ道元は只管打坐の禅を広めたのか【道元】」というお話です。 

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、道元曹洞宗をご紹介します。道元の禅の特徴を示す言葉に「只管打坐」があります。これは他の一切の修行を排除して、ただひたすら座るという意味で、悟りを得ようとか、功徳を積もうといったはからいを捨て、坐禅することだけに専念することをいいます。「只管」とは「ひたすら」という意味です。

しかし、ただ座っているだけで本当に悟りを得られるのでしょうか。

 ということで今回は、道元の生涯と教えを見ていきながら、なぜ道元は只管打坐を説いたのかについて探っていこうと思います。また、同じ禅宗栄西臨済宗との違いにも注目しながら見ていくと、より理解が深まると思います。

道元は、修行と悟りは同じことだとする「修証一等」のもと、只管打坐を説きました。道元は師の天童如浄からの教えを守り、出家第一主義を貫き、権力者とのつながりを断ち、全ての人達を救う立場で布教し、地方で発展していきました。道元はひたすら坐禅をする姿は、自己の中の物欲や権力欲などの執着やこだわりの一切を捨て去っている姿であり、これを心身脱落として悟りの境地としました。

 道元は1200年に内大臣の源道通と太政大臣の藤原基房の娘の間に生まれたとされています。そんな高貴な家系に生まれた道元でしたが、3歳のときに父を亡くし、8歳のときに母も亡くすという悲しい体験をし、世の無常さを強く感じた道元は、仏の道へと導かれました。

 道元は13歳のときに比叡山にのぼり、出家して天台宗を学びました。比叡山で修行をするうち道元は「天台宗では人は生まれながらに仏であるというが、それならば、なぜ人は厳しい修行をしなければならないのか」という疑問にぶつかった。しかし、そんな道元の問いに対し、比叡山では誰も答えることが出来ませんでした。

 これに失望した道元は、比叡山を降り、栄西の開いた建仁寺臨済宗の禅を学びました。

 しかし、そこでも道元の求めていた答えは見つからず、道元は24歳のときに、ついに宋に渡りました。

 無事に宋にたどり着いた道元でしたが、そこでも自分の答えを見つけることが出来ずにいました。

 そして、渡宋してから4年目のある日、曹洞宗という禅宗の存在を知った道元は、浙江省(せっこうしょう)の天童山景徳寺の住職である天童如浄(てんどうにょじょう)のもとを訪ねました。如浄は、曹洞宗の流れを汲む禅僧で、道元は如浄のもとで曹洞宗の禅を学ぶことにしました。

 如浄禅師の修行は大変厳しいものでした。坐禅の修行中に、眠っているような者がいたら、履いていた履(くつ)でうちすえ、罵声を浴びせかけました。それでも修行僧たちは、打たれることを喜んでいました。

 そんな如浄の道場で道元は悟りの境地に至ったといいます。

 1225年のある夏の日の早朝の坐禅中に、やはり居眠りをする者がいました。如浄は一喝してその僧を起こし、「心身を脱落させるため坐禅をしているのに、坐禅中に居眠りをするとは何ごとか!」と叱責したそうです。

 これを横で聞いていた道元は、如浄の言葉に衝撃を受け、悟りを開いたといいます。道元はさっそく如浄の部屋に行き、「心身脱落の境地に至った」と言うと、如浄も道元が悟ったことを認めたといいます。この心身脱落とは、自分の中の一切の執着やこだわりを捨て去った境地のことを言います。(これについては後述します。)

 如浄禅師の教えをしっかりと受け継いだ道元は、1227年、日本に帰国後、山城国深草京都市伏見市)に寺を開き、坐禅の伝道を宣言し、弟子たちにひたすら坐禅にうちこませる厳しい修行をさせました。この年を曹洞宗の開宗年としています。道元が27歳のときでした。

 道元は、鎌倉新仏教の僧侶のなかではっきりと末法思想を否定した人物でもありました。

 法然親鸞は、末法の世では、生まれながらに欲望にまみれた罪深き人間(悪人)は自力で往生することは不可能であるとしました。そのため、阿弥陀仏の力によって悟りに至る必要があるとし、その手段として、念仏による他力本願(絶対他力仏道の中心に置きました。

 これに対し、道元末法思想を否定し、人は生まれながらにして仏になれる素質を備えており、自力で往生することは可能であるとし、その手段として禅による自力修行仏道の中心に置きました。

 では、道元のいう自力修行とは何なのでしょうか。それが只管打坐です。これは他の一切の修行を排除して、ひたすら坐禅の修行の打ちこむことを言います。

 ただ座っているだけで悟りを得ることが出来るのでしょうか。道元は、坐禅などの修行に専念している姿こそが悟りの体現なのだとしました。これを修証一等といいます。「修」は修行、「証」は悟りのことで、「一等」とはそれらは同じものだということです。

 臨済宗栄西の場合、坐禅の修行は悟りという目的のために行われる手段でした。しかし、道元坐禅を悟りの手段とは考えず、悟りの姿そのものだとみなしたのです。

 

 しかし、ただ坐禅をしているだけで良いとされる曹洞宗の教えも、戒律や様々な修行を行う比叡山などの旧仏教界から非難されることとなりました。

 それでも道元は、度重なる迫害を受けながらも、禅の布教を続け、多くの信者を獲得していきました。

 やがて、道元は5代執権・北条時頼の招きを受けるも、それを断りました。道元は、如上からの出家第一主義に従い、政治権力者との一切の結びつきを断ったのです。栄西臨済宗は、朝廷や幕府に近づき、その保護のもとで教えを広め、主に中央で発展していきました。これに対し、道元曹洞宗は、人々の悩みを救うという立場から権力者には近づかず、北陸地方をはじめ地方で発展していきました。

