日本史はストーリーで覚える!

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【福沢諭吉】なぜ福沢諭吉は一万円札になっているのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【福沢諭吉】なぜ福沢諭吉は一万円札になっているのか」というお話です。

 聖徳太子の「和をもって尊しとする」精神から福沢諭吉の「独立自尊」の精神へ。今、日本国民に求められているのは、独立自尊の精神なのです。隠されたメッセージをしっかり読み取りましょう。それが国民一人一人に求められている精神なのです。

 「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らずと言えり。」

これは福沢諭吉学問のすすめにおける言葉です。。非常に有名な言葉なので、ご存じの方も多いでしょう。ではなぜ貧富や地位の差が出てしまうのでしょうか。

 

諭吉は決して「人は一生を通じて平等」とは一言も言ってないのです。

「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は、貴人となり、無学なる者は貧人となるなり」

そうです。諭吉は、「人はどれだけ勉強したかで差がつく」と明確に断言しているのです。

「成功者は皆、読書家である」は、現在も150年前も同じ原理原則なのです。

人は生まれた瞬間は平等だけど、学問をしたかしないかで差がついていくのだということです。

しかし、学問を身につけることは、あなた自身の栄達のためではない。あなたが独立するためです。国民一人一人が独立することで、結果的に国家の独立のつながるとしました。

 

この思想が生まれたのは、諭吉が生きた時代背景が関係しています。諭吉の生きた幕末から明治初期の時代は、欧米列強の侵略をはねのけ、急速な西洋化を図ることで、日本の独立を実現しようという気運が大きい時代でした。

彼は勝海舟とともに渡米し、アメリカのありのままの姿に触れたことで以下のように感じたのでしょう。

「日本が国家として独立しなければ、列強の植民地支配になるのは、必至だ。そのためには国民一人一人が「独立自尊」の精神が必要だ」ということを。

 

独立自尊」とは簡単に言うと、「何かに依存するな。自分の力で生きろ。」という意味です。この思想は、現在、「全ての」日本国民が持つべき精神です。いいですか。「全ての」です。年齢や性別を問わず、あなたも私も。

 

時代の変化とともに求められる思想は変わってきます。

日本には70~80年の周期で歴史が変化しています。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 戦後70年の前半40年は「和をもって尊し」とする精神が。後半40年は福沢諭吉の「独立自尊」の精神が必要なのです。聖徳太子の「和をもって尊し」の時代から、福沢諭吉の「独立自尊」の時代へ。

 

聖徳太子の一万円札が発行されたのは、1958年ですが、日本はちょうど高度経済成長期で、戦後の復興に湧いていたころです。この時代背景が聖徳太子の思想と合致したのです。「和をもって尊しとする」とは、互いに協力し合う思想ですが、日本が戦後の更地から復興するために、会社という組織を創り、国民みんなが互いに協力しあって日本の復興を目指したのです。

語弊を恐れずに言うなら、お互い依存しあって生きていたのです。

国は国民の労働によって発展する。国民は国から老後を保証してもらう。国は国民に依存し、国民は国に依存する。

また、会社は社員の労働に期待し、会社は社員の生活を保証する。会社は社員に依存し、社員は会社に依存する。

これらの理由から時代に追従するカタチで、聖徳太子は一万円札になりました。聖徳太子の一万円札が流通していた時代は、こうした「相互依存」の図式が成功法則となり、戦後の日本を見事に復活させることが出来たのです。日本にはもの凄い活気が溢れていました。

 

 

戦後復興が一段落した1984、時代は私達に新たな課題を出してきました。新時代の課題は「独立の精神」だったのです。

今まで、相互依存していた国民一人一人が自分の足で立つという「自立」をすることで、日本には新たな活気が溢れるということです。

「自立」という言葉をもう少し具体的に言うと、「起業家」を目指すことです。

人の役に立ち、その対価として人からお金を頂く。起業家とはまさにこのことです。

新一万円札が発行されて以降の時代は、「自立」を目指した人達が成功を掴み取ることが出来るようになっているのです。

なぜ現在、独立自尊の精神が必要になったのでしょうか。

 

国が国民の面倒を見きれなくなっているのです。

地方が県民や市民の面倒を見切れなくなっているのです。

会社が社員の面倒を見切れなくなっているのです。

 

依存はリスクでしかありません。国や地方、多くの企業は取り返しのつかない赤字を抱えています。

年金や生活保護を充てにするな。日本が明日にでも財政破綻してもおかしくない時代に依存はリスクでしかありません。

年功序列や終身雇用などもはや死語。ものづくりに固執する日本の多くの会社に依存するのはリスクでしかありません。

 

自分の人生は全て自分で創っていく。誰にも依存してはいけません。

経済学者のケインズは「資本主義は起業化の熱狂だ」という言葉を残しています。つまり、起業家が活躍すれば、資本主義社会は活性化するということです。日本人一人一人が起業化精神を持つことで日本は新たに「独立国家」として生まれ変わるのです。

 

刺激や環境に振り回されてはいけません。いや、振り回されていると勘違いしてはいけません。あなたの現在の境遇は、あなたが過去の選択と行動の集大成なのです。

 

「親が悪い」

「先生が悪い」

「国が悪い」

「時代が悪い」

依存体質の人の典型的な言い訳です。

自ら主体性を持って、自分の境遇を変えるように働きかけろ。どんどん行動しよう。

 

独立するために勉強していください。自己修養に励んでください。

 

先程、私は時代の要請に応えろと言いましたが、ここでは時代を

大きな時代の流れは変えられなくても。個人の環境や境遇は変えることが出来るのです。

 

いつも記事を書く時に思っていることですが、

この記事を全ての方に理解してもらうなどと思っていません。理解出来る人は理解出来ます、わかる人はわかります。気付いている人はとっくに気付いています。

サラリーマン時代に限界が来ていることを。

会社が社員の一生はおろか、昇給すらも保証出来ず、苦しんでいることを。これからは起業家やフリーエージェントがますます注目を浴びてきます。

全ての日本国民に必要とされている「独立自尊」の精神。現在は諭吉の生きた幕末の時代と同じ時代です。激動の時代です。諭吉の思想を学んでみるのも良いかもしれませんね。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【宗教改革】カルヴァンの思想はなぜ資本主義を発達させたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【宗教改革カルヴァンの思想はなぜ資本主義を発達させたのか」というお話です。

