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【源平合戦ドラマ3】名将?愚将?源義経 【源義経】

こんにちは。本宮 貴大です。

源平合戦ドラマ3】名将?愚将?源義経 【源義経

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。以仁王の挙兵から壇ノ浦の戦いまで、およそ5年間にわたり日本各地で大規模な内乱が繰り広げられました。

 今回も、そんな源平合戦のドラマを、源義経を主人公に見ていきたいと思います。義経といえば、源平合戦で活躍し、源氏を勝利に導いた最大の功労者ですが、その実態は我々の想像とは少し違っていたようです。

源義経は少数の手勢で平家の大軍を打ち砕いた名将でした。しかし、その勝利は義経の単独的で卑劣な戦い方によるもので、まともな武士たちからは支持されませんでした。義経は、リスクの多い戦法を得意とする勇将ではあっても、正々堂々と戦って勝利する徳のある良将とは程遠い存在だったのです。

 源義経は、1159年に生まれた源義朝の子で頼朝の異母弟です。幼いときの名は牛若丸。平治の乱の頃で源氏が大敗した時は、まだ生まれたばかりの赤ん坊であり、今若と乙若の2人の兄とともに母の常盤御前(ときわごぜん)に連れられて逃げていました。しかし、常盤の母が人質に取られ、常盤は清盛のもとへ名乗り出たところ、清盛が常盤の美しさに目がくらみ、自分のもとに来ることを条件に3人の子供の命を助けてしまいました。このとき、赤ん坊の義経は京都の鞍馬寺に預けられました。

 そんな義経が19歳の頃、源平争乱が勃発し、生き別れとなっていた兄・頼朝の挙兵に応じて富士川の戦いの際に、頼朝のもとに駆け付けました。1183年末には、頼朝は源範頼義経同様に弟)と義経に、京都で暴政を働いている源義仲を討伐するために京都にのぼるよう命じました。

 翌1184年1月には、関東からやってきた源範頼源義経をリーダーとする源氏の軍勢は、京都にあった源(木曽)義仲を滅ぼしました(宇治川の戦い)。この功績を称えた後白河法皇は、範頼・義経平氏討伐の院宣を下しました。院宣を受けた範頼と義経平氏を討つためにさらに西へ向かいました。

 一方、平氏は京都を追われ、いったん九州に落ち延びたものの、京都で義仲が征伐されている間に、勢力をもりかえしていました。平氏はもともと瀬戸内海までの西国を制圧しており、新たに讃岐国香川県高松市)の屋島(やしま)を本拠として、かつて清盛が一時的に都にしていた福原(兵庫県神戸市)にその主力を置き、京都奪還を狙っていました。

 かくして福原の一の谷に陣を張った平氏は自信満々でした。平家の籠る一ノ谷は、難攻不落な要塞であり、南は海に面し、北は険しい山に囲まれ、東西につながる通路は狭い。平家が東西を固く守るなら、そう簡単に落ちることはありませんでした。

 1184年2月、福原に向かった範頼と義経は2手に分かれて戦うことにしました。範頼が南の浜から攻める一方、義経は迂回して山側から攻める作戦をとったのです。

義経が担当する一の谷の北方の鷹取山には、鵯越(ひよどりごえ)という切り立った崖があり、ここは、人はもちろん、馬で超えることも無理とされました。

義経は地元の人間を捕まえて、聴き取り調査をしました。

「この崖は、馬で下れるか?」

「それは無理だと思います。」

「では、鹿ならどうだ?」

「ああ。鹿なら可能だと思います。野生の鹿がこの崖を駆け下りている姿を見たことがあります。」

これを聞いた義経は、軍団に言い放ちました。

「おい、みんな聞いたか?鹿が下れるのなら、同じ四本の足を持つ馬が下りられないはずがない。」

 こうして2月7日、義経率いる少数の騎馬隊は鵯越の切り立った崖をまっすぐに駆け下りて平氏の陣を襲いました。これが有名な義経の「鵯越の逆落とし」です。

 まさか鵯越を駆け下りてくるとは思っていなかった平氏軍は、北方に対する備えが甘かったため、たちまち総崩れとなり、大敗しました(一ノ谷の戦い)。平家の名のある武将も討ち取られ、平敦盛熊谷直実に討ち取られています。ここから平家物語で特に有名な「敦盛の物語」も誕生しています。大敗した平家は、さらに西に逃れました。

 この義経の少数による奇襲は、「少数が大軍を制した」ことで、義経にとって大きな功績となりました。一歩間違えれば自軍が自滅しかねない大冒険な戦いでしたが、義経は見事に平家を圧倒したのでした。

 一方で、多くの源氏方の武士が義経に対し、にわかに不満を持つようになりました。武士は戦で手柄を立てて初めて認められる世界です。したがって、大将は部下に手柄を立てさせなくてはなりません。それなのに、義経は少数の手勢のみで平家を圧倒してしまったことで、今後、源氏方の武将たちが立身出世できる絶好の機会を奪ってしまったのでした。

 こうした義経の活躍に目をとめた後白河法皇は、義経に官職や位を与えてとりたてました。しかし、これが頼朝を怒らせることとなりました。

 頼朝の許可なしに頼朝の家来が朝廷の官職につくのは、極めて無礼なことだったからです。9月になって平氏への攻撃が再開されましたが、義経は京都に留め置かれ、範頼が軍を率いることとなりました。

 西国に進んだ範頼の軍勢は、平氏を追って山陽道から平家を討伐し、九州へと遠征するも、途中で兵糧が尽き、範頼軍は潰滅寸前にまで陥りました。

 そこで頼朝は、義経を起用せざるを得ませんでした。再び出陣した義経は、1185年2月、夜の嵐をついて舟で四国の阿波国徳島県)に上陸し、屋島の背後を突いて平氏の本拠を襲いました(屋島の戦い)。

義経屋島の戦いは、一ノ谷の戦い以上に激烈なものでした。義経はわずかな手勢のみで、次々に敵陣を破り、数のうえでは圧倒的に優勢だった平氏を遂に海上に追い落としました。

 またしても、義経が少数の手勢しか集められなかったのは、このとき義経が信望を失っていたからですが、それでも義経は少数による奇襲で平氏の大軍を打ち破ったのです。これによって義経には「奇襲の義経」のイメージが出来上がりました。

 

 さて、瀬戸内海の本拠地であった屋島を失った平氏は瀬戸内海を西へと逃れ、長門国彦島山口県下関市)を最後の拠点としました。ここが陥落するなら、栄華を誇った平家一門も終わりをつげます。