 道元は権力者と距離を置くために、京都を棄て、北陸に下り、1244年、越前国福井県北東部)に修行を行う道場として永平寺を開きました。

 しかし、道元を諦めきれない北条時頼が、越前の土地の寄進状を弟子の玄明に託したとき、それを知った道元は玄明を破門にし、玄明の坐禅版をはぎ取って、土に埋めたとされています。道元は如浄禅師の教えを厳しく守ったのです。

 

 さて、道元いう悟りの境地である心身脱落とはどのような意味なのでしょうか。道元は主著『正法眼蔵』の中で「仏道を習うということは、本当の自己を知ることだ。自己を知るということは、自己を忘れることだ。」と述べています。

 これは、本当の自己を知るということは、自己の中の物欲や権力欲などの執着やこだわりの一切を捨て去ることだということです。そうすれば、自己に備わっていた仏性(仏の素質)が実現し、山や川、草木といったまわりの世界と一体となって、世界の方から自己の存在が根拠づけられているような境地に達することが出来る。すなわち、悟りを得たということです。道元は、ひたすら坐禅にうちこむ姿は、そのままこの悟りの姿の体現なのだとしました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

【浄土真宗】親鸞の浄土真宗はなぜ誕生したのか【親鸞】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【浄土真宗親鸞浄土真宗はなぜ誕生したのか【親鸞】」というお話です。 

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の特権階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、親鸞をご紹介します。親鸞法然の弟子であり、法然の教えを一層徹底させ、浄土真宗を開きました。しかし、親鸞自身は師である法然の教えを受け継いだだけと考えており、そこから独立して一宗一派を立てる気持ちはありませんでした。

 それならば、なぜ親鸞浄土真宗は誕生したのでしょうか。今回は、それを親鸞の生涯と教えを見ていきながら探っていこうと思います。

法然の弟子となった親鸞は、建永の法難によって流罪となり、法然と引き離されることとなりました。親鸞は罪を赦された後、京都には戻らず、関東で布教活動をしました。その結果、親鸞の教えは急速に普及し、後に浄土真宗という日本最大の宗派が誕生しました。皮肉にも浄土真宗は、法然親鸞が引き離されたことによって誕生したのです。

 親鸞は1173年に京都の下級武士の子として生まれました。それは藤原氏の支流である日野家と呼ばれる家でした。親鸞は9歳で出家し、京都の比叡山で修行をしました。その間に法然のことを知りました。

 比叡山での修行は20年間にも及びましたが、結局、天台宗の教えに確信が持てないことから比叡山を降りた後、1201年、先に比叡山を降り、浄土宗を開いた法然の弟子となりました。

 入門に際しては、様々な葛藤があったようですが、弟子になってからは熱心にその教えを学び、高弟の1人と認められるまでになりました。親鸞の弟子の唯円が著した親鸞の語録『歎異抄』の中に、親鸞は「たとえ法然にだまされて地獄に落ちるようなことがあっても後悔はしない」と言ったとされ、法然を熱烈に支持していました。

 一方で、法然の浄土宗に対する旧仏教からの反発が激しさを増しており、法然専修念仏の教えは、念仏さえ唱えていれば、どんな悪事を働いても往生できるとしているので、社会秩序を乱す非常に危険な教えだとされました。

 また、法然は、お経を読む僧よりも念仏を唱える庶民のほうが救われると説いたため、読経や戒律を重んじる旧仏教の権威を崩そうとしているとも言われました。

 これによって1204年、ついに比叡山延暦寺が専修念仏の停止を訴える「延暦寺奏状」を朝廷に提出しました。これに対して法然は教団の引き締めを行う「七箇条起請文」を宣言しました。

 しかし、1205年には奈良の興福寺が専修念仏の停止を訴える「興福寺奏状」を朝廷に提出しました。

 こうして法然率いる浄土宗が旧仏教勢力から弾圧される中、ついに事件が起きてしまいました。

 1206年12月、後鳥羽上皇が熊野詣に赴いている間に、院の女房達が法然の弟子の住連・遵西の主催した念仏会に参加しました。女房達は遵西らの説法を聞くために彼らを上皇不在の院の御所に招き入れたのです。念仏会は夜遅くまで続いたため、女房らは住連らをそのまま御所に泊めました。女房らの中には出家する者も出ました。

 これに後鳥羽上皇は大激怒しました。女房らを出家させただけでなく、自分の不在中に男性を御所に泊めたことも許しがたいものでした。

 年が明けて1207年2月、上皇は専修念仏の停止を決定。住連・遵西は死罪となり、とばっちりで法然は僧籍を剥奪されたうえ、土佐へ流刑となり、親鸞も僧籍を剥奪のうえ、越後へ流刑となりました。これを建永の法難といいます。

 親鸞は流刑の地で、結婚して子をもうけ、日常生活を営みながら仏教を信仰しました。これは、僧侶とは本来、生涯独身を貫くのが当たり前だった当時の常識からはありえないことでした。親鸞はこうした在家仏教の道を確立した人物でもあるのです。