プロテスタント(新教)にはルター派の他に、スイスの宗教家であるカルヴァンによるカルヴァン派も生まれました。カルヴァン予定説を唱え、ルター派同様に職業召命観も示しました。それは「お金儲けは卑しい行為ではない。堂々とお金儲けをしなさい」という思想で、商工業者を中心にヨーロッパ各地に広まり、資本主義の発達を促しました。

 

  ドイツではルター宗教改革を起こしたことで、カトリック(旧教)から独立してプロテスタント(新教)がルター派として生まれました。ドイツではルターとローマ皇帝カール5世によるシュマルカルデン戦争が勃発しますが、結局、1555年にアウクスブルクの宗教和議によってドイツでは諸派の信仰の自由が認められました。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

  同じ頃、ルターの宗教改革に共鳴し、スイスではカルヴァン宗教改革を行いました。その思想は「人が救われるかどうかは全て神が知っている」という予定説です。つまり、「あなたの一生はあらかじめ、神によって決められている」ということです。

 カルヴァンの予定説でも、ルター同様に神とは全知全能の存在であるとされています。したがって、人間一人一人の人生をあらかじめ知っています。しかし、人間はそれを変えることはおろか、知ることも出来ないとされています。

 例えば、ある人に不幸や災いが起きても、それは神のご意向があって起きたことだからそれを受け入れなくてはいけないということです。

 現代の私達からすれば、違和感たっぷりの思想ですが、当時は画期的で多くの支持者を得ることが出来ました。逆に言うと、そのくらい中世ヨーロッパを支配したカトリックの教えは腐敗し、人々を縛りつける息苦しいものになっていたということが伺えます。

 

 カルヴァンもルター同様にあらゆる職業は神から与えられた神聖なものであるという職業召命感を示しています。現代でいうと、一流企業の会社員だろうが、コンビニ店員だろうが全てです。

 しかし、カルヴァン派の職業召命観はかなり厳しい規定がされています。労働とは神から与えられた使命であり、私利私欲を捨てて、ひたすらその労働に励みなさいという規定で、それによって神の栄光をこの世に実現出来るとしました。

 すなわち、「勤勉・禁欲」こそが美徳であり、聖書に書かれた神の教えを忠実に守るという清教徒(ピューリタリズム)の思想です。

 一方で、神の使命である労働によって、得られたお金はしっかり受け取って良いとされました。つまり、「お金儲け何ら卑しい行為ではない。しっかり働いて得たお金ならば堂々と受け取って良い。そこに後ろめたさなど感じる必要はない」という教えです。

 もしかして、それまでのカトリックの教えで「お金儲けは卑しい行為。奉仕の精神が大切だ」という教えでも刷りこまれたのでしょうか。

 この考えは農民だけでなく、それなで卑しい職業とされてきた商工業者に幅広く支持され、ルター派以上の信者を獲得していきました。ここから、ヨーロッパの資本主義が発達していくのです。

 

 その後、カルヴァンの思想はヨーロッパ各地に広がり、スイスからフランス、オランダ、そして北海を渡ってイギリスへと伝わっていきました。なお、このカルヴァン派は各国でそれぞれ呼び名が異なり、フランスではユグノー、オランダではゴイセン、イギリスではピューリタンと呼ばれています。これが後にフランスではユグノー戦争、オランダのスペインからの独立、イギリスでは清教徒革命を引き起こすのでした・・・・。

 

 このようにカトリックから独立し、新教としてルター派カルヴァン派が出来たことで、カトリックの信者が減ってしまいました。そこでカトリックは「信者増強組織」としてイエズス会を設立し、信者を求めて海外で布教活動を始めます。これは日本にも波及し、1549年に日本の鹿児島に上陸した宣教師のフランシスコ=ザビエルはイエズス会の上層部の一人だったのです。信長の時代にやってきたルイス=フロイスもその一人です。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

 参考文献

日本人のための世界史入門 小野野敦=著 新潮新書

教科書よりやさしい世界史  旺文社

 

【イギリス絶対王政】なぜエリザベス一世は生涯独身を貫いたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【イギリス絶対王政】なぜエリザベス一世は生涯独身を貫いたのか」というお話です。

 

 ヨーロッパで起きた宗教改革によってカトリック(旧教)から独立し、ドイツではルター派が、スイスやフランスではカルヴァン派プロテスタントとして誕生。そしてイギリスでもカトリックから独立し、イギリス国教会プロテスタントとして成立しました。

 今回の舞台はイギリスです。今回もストーリーを展開していきながら、「なぜエリザベス一世は生涯独身を貫いたのか」を紹介していきたいと思います。

  よく勘違いされていることですが、現在のイギリスはイングランドウェールズスコットランド北アイルランドの連合国です。日本の「世界史」ではほぼイングランドについて語られているため、以下イングランドと呼ぶことにします。

 

 イングランド絶対王政はいかにして誕生したのでしょうか。

 1455年、イングランドではバラ戦争が発生し、「赤いバラ」の紋章を掲げるランカスター家と「白いバラ」の紋章を掲げるヨーク家が王位をめぐり、血なまぐさい戦いを続いていました。

 結局、この戦争は30年続き、1485年にランカスター家の一員だったテューダー家のヘンリとヨーク家のエリザベスの結婚によって終結します。このエリザベスは今回の主人公であるエリザベス1世のおばあさんになります。

 日本でも1467年に応仁乱が起きており、その後100年間戦国時代という血なまぐさい時代が訪れていました。

 

 バラ戦争終結後、争っていた貴族達は互いに疲弊してしまい、王権が相対的に強くなったため、イングランドはテューダー家が統一し、ヘンリはヘンリ7世として「テューダー朝」を開き、イングランドの国王として君臨していました。