 同1185年3月、義経は瀬戸内海の水軍を味方にして壇ノ浦で決戦を挑みました。源氏と平氏の最終決戦は、壇ノ浦での水軍同士の戦いとなりました(壇ノ浦の戦い)。

 この海上決戦は、源氏にとって勝って当然の戦いでした。義経軍は840隻の舟、対する平家側は500隻に過ぎませんでした。

 義経はこの水上戦では、一ノ谷の戦い屋島の合戦のような大博打をする必要がありませんでした。

 そんな勝ちが決まったこの水上戦で、義経はまたしても大博打をせざるを得ない状況に陥りました。源氏側の水軍は、一列に並ぶ単純陣で平家水軍に突っ込んでいきましたが、対する平家軍は水軍を左右に広げ、左右から源氏水軍を弓矢で挟撃したのです。

 平家のこの知略は、義経のそれを上回っており、このままでは源氏は平家に大敗しかねない状況となりました。

 そこで義経が打った手は、平家水軍の楫取(かとり)とよばれる舟の漕ぎ手を弓矢で射殺するというものでした。楫取は鎧をはじめとする防具を身に着けていないので、簡単に射殺できた。楫取を失った平家水軍の舟は漂流し始め、平家軍は混乱に陥ってしまった。

 こうして、追いつめられた平氏一族は次々に海に身を投げて死に、8歳の安徳天皇二位尼(清盛の妻・時子)に抱かれて海に沈みました。天皇の母の建礼門院(清盛の娘・徳子)は助けられたものの、平氏一門を率いていた大将・宗盛は捕らえられ、処刑されました。ここに平家は滅び去ったのでした。

 こうして義経は平家一門を滅ぼすという大きな戦果をあげたわけですが、それは賞賛しがたいものとなりました。まず、壇ノ浦の戦いは、水上戦であったため、源氏方の多くの武士たちが属する騎馬武者の活躍の場がなかったこと。壇ノ浦の勝利は、義経とその手勢、さらに瀬戸内海の水軍による手柄であり、多くの武士たちが武功をあげられないまま、平家は滅んでしまった。

 また、その壇ノ浦の勝利さえも、多くの武士達にとっては「恥ずべき勝利」でしかありませんでした。それまでの日本の戦闘では、陸戦で馬を射るのは卑怯とされていたように、水上戦で楫取を殺すのもまた卑劣な戦法であるとみなされていました。

 さらに、壇ノ浦の勝利は、頼朝や後白河法皇からも高く評価されていない。後白河法皇は源氏に天皇の象徴である三種の神器の奪還を求めていました。義経安徳天皇とともに海中に没した神器のうち、鏡と勾玉は回収したものの、剣が行方不明になるという大失態を犯してしまった。しかも、安徳天皇も入水に追いやってしまったことで、壇ノ浦の勝利は非常に不手際の多い勝利となってしまいました。

 こうして常勝無敵のはずの義経が、信望を得られないという状況が出来上がってしまいました。

 義経の「少数による大軍の制圧」は、つねに軍事的冒険や夜に乗じた奇襲作戦でしか実現できず、多くの武士たちの活躍の場を奪ってしまった。そして壇ノ浦の勝利は、合戦のルールを破るという反道徳的な戦法によって成し得たものでした。

 

 今日、源義経源平合戦における最大の功労者にも関わらず、最後には頼朝によって自害に追い込まれた悲劇の名将として語られています。しかし、そんな悲劇の名将の実態は、単独的で卑劣な戦法から、まともな武士たちからの信望を得ることが出来なかった愚将としての姿がうかがえます。義経は、勇敢に戦う勇将ではあっても、徳のある良将とはみなされなかったようです。

 

源平争乱は続きます。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

日本史 誤解だらけの英雄像  内藤博文=著   KAWADE夢文庫

【源平合戦ドラマ2】なぜ源義仲は源頼朝に倒されたのか【源義仲】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【源平合戦ドラマ2】なぜ源義仲源頼朝に倒されたのか【源義仲】」というお話です。

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。

 今回も、そんな5年にもおよぶ源平合戦を見ていきながら、源義仲源頼朝に倒された理由について見ていこうと思います。源氏が同じ源氏を倒した背景には、どのようなドラマがあったのでしょうか。

以仁王の令旨によって、頼朝の従兄弟・源(木曽)義仲も挙兵しました。義仲は京都から平氏一族を追い払ったのちに入京するも、義仲軍が都で盗みや乱暴を働いたことから上皇や貴族からの反発を買い、後白河法皇源頼朝に救いを求めました。これを受けた頼朝は、源範頼源義経に命じて義仲を討たせました。

 東国で挙兵したのは頼朝だけではありませんでした。以仁王の呼びかけは信濃国(長野県)の木曽にいた源義仲木曽義仲にも届いていました。義仲は頼朝のいとこにあたりますが、義仲の父・義賢はもともと関東の上野国群馬県)、武蔵国に勢力を張っていましたが、義仲が2歳のとき、鎌倉を根拠としながら武蔵国に勢力を伸ばそうとする義朝(頼朝の父)の兄・義平と争って殺されました。義仲は木曽に逃れ、乳母(母の代わりに育てる人)の夫である中原兼遠に育てられたのでした。

 義仲は頼朝の挙兵を知ると、負けずと挙兵しました。義仲は、非常に戦上手で、みるみるうちに信濃国から上野国越後国新潟県)へと勢力を広げ、頼朝と張り合う勢力になりました。

 こうして1180年から全国で起こった治承・寿永の乱源平合戦は、大きく4つの勢力に分かれて戦うこととなりました。その勢力とは、畿内・西国に力を持つ平氏、北陸一帯を平定した源義仲、東国を統一した源頼朝。そして東北に君臨する奥州藤原氏でした。

 

 平氏は、富士川の戦いで敗走して以降、急速に弱体化していきました。一方で反平氏の勢力は、より一層活発となり、情勢が危ういと考えた清盛は、福原から京都に都を戻し、子の平重衡に命じて奈良の寺院で反平氏勢力と代表であった東大寺興福寺を焼き討ちにさせました。

 こうして平氏が反撃するなか、翌1181年、高倉上皇が亡くなると、後白河上皇院政を再開しました。ついで清盛が高熱を発して死にました。清盛の身体は火のように熱く、あまりに熱いので意志の水槽に水を満たし、身体を冷やしたところ、水が湯になってしまったと伝えられています。そして死ぬ直前に「頼朝の首を墓にもってこい」と言い残して亡くなりました。

 