 1211年、罪を赦された親鸞は、京都には戻らず、関東を中心に布教活動をし、法然の教えをさらに徹底させていきました。

 念仏さえ唱えれば極楽往生できるという専修念仏の教えは、多くの農民や武士たちから支持され、親鸞のまわりには多くの人が集まりました。

 法然の教えをさらに徹底させた親鸞は、阿弥陀仏にすがるしか他に救いのない人々、欲望や悩みを捨てさることのできない人こそ、念仏によって救われるのだという教えを打ち立てました。

 歎異抄の中に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の有名な言葉あります。これは善人でさえ往生できるだから、悪人が往生できるのは当然だ、という意味です。

 ここでいう善人と悪人は、単に「善い人」、「悪い人」という意味ではありません。親鸞の言う「善人」とは自らの無力さに気づかず、自力で往生のための善行を積むことが出来ると思いあがっているため、せっかくの阿弥陀仏様の救いに頼ろうとしない。

 これに対して「悪人」とは、自分は無力で欲望や悩みを捨て去ることが出来ず、地獄しか行き場のない存在であること自覚しているので、全身全霊をかけて阿弥陀仏様の救いにすがろうとする。そのような者こそが、阿弥陀仏の救いの対象となると説いた。これを悪人正機説といいます。また、この悪人正機説では、武士や猟師など人や生き物を殺してはいけないという戒律を守れない人でも救われるとしました。

 また、親鸞はすべての人間は本質的に悪人であると考えました。救いは、人間側の努力によるものではなく、人間を救おうとする阿弥陀仏様の本願によるものなので、一切の自力を排除し、阿弥陀仏の救いに全てをゆだねることで救いが約束されるのだとしました。

 これは法然の他力本願の教義を発展させた絶対他力といわれる教義です。法然にとって念仏とは、救いのために手段であり、念仏そのものは自力で唱えるとする他力の中の自力でした。

 これに対して、親鸞にとっての念仏とは、阿弥陀仏の救いの約束に対する感謝の気持ちを現したもので、親鸞は、その感謝の気持ちさえも、自分で起こすのではなく、阿弥陀仏が与えてくれるものだと説いた。

 このように阿弥陀仏に全てをゆだねる親鸞の他力の思想は、他力の中の他力の教えだとされる。

 このような、信仰さえすれば、極楽往生は約束されたような親鸞の教えは、多くの農民たちの支持を集めました。

 

 1224年、52歳になった親鸞は、自らの教義を組織体系化した書物として『教行信証』を著しました。この時が浄土真宗の開宗年とされています。

 親鸞の教えが急速に広がるのは、むしろ親鸞の死後で、室町時代蓮如により、関東のみならず、北陸、東海、そして近畿の農民にまで広がり、浄土真宗一向宗)という日本最大の宗派が誕生しました。蓮如は、門戸に親鸞の教えをわかりやすく説いた『御文章』や御文と呼ばれる手紙を人々に配り、浄土真宗の発展に貢献しました。

 浄土宗は、ひたすら念仏し、阿弥陀仏への帰依に勤める一向専修の教えがあるため、浄土宗は一向宗と呼ばれることもあります。

 

 今回は、親鸞の生涯や教えを見ていきながら、親鸞浄土真宗を開いた理由をご紹介しました。親鸞法然の高弟であり、親鸞自身は新たな宗派を生み出すつもりはありませんでした。

 したがって、もし建永の法難が起こらず、流罪となって法然と引き裂かれることがなかったとしたら、親鸞法然の高弟としてその生涯を終えていたことでしょう。とばっちりともいえる法難があったからこそ、皮肉にも浄土真宗は生まれたのです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

【臨済宗】なぜ栄西は禅宗を広めることに成功したのか【栄西】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【臨済宗】なぜ栄西禅宗を広めることに成功したのか【栄西】」というお話です。

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の特権階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、武士や庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、武士や庶民の要求に応え、積極的に彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、その中の禅宗の教えである栄西臨済宗についてご紹介します。禅宗とは、足を組んで精神を集中する坐禅の修行と通して、自力で悟りを開くことを目的とする宗派です。悟りは直感により得られるもので、文字で伝えることは出来ないとする不立文字、経典の教えとは別に、以心伝心で伝えられる真理があるとする教外別伝などを特徴とします。

栄西臨済宗の教えは、当初、京都では受け入れられませんでした。そこで栄西は鎌倉に下って北条政子らの援助を得ました。この鎌倉幕府の後援のもと、栄西は再び京都に上り、臨済宗は飛躍的に発展させることに成功しました。

 栄西は1141年に備中国岡山県)の神社の家に生まれました。そのため、幼い頃から神道に親しんでいました。13歳になると、出家して僧侶となり、比叡山天台宗を学びました。この頃、法然比叡山で修行を積んでいました。栄西は27歳になると、伯耆国の大山まで教えを受けに行き、密教修験道を学びました。

 そして栄西は、天台宗の学びを深めるために宋に渡り、帰国後に天台密教の一派・葉上流の開祖となりました。

 通例なら、一派の開祖になると、その教えの普及に専念するようになるため、違う分野への研究は控えられてしまいますが、栄西は違っていました。

 1187年、46歳になった栄西は再び宋に渡り、今度は座禅による修行を重んじる禅宗の一派である臨済宗黄龍を学びました。密教から禅というと差が大きいように思えますが、日本には、すでに奈良時代に禅が伝えられており、天台宗の開祖である最澄も唐で天台・密教・禅を学んでいるため、栄西は禅というものをしっかりと体得していました。

