【コペルニクス】天動説から地動説へ(前篇)
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【コペルニクス】天動説から地動説へ(前篇)」というお話です。
ルネサンス期は天文学も発展した時代です。まず、トスカネリが地球球体説を提唱し、大航海時代へと発展。続いてコペルニクスが地動説を提唱。さらにガリレオが地動説を実証。そしてケプラーが惑星運動の法則を発見しました。
15世紀~16世紀、日本では1467年の応仁の乱をきっかけに戦国時代が到来し、人々が熱狂していた頃、西洋ではイタリア(フィレンチェ)でルネサンスの時代が到来し、その気運はヨーロッパ各地に広がっていました。
2世紀頃、プトレマイオスは天動説を確立させました。天動説とは、地球を中心に太陽や他の惑星が回っているという考えで、地球は動かず、天が動いているという意味です。どの星も同じ形の軌跡を描き、完全な円運動をしているとも考えられていました。
この天動説は中世ヨーロッパのキリスト教の思想と一致し、天には神の国が存在すると千数百年に渡って信じられてきました。
しかし、ルネサンス期に入り、神の束縛から解放されると、神の思想という先入観を取り払い、人間自身の感覚や理性で自然をとらえ直そうとする気運が高まってきました。つまり、人が目で見て、耳で聞いて、手で触わってみて、論理的に合理的に考察してみるということです。
そんな中、天文学は大きく発展します。フィレンチェの天文学者・トスカネリ(1397~1482)は「地球は平面である」という従来の常識を覆し、「地球は球体である」という新しい仮説をたてました。これが地球球体説です。この説を信じたスペインの探検家・コロンブスは1492年、西廻りでアジアに向かいます。大航海時代のはじまりです。
(ここでの西廻りとは、ヨーロッパから見て西側へ向かって航海することを指す。)
一方、この地球球体説から地動説を提唱する人物が現れました・・・。
ということで、今回から前半後半に渡って3人の学者をご紹介します。コペルニクス、ガリレオ、ケプラーです。
今回はポーランド人の天文学者・コペルニクス(1473~1543)の思想についてです。
コペルニクスは「地球は動かない」という当時の常識を覆し、「地球は動いている」という地動説を提唱します。
彼は、太陽を中心に回っている惑星感に共通の事柄があることを見つけ、太陽から各惑星までの距離の比を求めることが出来、具体的な太陽系のイメージを明らかにしました。
すなわち、地球を中心に太陽や他の惑星が回っているのではなく、太陽を中心に地球や他の惑星が回っていると考えたのです。コペルニクスは「自然の法則は非常にシンプルだ」という美学を持っていました。
しかし、地球も他の惑星に過ぎないという考えは、神々の住む天上界と地上界の区別が出来なくなってしまうことや科学的根拠に乏しかったため、当時の人々には受け入れられませんでした。
当時、このような非常識な説を唱える者は弾圧の対象になりますが、幸い、コペルニクスは自分の死後、地動説を出版しているため、弾圧の対象にはなりませんでした。同じように地動説を提唱したジョルダーノ=ブルーノは火刑となりました。
先述のように中世ヨーロッパでは天上界が存在し、そこには神の国があると信じられていました。
「人間はなぜ存在するのか。」
「動物はなぜ存在するのか。」
「自然はなぜ存在するのか。」
これらの答えは全て神のみが知っており、神が何かしらの意図を持って創造したと考えられていたのです。
しかし、この地動説のような新しい自然の捉え方に触発され、「何のために存在しているか」という姿勢から「どのように存在しているか」という関心から自然を見直そうとする物理学者が現れました。それがガリレオです。
こうして観察や実験を通じ、論理的な思考で考察し、新しい学問の土台を創ろうとする気運がさらに高まったのでした。
つづく。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
図解雑学 物理の法則 井田屋文夫=著 ナツメ社
【レオナルド・ダ・ヴィンチ】芸術と科学を一体化する絵画論とは
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【レオナルド・ダ・ヴィンチ】芸術と科学を一体化する絵画論とは」というお話です。
ルネサンスが起きたことで、中世のキリスト教という宗教権威から人々が解放され、人間の潜在能力を自由に存分に発揮する動きが起こりました。画家であり、科学者でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチは芸術と科学の一体化を唱える絵画論を主張しました。絵画とは感性や美的センスだけでなく、数字や科学的知識も駆使して行う創作活動なのです。