 清盛の死によって、平氏の勢力はさらに弱体化していき、かろうじて西進する源氏を阻む力と、東北の奥州藤原氏と結んで頼朝や義仲を背後から突く戦略もとるようになりました。

 そんな平氏の泣きっ面に蜂だったのが、このときに起きた飢饉でした。これは当時の年号から養和の飢饉と呼ばれていますが、1181年から翌年にかけて諸国は夏の日照りや秋の暴風や洪水によって大凶作となり、その飢饉は凄まじいものとなりました。京都中の街路には飢え死にとなった死体が転がり、仁和寺の僧侶が死者の供養のために額に「阿」の字を書いてまわったところ、その数は、京都の町だけで4万2300人にも及んだとされています。また、東北や関東を義仲や頼朝が抑えていたため、京都に運ばれる年貢の輸送が滞っていたことも事態をさらに悪化させました。

 

この飢饉を受けて平氏には、もはや戦える力が残っていない状態となりました。

それでも平氏は、北陸の源義仲が攻め入ってくるのを防ぎ、重要な食料供給地である北陸を得ようと、平維盛を大将とする10万の大軍を送りだしました。

 

 しかし、1183年、加賀国(石川県南部)と越中国富山県)の国境にある外波山の倶利伽羅峠で、平氏軍は義仲軍に木っ端みじんに打ち砕かれ、京都に逃げ帰りました(倶利伽羅峠の戦い)。

 この戦いにおいて義仲は、数百を超える牛の角にたいまつをつけて敵陣を奇襲したと伝えられています。

 また、このとき以仁王の遺児・北陸宮が義仲を頼って都を脱出していました。義仲は北陸宮を保護すると、以仁王源頼政の遺志を継ぐものとして戦(いくさ)の旗を立てました。

 こうして勢いにのった義仲軍は、平氏を追って京都に迫りました。いよいよ京都を守り切れなくなった平氏一族は、京都の六波羅にあった自分達の館に火をかけて焼き払い、態勢を立て直すため、幼少の安徳天皇を奉じ、三種の神器をとともに西国に逃れていきました。

 

 こうして都から平氏を追い出した義仲は、意気揚々と入京しました。独裁政治を強いていた平家を追い出してくれたことで、義仲は当初、とても歓迎され、義仲は征夷大将軍に任命されました。

 しかし、田舎から出てきた義仲軍は宮中の宝物や食料を奪ったり、高貴な姫たちに乱暴したりと統制の利かない横暴が目立った。このため飢饉でただでさえ食料不足の京都の食料不足はさらに深刻化しました。そして、すでに皇位継承から外された以仁王の遺児・北陸宮を皇太子に推すなどの政治力の鈍さも、貴族たちの反感を買う原因となりました。

 そのため中央貴族たちは義仲軍を追い出そうと企てました。そこで後白河法皇は、同1183年12月10日、義仲に平氏追討の院宣を出し、義仲を官軍として西国に遣わせて平氏との戦いを続けさせました。その一方で、源頼朝とひそかに交渉し、頼朝に東国一帯の支配を認める代わりに、義仲軍を都から追放するよう願い出たのでした。都を手中に収めたいと思っていた頼朝にとって、これは絶好の機会でした。

しかし、これを知った義仲は怒り、後白河法皇を幽閉するというクーデターに出ました。

 これを知った東国の頼朝は、弟の源範頼源義経に、義仲討伐のために京都にのぼるよう命じました。義仲は京都の守りを固め、京都北方の宇治にて、これを迎え撃ったが、惨敗しました(宇治川の戦い)。

 

敗走した義仲も、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ちとられました。

 

源平合戦はつづきます。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代           ポプラ社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

読むだけですっきりわかる 日本史  後藤武士=著  宝島社文庫

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【源平合戦ドラマ1】なぜ源頼朝は挙兵したのか【源頼朝】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【源平合戦ドラマ1】なぜ源頼朝は挙兵したのか【源頼朝】」というお話です。

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。

 今回は、そんな5年にもおよぶ源平争乱は、いかにはじまり、いかに終わり、そこにはどのような人間ドラマがあったのかを見ていたいと思います。

古来より関東人は朝廷からの独立を願っていました。そんな中、平氏政権が院や朝廷、貴族、地方武士、寺院などあらゆる勢力から反感を買い、孤立していました。そのスキを狙って源頼朝平氏政権を倒し、武士による武士のための政府(幕府)を立てるため、挙兵しました。

 12世紀半ば、院政に代わって武士出身である平氏が政権を握ったことで、国司受領)からの厳しい収奪から逃れられると全国の武士や寺社勢力は大いに期待をしていました。

 しかし、平氏政権の中心である平清盛知行国主としての平氏一門を受領に任命し、独裁体制を強めたため、武士達は大きく失望していきました。

 また、平氏一門が朝廷内で高位高官を独占し、領地も日本全体の半分を所有するようになると、院も朝廷も平氏政権に強い警戒心を持つようになりました。

 こうして平氏は、院や朝廷、武士や大寺社などのあらゆる勢力から反感を買い、次第に孤立していきました。

 そんな清盛は、自分の娘を高倉天皇に嫁がせ、その2人の間に生まれたわずか3歳の子をすぐに皇太子とし、天皇外戚の地位を確立しました。これによって皇位継承が絶望的となった高倉天皇の兄・以仁王は、1180年4月に諸国の源氏の武士に「平氏討伐」をよびかける文書をひそかに出していました。

 これを受けた源頼政以仁王をかつぎ上げ、京都で平氏打倒の兵を挙げました。頼政は、源満仲の長男で摂津に土着した源頼光の子孫であり、平治の乱のとき、平清盛を助け、その勝利に貢献していました。その後、西国で平氏が全盛となる中、京都で唯一、勢力を保っていた源氏でした。

 しかし、同年5月に以仁王頼政の挙兵は、事前の密告によって清盛の耳に入りました。清盛は追っ手を以仁王の屋敷に差し向けましたが、以仁王はすでに園城寺に逃れた後でした。しかし、園城寺では十分な味方を得ることが出来なかったため、以仁王頼政は奈良の興福寺(南都)に向かおうとしましたが、その途中、宇治川平等院付近で平氏の追撃に遭い、両者とも敗死しました(宇治川の戦い)。

 以仁王の反乱をおさめた清盛は、出家したのちに自分の別荘のある福原(兵庫県神戸市)に、安徳天皇高倉上皇後白河法皇らをつれ、都を移すことで、反平氏勢力を抑えようとしました。しかし、この強硬手段は、さらに多くの中央貴族たちの反感を買いました。