 1191年、宋から帰国した栄西は、筑前(福岡県)に禅寺を建立し、九州で臨済宗の教えを広めました。この年が日本臨済宗の開宗年とされています。

 その後、栄西は京都に上り、『興禅護国論』を著し、戒律を重視する禅には、鎮護国家の役割が備わっていることを強調しました。しかし、比叡山を中心とする旧仏教から栄西が新宗派を立ち上げたとして警戒され、朝廷も不審の目を向けたことで、栄西禅宗は停止命令が下されてしまいました。

 しかし、これは大きな誤解でした。最澄が学んだ禅は北宗禅の系統で、栄西が受け継いだ南宗禅とは系統が異なりました。そのため新宗派のように感じられたのです。

 朝廷から禅宗の停止命令を受けた栄西は、今度は鎌倉幕府を頼って、鎌倉に下りました。鎌倉では2代将軍・源頼家とその母の北条政子の帰依を得ることが出来、寿福寺も開き、頼朝一周忌の導師も務めました。武士が禅宗を好んだ理由としては、精神性を鍛える禅の修行が、命を賭けて戦う武士の気風に合っていたことがあげられます。

 栄西臨済宗の特徴は、坐禅の際に、公安を用いることと戒律を重視することでした。公安とは、坐禅を組む時に、師から与えられる問題のことで、例えば「あなたの前世は何であったか」といった質問です。修行者は、坐禅を通して、この問いに対する答えにたどり着いたとき、悟りの境地に至ることが出来るとされます。これを禅問答といいます。

 また、臨済宗の厳しい戒律があることも特徴です。酒を飲んでいけない、肉を食べてはいけない、女と遊んではいけないなど様々です。

 鎌倉仏教の特徴は、誰でも実践できる易行でした。しかし、臨済宗は禅問答や厳しい戒律をもつ臨済宗はあまり庶民向けではありませんでした。したがって、臨済宗は武士階級でも幕府をはじめ上級武士に好まれました。特権階級は庶民とは一線を画すことが出来ることを好むのです。

 こうして1202年、栄西鎌倉幕府の援助のもと、京都に建仁寺が建立され、そこの住職となりました。それまでの誤解も解け、比叡山がその膝元に大寺院が建立されることを認めたのです。

 これは栄西密教の高僧であり、栄西が天台・密教・禅を学ぶ寺院であれば、比叡山が反対する理由はなかったのです。

 栄西の死後、臨済宗鎌倉幕府の北条氏の保護を受け、武士のあいだに広まっていきました。幕府は南宋から来日した蘭渓(らんけい)や道隆(どうりゅう)、無学祖元ら多くの禅僧を招いて臨済宗を重んじ、建長寺円覚寺などの大寺を建立していきました。

 栄西の功績は、天台密教葉上流を創始と、日本臨済宗の創始だけではありません。栄西は、生涯に渡って様々な教えを学んでおり、神道天台宗密教修験道臨済宗をインプットした栄西は、その教えをアウトプットとして、律宗の俊芿(しゅんじょう)や、華厳宗明恵(みょうえ)、さらに後に曹洞宗の開祖となる道元を指導したり、東大寺復興に努めた重源に菩薩戒を授けたりと、様々な功績を残しました。

 また、栄西は禅の普及に努めるとともに、宋から持ち帰った茶を栽培し、『喫茶養生記』を著して茶を飲む習慣を日本に広めたことでも知られます。

 

 今回は、栄西の生涯とその教えをご紹介しました。鎌倉幕府の後ろ盾があったとはいえ、栄西禅宗を広めることが出来たのは、栄西が様々な教えの中継者として多くの功績を日本にもたらした名誉ある高僧だったことも大きな要因といえるでしょう。

以上。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

【浄土宗】なぜ法然は鎌倉新仏教の先駆けとなれたのか【法然】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【浄土宗】なぜ法然は鎌倉新仏教の先駆けとなれたのか【法然】」というお話です。

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の特権階級の人達が学び、信仰するものでした。しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになりました。

 当時、天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、武士や庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとしたのです。

 そんな時勢にあって、積極的に武士や庶民の要求に応え、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。

 しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、そんな鎌倉新仏教の先駆けとなった浄土宗の開祖である法然を紹介します。鎌倉新仏教の各宗派は、鎌倉時代には小さな新興勢力に過ぎませんでした。それが室町時代以降、各宗派は大きな勢力として発展しています。鎌倉新仏教が登場したことによって、それまで権力者の所有物だった仏教が、庶民のものとなる道筋が開かれました。その先駆けとなったのが法然だったのです。

法然は、父の遺言である「すべての人を救済する方法」を探し求め、比叡山で出家し、旧仏教を極めて「智慧第一の法然房」と称えられるまでになりました。そんな法然が新たな教えとして浄土宗を開き、京都の貴族や武士、庶民など多くの人々から支持され、鎌倉新仏教の道筋が開かれました。これは法然に学識と人徳があったからこそ出来たことでした。

 法然は1133年に美作国岡山県北東部)の武士の家に生まれました。父は地域の治安を守る押領使でしたが、法然が9歳の頃に暗殺されました。しかし、「決して仇をとってはいけない。それよりも全ての人が救われる道を探してほしい」という父親の遺言を受けたことがきっかけとなり、仏道に入ることを決意しました。

 法然は9歳で出家し、15歳で比叡山にのぼり、天台宗を学びました。法然はめきめき頭角を現し、優秀な成績を修めたことから「智慧第一の法然房」と称えられるようになりました。