中世ヨーロッパは神という完全完璧な存在を出すことで、人間がいかに不完全な存在かを表現していました。これは当初、人間の傲慢さを戒め、謙虚な気持ちを持ちなさいという教えだったのですが、この考えが行き過ぎてしまい、わざと左右非対称の建築物を造ったり、平面的な絵画を描くようになってしまったのです。
これが14~16世紀にイタリア(フィレンチェ)で起きたルネサンスによって、「人間性の再発見」が起こり、人間がもっと自由に才能や潜在能力を発揮しようとする動きがヨーロッパ各地に広がっていきました。
したがって、この時代の理想的な生き方は「自主的・能動的に才能を発揮し、万能人になること」です。
この時代を代表する万能人といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなどが挙げられます。
そこで、今回はレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論についてご紹介したいと思います。ダ・ヴィンチといえば、あの有名な「モナ=リザ」や「最後の晩餐」を描いた画家であり、彫刻家、建築家、発明家、自然科学者でもありました。まさに万能人です。
彼は中世のような平面的でリアルさがなく、人間や自然をまるで記号のように描く絵画に対して、立体的でリアルで、人間や自然を見えるがままに生き生きと描きました。
ルネサンス期は絵画においても近代化が行われた時代なのです。
そんな彼が唱えているのは、「芸術と科学の一体化」です。
彼は画家であっただけでなく、独創的な科学者・技術者でもあったため、本業である芸術の分野を単なる一分野に置かず、芸術とは自然を探求する科学と一体のものと考えました。
芸術と科学は一見正、反対のものに感じてしまいます。芸術とは右脳的で直観やイメージの世界です。一方の科学は左脳的で論理や数字の世界です。
そんな芸術と科学をなぜ一体化させる必要があるのでしょうか。
例えば、人間を描くにしても、頭が異様に大きく、それに対して身体が小さいのでは、とても不自然でリアルがありません。頭と体の比率を計算した上で描かく必要がありますよね。それだけでなく、空間や奥行き感、視覚的な合理性のある遠近法も取り入れる必要があります。
そして外観だけでなく、内観も大事です。ダ・ヴィンチは人間の外観や心理の研究だけでなく、実際に人体解剖に立ち会い、人間の内部構造までしっかりと研究しています。そこで得た科学的知識を駆使し、人体特有の肉感をデッサンで表現しました。
ダ・ヴィンチは数字や科学的知識を駆使し、人間や自然、建物を出来るだけ、正確に描こうとしたのです。
このように絵画とは感性や美的センスだけで描くのではなく、比率や科学の知識を駆使したうえで描くべき創作活動だということです。
余談
さらにダ・ヴィンチは人間の身体は万物の尺度として比例の基準となることも考えており、現代では建築用語でモデュールと呼ばれています。
この考えは日本でも尺貫法として存在しており、1寸や1尺、1間(けん)などは日本人の身体の大きさをもとに作られた基準寸法です。1尺とは「肘から手首までの長さ」を表し、1間(けん)とは「人が寝転がった時の頭からつま先の長さ」を表しています。これを基準に建築物は建てられているのです。
しかし、近年は建築業界でもm(メートル)が主流になりつつあります。m(メートル)とは地球の大きさを基準にした長さのことですが、人間中心主義から地球中心主義へ移行いています。グローバル社会の到来ですね。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【ルネサンス】人文主義とは何か。
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【ルネサンス】人文主義とは何か。」というお話です。
世界史も並行してやりたいと思います。
15世紀~16世紀、日本では応仁の乱をきっかけに戦国時代が到来し、人々が熱狂していた頃、西洋ではどのような動きがあったのでしょう。
キリスト教の思想によって、潜在能力を抑えつけられていた人々が、潜在能力を解放するべきだと気付き始めます。このような考えを人文主義と言います。それはやがてルネサンスへと発展していき、「暗黒の中世」から人々が解放され、「人間性の再発見」が起きました。
中世ヨーロッパはキリスト教が支配していた時代で、千数百年に渡って人々の思想を縛っていました。
どのように縛っていたのでしょうか。