 そして1534年、ヘンリ7世の息子であるヘンリ8世のとき、イングランド絶対王政の盤石な基盤が作られます。

 日本でも16世紀に織田信長という強力な支配者が現れます。信長は本能寺の変で急死してしまい、秀吉が後を継ぎますが、本能寺の変がなければ「信長王朝」という絶対王政の時代が訪れていたかも知れません。西洋で絶対王政が確立するころ、日本でも絶対的な権力を持った国王が現れたのです。

 ヘンリ8世が確立した絶対主義国家はエリザベス1世の時に黄金時代を迎えます。しかし、イングランド国内のカトリックプロテスタントの勢力争いは絶えませんでした。エリザベスは生涯独身を貫くことで、そのような勢力に利用されることを防ぎ、イングランドの国家態勢をゆるぎないものにしたのです。

 

  ヘンリ8世(以下、国王)はカトリックと絶縁しますが、その理由はカトリックが離婚を禁止しており、ヘンリ8世は離婚をしたいがためにカトリックと絶縁したとされています。

 しかし、それ以上に大きなメリットのあった目的はカトリック修道院の土地や建物などの財産を没収することでした。没収した領地はジェントリ(郷紳)と呼ばれる各地の地方行政官に分け与えました。領地を得たことで力を強めたジェントリ層は国王を支持するようになります。これによってイングランド絶対王政の基盤が確かなものになりました。

 

 こうしてヘンリ8世が確立した『絶対主義国家』は娘のエリザベス1世によってゆるぎないものになります。

  ヘンリ8世の死後、王位はエドワード6世、メアリ1世と受け継がれます。しかし、メアリ1世は父親(ヘンリ8世)が創設したイングランド国教会を再びカトリックに戻してしまいます。

 そして、メアリ1世の死後、1558年にエリザベスはエリザベス1世(以下、女王)として即位します。翌年、イングランド国教会の礼拝・祈祷の統一基準を定めた統一法が発布され、再びイングランド国教会が確立されます。

 

 しかし、女王は即位当初からカトリックに対しては寛容な態度を示していました。女王に忠誠を誓い、カトリックを政治に結び付けなければ弾圧や禁止は行わないとした。しかし、カトリック勢力の王権打倒とプロテスタントに対する攻撃は止むことはありませんでした。これが後に清教徒が市民革命を起こすのです。(清教徒革命)

 

 一生涯独身を貫いた女王は「バージン・クイーン」と呼ばれました。

 彼女はなぜ独身を通したのでしょうか。

 それまでのイングランドにはカトリックプロテスタントが入り混じり、様々な派閥や勢力争いが絶えませんでした。なので国内の誰かを結婚相手に選ぼうとすると、どこかの勢力に利用されてしまい、自らの地位も危うくなる危険性がありました。

 さらに海外の皇室から選ぼうとすると、宗教や思想の違いから外交紛争や戦争に巻き込まれる危険性も潜んでいたのです。

 女王は結婚を強く勧める側近に対し、こう言い放ちます。

「私はイングランドと結婚している」

 女王はイングランドの秩序と平和のために自らの一生を捧げたのです。

 

 しかし、日本人から見ると、西洋の平然と他国の王と結婚する慣習は違和感を感じます。西洋では王や貴族は国を超えて国民とは違う別種の生き物という認識があったのでしょうか。

 話を戻します。

 女王が生涯独身を貫いた理由は、このような彼女の鋭い洞察力があったからなのです。

 イングランド大航海時代はエリザベス1世の時代に訪れます。アルマダ戦争でスペインの無敵艦隊を打ち破ったことで制海権を獲得しました。さらに貿易の中心が地中海から大西洋に移ったことで、貿易権を独占したイングランドは経済大国としても台頭するようになります。そしてシェイクスピアのような大作家が生まれたことで文化も盛況を迎えました。イングランドはエリザベス1世の時代に政治・軍事・経済・文化などあらゆる面で黄金期を迎えたのです。

  ちょうどこの頃、ヨーロッパは大航海時代を迎えており、先陣をきっていたのはポルトガルとスペインで、両者はコショウを求めて大航海対決をしていました。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 ポルトガルのパスコ・ダ・ガマは15世紀末にインドに到着し、ポルトガル領インド総監になりました。スペインのコロンブスは西廻りでインドに向かいますが、1492年に新大陸を発見します。その後、マゼラン海峡を発見したマゼラン一行は世界で最初に世界周航を達成しました。

 

 遅れをとったイングランドも1577年、世界一周を目指し、5隻の艦隊がイングランドを出発しました。艦隊長はフランシス=ドレークという人物で大西洋から南アメリカマゼラン海峡を経て太平洋に出ました。その後、インド洋に至ってアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、イングランドに帰還しました。艦隊は当時スペイン領だったチリやペルーで船舶を攻撃し、膨大な金・銀を持ちかえっており、女王に献納しました。

 

 1588年、攻撃と略奪を受けたスペインは報復に出ます。スペインは「打倒!エリザベス1世」、「イングランド征服」を掲げ、スペイン無敵艦隊を仕向けてきました。アルマダ戦争の始まりです。

 スペイン艦隊は8000人の船員が操縦する151隻の船艇と、1万8000人の兵士で編成されていました。迎え撃つイングランドでは、なんとエリザベス1世自身が全線に出向きました。

 女王は4000人の兵士の前で以下のようにスピーチします。

「私は身体の弱いひ弱な女であることは承知している。しかし、私はイングランド国王の心と勇気を持っている。私自身が武器を取る。私達は必ず敵を打ち、偉大な勝利をもたらず」

 

 エリザベスをトップに、指揮をとったのは世界一周を達成したドレイクでした。ドレイクの戦術は近代的な組織化された海軍戦法ではなく、体当たり的な海賊戦法で、可燃物を満タンに詰め込んだ船艇に放火し、燃え上がる船艇を敵艦隊に次々に突進させるというものでした。

 しかし、逆にこれが相手の意表を突くことが出来ました。この捨て身の戦法にスペイン艦隊は編成を乱し、強風もイングランド側に有利に働いたこともあり、スペイン艦隊を撃沈・難破・排撃に追いやることに成功しました。