 

 しかし、以仁王が発した平氏討伐の令旨は諸国の源氏一族に伝えられ、それに応えた動きが各地で起こりました。

 源行家は、平治の乱で兄・を失っており、平氏には強い恨みを持っていました。行家は、同じく平治の乱のあと、伊豆国静岡県伊豆市)に流されていた義朝の三男・頼朝のもとを訪れ、以仁王による平氏討伐の旨を伝えました。

 それは1180年4月末のことでしたが、頼朝が伊豆に流されてから20年が経っており、頼朝は34歳で、伊豆国の上級役人になっており、地元の武士である北条時政の娘・北条政子を妻としていました。北条氏は元来、平家であり、時政は頼朝の監視を命じられていました。しかし、この時は婿として自分の館に招き入れていたのです。

そんな中、京都にいる三善康信から頼朝に手紙が届きました。

以仁王の令旨の件が京都で露呈し、平氏が挙兵の準備をしている。頼朝殿は、奥州の藤原氏を頼ってお逃げください。」

しかし、頼朝は逃げることよりも戦うことを選びました。

 古来より、関東人は朝廷の重税に苦しんできました。それが今では時代を動かせるだけの力を持った武士という新たな身分が誕生し、関東に武士による武士のための理想国家の建設も夢ではなくなった。

 そんな関東人の理想を実現すべく、関東武士団の棟梁として平氏を打倒できるのは、皇族の血を引く清和天皇の生き残りである頼朝だけでした。かくして頼朝は挙兵を決意しました。

 頼朝は以仁王の呼びかけを受けたものの、すぐに動こうとはしませんでした。そんな中、以仁王頼政の挙兵が失敗したという知らせ入り、清盛が全国の源氏を討伐するべく準備をすすめていることが頼朝の耳に入りました。

 これを聞いた頼朝は、ついに挙兵を決意し、準備を進めました。頼朝の最初の敵は、平氏一族で伊豆国目代をつとめる山木兼隆でした。

 同年8月17日の夜、頼朝軍の味方である北条時政らが、兼隆の館を襲って兼隆を討ち取りました。しかし、決行が急だったため、頼朝軍は十分な仲間を集めきれませんでした。

 

 すぐ近くで助けを期待できるのは、相模国(神奈川県)の三浦半島に大きな勢力を持つ三浦氏でした。頼朝軍は三浦氏と合流するために相模国の石橋山に向かいました。すると、平氏方の大庭景親らの待ち伏せに遭い、頼朝軍は惨敗しました(石橋山の戦い)。

 ここで頼朝は有名な命拾いをします。戦に負けて大きな木の後ろに隠れていたところ、敵の梶原景時に見つかってしまうも、景時は頼朝を見逃したのです。その後、頼朝は真鶴半島から舟に乗り込み、安房国(千葉県南部)に逃れました。

 

 安房国に着いた頼朝は、再起を図ります。頼朝が関東一帯の武士に結集を呼び掛けると、上総国(千葉県中部)の上総介広常下総国(千葉県北部)の千葉常胤らが大軍を率いて駆けつけてきました。

「頼朝殿、遅ればせながら、参陣いたします。」

さぞかし頼朝が有難がるだろうと思っていた広常らは、逆に頼朝から怒鳴られました。

「なぜ今頃来るのか。ここに来るまで多くの同胞を失い、私自身も命拾いをしている。」

石橋山の大敗で逃げてきたにも関わらず、大軍を連れてきた大将を叱りつけるという毅然とした態度に武家の棟梁としての資質と自然な威厳がうかがえた。

「さすがだ。頼朝こそが、源氏の棟梁である。これは大物だ。」

広常らは感じ入り、頼朝に忠誠を誓うようになりました。

 そして頼朝軍が武蔵国を経て、相模国の鎌倉に入ったときには、大軍に膨れあがっていました。鎌倉は、頼朝の先祖で、前九年合戦で活躍した源頼義八幡宮を祀って以来、東国における源氏の拠点でした。

 一方、頼朝が東国武士を結集して勢力を回復させたことが福原の清盛の耳にも入りました。清盛は、かつて命を救ってやった頼朝が、その恩を仇で返していたことに強い怒りと憎しみを覚えました。

「必ずや、頼朝の首を持ってこい。」

 そう言って清盛は、9月22日、孫の平維盛を大将とする5千騎余りの軍を福原から東国に発しました。維盛軍は、進軍の途中で兵を募り、駿河国に着いたときには、およそ5万の軍勢となっていました。

 一方の頼朝は、これを迎え討つべく、20万の大軍を率いて鎌倉を発しました。これと同時に源氏一族である甲斐国武田氏と同盟を結びました。そして、駿河国の黄瀬川まで来たとき、かつて鞍馬寺を脱出し、奥州の藤原秀衡にかくまわれていた源義経が駆けつけ、有名な兄弟の対面をしました。

 かくして頼朝率いる20万の大軍と、平氏の5万の軍勢は富士川で対峙しました。数では頼朝軍が有利でしたが、この合戦は意外なカタチで決着が着きました。

 夜中、頼朝軍は平氏軍の様子を見ようと偵察部隊として武田軍を平氏の背後から迫らせたところ、富士川にとまっていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音を聞いた平氏軍は頼朝軍が夜襲を仕掛けてきたものと勘違いして、大混乱に陥り、武器も食料も放り出したまま、戦わずに京都に逃げ帰ってしまいました(富士川の戦い)。

 一方、逃げ帰った平氏軍は、その帰途で各地の反平氏の地方武士に追撃され、維盛はわずか10騎のみを従えて、京都に戻ってきたことに清盛は激怒した。

このときの敗戦が平家の栄華の夢の醒めはじめでした。

そして、いつしか以下のような言葉が流行り始めました。

「おごる平家は久しからず」

 

 一方、頼朝は逃げかえる平氏軍を追わずに、富士川から兵を引き返し、背後を脅かしていた常陸国の佐竹氏を滅ぼしました(佐竹攻め)。

 こうして、頼朝は、伊豆・駿河遠江静岡県)の諸国と関東地方のほとんどを支配するようになりました。

 

源平合戦はつづきます・・・・。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

参考文献

いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】  東洋経済新報社

日本の歴史1 旧石器~平安時代            ポプラ社

早わかり 日本史         河合敦=著        日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

【平氏政権】平清盛のスピード出世の秘密とは?【平清盛】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【平氏政権】平清盛のスピード出世の秘密とは?【平清盛】」というお話です。