例えば、ヨーロッパを旅行したことがある人なら見たことあると思いますが、中世のヨーロッパ建築は左右非対称の建築物が多いです。無論、これは意図的なものですが、神に比べて人間は不完全な存在であることを強調しているわけです。
さらに、絵画においても、平面的でのっぺりした「リアルさ」がない絵画が多いです。これもまた、人間が劣った存在であることを強調している典型例です。
現代では当たり前ですが、人間は左右対称な建物を造ることも、立体的な絵画を描くことも出来ます。しかし、中世には神という存在が信じられており、神は全知全能の完璧な存在だが、人間は不完璧な存在であるという教えが蔓延しており、人間の潜在能力が抑えられていたのです。
人間は神に比べ劣った存在なのだから、左右対称の建物や立体的でリアルな絵を描くという神業をやってはいけないという極端に人間を卑下していたのです。
そんな中、人々は歴史から学び始めました。
「古代ギリシャや古代ローマの時代は、もっと人間は自由に才能を発揮していたみたいだし。その頃に戻ろう。もっと才能を発揮して仕事をしよう。」と考え始めました。
14世紀にイタリアで始まったルネサンスはやがてヨーロッパ各地に広がっていきます。
ルネサンスとは直訳すると再生という意味ですが、中世の悶々とした時代の価値観から、古代の自由な時代の価値観を復活させようとする動きのことです。
以上。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【安藤昌益】封建社会を批判し、ユートピア社会を提唱した学者
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【安藤昌益】封建社会を批判し、ユートピア社会を提唱した学者」というお話です。
江戸時代は様々な学問が発達した時代です。その代表例は儒学とよばれるもので、
孔子の思想を朱熹という人物が解釈した幕府公認の学問・朱子学。
孔子の思想を王陽明という人物が解釈した民間を中心に普及した学問・陽明学。
さらに、孔子の思想を直接研究しようとうする学問・古学も登場しました。
古学派に属し、古文辞学の創始者である荻生徂徠は、『論語』の教えはという政治の在り方を示したものであると説き、それは、「世を経(すく)い、民を守る」という経世済民の術であり、経済の活性化こそが天下安泰の世を実現するために必要であると唱えました。
やがて、荻生徂徠の系統から太宰春台という人物が現れ、彼は著書「経済録」で経済の重要性を日本で初めて提唱。経世論者の先駆けとなるのでした。
江戸時代も中期になると都市部だけでなく、農村にも徐々に貨幣経済が普及してきます。すなわち、物々交換からお金でモノを買うという機会がどんどん増えてきたのです。封建制社会ではあったものの、生活物資が増え、人々も便利で快適な生活を求め、それらの生活物資を買い求めたことで、欲深い商人達が物価を上昇させていきました。これらは元禄文化といわれる好景気な時期です。
それに伴い、18世紀後半になると学問や思想においても、経世論を唱える学者が登場してきます。
1781年、工藤平助は著書・『赤蝦夷風説考』で当時蝦夷地と呼ばれていた北海道との貿易を主張。時の老中・田沼意次はこの書籍に感銘を受け、蝦夷地開拓に乗り出そうとします。ところが、1787年に田沼に代わって老中に就任した松平定信はこの計画を却下。
さらに1786年に林子平は著書・『開国兵談』で日本の外国への侵略の備えが不十分であり、富国強兵の必要性を説きますが、定信は幕府への批判だとし、弾圧を加えます。
「近代国家の樹立」を目指す田沼に対し、定信は「伝統的国家への回帰」を目指そうとしていたのです。
工藤も林も「近代国家の樹立」を主張していますが、反対に「伝統的国家への回帰」を主張した学者もいました。定信が好きそうな人です。
それが安藤昌益という人物です。昌益は著書・『自然真営道(しぜんしんえいどう)』で農業を重視し、ユートピアのような平等社会を構想しました。
ということで今回は安藤昌益(1703~1762)の思想について紹介します。彼が生まれた1703年頃は元禄文化の全盛期であり、日本中が平和で賑やかになっていた頃です。秋田藩に生まれた昌益は、当時の武家社会を徹底的に批判し、農業を中心とする無階級社会を理想としました。
昌益は「武家社会は差別と搾取の世界である。全ての人が農業に従事し、差別のない平等社会への回帰を求める。」
江戸時代は士農工商という身分制度がはっきりしており、林羅山が徳川家康の命によって、儒学の中の朱子学を体系化し、「人は生まれながらに尊卑の差があるのだ。」という上下定分の理という価値感を人々に徹底的に植え付けました。
したがって、江戸時代は平たくいうと「差別の世界」です。