 

 このアルマダ戦争でのイングランドの勝利に国民は熱狂。女王への信望はさらに高まりました。この国民感情は女王にも伝わり、彼女は議会で以下のように話したそうです。

「いかに高価な宝石でも、あなたたちの女王への愛ほど価値のある宝石はない」

 

 さらに、女王の時代は重商主義政策が行われ、貿易、工場制手工業が発達しました。ロンドンから世界各地へ貿易ルートも確立し、毛織物や羊毛製品、毛皮製品などが輸出されました。寒いヨーロッパでは特に羊毛製品は爆発的に売れ、イングランドは軍事力だけでなく、経済力も強めることが出来ました。

 そして貿易の中心は地中海から大西洋に移ります。その象徴となるのが、東インド会社の設立です。東インド会社はアフリカ大陸南端の喜望峰から南アメリカ南端のマゼラン海峡にいたる大西洋一帯の貿易を独占したのでした。

 

 そして女王は文学や文化に深い造詣があり、女王は積極的に演劇を支援。これはロンドンでも演劇がエンターテイメントとして定着し始めていたことも理由の一つです。そんな中、活躍したのが、シェイクスピア(1564~1616)です。エリザベス1世の在位期間とシェイクスピアの活躍期間は重なっており、彼の演劇座の重要なパトロンの一人がエリザベスでした。

 この時代、イングランドナショナリズムの気運が高まり、文化が盛況します。そんな中、「ロミオとジュリエット」や「ヴェニスの商人」などのシェイクスピアの話題作が誕生したのです。

 このようなイングランドの華やかな文化の開花は財政基盤がしっかりしており、国家としてのアイデンティティーを確立させた女王の時代だからこそ出来たことなのです。

 

 その後、女王は1603年に亡くなります。ちょうど日本では徳川家康征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

観光コースでないロンドン 中村久司=著 高文研

対話で入門 西洋史  赤阪俊一=著   森話社

日本人のための世界史入門 小野野敦=著 新潮新書

教科書よりやさしい世界史  旺文社

【宗教改革】なぜイギリス国教会が成立したのか

  こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【宗教改革】なぜイギリス国教会が成立したのか」というお話です。

 

 ヨーロッパで起きた宗教改革によってカトリック(旧教)から独立し、プロテスタント(新教)が誕生しました。

 ドイツではルター派が、スイスやフランスではカルヴァン派プロテスタントとして誕生。そしてイギリスでもカトリックから独立し、イギリス国教会プロテスタントとして成立しました。

 ということで、今回の舞台はイギリスです。なぜイギリス国教会が誕生したのかをご紹介しながら時代のストーリーを展開していきたいと思います。

 

 よく勘違いされていることですが、現在のイギリスはイングランドウェールズスコットランド北アイルランドの連合国です。日本の「世界史」ではほぼイングランドについて語られているため、以下イングランド国教会と呼ぶことにします。

 

イングランド国王のヘンリ8世は自らの離婚を理由にカトリックと絶縁します。カトリックは離婚を禁止していたのです。国王は代わりに自らを頂点としてイングランド国教会を創立。しかし、これがやがて血なまぐさい王位継承と宗教弾圧を引き起こすのでした。

 

  キリスト教イングランドに渡来したのは、6世紀末にローマ教皇・グレゴリウス一世が、アウグスティヌスと約40人の修道士を宣教師としてイングランドに派遣した時です。

 その後、キリスト教の布教活動は広がり、13世紀にはイングランド全域にカトリックが定着します。

  日本でも6世紀に中国から仏教が伝来しきます。13世紀はちょうど鎌倉時代ですが、浄土宗や浄土真宗日蓮宗など鎌倉新仏教が誕生した時代です。

 

 同じ時代に、西の島国と東の島国が大陸から思想を受け入れているのです。偶然といえばそれまでですが、非常に興味深い事実だと思いませんか。しかし、相違点としてはイングランドローマ教皇を頂点とするカトリックの支配を何世紀にも渡って受け続けたのに対し、日本は受け入れた仏教を日本風に昇華しているのです。日本人は今も昔もアレンジが得意な民族なのです。

 

 さぁ、そんなカトリックの支配を受けてきたイングランドカトリックと絶縁する時がやってきました。

 

 時代はバラ戦争終結後、王位に就いたヘンリ7世の息子であるヘンリ8世の時代。新たにイングランド国王となったヘンリ8世(以下、国王)はもともと熱心なカトリックでした。しかし、カトリックと距離を置くようになります。一体何があったのでしょうか。

 

 国王は最初に結婚したアラゴン王女カトリーヌとの間にメアリを生ませます。

 世襲制が主流の当時、男児を産まなければ後継ぎにはなりえないので、ヘンリ8世は離婚し、新たな女性と結婚し、男児を産ませようとします。しかし、カトリックでは離婚は禁止されています。

 国王は離婚を禁じられているという理由でカトリックと絶縁し、ローマとのキリスト教上の縁を断ちます。そして1534年、カトリックの代わりにイングランド国教会を設立しました。

  西洋では一夫多妻制は認められていないため、別の女性に子を産ませるには一旦離婚しなければならないのです。国王が王位を確実に伝承するためには男児の出産は立派な公務になるのです。

 カトリーヌと離婚した国王は別の女性と結婚し、エリザベスを産ませます。さらに別の女性と結婚し、ようやくエドワード王子を産ませました。国王は在位中、結局6回結婚しています。

 

 カトリックと絶縁した目的には離婚問題だけでなく、カトリック修道院が所有していた多くの土地・建造物・財産の没収もありました。

 国王は800を超える修道院とその関連施設を破壊・没収・売却したことで莫大な富を得ることに成功しました。

 しかし、このカトリックとの断絶が後の血ぬられた王位継承と宗教弾圧を招く結果となるのでした・・・

 

 国王の死後、王位を継承したエドワードは若死にしてしまいます。エドワードの側近にはプロテスタントが多く、その後継ぎはエドワードとは無関係のプロテスタントのジェーン・グレイを女王に据えました。ジェーンを女王に据えることでイングランドを一気にプロテスタントの勢力に固めてしまおうという魂胆です。