今回は、平氏が朝廷内で台頭し、その栄華を見ていきながら、平清盛のスピード出世の秘密について見ていきたいとおもいます。

 

 平氏が朝廷内で台頭するきっかけとなったのは、清盛の祖父・正盛の時代にまで遡ります。

正盛は白河上皇に領地を寄進し、院の近臣に取り立てられました。やがて正盛は追捕使として武名を上げ、出世していきました。

さらに、正盛の子・忠盛も海賊征伐で武名を上げたのをきっかけに、白河上皇の側近として迎え入れられた。

忠盛はその後、鳥羽上皇にも寵愛され、それまでは高級貴族しかなれなかった受領(国司)に任命され、美作・播磨などの国司を歴任するうちに莫大な富を蓄積することに成功しました。

 このような祖父・父の遺産を引き継いだ清盛は、保元の乱平治の乱の勝利に貢献後、後白河法皇から信頼され、清盛は参議となって公卿に就任、朝廷内で政治に発言する権限を得たのでした。平清盛はその後も栄進を続け、数年後の1167年、武士としては初めての太政大臣という朝廷の最高職にまで成り上がりました。

 こうして後白河上皇のもとで実権を握った清盛は、兄弟や子供、甥や孫まで平氏一門を次々に高位高官に取り立てました。その結果は、公卿16人、殿上人30人余りに達し、朝廷の重要な役職のほとんどを平氏一門が独占する状態となりました。

この政情をみた、平氏一門の平時忠などは以下のように豪語しました。

平氏にあらずんば 人にあらず」

これは「平家の一門でないものは人ではない」という意味です。

 清盛は、武士でありながら貴族社会への強い憧れを持っていたようです。その様相はまるで藤原摂関家のごとくで、自分の娘・徳子を高倉天皇の妃とし、その後、念願の皇子(後の安徳天皇)が生まれると、すぐに皇太子にさせ、外戚として権力をふるうだけでなく、摂関家からの反感を買わないように、娘の盛子を関白・藤原基実の妻としています。

 また、全国の武士達の反感も買わないように、清盛は諸国の荘園・国衙領の地頭の任免権を獲得し、畿内や西日本の武士たちを地頭に任命することで対策を講じると同時に、平氏組織の強化を図りました。これは、後に誕生する鎌倉幕府の政府機構そのものであり、清盛は貴族政治を行いつつも、武家政治も同時に行おうとする

 

 清盛の栄華の根源は、軍事的基盤や政治的基盤だけではなく、経済的基盤にもありました。平氏一門に朝廷から与えられた知行国は30か国を超え、寄進された荘園は500カ所以上にも及びました。これは当時の日本の正統な領地の半分以上に相当すると言われています。

 また、清盛は宋(中国)との貿易に力を入れ、利益を得ようとしました。宋との国交は遣唐使停止以来、途絶えていましたが、民間の商船などは九州に来て貿易を行っていました。清盛は、これに目をつけました。

 そこで清盛は父・忠盛が瀬戸内海の海賊征伐をしたことで、瀬戸内海の航路が開かれたことに注目し、宋(中国)との貿易を神戸(福原)で始めました。これを日宋貿易といいますが、当時の神戸には奈良時代行基がつくった大輪田泊という小さな碇泊地があり、そこを大規模な港に改修し、宋と積極的な貿易を行い、莫大な富を得たのでした。

 こうして、清盛は軍事力・政治力・経済力の面で最高位となりました。

 

 それにしても、清盛の昇進スピードは異例で、武士の身分でありながら、公家の最高位である太政大臣になるまでの期間が短すぎます。なぜ清盛はスピード出世を達成できたのでしょうか。これには理由がありました。

清盛は忠盛の子ではなく、白河上皇の子だったのです。忠盛は上皇から祇園女御の妹を賜るが、そのとき彼女は白河上皇の子を身ごもっており、忠盛はそれを知りつつ、彼女をもらい受け、生まれた子(清盛)を我が子として育てたのです。

なので、貴族社会も、皇室の血を継ぐ清盛の栄進に異を唱えることが出来ませんでした。

 

 しかし、清盛率いる平氏一門が官職を独占したことで、排除された貴族たちはその反感は強いものになっていきました。高倉天皇が即位して以来、平氏を中心とした宮廷勢力がつくられてくると、後白河法皇平氏勢力に警戒心を持ち、清盛とも対立するようになりました。

 また、全国の武士たちも知行国の国守が平氏一門によって占められていることに強い不満を持ち、平氏から離反していきました。

 

 そんな中、1177年についに朝廷や院で、平氏政権に対する不満が爆発。院の近臣・藤原成親や僧の俊寛らが京都東山の鹿ケ谷で会合し、平氏打倒の計画を練るも、事前に発覚して、関係者は捕らえられ、厳罰に処せられました(鹿ケ谷事件)。

 鹿ケ谷事件後、後白河法皇平氏の対立はますます深まり、平氏は反平氏勢力を強圧するも、院も反平氏の態度を強めたため、1179年、清盛は数千人の兵を集めて上京し、後白河法皇を幽閉するというクーデターを決行し、院政を停止させました。他の院の近臣たち39人の官職も奪い、清盛は政界の主導権を握り、平氏政権を樹立しました。

 翌1180年にはわずか3歳の安徳天皇を即位させ、外戚としてその地位を確立させました。

 しかし、この強圧策は、朝廷や院、そして貴族や全国武士たちなどあらゆる旧勢力から反感を買い、その勢力は平氏打倒を掲げ、後白河法皇のもとに結集するのでした。

 こうして孤立した平氏は、各地の源氏の挙兵に始まる源平争乱に巻き込まれるのでした。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】        東洋経済新報社

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

【平治の乱】平治の乱が起きた原因とは?

こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【平治の乱平治の乱が起きた原因とは?」というお話です。
今回は平治の乱がなぜ起きたのかについて見ていきます。まず、両陣営の対立構造を確認してから本文に入りましょう。

勝利 敗北
信西(藤原道憲) 藤原信頼
平清盛 源義朝

 保元の乱後、その戦後処理は極めて厳しいものとなりました。200年以上執行されていなかった死刑が復活し、捕らえらえた首謀武士たちは次々に処刑され、崇徳上皇讃岐国香川県)に流されました。

 一方、勝者の側はどうなったのでしょうか。
1156年7月の保元の乱のあと、後白河天皇は新しい政治をはじめようとしました。その政治を助けたのは鳥羽法皇の頃から院近臣だった学者の藤原道憲(みちのり)でした。道憲は才識に優れ、保元の乱の処理も取り仕切っておこなったが、家柄が低くて出世出来ず、妻が後白河天皇の乳母(母の代わりに育てる人)だったことを利用することで、近臣に取り立ててもらえました。後白河天皇も、道憲を重用したため、影の実力者となりました。

 1158年、後白河天皇は皇子(二条天皇)に皇位を譲り、自らは上皇となりました。道憲も出家して信西と名乗るようになりました。
しかし、後白河上皇の近臣として権勢を振るっていたのは信西だけでなく、藤原信頼もそうでした。信頼は、家柄の低い信西がますます権勢を高めることに不満を持ち、やがて信西と対立するようになりました。

 一方、武士たちも、その恩賞の差に対する不満から対立が生じました。
源義朝は、保元の乱平清盛を上回る功績を出しながら、恩賞は清盛のそれよりも、はるかに劣るものでした。
清盛は播磨守を拝命し、知行国4か国を与えられたのに対し、義朝は左馬頭(馬の飼育場の長官)に任命されたのみで、知行国も1か国のみでした。
 さらに、義朝としては、実父である源為義と対立してまで勝利に貢献したのに、その父の助命も許可されず、為義は六条河原で処刑されました。その結果、義朝一家は壊滅的な打撃を被りました。

 この恩賞の差に激しい不満を持った義朝は、信西と結びつこうとしましたが、信西はかえって清盛と結びついたため、義朝は、信頼と結ぶことになりました。

 そして1159年12月9日、信頼は二条天皇側から反信西の勢力を集め、義朝は軍事力を集め、兵を挙げました。その数日前、平清盛平氏一門とともに熊野(和歌山県)に参詣し、京都を留守にしたので、その隙を狙ったのです。
義朝たちは後白河上皇の院の御所・三条殿を夜襲し、上皇二条天皇を内裏に幽閉しました。その後、信西の屋敷を焼き討ちにするも、信西は寸前のところで屋敷を脱出していました。

 義朝たちは、姿をくらました信西を見つけるべく検非違使たちに探させました。

 数日後、信西は山中で自殺しているのが発見され、その遺体から首が切られ、都で晒されました。こうして、信頼が朝廷の権力を握り、義朝との挙兵は成功したかに思えました。

 しかし、熊野に参詣に行った清盛率いる平治一門は、義朝らの挙兵の知らせを受け、六波羅京都市東山区)に引き返していました。そして、ひそかに宮中に手をまわし、上皇天皇を内裏から脱出させました。

 そして同1159年12月26日、義朝軍と清盛軍は加茂川の六条河原で決戦となりました(平治の乱)。義朝軍は奮戦するも、兵力不足で清盛軍に敗れ去りました。捕らえられた藤原信頼上皇に許しをもとめるも、処刑されました。

 六条河原から落ち延びた義朝は、再起を図るため東国へ急ぐも、その道中の尾張国(愛知県西部)で部下の謀叛にあい、殺されました。また、この戦いには義朝の長男・義平(19歳)、次男・朝長(16歳)、三男・頼朝(13歳)も参加していましたが、生き延びたのは敗走する中で一行からはぐれた頼朝だけでした。
そんな頼朝も平氏に捕まり、殺される運命だったものの、清盛の義理の母・池禅尼の命乞いにより、その命は助けられ、伊豆に流されました。
また、頼朝と腹違いの弟・義経も命を助けられ、京都北方の鞍馬寺に預けられました。

 のちに、この兄弟によって平氏が滅ぶことになるとは、清盛も全く思わなかったでしょう。

 平治の乱で、源氏一門の主流は壊滅状態になり、中央政界からも大きく退けられることとなりました。その一方で、平氏一門は勢いを増し、清盛は政界で高位高官に就き、参議に任命され、公卿の列に加えられました。

 さて、今回は平治の乱を紹介しましたが、保元の乱では、皇室や貴族の政争に武士の力が利用されたのに対し、今回の平治の乱では、源平2つの武士団の対立抗争に、貴族の政争がからまって起こったものでした。ここに歴史の動きを見ることが出来ます。この平治の乱によって、時代は明らかに貴族社会から武士社会に移行し、中世社会の基礎がつくられたと言えるでしょう。

つづく。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】        東洋経済新報社
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

【保元の乱】貴族社会はなぜ崩壊したのか【崇徳上皇】

こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【保元の乱】貴族社会はなぜ崩壊したのか【崇徳上皇】」というお話です。

1156年、上皇天皇の主導権争いが原因で貴族社会を崩壊へと導くことになった合戦が勃発しました。この合戦を当時の元号から保元の乱といいます。その対立構造と勝敗は以下の通りです。

勝利 敗北
弟・後白河天皇 兄・崇徳上皇
兄・藤原忠通 弟・藤原頼長
甥・平清盛 叔父・平忠正
子・源義朝 父・源為義

 白河天皇(第72代)は、上皇法皇となって政治の実権を握り、子の堀河天皇(第73代)、その子の鳥羽天皇(第74代)、その子の崇徳天皇(第75代)の3代にわたって「治天の君」と呼ばれ政界に君臨しました。
そして次の第76代天皇には、本来ならば、鳥羽天皇の第一皇子である崇徳天皇の子がなるはずでした。崇徳天皇鳥羽天皇の第一皇子でしたので、その根拠は真っ当でした。

 しかし、白河法皇の没後、実権を握った鳥羽上皇は、そんな通例を破ります。
崇徳天皇は突然、父・鳥羽上皇から皇位天皇の弟の躰仁(なりひと)親王に譲位するように迫られました。
突然の申し入れでしたが、崇徳天皇はこれを受け入れます。
「承知致した。しかし、皇位には、我が子である重仁親王としていただきますよう願います。」
以上を条件に崇徳天皇は、躰仁親王に譲位し、自らは上皇となりました。

 そして、1155年、17歳の躰仁(なりひと)親王近衛天皇(第76代)として即位するも、わずか半年で亡くなりました。
すると鳥羽上皇は、崇徳上皇との約束を破棄して、崇徳天皇にとっては同母弟である雅仁(まさひと)親王後白河天皇(第77代)として即位させました。
しかも、後白河天皇のあとは、その長男である守仁(もりひと)親王(後の第78代・二条天皇)が皇位継承者として皇太子に就きました。

