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【ルネ・デカルト】人は死ぬとどうなるのか。

 こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【ルネ・デカルト】人は死ぬとどうなるのか。」というお話です。

 当記事は哲学の記事であり、デカルトの思想をわかりやすく伝える記事であり、人が死ぬとどうなるかの「答え」を知ることは出来ませんので、あらかじめご了承ください。

 

「人は死ぬとどうなるのですか。」

 現生に生きている人でこの答えを知っている人はいないでしょう。

 しかし、あえて定義してみます。

 

 「死」とは、「夢を見ないまま眠っている状態と同じ状態である。」

 

 つまり夢の世界を感じることが出来ない状態であり、完全に自分の意識がなくなり、人やモノを認識出来ない状態であるということです。

 

 あなたはどう思われるでしょうか。

「死んだら、何も感じない。もちろん自分という存在すらも・・・」

「死んだら、意識は残り続ける。魂として肉体から分離し、死後の世界で新たに生活をするのだ」

 様々な意見があると思います。

 この問題をさらに具体的にすると「死後も自分という存在を認識出来るかどうか」「意識を感じることが出来るか。」ということになります。

 

 ということで、今回は「人は死ぬとどうなってしまうのか」を考えながら、フランスの哲学者・ルネ・デカルト(1596~1650)の勉強をしていきましょう。

 日本では豊臣秀吉が天下統一を達成し、朝鮮出兵の真っ最中に、デカルトはフランスの裕福な貴族の家に生まれました。解析幾何学創始者でもあり、数学者としての方がむしろ有名です。

そんなデカルトの残した名言とは・・・

我思う、ゆえに我あり」です。

デカルトは、なぜこのような名言を残したのでしょうか。順を追って説明します。

 

 彼は前回紹介したフランシス・ベーコンのような経験論を否定し、人間の感覚や経験は信頼出来ないと主張しました。

 いくつか例を出してみます。

 

「地球は球体である。」

これは現代でこそ常識ですが、中世ヨーロッパでは非常識だと思われてきたのです。というのも私達から見れば、地球はどうみても平面だし、球体であれば、皆すべって転げ落ちてしまうと感じてしまうからです。

 このように人間の感覚や経験は充てにならないのです。

 

 感覚や経験を嫌うデカルトは手で触ったり、目で見たり、耳で聞いたりなどの感覚を通して結論を導く方法を否定し、絶対的に正しい真理をみつけ、その真理をもとに結論を導く方法を生み出しました。これが「演繹法」とよばれるもので、ベーコンの「帰納法」と対立する考え方です。

 

「絶対的に正しい真理なんてこの世にあるのか。」

 あります。

 数学の公式なんかがその典型例です。

 例えば、円の面積の公式です。

円の面積=半径×半径×3.14 ですよね。

 これはどの円にも共通して言える絶対に正しい真理です。積分で証明することも出来ます。なので、私達は小中学生の頃、「次の半径○センチの円Aの面積を求めなさい」という問題に対し、この公式に当てはめて解いてきたのです。関数はブラックボックスと呼ばれていますが、このブラックボックスこそが真理になります。

 デカルトは数学者だったため、このような明証性のある絶対的な真理を好みました。

 

 では、人間の感覚や経験を充てに出来ないならば、一体どのようにして真理を見つけ出せば良いのでしょうか。

 デカルトはその答えを導こうと、あらゆるものを疑いました。

 絶対に確実なことを見つけるために疑いの余地のあるものをどんどん排除し、最後に残った疑いの余地のないものが絶対的に正しいことだ。逆転の発想です。

 

デカルトはあらゆるものを疑いました。先述の「地球は平面である」などの昔から言われてきた伝統的な知識や経験全てを。です。疑いの余地のあるものを全て疑いました。

さらに、身の回りの机やベット、家や道端の草や木、すべては幻かもしれないと疑いました。

そして自分の身体さえも疑いました。自分の手や足、耳や口などは自分がそこにあると認識しているだけで実は幻ではないかということです。

つまり、「私達が体験しているこの人生は全部夢かもしれない」ということです。

やがて彼は疑いの極点に達します。

そう、自分自身を疑ったのです。

「あらゆるものは疑ってきたけれど、疑っているという自分自身は疑い得ない感覚である」としたのです。そこで飛び出した名言が「我思う、ゆえに我あり」だったのです。このように、確実な原理原則をみつけるために、あらゆるものを疑う方法を「方法的懐疑」と言います。

 

 あらゆる感覚を疑ってきたデカルトですが、最後に「自分の意識を感じる」。この感覚だけは疑い得ない真理だとしたのです。

 

 つまり、「疑っているという私」は確実に存在するというのです。この私こそ「意識」であり、精神であり魂です。

 

 では死んだ後、この「意識」はどうなるのでしょうか。

 

 逆に、「生きている」とは、「考えることが出来ている状態」のことを指すのでしょう。つまり「私」を意識出来るならば、あなたは生きている証拠だということです。

 一方、「死んでいる」とは自分の意識を感じるという感覚が消えてしまう状態になります。「私」を意識出来なくなるのです。

「そこに猫がいる。でもあれは幻かもしれない」

 それすら考えられなくなるのです。

 もはや感じることも出来なければ、考えることすらも出来ない。完全なる「無」の状態になります。

 現在では、「脳死は人の死」とされていますが、これは極めてデカルト的な考えだと思います。意識は脳が創りだしたものだとすれば、脳死したその人には、もはや意識は存在せず、意識の消滅はその人の消滅と同一視しているからです。

あなたはどう思われるでしょうか。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

図解雑学 哲学   貫成人=著  ナツメ社

考える力が身につく 哲学入門 畠山創   中経出版

世界のエリートが学んでいる 教養としての哲学 小川仁志=著 PHP