また、全人口の7%を占める武士は残り93%を占める農民、職人、商人が汗水垂らして得た米やお金を「禄」という現代でいう給料のようなカタチで貰っていました。
したがって、江戸時代は平たくいうと「搾取の世界」です。
実際に全人口の87%を占める農民は、朝から晩まで重労働を課せられる割に満足に飯が食えない状態でした。
昌益は自らが生きた江戸時代のありのままが見えていました。これらの点は紛れもない事実です。
しかし、昌益は大きな間違いを起こしています。
「全ての人が農業に従事し、~」という点です。
かつて存在した弥生時代のような身分制度がなく、差別のない自給自足の生活をしていくことを提唱しています。
しかし、時計の針を逆戻しするような生活はどんな時代においても不可能です。
例えば、現代人に対して、「環境問題が深刻なので、これからは工場を閉鎖し、商売を辞め、車や電車も捨て、コンビニやレストランもなくし、毎日農業に励む自給自足の弥生時代のような暮らしをしていきましょう」と促しても絶対に無理です。今更現代人が、そんな暮らしを出来るはずがありません。
時代は課題を抱えながらも、より便利に、より快適に、より平和になってきているのです。
これは時代を超えて共通する「原理原則」なのです。
昌益はそれを知っていたのかどうかは定かではありませんが、江戸時代は非常に平和な時代でした。少なくても戦国時代よりかははるかに平和です。さらに、江戸時代中期(18世紀)になると、お金という最も便利な道具が開発され、商品作物が豊富につくられ、以前よりおいしいものや便利なものが出てきたわけです。そんな時代に農業回帰とは少し強引な考えですね。
こんなユートピア世界は当時の江戸時代にはハッキリ言って受け入れられませんでした。
しかし、20世紀初頭に日本が社会主義国家を求める風潮が起こりましたが、その頃、彼の思想は社会主義・共産主義につながるものがあると再評価されます。
1927年にレーニンがロシア革命を起こし、1931年にソビエト社会主義共和国連邦という国が
成立したのです。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【池田屋事件】新撰組はなぜ有名になったのか【近藤勇】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【池田屋事件】新撰組はなぜ有名になったのか【近藤勇】」というお話です。
薩摩藩主である島津久光の文久の改革によって、伊井直弼以来、幕府が推し進めた佐幕開国派は完全に潰え、幕府は尊王攘夷派が主導権を握るようになりました。
ところが、その尊王攘夷派もやがて2つの勢力に分かれるようになってしまいました。
1つは薩摩藩のようなあくまで幕府の組織体制を維持したまま、自分達の意向に沿う人物を登用する尊王攘夷の公武合体派(穏健派)。
もう1つは、長州藩のような幕府そのものを倒し、全く新しい国家体制を築こうとする尊王攘夷の過激派です。
やがて公武合体を推し進める幕府・薩摩と、討幕を推し進める長州・朝廷という対立構造が激化してくるようになります。
京都では尊王攘夷の過激派である長州藩が勢力を伸ばし、三条実美ら過激派の公卿と手を組み、朝廷内を牛耳っていました。
京都の町では過激派の志士達が、自分達と主義主張が異なる人物や外国人、そして幕府側の人物に対し、「天誅(てんちゅう)」と呼ばれる「人斬り」を始めました。
(天誅・・天に代わって誅罰を加えることを意味するいわゆるテロ行為。)
このような朝廷工作と、テロ行為によって、京都の治安は瞬く間に悪化してしまいました。
幕府は京都の治安回復のため、京都守護職という役職を新設し、親藩である会津藩がその職を引き受けました。さらに新撰組という「特別警察隊」も誕生しました。
さらに公武合体派の皇族・中川宮の暗躍によって、薩摩藩と会津藩と手を組み、1863年8月18日、朝廷内を牛耳っていた長州藩と過激派の公卿達を一掃することに成功しました。(八月十八日の政変)
京都から追い出された過激派の藩士達は、巻き返しの機をうかがっているのでした。
その頃、京都の町は会津藩兵と新撰組が巡回し、治安維持に奔走していました。
そんな中、こんなタレコミが新撰組の浪士達の耳に入ってきました。
「幕府に不満を持つ長州藩の過激派が京都の町に集まってきている。」
そんな中、新撰組は京都のある商人が過激派の志士を家にかくまっているとの噂を聞きます。新撰組はすぐに商人の家を捜索します。そこには志士はおらず、代わりに大量の鉄砲や弾薬が隠されていました。新撰組はこれらを押収。そして商人も捕縛します。
新撰組は捕縛した商人に尋問します。すると商人は過激派の志士達の陰謀を話し始めました。
