【吉田松陰】テロリストと呼ばれた幕末の変革型指導者(前編)
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【吉田松陰】テロリストと呼ばれた幕末の変革型指導者(前編)」というお話です。
長州藩を取り扱う上で、この人物を紹介しておくべきだと思い取り上げました。
吉田松陰と言えば皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。初代内閣総理大臣の伊藤博文や3代目内閣総理大臣の山縣有朋など明治維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして威信の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き、安政の大獄の犠牲となった悲劇の主人公というイメージです。
一方で、久坂玄瑞や高杉晋作のような荒れくれ者の長州藩士を育成した張本人として松陰のことをテロリストと呼ぶ人も少なくありません。脱藩やペリー来航の際の密航計画、老中討ち取り計画を立てるなど、当時の法律を無視したはみ出し者であることは確かです。しかし、「松陰はテロリスト」という考えは保守派の一方的な解釈に過ぎません。
この世界の唯一正しい真理はただ1つ。世の中は常に「変化している」ということです。そんな中、旧態依然とした国や組織はその変化に対応出来なくなり、ムダを多く出し、いずれ変革を迫られます。しかし、人間は変化を嫌う生き物です。変化ではなく、安定こそが人間の本能なのです。
そこで人間の本能に逆らい、誰かが時代に変化をもたらさなくてはなりません。
吉田松陰は、間違いなく幕末を代表する変革型指導者です。変革型指導者とは、現状維持や改善・改良をするのではなく、抜本的に組織を変えるリーダーのことです。
以下、変革型指導者の6つの特徴を列挙します。
(1)自ら変革の推進を行う。(率先推進)
(2)現状に向きあい、果敢に立ち向かう(勇気がある)
(3)一貫した価値基準で動く(価値基準や信念がはっきりしているため、迷いがない)
(4)人にやる気を起こさせる。
(5)生涯に渡って学び続ける(自己啓発に貪欲である)
(6)ビジョンを追う。(夢を描き、夢を語り、みんなと共有出来る。)
吉田松陰のような変革型指導者が現代の悶々とした時代には必要だと感じます。
それでは、今回もストーリーを展開しながら、吉田松陰という変革型指導者を見ていきましょう。
1857年長州藩士の吉田松陰は‘謹慎中‘に実家の小屋を改築し、松下村塾と呼ばれる私塾を開きました。
子鳥がさえずる早朝、長州藩士である久坂玄瑞は、吉田松陰の開いた松下村塾の塾生として、今日も松陰先生の熱い授業を受けに向かいました。
塾に着いた玄瑞は、松陰と一人の門下生によるマンツーマンの講義が行われていることに気付きます。
「こんな早くから先生と彼はどんな講義をしているんだろう」
玄瑞は興味本位でその講義をしばらく聞いて見ることにしました。
「楠木正成は、南朝と北朝という天皇が2人いる不安定な時代を生き・・・」
講義内容はどうやら南北朝時代に活躍した楠木正成という人物の生涯を描いた物語のようです。
「南朝である後醍醐天皇に対し、北朝を奉り、反旗を翻したのが足利尊氏です。正成は武士としての気持ちを抑え、後醍醐天皇に忠誠を尽くし、足利氏と対立しました。‘武士に政治は絶対に任せられない。‘正しくあろうとした正成は、敵対する尊氏軍20万人の軍勢に対し、わずか800人の軍で・・・くううぅぅ
正成は負けることは・・・うぅぅぅ・・・分かっていた・・・ぐすん・・・それでも正成は・・・・くうぅぅぅ・・・最期まで・・・・うぅぅぅ」
松陰はボタッボタッと涙を流しながら歴史書を読んでいました。
「先生、泣かないでくだい。私まで・・・うぅぅ・・泣けてきていまします・・・・。主君のために命を捨てて戦いに挑む。これが家康公の時代以前からあった武士道精神なのですね。素晴らしい。この楠木正成のような人物が今の時代には必要不可欠ですね。」