 

 これを許さなかったのが、ヘンリ8世の最初の娘であるメアリです。彼女はカトリックの後押しを受け、軍隊を編成し、ジェーンから女王の地位を奪ってしまいます。そしてメアリ1世として即位しました。

 メアリはジェーンにカトリックに改宗すれば死罪にしないと伝えるも、ジェーンはこれを拒否し、斬首刑に甘受するのでした。ジェーンの女王在位期間はわずか9日間で、イギリスでは現在でも「9日間の女王」と呼ばれています。

 ジェーンは王位継承争いとカトリックプロテスタントの対立が絡む歴史の犠牲者となってしまったのです。

 

 「ブラディー・メアリー」という真っ赤なカクテルをご存じでしょうか。トマトジュースと蒸留酒ウォッカをベースにハーブや香辛料を加えた冷たい飲み物です。

 このカクテルの名前を日本語訳すると「血ぬられたメアリー」になります。これはカクテルの色が血を連想させるためですが、メアリは多くの新教徒を虐殺したため、このようなあだ名がついてしまいました。カクテル名前はそこからきています。

 

 熱心なカトリック教徒であったメアリはプロテスタントを徹底的に弾圧します。女王は5年間の在位期間で300人前後のプロテスタントを火刑ししました。

宗教弾圧はプロテスタント側からも起こります。数百人規模のカトリック信者が処刑されています。

 メアリは父親が創設したイギリス国教会をすべてカトリックに戻しました。さらに当時「太陽の沈まぬ帝国」として黄金時代を迎えていたカトリック教国であるスペインの国王とも結婚しました。

 

 火刑による残虐な弾圧とカトリック教国との縁組により、国民からの支持率は最低ランクに落ちたばかりでなく、「ブラディー・メアリー」というあだ名までつけられてしまいました。メアリーは子供を産まなかったため、ヘンリー8世の遺言にしたがい、メアリーの異母妹のエリザベスが王位を継承します。

 

  こうして1558年、女王に即位したエリザベスは再度、イングランド国教会を確立させ、イングランドの黄金時代を築くのでした。

 

新教が台頭したことで信者が激減したカトリックは対抗宗教改革で直しをに乗り出します。

カトリック教国のスペインとポルトガルは「信者増強組織」としてイエズス会を創立。イエズス会は創設者のイグナティウス=ロヨラを中心に信者獲得を目的に海外に出向いていくのでした。1549年に鹿児島にやってきたカニおじさん・・・じゃなくてフランシスコ=ザビエルもイエズス会のお偉いさんで、信長の時代に布教活動をしたルイス=フロイスもその一人です。日本では彼らを南蛮人と呼び、その貿易も南蛮貿易と呼んでいます。

 

ポルトガルとスペインに遅れるカタチでプロテスタントイングランドとオランダが日本にやってきます。しかし、彼らには布教目的はなく、専ら商業目的でした。

のちに秀吉から家康の時代になった時、キリスト教は禁止とされますが、イングランドとオランダは商業目的ということで残され、スペインとポルトガルは追放されます。イングランドはその後も貿易を続けるも、オランダとの販売競争に負け、利益が見込めなくなったため日本から撤退。最終的にオランダが西洋唯一の窓口として日本と貿易をするようになったのでした。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【ルネ・デカルト】人は死ぬとどうなるのか。

 こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【ルネ・デカルト】人は死ぬとどうなるのか。」というお話です。

 当記事は哲学の記事であり、デカルトの思想をわかりやすく伝える記事であり、人が死ぬとどうなるかの「答え」を知ることは出来ませんので、あらかじめご了承ください。

 

「人は死ぬとどうなるのですか。」

 現生に生きている人でこの答えを知っている人はいないでしょう。

 しかし、あえて定義してみます。

 

 「死」とは、「夢を見ないまま眠っている状態と同じ状態である。」

 

 つまり夢の世界を感じることが出来ない状態であり、完全に自分の意識がなくなり、人やモノを認識出来ない状態であるということです。

 

 あなたはどう思われるでしょうか。

「死んだら、何も感じない。もちろん自分という存在すらも・・・」

「死んだら、意識は残り続ける。魂として肉体から分離し、死後の世界で新たに生活をするのだ」

 様々な意見があると思います。

 この問題をさらに具体的にすると「死後も自分という存在を認識出来るかどうか」「意識を感じることが出来るか。」ということになります。

 

 ということで、今回は「人は死ぬとどうなってしまうのか」を考えながら、フランスの哲学者・ルネ・デカルト(1596~1650)の勉強をしていきましょう。

 日本では豊臣秀吉が天下統一を達成し、朝鮮出兵の真っ最中に、デカルトはフランスの裕福な貴族の家に生まれました。解析幾何学創始者でもあり、数学者としての方がむしろ有名です。

そんなデカルトの残した名言とは・・・

我思う、ゆえに我あり」です。

デカルトは、なぜこのような名言を残したのでしょうか。順を追って説明します。

 

 彼は前回紹介したフランシス・ベーコンのような経験論を否定し、人間の感覚や経験は信頼出来ないと主張しました。

 いくつか例を出してみます。

 

「地球は球体である。」

これは現代でこそ常識ですが、中世ヨーロッパでは非常識だと思われてきたのです。というのも私達から見れば、地球はどうみても平面だし、球体であれば、皆すべって転げ落ちてしまうと感じてしまうからです。

 このように人間の感覚や経験は充てにならないのです。

 

 感覚や経験を嫌うデカルトは手で触ったり、目で見たり、耳で聞いたりなどの感覚を通して結論を導く方法を否定し、絶対的に正しい真理をみつけ、その真理をもとに結論を導く方法を生み出しました。これが「演繹法」とよばれるもので、ベーコンの「帰納法」と対立する考え方です。

 