 つまり、崇徳天皇の皇子は皇位継承を完全に無視されたカタチとなってしまったのです。崇徳上皇はこの非常なやり方に強い不満と恨みを抱きました。

 しかし、鳥羽上皇崇徳天皇を冷遇したのには理由がありました。
実は、鳥羽上皇にとって崇徳天皇は、自分の后である藤原璋子に白河法皇が生ませた子であると考えられていました。白河法皇は、鳥羽上皇にとっては祖父にあたります。つまり、崇徳天皇白河天皇の不倫によって生まれた子だとされていたのです。
したがって、鳥羽上皇にとって崇徳天皇は「我が子にして、祖父の息子(叔父)」ということになり、鳥羽上皇を崇徳のことを「叔父子(おじこ)」と呼んでいました。

 そもそも、崇徳を天皇にしたのは、白河法皇であり、鳥羽上皇の意志ではありません。
しかし、鳥羽上皇が崇徳をあざむくカタチで譲位させたのは、失敗でした。これによって保元の乱という大乱が起こり、貴族社会の崩壊が始まるきっかけとなったからです。貴族社会は不倫問題がきっかけで、その基盤が崩れはじめたのです。

 一方、朝廷では摂関家でも内紛が起こっていました。関白・藤原忠通とその弟である藤原頼長が、氏長者(うじのちょうじゃ)の地位と関白職をめぐり険悪な状態に陥っていました。両人の父親は藤原忠実という人物ですが、白河法皇のとき、忠実は院と反りが合わず、関白の職を長男・忠通に譲り、自らは宇治に引退しました。しかし、鳥羽上皇院政になると再び出仕し、才識に優れていた次男・頼長を寵愛し、忠通から関白職を奪うために頼長を氏長者としたのでした。
 これに対し、忠通は近衛天皇の死は、忠実・頼長が呪いをかけたからだと噂を広めました。これを聞いた鳥羽上皇後白河天皇は激怒し、忠実と頼長を嫌うようになると、後白河天皇と忠実は強く結びついていきました。
 一方、忠実と頼長は失意のうちにあった崇徳上皇と結びつきました。
こうして上皇天皇の権力争いに、藤原氏の権力争いが加勢し、後白河天皇藤原忠通に対し、崇徳上皇藤原頼長という対立構造が出来上がりました。

 そして1156年、法皇となっていた鳥羽法皇が亡くなると、それまでのパワーバランスが崩れ、牽制し合っていた両陣営の対立が激化しました。
両者は互いに武士を手元に集めました。崇徳上皇平忠正源為義を召せば、それに対抗するように後白河天皇平清盛源義朝を招き入れる。
しかし、互いに招集された忠正と清盛は叔父と甥、為義と義朝は父子関係にありました。武士達にとっては身内同士が互いに潰し合うことになってしまったわけですが、雇い主(貴族)に逆らうわけにはいきません。
 この時代は、まだ主導権は貴族側にあったのです。しかし、権力争いの勝敗は武力によって解決するという実力主義の風潮も強まっていました。保元の乱とは、まさに貴族社会と武家社会の過渡期に起きた内乱といえるでしょう。

 こうして鳥羽法皇の没後、一週間足らずのうちに保元の乱が勃発するのでした。
1156年7月11日未明、京都東北部の白河(左京区)で、源義朝平清盛の率いる後白河天皇の軍勢600人が、崇徳上皇の住まい(白川殿)に夜襲攻撃を仕掛け、殿内はたちまち大混乱となりました。
崇徳上皇側は、為朝と為義の率いる1000人で迎え撃ちました。天皇側と上皇側は激しく戦いましたが、上皇側の為朝の活躍もあり、天皇側は一時苦戦を強いられました。しかし、夜明け後の午前8時頃、白河殿に火が付くと瞬く間に燃え広がり、上皇軍は総崩れとなり、正午には天皇側の勝利に終わりました。

 保元の乱の戦後処理は極めて厳しいものとなりました。810年の薬子の変以来、200年以上執行されていなかった死刑が復活したのです。仏教を厚く信仰する平安貴族にとって、仏罰や怨霊は非常に恐ろしいものであり、人を処刑するという行為は実施されませんでした。

 しかし、今回の乱は武士という仏罰や怨霊を信じない輩が介入したため、捕らえらえた首謀武士たちは次々に処刑されました。
討ち死にとなった頼長を除いて、平忠正源為義・為朝は京都の六条河原という処刑場で処刑され、崇徳上皇讃岐国香川県)に流されました。
崇徳上皇はその後、讃岐でおだやかに写経を始めました。そうして完成したものを京都の朝廷に送りました。
「このまま死ぬのは嫌だ。死は怖い。極楽浄土への往生を願って写経を送るので、どうか納めてほしい。」
しかし、朝廷は崇徳の写経を送り返しました。
これに激怒した崇徳は自分の舌を噛み切り、その写経に血で呪いの言葉を書き込みました。
「大魔王となり、天皇家を呪ってやる。」
そう言い残した後、崇徳は爪や髪や髭が伸び切った状態で亡くなりました。

 この崇徳上皇の怨霊によって、貴族社会が崩壊し、武士社会が始まったとも言われています。この乱に勝利した藤原忠通の子で、僧となった慈円は著書『愚管抄』の中で「保元の乱以降、乱世がはじまり、武者の世となり、摂関の威勢は地に落ちた」と述べています。

 実際に、この乱の3年後、再び争いが勃発します。これが平治の乱です。以後も貴族間の政争に武士が介入するようになり、そのたびに処刑も多発します。その様相はまさに、崇徳上皇の怨霊が具現化したようにも思えます。
崇徳上皇の怨霊は、平将門菅原道真と並んで現在も日本三大怨霊として怖れられています。

 さて、今回の記事のまとめですが、保元の乱は、貴族同士の争いに武士の戦闘力が利用されたものでしたが、乱の結果、武士というものが、その後の政界をも左右出来るほどの力を持った存在であることを知らしめる結果となりました。これまで武士が朝廷の命令で組織されることはあっても、このようなカタチで直接朝廷の内紛決着に利用されるのは、初めてのことでした。

 以後、貴族間だけでは解決できそうにない政争を、武士に頼るようになったことで、平氏政権や鎌倉政権の誕生を招いてしまいます。貴族社会はささいな天皇の不倫疑惑によって、その崩壊が始まったのでした。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】  東洋経済新報社
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
テーマ別だから理解が深まる 日本史 山岸良二=監修 朝日新聞出版
早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

【奥州藤原氏】なぜ壮麗な平泉文化が生まれたのか【藤原清衡】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【奥州藤原氏】なぜ壮麗な平泉文化が生まれたのか【藤原清衡】」というお話です。

「掘れども尽きない黄金の山がある。その地の宮殿は屋根まで黄金だった。」

 これは13世紀半ば、イタリアから中国を旅したマルコ=ポーロの『東方見聞録』の中にある「黄金の国ジパング」についての記述です。日本には豊富な砂金が手に入る金鉱山が存在しているというのです。