 それから法然は30年近くのあいだ比叡山で学問や修行に明け暮れましたが、それに飽き足らず、比叡山の黒谷で修行していた叡空(えいくう)のもとを訪ねました。叡空のもとで修行を積むうちに法然は、中国浄土宗を大成した善導の書物に出会い、大きな影響を受けました。

 比叡山で厳しい修行を積んだ法然にとって、善導の教えは大変画期的なものでした。法然は、どんなに厳しい修行をしても生きている間に現生利益を得ることは出来ない。それよりも阿弥陀仏様の救いを信じ、ひたすら信仰することそのものが修行であるという確信に至りました。これは以後、鎌倉新仏教の基本方針となります。

そして1175年、法然が43歳のとき、国家の許可を得ずに浄土宗を開きました。しかし、許可なく開宗したことは、後に迫害を受ける要因の一つとなりました。

 法然の教えの中心は、他の一切の修行を排除し、専ら念仏を唱える専修念仏にあります。法然は、どんな人でも阿弥陀仏による救いを信じ、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽浄土で新たに往生(生まれ変わる)することが出来るのだとしました。

 そして叡空のもとを去り、京都に出た法然は、東山の吉水に住み、その新しい教えを人々に広めることにしました。法然は主著『選択本願念仏集』の中で、称名念仏阿弥陀仏の名を唱えること)こそが阿弥陀仏が様々な修行法の中から特別に選んだ修行法であり、それのみを行うことで往生できると説きました。

 また、法然は、末法の世では自力修行によって現世で悟りを開く道(聖道門)を歩むことは不可能であるとした。しかし、阿弥陀仏様の本願にすがり、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える称名念仏に専修すれば、他力、すなわち仏の力によって、死後に悟りを得ることが出来る道(浄土門)を歩めるとしました。ただし、救われるための念仏はあくまで自力で唱えるもので、法然の念仏は他力の中の自力の行いであることに注意したい。

 法然のまわりには多くの人々が集まり、その教えは大きな支持を集めました。当時は天変地異や飢饉が頻発したことに加え、源平の争乱が激しさを増していたため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとしました。

 しかし、庶民には難しい教義を学ぶ知恵や、つらい修行を耐える忍耐力、そして寺や仏像を造ったりする財力もありません。そんなとき、法然の専修念仏のような誰でも簡単に実践できる修行は多くの人々に注目されたのです。

 1185年には法然は各宗派を代表する名僧を集めて問答会を開催しています。さらに院の後白河法皇摂関家九条兼実のような政府の要人からの帰依も受けました。このようなことが出来たのも、かつて法然智慧第一という世評があったからからです。

 しかし、法然の主張は比叡山延暦寺や奈良の興福寺の憎悪するところとなりました。法然は、お経を読む僧よりも念仏を唱える庶民のほうが救われると説いたため、読経や戒律を重んじる旧仏教の権威を崩そうとしているとされました。

 また、専修念仏のような念仏さえ唱えていれば誰でも極楽往生が出来るという教えは、従来の仏教の根本である悟りを求めて様々な修行を行う心を否定するものだとも言われました。

 このように法然の宗派は、旧仏教界から強い非難を受けて念仏停止を訴えられ、1207年には後鳥羽上皇によって念仏停止令が出され、法然の弟子4名が死罪となり。開祖である法然も僧籍剥奪のうえ、土佐に流罪となりました。

 

 

 しかし、その後も、法然の浄土宗の教えは衰えることなく、貴族や武士、庶民のあいだに広まり、法然も1211年に罪を赦され、再び京都に召喚されたのち、翌1212年、法然は80歳で大往生を遂げました。

 以後、仏教は悟りよりも、救いを重視する仏教へと転換していきます。

 

 今回は、法然の生涯や教えを見ていきながら、なぜ彼が鎌倉新仏教の先駆けとなったのかをご紹介しました。法然の浄土宗の教えの中心は、阿弥陀仏様の本願にすがって、その救いを得ようとする他力本願と、そのためには、ひたすら念仏を唱える専修念仏によってのみ往生できるとする2点にあります。

 そんな法然が鎌倉新仏教の先駆けとして、その道筋を開くことが出来たのも、かつて「智慧第一の法然房」と称えられるほどに旧仏教を極め、「すべての人が救われる道を探せ」という父の遺言を忘れずに実行したからです。そうした学識や人徳があったからこそ、様々な身分の人が法然の教えに耳を傾け、共感と後援を得ることができたのです。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

【鎌倉幕府】なぜ源氏の将軍家は3代で絶えてしまったのか【源頼朝】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉幕府】なぜ源氏の将軍家は3代で絶えてしまったのか【源頼朝】」というお話です。

源頼朝は、治承・寿永の乱で平家と戦った近親者を邪魔者とみなし、源義仲源義経源範頼の順で殺したのちに征夷大将軍となりました。そんな初代将軍・頼朝が急逝すると、2代・頼家、3代・実朝はまともな政治を行えず、身内によって暗殺されてしまいました。一族を大事にし、戦場で華々しく滅んだ平家に対し、美学のない源氏は骨肉の争いと暗殺によって自滅してしまいました。