その陰謀とは、以下のようなものでした。
「強風の夜を選んで、京都御所の風上に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮を幽閉し、会津藩主の松平容保の殺害したのち、孝明天皇を長州へ連れ去る。」
こんな過激な陰謀に近藤は凍りつきました。
「この陰謀は何として阻止しなくてはならない。」
新撰組は京都市中に潜伏する過激派の志士達を一網打尽にするべく一斉捜査に乗り出します。同時に近藤はすぐに京都守護職に報告。しかし、この陰謀は「かもしれない程度」のことで大量の兵を派遣するには時間と労力が惜しまれ、京都守護職は援軍派遣の決断が出来ずにいました。
こんな京都守護職の対応に呆れた近藤は決断します。
「幕府の動きは遅すぎる。この事件は機動力に勝る我ら新撰組だけで解決するしかない」
近藤は分担して捜索することを決め、局長・近藤勇以下10名と副長・土方歳三以下24名はそれぞれ取り調べを行いました。
一応、幕府から援軍を派遣するという知らせは受けたものの、充てにはできません。
近藤は、遂に京都市内の旅館・池田屋で過激派志士達の会合が開かれるという情報を入手します。
そして1684年6月10日の午後10時、近藤隊10名は旅館・池田屋に向かい、その情報は土方隊にも知らされました。
近藤は店の表と裏を固めさせ、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人の腕利きを率いて自ら館内に突入。店の者にこう言います。
「主人はおるか、御用改めであるぞ」
新撰組による突然の訪問に驚いた主人は、あわてて奥へ駆け込み、2階に向かって叫び、危機を知らせます。
「みんさま、旅客調べでございます!!」
この様子をみた近藤はすぐさま愛刀・虎徹(こてつ)を抜刀。主人の後を追い、沖田と共に2階へ上がった。
2階奥の座敷には志士達が20人ほど集結していました。近藤は彼らに向かって「御用改めだ。無礼いたせば容赦なく切り捨てる」と言い放ちます。
突然の襲撃に驚いた志士達は窓から裏庭に飛び降り、逃亡を図った。
しかし、数人の志士達は逃げずに抜刀。近藤達と睨み合います。
すると沖田がこう言います。
「ここの敵は私が引き受けた。近藤殿は階下の奴らを頼みます。」
それを聞いた近藤は階段を降り、中庭に逃げた志士達を追います。階下の永倉と藤堂は中庭に飛び降りてきた志士達と斬り合い、数人を斬り伏せました。
しかし、永倉は右手親指の付け根を削がれる負傷をし、藤堂は額を斬られ、戦闘不能になるほどの重症を負ってしまいます。
近藤は裏庭に逃げた志士を一人斬った後、永倉らの応援にまわるも、自慢の虎徹はボロボロに欠けていました。
2階の沖田は1人の志士を斬った後、持病の肺結核の発作を起こし戦線離脱していました。
絶対絶命のピンチに追い込まれた近藤ら。その直後、土方隊が池田屋に到着。形勢は一気に新撰組に傾きます。
志士達は完全に取り囲みました。
以後は斬り捨てから捕縛へと方針転換。池田屋の戦闘は新撰組の勝利で終わりました。
結局、幕府が派遣した会津藩兵700人はすべての事が終わった後でした。
こうした新撰組の命がけの活躍により、過激派志士達の御所焼き討ちという陰謀は打ち砕かれ、京都の平和は守られたのでした。
この事件で絶命した志士達の中には、吉田松陰主宰の松下村塾のエリート塾生であった
そして坂本龍馬と望月亀
桂小五郎は、襲撃と同時に逃亡したことで、命びろいしました。
この事件によって有力志士を失った長州藩は大打撃を受けるのでした
この事件は幕府にとっても、プラスの面がある一方、マイナスとなる面もありました。
プラスの面は新撰組の名が天下に轟き、京都における幕府の権威が回復したことです。さらに新撰組が組織されても、あくまで浪士の身分であった近藤や土方は正式に「武士」の身分に昇格しました。
一方のマイナス面は坂本龍馬とともに理想国家再建のために奔走していた土佐藩士・望月亀弥太(もちづきかめやた)を斬り殺してしまったことです。多くの幕閣が新撰組の活躍を快挙ととらえる中、同じく幕閣の勝海舟は手記の中でこう記しています。
「幕府は罪なき有望な人材を殺してしまった。彼は我が国を再建するのに必要不可欠な人物であったのに。本来であれば、捕縛し、尋問したうえでその処罰を考えるべきであった。」と記し、怒りをあらわにしています。
この事件の一報はまもなく、長州藩にもたらされました。すると、やはり何の訊問もなく問答無用で同志が斬られたことに長州藩内の尊攘派は大激怒。特に吉田稔麿と同じ松下村塾の塾生であった久坂玄瑞は深く悲しみ、そして激昴します。「命をかけて幕府と薩摩に挑戦する」と。