「絶対的に正しい真理なんてこの世にあるのか。」

 あります。

 数学の公式なんかがその典型例です。

 例えば、円の面積の公式です。

円の面積=半径×半径×3.14 ですよね。

 これはどの円にも共通して言える絶対に正しい真理です。積分で証明することも出来ます。なので、私達は小中学生の頃、「次の半径○センチの円Aの面積を求めなさい」という問題に対し、この公式に当てはめて解いてきたのです。関数はブラックボックスと呼ばれていますが、このブラックボックスこそが真理になります。

 デカルトは数学者だったため、このような明証性のある絶対的な真理を好みました。

 

 では、人間の感覚や経験を充てに出来ないならば、一体どのようにして真理を見つけ出せば良いのでしょうか。

 デカルトはその答えを導こうと、あらゆるものを疑いました。

 絶対に確実なことを見つけるために疑いの余地のあるものをどんどん排除し、最後に残った疑いの余地のないものが絶対的に正しいことだ。逆転の発想です。

 

デカルトはあらゆるものを疑いました。先述の「地球は平面である」などの昔から言われてきた伝統的な知識や経験全てを。です。疑いの余地のあるものを全て疑いました。

さらに、身の回りの机やベット、家や道端の草や木、すべては幻かもしれないと疑いました。

そして自分の身体さえも疑いました。自分の手や足、耳や口などは自分がそこにあると認識しているだけで実は幻ではないかということです。

つまり、「私達が体験しているこの人生は全部夢かもしれない」ということです。

やがて彼は疑いの極点に達します。

そう、自分自身を疑ったのです。

「あらゆるものは疑ってきたけれど、疑っているという自分自身は疑い得ない感覚である」としたのです。そこで飛び出した名言が「我思う、ゆえに我あり」だったのです。このように、確実な原理原則をみつけるために、あらゆるものを疑う方法を「方法的懐疑」と言います。

 

 あらゆる感覚を疑ってきたデカルトですが、最後に「自分の意識を感じる」。この感覚だけは疑い得ない真理だとしたのです。

 

 つまり、「疑っているという私」は確実に存在するというのです。この私こそ「意識」であり、精神であり魂です。

 

 では死んだ後、この「意識」はどうなるのでしょうか。

 

 逆に、「生きている」とは、「考えることが出来ている状態」のことを指すのでしょう。つまり「私」を意識出来るならば、あなたは生きている証拠だということです。

 一方、「死んでいる」とは自分の意識を感じるという感覚が消えてしまう状態になります。「私」を意識出来なくなるのです。

「そこに猫がいる。でもあれは幻かもしれない」

 それすら考えられなくなるのです。

 もはや感じることも出来なければ、考えることすらも出来ない。完全なる「無」の状態になります。

 現在では、「脳死は人の死」とされていますが、これは極めてデカルト的な考えだと思います。意識は脳が創りだしたものだとすれば、脳死したその人には、もはや意識は存在せず、意識の消滅はその人の消滅と同一視しているからです。

あなたはどう思われるでしょうか。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

図解雑学 哲学   貫成人=著  ナツメ社

考える力が身につく 哲学入門 畠山創   中経出版

世界のエリートが学んでいる 教養としての哲学 小川仁志=著 PHP

【フランシス・ベーコン】頑張らない生き方の本当の意味とは。

 

 

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【フランシス・ベーコン】頑張らない生き方の本当の意味とは。」というお話です。

この記事を最後まで読んでいただくと、フランシス・ベーコンの思想がよくわかりますので、是非最後まで読んで頂きますよう、よろしくお願いします。

イギリスの政治家であるフランシス・ベーコンは、人間には4つの偏見(イドラ)が存在すると指摘しています。「知は力なり」という言葉を残したベーコンは、自然を知るためには人間が持っている4つの偏見を取り払う必要があるとしました。

 

  頑張らない生き方を間違えて解釈している人が多いようです。

「努力しなくていい」、「頑張らなくてよい」、「昨今は求めない生き方が美徳」などの考えが蔓延しています。

 脳科学者の中野信子氏は『努力不要論』というタイトルの本を出版されましたが、これを言葉の通り解釈してしまうと、

「ああ~努力なんてしなくていいのか。」

「ほどほどに頑張っていれば、成功出来るのか。」

「昨今の不況では夢なんて叶わないし、努力するだけムダだもんね。」

などの解釈をしてしまいます。

 

 無論、ほどほどの努力では、成功など出来ません。

 頑張らない生き方の正しい意味とは、努力がいらないのではなく、正しい努力をしましょうと説いていますが、

 正しい努力とは、「自分の才能がどれかをいち早く発見し、その才能を徹底的に磨いていくこと」です。例えば、私は野球の才能が全くありません。そんな私がプロ野球選手を目指して努力をすることはムダな努力です。私より野球センスのある人なんか日本全国に何万人といることでしょう。私は「野球」というフィールドではライバル達とまとも戦えないのです。これは間違えた努力です。

  ですが、文章を書いたり、アイディアを考えたり、幅広く情報を集めたりすることは好きだし、得意なので、そのフィールドで才能を磨いていこうとすることです。自分が出来ない事は、出来る人達に任せて、自分は出来ることに集中する。このような正しい努力をしなさいということです。

 

 好きなこと、得意なことなので、何時間も継続して取り組むことが出来ます。

あれ?もう3時間経ってたの?30分くらいしか経ってないと思った。」

 時間を忘れて熱中しているため、ハタから見ていると、すごく努力しているように見えるけれども、本人は努力している気がしないのです。

「好きなことや得意なことを仕事に出来ている人なんて少数派ではないか。」

と思うかも知れません。

  しかし、それが可能になっているのが、現代の私達の世界なのです。現在は、好きなことを仕事に出来る時代なのです。

『努力不要論』を間違えて解釈してはいけません。

 

 このように人間は先入観、偏見、思い込みによって言葉を解釈してしまう傾向があります。言葉って充てになるようで実は充てにならないのです。

 言葉で伝えたからといって、相手に100%正しく伝わったかといえば、必ずしもそうではないのです。必ずその人の偏見というフィルターを通して解釈されるため、間違ってとられることもあるのです。

 

