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【西洋の科学】江戸時代の理系学問 蘭学とは【杉田玄白】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【西洋の科学】江戸時代の理系学問 蘭学とは【杉田玄白】」というお話です。

 

 江戸時代は様々な学問が発達した時代です。

 その代表例は儒学とよばれるものです。孔子の思想を朱熹という人物が解釈した幕府公認の学問・朱子学孔子の思想を王陽明という人物が解釈した民間を中心に普及した学問・陽明学。さらに、孔子の思想を直接研究しようとうする学問・古学も登場しました。

 そして儒学そのものを排除し、日本古来の学問を研究する国学も登場してきました。

 

 しかし、これらはいずれも道徳・思想・考え方であり、現代風に言うと文系学問です。

江戸時代も後半になると、洋学がさかんになってきます。すなわち、科学技術の面においては西洋の学問を取り入れようとする動きがさかんになってきます。現代風に言うと理系学問です。江戸時代の洋学とは蘭学のことで、オランダは当時の西洋唯一の窓口であり、西洋文明の研究を「蘭学」と称しています。

 

 1716年に8代将軍に就任した徳川吉宗蘭学に対する理解があり、1720年、漢訳洋書の輸入規制の緩和措置を行い、キリスト教に関連しない学問であれば輸入を許可しました。これをきっかけにオランダから大量の学術書が輸入され、日本にも西洋の知識が広まるようになりました。

 やがて吉宗は青木昆陽という人物にオランダ語の習得を命じ、昆陽は蘭学者の先駆者となります。

 

 1757年に江戸で町医者をやっていた杉田玄白は日本に人体解剖図が正確に記載された書籍がないことに苦慮していました。ところがオランダ商館から借りたオランダの医学書「ターヘル・アナトミアに人体の解剖図が正確に書かれていることに驚きます。玄白は前野良沢とともにこの医学書の翻訳を始めます。こうして1774年、暗号のようなオランダ語で書かれた医学書を日本語訳にした「解体新書」が出版されました。

 この頃は9代将軍・徳川家重の治世であり、政権運営は老中・田沼意次が行っていました。田沼は献上された「解体新書」を高く評価。蘭学は近代化には欠かせないと判断したため、蘭学の普及は上昇期に突入します。

 

 ところが1787年に徳川家斉が11代将軍に就任したと同時に老中になった松平定信寛政異学の禁を発令し、幕府公認の学問である朱子学以外の学問を禁ずる政策をとりました。これによって、蘭学を含めた様々な学者はひっそりと学問に励まざるを得なくなります。

 しかし、わずか6年の政治運営で定信は失脚。一時的に衰退した蘭学研究は再び息を吹き返します。

 

 1823年に来日したドイツ人医師・シーボルトは長崎効外に私塾「鳴滝塾」を開き、多くの日本人に蘭学を教えました。この鳴滝塾ではオランダ語、医学、植物学などが教えられ、大槻玄沢が開いた芝蘭堂(しんらんどう)や、緒方洪庵が開いた大阪の適々斎塾(適塾と並び日本の「3大蘭学塾」として称されるようになります。その中で特に優秀だったのが高野長英という人物で、彼はやがて同塾で翻訳の教授として活躍するようになります。長英は杉田玄白の弟子・高野玄斎の子で、翻訳の才能をシーボルトから見出されていました。

 

 1828年、一時帰国することとなったシーボルトは、伊能忠敬が日本地図として作成した「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいぜんず)」などのご禁制のものを持ちだしたことで国外追放処分を受けてしまいます。鳴滝塾も閉鎖され、高野長英も姿をくらまします。

 しかし、蘭学そのものは普及を続け、幕府も蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を置くなど積極的に蘭学を導入しようとしました。

 そんな中、蘭学者達はオランダ語の翻訳を通じてのあいだでは、日本の鎖国制度が限界に達し初めていることを認識するようになります。

 

 そんな中、1837年モリソン号事件が起きます。これはアメリカの商船・モリソン号が、日本人漂流民の返還などを理由に国交を開始しようと浦賀に近づいた際、幕府が一方的に砲撃し、追い払ってしまったという事件です。

 長英は『戊戌夢物語』で、同じく蘭学者渡辺崋山は『慎機論』でこれを痛烈に批判します。「我が国は、海防政策においては非常に場当たり的で、国際情勢はおろか、外交手段すらも把握していない極めて原始的な国である」と。

他の蘭学者も口をそろえてこう言います。

「日本も外交の術を身につけるべきだ」

「西洋の科学技術は大きく進んでいる」

「日本も近代化をするべきだ」

 特に重宝されたのが、長英の翻訳書でした。長英はオランダ語の読解力があるだけでなく、こなれた日本語に直す力がありました。そのため、医学書をはじめ、西洋の先進的科学や産業革命以後の世界情勢についての翻訳は日本の近代化には必要不可欠となるデータでした。

 中でも西洋兵学の翻訳書は価値が高く、薩摩藩長州藩土佐藩宇和島藩などの雄藩は軍制改革を進展させるためのバイブルとしてひそかに利用するようになります。これが後に武力によって幕府を倒す明治維新へと発展していくのです。

 

 一方、幕府はこのような鎖国政策や外交手段を疑問視する声を政道への口出しと判断します。しかも老中は「悪魔外道」と呼ばれたあの水野忠邦です。

 忠邦は厳しい思想統制を行ういかにも軍人らしいイシアタマで、目付の鳥居耀蔵(とりいようぞう)と組み、1839年、蘭学者を徹底弾圧します。いわゆる「蛮社の獄」です。

 鳥居もまた少しでも幕府の意向に背く者の弾圧に血眼になったため、世人からは「妖怪」と称されるようになります。また、伝統的な漢学者であったこともあり、蘭学者を目の敵にしていました。

 

 幕府の意向に背く翻訳書を世に出したことで長英は永牢(無期懲役)の罪を言い渡され、収監されました。しかし、長英は蘭学研究を諦めることが出来ません。

 長英は牢屋敷に放火して脱獄するという非常手段をとり、自身の使命である蘭学研究を再開するのでした。

 長英は日本各地を飛び回る逃亡生活を送ります。その際、彼は薬品で顔を焼き、人相を変えたと言われています。

 

 江戸では蘭学者佐久間象山が「和魂洋才」の姿勢をとります。和魂洋才とは思想や道徳などの魂は日本のままでも科学技術などの才術に関しては西洋の文明を取り入れるべきだということですが、これに共鳴した勝海舟吉田松陰も西洋技術を取り入れる必要性を認識し、それぞれの行動に出ます。

 

 1850年、人相を変えたことで江戸に舞い戻った長英は、潜伏していた隠れ家で幕府の役人に捕縛されそうになり、覚悟の自害を遂げました。

 この3年後、ペリー率いる黒船が来航したことで幕府はようやく目が覚めます。このように幕府は有識者からの警鐘に目をそむけ、幕府は高野長英という将来の日本に有用な人物を死へと追いやったのです。

 

参考文献

早わかり幕末維新 外川淳著 日本実業出版

教科書よりやさしい日本史 石川晶康著 旺文社

 

以上。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。