こうして池田屋事件の1カ月後、久坂率いる長州藩の過激派は京都御所へ向けて挙兵します。
こうして幕府・薩摩の公武合体派と長州藩の過激派による死闘(禁門の変)が始まるのでした。
以上。
最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【西洋の科学】江戸時代の理系学問 蘭学とは【杉田玄白】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【西洋の科学】江戸時代の理系学問 蘭学とは【杉田玄白】」というお話です。
江戸時代は様々な学問が発達した時代です。
その代表例は儒学とよばれるものです。孔子の思想を朱熹という人物が解釈した幕府公認の学問・朱子学。孔子の思想を王陽明という人物が解釈した民間を中心に普及した学問・陽明学。さらに、孔子の思想を直接研究しようとうする学問・古学も登場しました。
そして儒学そのものを排除し、日本古来の学問を研究する国学も登場してきました。
しかし、これらはいずれも道徳・思想・考え方であり、現代風に言うと文系学問です。
江戸時代も後半になると、洋学がさかんになってきます。すなわち、科学技術の面においては西洋の学問を取り入れようとする動きがさかんになってきます。現代風に言うと理系学問です。江戸時代の洋学とは蘭学のことで、オランダは当時の西洋唯一の窓口であり、西洋文明の研究を「蘭学」と称しています。
1716年に8代将軍に就任した徳川吉宗は蘭学に対する理解があり、1720年、漢訳洋書の輸入規制の緩和措置を行い、キリスト教に関連しない学問であれば輸入を許可しました。これをきっかけにオランダから大量の学術書が輸入され、日本にも西洋の知識が広まるようになりました。
やがて吉宗は青木昆陽という人物にオランダ語の習得を命じ、昆陽は蘭学者の先駆者となります。
1757年に江戸で町医者をやっていた杉田玄白は日本に人体解剖図が正確に記載された書籍がないことに苦慮していました。ところがオランダ商館から借りたオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」に人体の解剖図が正確に書かれていることに驚きます。玄白は前野良沢とともにこの医学書の翻訳を始めます。こうして1774年、暗号のようなオランダ語で書かれた医学書を日本語訳にした「解体新書」が出版されました。
この頃は9代将軍・徳川家重の治世であり、政権運営は老中・田沼意次が行っていました。田沼は献上された「解体新書」を高く評価。蘭学は近代化には欠かせないと判断したため、蘭学の普及は上昇期に突入します。
ところが1787年に徳川家斉が11代将軍に就任したと同時に老中になった松平定信は寛政異学の禁を発令し、幕府公認の学問である朱子学以外の学問を禁ずる政策をとりました。これによって、蘭学を含めた様々な学者はひっそりと学問に励まざるを得なくなります。
しかし、わずか6年の政治運営で定信は失脚。一時的に衰退した蘭学研究は再び息を吹き返します。
1823年に来日したドイツ人医師・シーボルトは長崎効外に私塾「鳴滝塾」を開き、多くの日本人に蘭学を教えました。この鳴滝塾ではオランダ語、医学、植物学などが教えられ、大槻玄沢が開いた芝蘭堂(しんらんどう)や、緒方洪庵が開いた大阪の適々斎塾(適塾)と並び日本の「3大蘭学塾」として称されるようになります。その中で特に優秀だったのが高野長英という人物で、彼はやがて同塾で翻訳の教授として活躍するようになります。長英は杉田玄白の弟子・高野玄斎の子で、翻訳の才能をシーボルトから見出されていました。
1828年、一時帰国することとなったシーボルトは、伊能忠敬が日本地図として作成した「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいぜんず)」などのご禁制のものを持ちだしたことで国外追放処分を受けてしまいます。鳴滝塾も閉鎖され、高野長英も姿をくらまします。
しかし、蘭学そのものは普及を続け、幕府も蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を置くなど積極的に蘭学を導入しようとしました。
そんな中、蘭学者達はオランダ語の翻訳を通じてのあいだでは、日本の鎖国制度が限界に達し初めていることを認識するようになります。
そんな中、1837年モリソン号事件が起きます。これはアメリカの商船・モリソン号が、日本人漂流民の返還などを理由に国交を開始しようと浦賀に近づいた際、幕府が一方的に砲撃し、追い払ってしまったという事件です。
長英は『戊戌夢物語』で、同じく蘭学者の渡辺崋山は『慎機論』でこれを痛烈に批判します。「我が国は、海防政策においては非常に場当たり的で、国際情勢はおろか、外交手段すらも把握していない極めて原始的な国である」と。