 イギリスの政治家であり、法学者であり、科学者でもあったフランシス・ベーコンは人間には大きく4つの偏見(イドラ)が存在することを指摘し、上記のような「言葉の解釈による偏見」もその1つになります。

 

 16世紀後半~17世紀前半、日本では織田信長豊臣秀吉徳川家康という強力な支配者が活躍していた頃、西洋ではルネサンス宗教改革を経て、キリスト教会の権威が落ち、人々はそれまでの学問や知識に疑問を持ち始めていました。

 そんな人々の要望に応えるようにイギリスの官僚の子として生まれたベーコンは、新しい学問の在り方を探求しました。

 ベーコンは12歳で名門・ケンブリッジ大学飛び級するくらいの秀才で、23歳で国会議員になります。ところが、1621年に収賄の罪に問われ、全ての地位を追われてしまいます。その後、ベーコンは研究や執筆活動に専念し、中世以来続く教えや常識を批判し、実験や観察を通じて結論を導き出す学問のあり方を確立させようとしました。このようなあり方を経験論と言います。

 

 そんなベーコンは「知は力なり」という言葉を残しています。これは自然を研究すれば、人類に恩恵をもたらすことが出来るという意味で、自然を支配することで私達の生活はより便利に、より快適に、より平和になっていくという考えです。

 つまり、「これからの時代は、自然を知ることが学問のあるべき姿だ。その自然を加工し、利用すれば、人類の力となるような知識が手に入るであろう」ということです。現在ではこれが行き過ぎて、オゾン層破壊や森林伐採、砂漠化などの環境破壊が起きているのですが、当時は画期的な思想だったのです。

 では、そんな自然を知るためにはどうすれば良いのでしょうか。

  ベーコンは次の3ステップを踏む必要があるとしています。

1、人間の内面に潜む先入観や偏見を取り払い、自然のありのままを観察する。

2、実験や観察を行い、データを集める。

3、得られたデータを帰納法によって考察し、規則性や法則性を導き出す。

 それぞれ詳しく見ていきます。

1、人間の内面に潜む先入観や偏見を取り払い、自然のありのままを観察する。

 自然をありのままに観察するためには、人間が持つ4つの偏見(イドラ)を取り払う必要があるとベーコンは主張していますが、この偏見を取り払うのが人間には難しいのです。

人間の持つ4つの偏見(イドラ)を見てみましょう。

A、人間の本能による偏見

B、個人の経歴による偏見

C、権威を盲信することによる偏見

D、言葉の解釈による偏見

それぞれ具体例を上げながら見ていきましょう。

 

A、人間の本能による偏見・・これは人間の感覚だけを頼りに物事を判断すると間違えた解釈をしてしまうことで、人間であれば誰しも陥りがちな錯覚です。

この典型例は、天動説ですね。地球に住む私達から見ると、太陽が動いているように感じてしまいます。無論、地球が動いているから、太陽が動いているように見えるだけなのですが、中世ヨーロッパまではそれが常識であり、地球が動いているなんて非常識だったわけです。

極論するとコペルニクスが登場するまで誰ひとり地球が動いていることに気付かなかったのですから、人間の感覚がいかに充てにならないのかが分かります。

 

B、個人の経歴による偏見・・これは全ての人間に当てはまるものではなく、その人が受けてきた教育や、生まれ育った環境、人間関係によって形成された偏見です。

「あの人は、B型だから自己中だ。」

もちろんそんな事実はどこにもありません。実際に血液型性格診断は科学的根拠がなく、ハッキリと否定されているため、大きな誤解です。しかし、「B型には自己中が多い」と親や先生から教えられたり、過去に出会ったB型の人が実際に自己中であったために世の中全てのB型の人達をそのように判断してしまうのです。

 

C、権威を盲信することによる偏見・・「学校の先生の言う事だから正しい」、「テレビで言ってたから正しい」、「医者の言う事だから正しい」といったように人間は権威ある者の言う事を疑問に思わず、無条件に信じ込んでしまう傾向があるということです。

中世ヨーロッパでいうと、教会がこれに当たります。教会には教皇という権威が存在し、「教皇のおっしゃることだから正しいに違いない」と人々は何も疑うことなく信じ込んでしまったのです。キリスト教会が人々に徹底的に教え込んだ哲学をスコラ哲学と言います。

 

D、言葉の解釈による偏見・・これは先述の「頑張らない生き方」の通りです。人間は「言葉」を偏見によって過大評価したり、過小評価したりするのです。

これらの偏見を取り払えば、今まで見えなかったものが見えるようになるとベーコンは言います。

 

2、実験や観察を行い、データを集める。

 次にそれらの偏見を取り払ったうえで、実験や観察をし、たくさんのデータを集めます。

 

3、得られたデータを帰納法によって考察し、規則性や法則性を導き出す。

 最後に、帰納法によってデータを考察し、自然の法則性や規則性を導きだします。帰納法とは、ベーコンが生み出した研究法ですが、個別的な実験結果を集め、比較対象し、法則性を導きだそうとすることです。

わかりにくいので、具体例を出します。

例えば・・・・ 

三角形Aの内角の和は180度でした。

三角形Bの内角の和は180度でした。

三角形Cの内角の和は180度でした。

三角形Dの内角の和は180度でした。

したがって、全ての三角形の内角の和は180度である。

このように個々の実験データを集め、そこから法則性を導き出す手法です。

 

他にも具体例を上げてみます。

人は100メートルを最速何秒走れるのか。

A選手は11.0秒でした。

B選手は11.5秒でした。

C選手は10.9秒でした。

D選手は10.7秒でした。

これらのデータから「人間は100メートル走を10秒切ることが出来ない。」という結論になりました。

 

人は空を飛ぶことが出来るのか。

科学者Aは空を飛ぶ実験をしたが、失敗した。

科学者Bは空を飛ぶ実験をしたが、失敗した。

科学者Cは空を飛ぶ実験をしたが、失敗した。

科学者Dも空を飛ぶ実験をしたが、失敗した。

これらのデータから「人間は空を飛ぶことが出来ない」という結論になります。

 