 治承・寿永の乱のさなか、頼朝の従兄弟の源(木曽)義仲は、独裁政治を敷く平家一門を京都から追放し、朝廷から迎えられました。

 しかし、その義仲の部下たちが朝廷内で狼藉をはたらいたことで後白河法皇は、頼朝に義仲討伐を命じました。都を手中におさめる機会を狙っていた頼朝は、弟の範頼と義経に命じて義仲追討軍を都へ向かわせました。義仲は京都の守りを固めて、これを迎え撃ったが、範頼・義経の連合軍に惨敗しました。敗走した義仲も、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ちとられました。源氏が同じ源氏を滅ぼしたのです。

 その後、範頼・義経は、平家と戦い数々の武功を立てました。特に義経は、少数の手勢のみで平家の大軍を圧倒し、京都と宮廷では非常に人気があり、後白河法皇義経に官位を授け、重用しました。兄の頼朝は、これを快く思わず、自分を脅かす存在とみなしました。

 さらに、武功を独占し過ぎた義経は、東国の武士団からはすこぶる評判が悪く、東国武士団の支持の上に成り立つ頼朝にとって、義経は邪魔な存在でしかありませんでした。

 義経は壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉に凱旋しようとするも、頼朝がこれを許さず、義経は京都を棄て、東北の名門・奥州藤原氏を頼って逃亡するしかありませんでした。

 頼朝は義経をかくまった罪を口実に大軍とともに東北に向かい、義経もろとも奥州藤原氏を攻め滅ぼしてしまいました。

 頼朝はさらに、もう一人の弟である範頼も討って、兄弟を皆殺しにしていました。頼朝は、平家と戦った近親者を邪魔者とみなし、義仲、義経、範頼の順で殺し、さらに義仲の長男で自分の長女と結婚していた源義高も殺しました。

 

 こうして多くの近親者を邪魔者として殺した頼朝は、1192年に征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開きました。頼朝は、絶対的権力者として東国武士のうえに君臨したのでした。

 頼朝としては、幕府も無事作ることが出来て、源氏は今後、代々将軍家として安泰な人生を歩むことが出来るはずでした。しかし、源氏将軍家の天下は非常に短く、わずか3代で絶えてしまいました。

 

 まず、初代将軍・頼朝ですが、鎌倉幕府成立から7年後の1199年1月13日に、53年の生涯を閉じてしまいます。死因は落馬による脳出血と言われていますが、糖尿病や暗殺説など様々な説が出ていますが、確かなことは分かっていません。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、具体的な状況が記されていないのです。どうやら秘匿するべき最期だったようです。いづれにしても、鎌倉幕府成立から数年後に亡くなったことは事実です。

 頼朝の後を継いだのは、18歳の長男・源頼家でした。1202年、頼家は鎌倉幕府2代将軍に就任しました。頼家は幼い頃から武芸第一主義で育てられ、12歳のときには巻狩(まきがり)で鹿を射止めるなど、武人のとしての力量は優れていました。

 しかし、鎌倉幕府が成立したことで、合戦の世は終わりを告げたため、将軍に武芸と才能は求められませんでした。そのかわり、政治力が求められました。しかし、頼家には政治力や裁判を執り行う力がありませんでした。

こんなエピソードがあります。

ある日、御家人同士で土地についての裁判がありました。

「この土地は先祖代々わしの家のものだ。」

「何を言うか、この土地はわしの土地じゃ。」

この争いに対して、裁判した頼家はおもむろに筆を取り出し、土地の絵図の中央に一本の線を引いたうえで、言いました。

「ここから先がそなたの土地、そして、ここから先がそなたの土地とする。土地が広いか狭いかは、そなたらの運しだいとなる。それが嫌だったら、今後は争わないことだ。」

 武士にとって、土地とは命懸けで戦って守った、または入手した大事な財産です。そんな大事な財産である土地を、何の根拠もなく、いい加減にその所有権を決められたのでは、たまったものではありません。

 したがって、頼家は御家人からの評判がすこぶる悪かった。鎌倉幕府の基盤は御家人の奉公によって成り立っています。これでは幕府の面目は丸つぶれです。

 この状況を見かねた頼家の母・北条政子は、頼家の将軍就任後、わずか3か月後で親裁を停止し、政治は有力御家人13人による合議制となってしまいました。その中で頭角を現したのが、政子の父で頼家にとっては外祖父にあたる北条時政でした。時政は政所の長官も兼任していました。

 そのため、幕府内では、頼家を支持する勢力と、有力御家人たちの勢力が対立するようになりました。

 頼家の勢力の中心にいたのは、娘を頼家に嫁がせていた比企能員(ひきよしかず)でした。

 翌1203年、頼家が重病に倒れると、時政は頼家の弟である実朝を将軍の座に就けようとしました。この時政に怒った比企能員は頼家と結託して、時政を討とうとしましたが、逆に時政のカウンター攻撃によって能員は殺されていまい、頼家は将軍の地位を解任され、伊豆国修善寺静岡県伊豆市)に幽閉された後、翌年殺されました。

 

 頼家の後を継いだのは、頼朝の次男・実朝でした。実朝は3代将軍に就任時は12歳の少年で、幼い将軍を補佐する地位には時政が就きました。その地位は、「権力」を代わりに「執り行う」ことから執権と呼ばれました。

 時政は梶原景時畠山重忠といった頼家側の重臣を倒して幕府の実権を掌握しました。そして1205年、時政は実朝を廃して、自分の娘婿である平賀朝雅を将軍にしようと図ります。