他の蘭学者も口をそろえてこう言います。
「日本も外交の術を身につけるべきだ」
「西洋の科学技術は大きく進んでいる」
「日本も近代化をするべきだ」
特に重宝されたのが、長英の翻訳書でした。長英はオランダ語の読解力があるだけでなく、こなれた日本語に直す力がありました。そのため、医学書をはじめ、西洋の先進的科学や産業革命以後の世界情勢についての翻訳は日本の近代化には必要不可欠となるデータでした。
中でも西洋兵学の翻訳書は価値が高く、薩摩藩や長州藩、土佐藩や宇和島藩などの雄藩は軍制改革を進展させるためのバイブルとしてひそかに利用するようになります。これが後に武力によって幕府を倒す明治維新へと発展していくのです。
一方、幕府はこのような鎖国政策や外交手段を疑問視する声を政道への口出しと判断します。しかも老中は「悪魔外道」と呼ばれたあの水野忠邦です。
忠邦は厳しい思想統制を行ういかにも軍人らしいイシアタマで、目付の鳥居耀蔵(とりいようぞう)と組み、1839年、蘭学者を徹底弾圧します。いわゆる「蛮社の獄」です。
鳥居もまた少しでも幕府の意向に背く者の弾圧に血眼になったため、世人からは「妖怪」と称されるようになります。また、伝統的な漢学者であったこともあり、蘭学者を目の敵にしていました。
幕府の意向に背く翻訳書を世に出したことで長英は永牢(無期懲役)の罪を言い渡され、収監されました。しかし、長英は蘭学研究を諦めることが出来ません。
長英は牢屋敷に放火して脱獄するという非常手段をとり、自身の使命である蘭学研究を再開するのでした。
長英は日本各地を飛び回る逃亡生活を送ります。その際、彼は薬品で顔を焼き、人相を変えたと言われています。
江戸では蘭学者・佐久間象山が「和魂洋才」の姿勢をとります。和魂洋才とは思想や道徳などの魂は日本のままでも科学技術などの才術に関しては西洋の文明を取り入れるべきだということですが、これに共鳴した勝海舟や吉田松陰も西洋技術を取り入れる必要性を認識し、それぞれの行動に出ます。
1850年、人相を変えたことで江戸に舞い戻った長英は、潜伏していた隠れ家で幕府の役人に捕縛されそうになり、覚悟の自害を遂げました。
この3年後、ペリー率いる黒船が来航したことで幕府はようやく目が覚めます。このように幕府は有識者からの警鐘に目をそむけ、幕府は高野長英という将来の日本に有用な人物を死へと追いやったのです。
参考文献
早わかり幕末維新 外川淳著 日本実業出版
教科書よりやさしい日本史 石川晶康著 旺文社
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【荻生徂徠】朱子学を批判した学問 古文辞学
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【荻生徂徠】朱子学を批判した学問 古文辞学」というお話です。
江戸時代に発達した学問といえば、「儒学」です。鎌倉時代に仏教が日本で発展したように、江戸時代も儒学が日本で発展しました。
しかし、一口に儒学といっても日本で流行したのは大きく3系統に分けられます。
「儒学」とは中国の孔子の教えをまとめた『論語』を解釈した学問ですが、朱子学や陽明学はその弟子達が解釈した学問になります。朱子学なら朱熹という人が、陽明学なら王陽明という人が解釈した学問です。
そして日本では朱子学を林羅山が、陽明学を中江藤樹が受容し、体系化していきました。
しかし、孔子の教えを朱熹や王陽明などの弟子の解釈から間接的に学ぶのではなく、孔子の教えを直接学ぼうとする人々が現れました。これが古学派の人達になります。以下、儒学3系統の代表的な学者をまとめた表を載せておきます。
朱子学派 |
陽明学派 |
古学派 |
朱熹が解釈した学問 |
王陽明が解釈した学問 |
孔子の教えを直接的に学ぶ |
小林惺窩 |
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熊沢蕃山 |
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木下順庵 |
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荻生徂徠(おぎゅうそらい)は『論語』以前を学ぶことで、『論語』とは道徳などの個人の修養ではなく、政治のあり方を示す経世済民の術であると解釈しました。すなわち、「私の道徳」ではなく、「公の政治」です。その後、彼の弟子である太宰春台が現れ、江戸時代は経世論が流行り始めます。