 アフィリエイトは月いくら稼げるのか。

Aさんは月4000円稼いだ。

Bさんは月4500円稼いだ。

Cさんは月4800円稼いだ。

Dさんは月4900円稼いだ。

これらのデータから「アフィリエイトは月5000円を稼ぐことが出来ない」という結論になりました。

 

 ところが、お察しの通り、この帰納法は万能ではありません。

 帰納法とは、あくまで実験データをもとに法則性を導き出しているので、その法則性を覆すデータが1つでも出てくれば、その法則は使えなくなってしまいます。

100メートル走で9秒台を出した選手がいます。

現在、人間は飛行機で当たり前のように空を飛んでいます。

アフィリエイトで月5000円以上稼いでいる人は確実にいます。

 これらのデータが出てきたことで、その法則性は古い常識になってしまうのです。

 ベーコンが重視した現実の実験や観察によってしか、正しい認識が得られないとする姿勢を経験論と言います。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

 参考文献

図解雑学 哲学   貫成人=著  ナツメ社

考える力が身につく 哲学入門 畠山創   中経出版

【ガリレオ】天動説から地動説へ(後篇)

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【ガリレオ】天動説から地動説へ(後篇)」というお話です。

ガリレオは実験や観察を通じ、地球は動いていることを提唱。従来の神が意図した自然を探求しようとする目的論的自然観を取り払い、どのような自然法則で動いているかという機械論的自然観の立場から自然をとらえ直そうとします。ガリレオは「地球はうごいている」ことを発表するも、キリスト教会から迫害を受けてしまいます。

 

  15世紀~16世紀、日本では1467年の応仁の乱をきっかけに戦国時代が到来し、人々が熱狂していた頃、西洋ではイタリア(フィレンチェ)ルネサンスの時代が到来し、その気運はヨーロッパ各地に広がっていました。

 ルネサンスが到来したことで、天上界や地上界などの神が創造したとされる自然観を取り払い、実験や観察などの人間の感覚によって自然をとらえ直そうとする気運が高まりました。すなわち、新しい学問の土台が創られたのです。

  ポーランド人の天文学者コペルニクスは従来の天動説を180度覆し、地動説を提唱。さらに、コペルニクスは太陽を中心として、その周りを他の惑星が回っていることを提唱するものの、その考えは天上界と地上界の区別が出来なくなるとして当時の人々には受け入れられませんでした。

 

  そして1564年、日本では織田信長桶狭間の戦いで今川氏を討ち取り、その名を全国に轟かせていた頃、西洋ではイタリアでガリレオ・ガリレイという天才物理学者が生まれました。

 中世ヨーロッパでは物体の落下など自然界で起きる現象はすべて神が何らかの目的をもって創造したものだと信じられてきた。

 人々は「何のために」という関心から自然ととらえようとする目的論的自然観の立場をとっていました。

 「神は何のためにこの落体運動を生み出したのだろう。」

 

 対するガリレオは「どのように」という関心から自然をとらえようとする機械論的自然観の立場をとっていました。

「この落体運動はは一体どのような法則ではたらいているのだろう。」

 つまり、物体にはたらく力は神の創造物ではなく、自然界の法則によって動いているだけなのではないかというとらえ方です。

 ガリレオは望遠鏡による天体の観察、ピサの斜塔での落体の実験など何よりも観察や実験を重視します。

 ピサの斜塔での落体の実験では、古代ギリシャ以来の考えを覆します。

 古代ギリシャでは「塔の上から石を自由落下させた時、地球が動いていれば、石が地面に落下するまでの間に地面は動いてしまう。すると、真下には落下せず、ずれた位置に落下するはず。しかし、そうはならない。だから地球は動いていない」という考えでした。

  この考えは中世ヨーロッパにも引き継がれましたが、ガリレオは物体には慣性の法則が働いていることを発見し、この慣性の法則によって地球は動いていることを証明しました。

慣性の法則・・・車を運転し、急ブレーキをかけた時に前傾してしまうあの現象です。運動していた物体はその運動を続けようとするのです。)

 

 例えば海上を水平方向に移動している船を想像してみてください。その船のマストの上から物体を離したら物体はどのように落ちるでしょうか。物体は船とともに水平方向に進んできたのだから、手から離れた後も、慣性により船と同じ速さで水平方向に進みながら自由落下することになります。

 船を地球、マストをピサの斜塔と考えれば、地球が動いていたとしても塔の真下にボールが落下します。塔の上から落としたボールは慣性のよって地球とともに動くので、塔の真下に落ちるのです。

 こうして1632年、ガリレオは、「地球は動いている」という理論をまとめた『天文対話』という著書を発表します。日本では江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代で鎖国政策が始まった頃になります。

 

 しかし、この著書を発表したことでガリレオは教会から激しい迫害を受けました。天動説はキリスト教と一致した考えであり、それを覆したガリレオの地動説はキリスト教の否定にもつながってしまったのです。ガリレオは異端審問諸に呼ばれたうえに、地動説を捨てることを強引に誓わされます。

ガリレオフィレンツェ郊外の村に軟禁されてしまいました。しかし、彼の旺盛な探求心は衰えることはありませんでした。

 

 その後、ドイツ人のケプラーが各惑星は楕円軌道を描いて運動しているという惑星運動の法則(ケプラーの第一法則)を発見。

 そして、ガリレオの地上での法則、ケプラーの宇宙(天)での法則という一見、無関係に見える2つの事柄を見事に結び付け、同じ事柄であると考えたのがイングランドの天才物理学者・ニュートンという人物になります。

 ニュートンはリンゴの落体から万有引力を発見しますが、リンゴの落体も月の公転運動も地球から同じ万有引力が働いていることを発見しました。

(興味ある方は、物理学の歴史を勉強してみてください。)

 この万有引力の法則は物理学の基礎として現代の私達も学んでいます。

 

 ガリレオによって自然とは機械のようなしくみを持っていることが分かりました。やがてその自然のしくみを知り、加工することで、人類の生活向上や発展をもたらすと主張する人物が現れるのでした・・・。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

図解雑学 物理の法則 井田屋文夫=著 ナツメ社