 その金鉱山とは、玉山金山(岩手県陸前高田市)をはじめとする奥州(東北)地方各地にあり、黄金屋根の宮殿とは、中尊寺金色堂のことだと考えられています。

 東北地方は古代から「陸奥山に金花咲く」といわれたほどの金の産地であり、その莫大な奥州金の産出量は、朝廷の中国貿易の決済をまかなわれていたという。

 そんな東北地方一帯を支配下に置いたのは、奥州藤原氏で、12世紀初頭から清衡、基衡、秀衡の3代で約100年続きました。その背景には、同地で砂金が豊富に産出されたことにあります。

 ということで、今回は、奥州藤原氏の祖先や、その発展経緯を見ていきながら、「なぜ壮麗な平泉文化が芽生えたのか」についてみていきたいと思います。

東北の2大首長である安倍氏清原氏の流れを組む藤原清衡は、後三年合戦を制したのち、奥州藤原氏として東北地方全土を配下に置きました。以降、奥州藤原氏は奥州産の黄金や名馬などの資源を背景に、京に次ぐ大都市・平泉と、壮麗な平泉文化を完成させました。

 奥州藤原氏の祖先は、平将門の乱をしずめた功績により、下野国(栃木県)の国守となった藤原秀郷と言われています。

 その秀郷から4代目の藤原経清陸奥国の国守・藤原登任にしたがって、陸奥国に赴いたことが奥州藤原氏の東北進出のきっかけでした。

 かつて東北には、蝦夷の2大首長として陸奥国の豪族・安倍氏出羽国の豪族・清原氏が君臨していました。

 経清は陸奥国安倍氏のむすめを妻とし、後に奥州藤原氏の初代となる藤原清衡が誕生しました。しかし、経清は安倍氏が起こした12年におよぶ前九年合戦安倍氏側につき、朝廷から派遣された源頼義・義家父子によって敗死しました。その後、清衡は母が再婚した出羽国の豪族・清原氏の養子として迎えられ、姓名も清原清衡となりました。

 しかし、そんな清衡が異父弟の家衡と家督争いをするようになると、これが清原氏一族の内乱へと発展します。

 前九年合戦の功績から陸奥国の国守となっていた源義家は清衡側につき、東国武士団を率いて清原氏を撃破しました(後三年合戦)。

 こうして陸奥守の義家が勅命によって東北を引き払うと、新しい国司として清原清衡が東北の実権を掌握しました。

 清衡はその安倍氏の娘を母とし、清原氏の養子でもあったので、血統的にも東北の王たるに十分な資格を備えていました。そして清衡は、もともと父方の姓であった藤原に復し、藤原清衡を名乗るようになり、北上川と衣川の合流する平泉の地に、その拠点を構えました。

 こうして「未開の蛮地」と朝廷から蔑まれてきた東北の地が、都をしのぐほどの高度な文化圏として築きあげられていくのでした。これが奥州平泉文化の始まりです。

 

 先述の通り、東北には豊富な砂金が採れる金鉱山がありました。また、奥州は「名馬の産地」でもあり、奥州産の馬は、大きく丈夫なうえに、足も速いとして全国の武士たちにとって羨望の的でした。

 これらの資源を背景に財力を固めた奥州藤原氏の初代・清衡は卓越した政治家でした。

 まず、先祖のように武力で朝廷に抵抗はせず、時の関白・藤原師実に奥州産の名馬を献上するなど、巧みに権力者たちを籠絡し、自分の奥州支配を黙認させました。その結果、東北の黄金すべてが、朝廷に搾取されることなく、清衡の自由となりました。

 清衡は、熱心な仏教徒でもあり、前九年合戦で亡くなった人達を供養し、奥州の地に戦争のない平和な社会が訪れることを願いました。1105年、清衡は採掘された黄金をふんだんに使い、平泉中尊寺の造営に取り掛かりました。1124年には中尊寺金色堂が完成しました。金色堂は三間四方の小さな建物ですが、四壁から屋根にいたる全てに金箔が施され、須弥壇には33体の黄金仏が安置されおり、平泉文化の最高の建築物として現存しています。

 2代目・基衡は、天台宗の僧・円仁が開いたという毛越寺(もうつうじ)に多くの堂塔を造営して再興し、浄土の世界(阿弥陀仏様が住む清らかな世界)を再現したとされる華麗な庭園をつくりました(毛越寺庭園)。

 3代目・秀衡は、京から技術者を呼び寄せ、宇治(京都)の平等院鳳凰堂を模倣し、それを上回る規模の無量光院(むりょうこういん)を建立しました。

 こうして平安時代末期に、東北の平泉の地に京に次ぐ大寺院が立ち並ぶ壮麗な仏教文化が花開いたのです。

 平泉の町の通りには、大きな建物や倉が立ち並び、牛車も往来し、全盛期には人口10万を超え、活発な経済活動が行われていたことが分かっています。これは京に次ぐ大都市であり、その全盛期は3代目・秀衡のときで、ついに朝廷は秀衡の実力を認め、1170年に鎮守府将軍、1181年には陸奥国の国守に任命しています。

 しかし、そんな栄華を極めた平泉王国は、4代目・泰衡のときにその状況が一変してしまいます。

 源義経をかくまったことで、1189年に源頼朝からの引き渡し要求を拒み続けたことを口実に頼朝軍に攻め込まれてしまいました。

 頼朝の要求に屈した泰衡が、義経を自害に追い込み、その首を引き渡したものの、時すでに遅し。28万もの東国武士団を率いて攻め寄せる頼朝軍になす術なく惨敗。泰衡は家臣の造反にあって殺され、奥州藤原氏は滅亡しました。

 

 さて、今回の記事のまとめですが、かつて「未開の蛮地」として蔑まれてきた東北の地を支配した奥州藤原氏は、奥州産の金と名馬によってその財力を強め、壮麗な仏教文化を誕生させました。しかし、そんな平泉文化は、にわかに眩しい光を放ったかと思うと、金色堂のみを残して、あっさりと消えていきました。

 奥州藤原氏3代のミイラは現在も中尊寺金色堂須弥壇の下に安置されています。3代目・秀衡のミイラを調査した結果、彼は60歳を超えており、血液型はAB型で、アイヌ民族の衣装を着ているものの、肉体的には日本人であると判明しています。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

テーマ別だから理解が深まる 日本史 山岸良二=監修 朝日新聞出版

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社