今回は古学派の古文辞学の創始者である荻生徂徠(1666~1728)について紹介してまいります。
これまで古学の祖・山鹿素行や、古義学の創始者・伊藤仁斎を紹介してきましたが、今回紹介する荻生徂徠は彼らと大きく異なる点が2つあります。
1つ目は、素行や仁斎はいずれも『論語』そのものを研究しており、孔子さんの教えを直接学びとろうとしました。しかし、荻生徂徠は『論語』‘以前‘を研究しており、孔子が生きた春秋・戦国時代よりさらに前の時代を学ぼうとしている点です。
つまり徂徠は「我々が孔子を手本とするように、孔子さん自身も以前の誰かの教えを手本にしているのではないか」と考えたのです。
2つ目としては、素行は士道を、仁斎は仁愛を提唱しましたが、いずれも庶民(武士)に対する教えであり、彼ら自身も庶民です。ところが荻生徂徠は支配者層に対する教えを説いており、徂徠自身も幕臣になっています。
つまり徂徠は「そもそも『論語』とは庶民など被支配者に対する教えではなく、官僚など支配者に対する教えなのではないか」と考えたのです。
既出のように孔子は春秋・戦国時代の皇帝ですが、その時代はいわゆる「戦乱の世」であり、不安定な時代です。そこで孔子は春秋・戦国時代以前の「殷」や「周」もしくはそれ以前に天下安泰の世が成立しており、その時代の皇帝の政治を学び、『論語』としてまとめたのではないかと考えたのです。
徂徠は、このような古代中国の偉人や聖人の古典や文辞(文章と言語)を当時の意味で解釈することで学びとる古文辞学を提唱しました。
徂徠は1666年に江戸幕府4代将軍・徳川家綱の弟である綱吉の専属医の子として生まれます。14歳の頃、綱吉が5代将軍になると、父が島流しに遭い、浪人生活を送りながらも学問に励みます。
綱吉政権になったことで、学問を好み、尊重する本格的な文治政治が始まります。
30歳になった頃、綱吉の側用人である柳沢吉保に学者としての能力を買われ、再び幕臣に抜擢され、政治の道を論じるようになります。
引退後は江戸に私塾・けん園塾を開き、古文辞学と経世済民の儒学を完成させました。
徂徠は少年時代も含めて、幕府の実態を目の当たりにしています。
江戸時代の徳川将軍家は豪華絢爛な生活をしており、昼から酒を呑み、鯛の尾頭を食べ、大奥へ行けば‘絶世の美女‘と好きなように遊べる欲望まみれの生活をしていました。
一方で庶民に対しては朱子学を利用して「朝から晩まで仕事をし、しっかりと年貢を納めなさい」と徹底的に教えこんだのです。
「農民は生かさず、殺さず」とは徳川家康の言葉ですが、家康は天下泰平の世という大義のもと、徳川一族が何百年も遊んで暮らせるようなしくみをつくったのです。
徂徠は考えます。
「もしかして支配者がもっと政治に関心を持ち、優れた政治を行えば、天下安泰の世は実現するのではないか。」と。
『論語』とは、被支配者に対して示した道徳なのではなく、支配者に対して示した道徳なのであり、孔子は古代の偉人の教えを学ぶことで春秋・戦国時代を終わらせようとし、それらをまとめ、『論語』としたのではないか」と。
では具体的に支配者がどうすれば天下安泰の世が築けると徂徠は解釈したのでしょう。先程チラッと出てきました。経世済民。そう、経済です。
経済の語源は世を経(おさ)め、民を救う経世済民から来ていますが、徂徠は、政治を運営する人達は、経済を活性化させることこそ社会秩序の安定と民衆の安寧につながると主張しました。
朱子学も陽明学も個人の修養を目的としている学問です。また古学の山鹿素行も伊藤仁斎も同様です。しかし、荻生徂徠の古文辞学は政治家が経済を活性化させるという大局的な視点での修養を目的としている学問です。つまり、「私の道徳」から「公の政治」へと180度転換させたのです。
荻生徂徠の開いた私塾・けん園塾は多くの学者志望者を集め、やがて徂徠の系統から太宰春台という学者が現れます。彼は著書・「経済録」の中で経済を重視する学問を提唱します。ここから江戸時代は経世論が流行り、経済録はその最初の著作になります。
この後、1772年、経済学のプロである老中・田沼意次が政治を行いますが、彼の失敗は天明の飢饉の際、米価高騰によって商人が米の売り渋りをするという人の感情が入り込んだ現象が発生したことです。つまり経済学の基本である需要・供給曲線通りに行かなかったのです。
人には感情があり、理性的な人間を前提として扱う経済学のようには実際の経済は動かないことが実証された典型例です。
現代を生きる私達には、荻生徂徠の提唱した経世済民の術は残念ながら理想論であったことがわかります。そこで現代注目を浴びているのが行動経済学という学問です。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。