しかし、これを知った政子は激怒しました。

「東国の御家人清和天皇の血を継ぐ源氏に忠誠を誓っています。元来平家である我が北条一族が将軍になるなど、御家人から反発が出るのは、明らかなことです。」

 こうした失態を犯したことで時政は失脚し、次の2代執権には北条義時が就任しました。義時は正面では実朝をたてながら、北条氏と対立する有力御家人を取り除こうとしました。1213年、義時は、幕府開設以来、侍所の長官として勢いを増していた和田義盛を、陰謀によって滅ぼしました。こうして義時は、侍所と政所の長官を兼ね、執権政治を確立し、その地位を息子の泰時(3代執権)にも伝えていくのでした。

 

 こうなると、将軍の地位はカタチだけのものとなります。実朝はどうなったのでしょうか。実朝はもともと将軍職をやりたがらなかった。武士という職業にも興味がなかっただけでなく、政治も積極的にやろうとしなかった。

 実朝は、京都から後鳥羽上皇の側近の娘を妻に迎えていたためか、朝廷や貴族の暮らしに憧れていました。そのため、武士の棟梁でありながら、和歌や蹴鞠などに熱を入れ、官位の昇進にばかり関心を向けるようになりました。

 その結果、実朝は「金槐和歌集」という歌集を出し、歌が百人一首にも選ばれるなど文化人としては大変に優秀な功績を残した人物でした。

しかし、当然、これは御家人たちからは歓迎されませんでした。

「そんな公家みたいなことばかりやっていないで、武士らしく稽古でもしろ」

 

 1918年1月27日、実朝は27歳の若さで右大臣に上りました。翌年にはその昇進を祝うため、実朝は雪が積もった鶴岡八幡宮に参拝に出向きました。しかし、参拝を済ませて帰るところを、木の陰に隠れていた頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいました。この実朝暗殺には北条義時が裏で糸を引いていたのではないかという黒幕説がありますが、真相はさだかではありません。

 実朝には子供がいなかったため、源氏の将軍の血筋はわずか3代で絶えてしまいました。

 さて、今回はなぜ源氏将軍家が3代で絶えてしまったのかを見てきました。かつて源氏も平氏も武功を挙げて朝廷に取り立ててもらうことで武家の棟梁として地位を確立しました。

 しかし、その両者の気風は大変異なっていました。朝廷に取り入るカタチで、政権を確立した平氏はその一族を高位高官に上げ、知行国主も平氏一門で独占しました。これに対し、源氏は身内だろうと邪魔な者は排除し、朝廷も半ば屈服させることで、その政権を確立しました。そんな両者の最期は、戦場である意味華々しく散っていた平氏に対し、源氏は骨肉の争いと暗殺によって自滅してしまいました。そんな源氏には、平氏のような美学が感じられません。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

【源平争乱4】なぜ源義経は源頼朝に倒されたのか【源義経】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【源平争乱4】なぜ源義経源頼朝に倒されたのか【源義経】」というお話です。

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。以仁王の挙兵から壇ノ浦の戦いまで、およそ5年間にわたり日本各地で大規模な内乱が繰り広げられました。

 今回も、そんな5年にもおよぶ源平合戦を見ていきながら、源義経源頼朝に倒された理由について見ていこうと思います。源氏を勝利に導いた源平合戦の最大の功労者であるはずの義経が兄・頼朝に倒されたのは、なぜでしょうか。また、その背景には、どのようなドラマがあったのでしょうか。

源頼朝の弟・源義経は、源平合戦の武功により、朝廷から官位を授かりました。しかし、そんな義経を脅威と見た頼朝は、東国武士団の義経に対する反感もあって義経を討ち取ることにした。武士団からの支持を集められない義経は頼朝と戦うことも出来ず、平泉の奥州藤原氏のもとに逃げるしかありませんでした。しかし、やがて裏切られて自害しました。

 源義経が自害に追い込んだ張本人は、兄の源頼朝です。ふたりの対立するようになるのは、1185年の壇ノ浦の戦い以後にはじまります。

 1185年、義経壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼした後、後白河法皇から検非違使の官職を得ました。これに対して頼朝は自分の許可なしに頼朝の家来が朝廷の官職につくのを禁止していたため、義経に墨俣から東に来るならば処刑するとしました。頼朝は後白河法皇との結びつきを強める義経を自分の地位を脅かす者として警戒するようになったのです。

 そこで義経は頼朝の誤解を解くべく、鎌倉近くの腰越で頼朝宛に書状を送りました。これが腰越書状ですが、頼朝はこれを無視しました。

 かくして頼朝と義経は対立するようになったわけですが、大胆に動いたのは、義経のほうでした。義経後白河法皇を頼りました。後白河法皇としても平氏が滅んだのも、つかの間、今度は源氏が世の中を支配しようとしている流れが面白くありませんでした。法皇は源氏の力を削ぐために義経に頼朝追討の院宣を発したのでした。

 これによって、立場としては院宣を受けた義経の方が優位になり、義経自身もたくさんの武士を招集出来る計算があったのでしょう。

 しかし、その義経の予想は完全に空転となりました。義経のもとには武士が集まらず、それどころか義経を追放しようとする武士さえ出ていました。

 義経の討伐相手は、もはや東国全域の武士団の棟梁である頼朝です。挙兵に失敗した義経は、勝ち目がないと悟り、ついに京都を棄て、逃走しました。義経は最初、西を目指して摂津の浜から舟に乗るも、嵐によって舟を壊され、味方も全く得られないまま、落ち延びていくしかありませんでした。

 義経は、頼朝と合戦に持ち込むことも出来ずに、完敗したのです。

 

 一方、こうした状況をあらかじめ予期してかのように頼朝は大軍を率いて、間髪入れずに京都に上りました。そして、後白河法皇に頼朝追討の院宣を発した責任を追及しました。

 しかし、頼朝は法皇に頼朝追討の院宣を暗に咎めただけで、それを撤回させると同時に、諸国に義経を探して捕らえるための組織として、守護・地頭を置くことを認めさせました。

これによって事実上の鎌倉幕府が成立しました。1185年のことです。

 

 義経が頼朝のまえに完全に無力だったのは、義経には大将として徳がなかったからです。治承・寿永の乱において、義経は本来、関東の武士たちが立てるはずの手柄を独占し過ぎた男でした。武士は戦で手柄を立てて初めて認められる世界です。したがって、大将は部下に手柄を立てさせなくてはなりません。

 それなのに、義経は少数の手勢のみで平家を圧倒してしまった。

 壇ノ浦の戦いにいたっては、水上戦であり、東国武士が多く属する騎馬武者には活躍がありません。義経とその少数の手勢のみが手柄を立て、多くの武将たちは輝かしい武功を挙げられないまま平家は滅んでしまいました。これから武士による武士のための理想国家が建設されそうな激動の時代に、源氏方の武将たちは立身出世できる絶好の機会を義経に奪われてしまったのです。

 一方、頼朝の基盤は、東国武士団の支持なしにはありえない。そんな東国武士団の気持ちを配慮して、どうしても義経を冷遇せざるを得なかった。義経がこれに不満を持っても、それ以上に東国武士団は義経に不満を抱いていたのです。

源頼朝にとっての最後の強敵は東北の奥州藤原氏でした。そんな中、頼朝は逃亡中だった源義経奥州藤原氏のもとに身を寄せていることを知りました。頼朝は義経をかくまった罪を口実に奥州藤原氏を滅ぼし、1192年には征夷大将軍に任命されました。

 さて、事実上の鎌倉幕府を成立させた頼朝にとって、最後の敵勢力は奥州藤原氏でした。頼朝にとって、奥州藤原氏は鎌倉の背後をおびやかす脅威でした。

 奥州藤原氏は、後三年合戦の後、奥州の平泉(岩手県平泉町)を拠点に、清衡・基衡・秀衡と3代にわたって東北地方に勢力を築き、朝廷の干渉をほとんど受けずに、なかば独立した政権を保持していました。東北地方は、頼朝の力の及ばない地域だったのです。

 そんな奥州藤原氏の実力を熟知していた頼朝は、幕府の基礎固めをしつつ、奥州に攻撃を仕掛ける機会をうかがっていました。

 すると、1187年になって、頼朝が血眼になって探していた義経が、奥州藤原氏をたよって平泉の秀衡のもとに身を寄せているという情報が入りました。

 こうして頼朝は、奥州に攻め入る口実が出来、義経もろとも奥州藤原氏を滅ぼしてしまおうと考えました。

 しかし、頼朝は最初、秀衡に義経の身柄を差し出すように求めました。秀衡の拒否にあって容易に手が出せません。

 ところが、都合のよいことに、まもなく秀衡が病気のために亡くなったのです。頼朝はそれを待っていたかのように朝廷に訴えて、秀衡の子である泰衡に義経を差し出すように命じさせました。そして、命令に従わなければ、兵を差し向けると脅しました。すると泰衡は、頼朝が攻めてくるのを恐れ、自分で義経を討つ決心をしました。

 1189年、泰衡は義経のいる衣川の館を襲い、義経を自害に追い込みました。

 義経の死は鎌倉に伝えられましたが、頼朝は奥州への出撃を辞めませんでした。狙いは奥州藤原氏を滅ぼすことにあったからです。自ら大軍を率いて鎌倉を発した頼朝は、泰衡を滅ぼし、ついに東北地方を支配下に置きました。そして、手柄のあった武士に恩賞として領地を与え、後に奥州総奉行をおいて御家人の統率や治安維持にあたらせました。こうして頼朝の支配は全国に及ぶようになりました。

 

 翌1192年、頼朝は全国制覇を成し遂げ、平和を回復したことで、再び大軍を率いて京都に上り、後白河法皇と対面しました。頼朝と法皇は険悪なムードでしたが、法皇はカタチの上では頼朝を厚くもてなし、右近衛大将に任命しました。

 しかし、この官職は天皇を守る役目で、貴族にとっては名誉ですが、頼朝にとっては意味を持ちません。そこで、頼朝はこれを一旦受けた後、まもなく辞退して鎌倉に戻りました。

 

 頼朝が望んだのは、武家の棟梁(指導者)にふさわしい征夷大将軍の地位でした。鎌倉に戻った頼朝は、公文所を政所に改めるなど、政治のしくみをあらためて整備します。

 そんな中、1192年、後白河法皇が病気の悪化により、亡くなったという知らせが入りました。法皇が亡くなったことで朝廷では頼朝と親しい九条兼実が実権を握るようになりました。これによって、頼朝は後白河法皇が拒み続けていた征夷大将軍の地位を賜ることに成功しました。

 ここに鎌倉幕府は名実ともに出来上がり、朝廷と幕府が協力して政治を行う体制が実現しました。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

日本史 誤解だらけの英雄像  内藤博文=著   KAWADE夢文庫

聞くだけで一気にわかる 日本史 馬屋原吉博=著  アスコム