松陰は大粒の涙を流しながら門下生にこう諭しました。
「それは私達だ。知識とは持っているだけでは意味がない。行動して初めてその価値を発揮するのだ。これは知行合一を唱える陽明学の教えだ。」
傍でこっそり聞いていた玄瑞にも涙が流れてきました。そして彼は決心しました。
「今の幕府には権威も統治力も皆無に等しい。このままでは列強の属国みたいな私も命をかけて幕府と戦う」と。その後、玄瑞は禁門の変で幕府軍と死闘を繰り広げることになるのでした・・・。
松陰の開いた松下村塾の塾生には先程の久坂玄瑞の他に、奇兵隊を組織した高杉晋作、後に初代内閣総理大臣になる伊藤博文、さらに3代目内閣総理大臣になる山懸有朋がいます。松陰と彼らはほとんど同い年なので、私達がイメージする先生と生徒というより、共に尊王攘夷論を語る‘ダチ‘といったイメージのようです。どちらにしても、そこには現代の杓子定規で棒読みだらけのどうしようもない授業とは全く違う「生きた講義」が行われていました。
先程、吉田松陰は‘謹慎中‘と言いましたが、松陰は一体何をやらかしたのでしょうか。時代を遡り、順を追って説明します。
1830年、長州藩の萩(山口県)で生まれ、山鹿流兵学を修めます。山鹿流とは戦国時代から伝わる軍の編成や戦術を示した兵学の流派です。
松陰はメキメキと頭角を見せ、11歳になると、松陰は、長州藩の運営する学校(藩校)である明倫館で兵学師範として軍の編成や戦術を教えるようになります。松陰は当時から神童と呼ばれていますが、11歳で教壇に立つという点から松陰がどれほどの秀才かが分かります。11歳で教壇に立つなんて漫画の世界でしか見たことがありません。
10代後半になると、松陰は「外夷小記」と呼ばれる小冊子を入手します。そこには隣国であり大国であったはずの清国(中国)が1840年にイギリスとの間に起きたアヘン戦争で敗北を喫するという経過が記されていました。これに衝撃を受けた松陰は焦ります。
「私は今まで山鹿流の兵学を修めてきた。そして、この山鹿流こそがこの世で最強の兵学だと教わった。しかし、この流派は欧米列強の軍事力に比べ、完全に時代遅れと化している。西洋には我々の想像を超える強力な兵学や軍事力が存在する。まず、それらを学びたい。」と。
こうして松陰は、西洋の軍事力や科学技術に大きな興味を示すようになりました。
やがて、松陰は諸藩の旅を望むようになります。当時は現代のような情報が飛び交う情勢ではないので、知識をもとめるならば旅をしなければなりません。
1850年、松陰が20歳になった頃、飽くなき探求心や知識欲を抑えられない松陰は遂に明倫館を辞め、九州への遊学に旅立ちます。もちろん単なる物見旅行なんかではなく、山鹿流兵学者として地域の軍事力や異国船を視察し、識者と国事を議論し、農産物を観察し、地域住民の気質などを知るためです。
松陰が他の知識人と異なるのは、「評論家に終わっていない」ということです。世の中の評論家の多くは知識はたくさん持っていても、所詮「言葉だけ」です。(1)のように行動を率先していきます。その際、誰もついてこなくても、自分一人ででも行動します。
松陰が旅先を江戸ではなく、まず九州にしたのは、当時、西洋と唯一交易をしていた世界の流入口である長崎があったことを知っていたからです。松陰は長崎、平戸、島原、熊本、柳川、久留米などの九州全域を巡り、その見聞を広げました。長崎では停泊中のオランダ船に乗ることが出来、実際の西洋の技術に感動すると同時に失望します。日本の技術は西洋に比べ、かなり遅れていると。このままでは、日本は永遠に列強の植民地支配に苦しむことになる。
松陰は(2)の現状に向きあい、果敢に挑戦する勇気があります。人は変化することを極端に恐れます。現状維持のまま安定した環境にずっと身を置いていたいと思うものです。しかし、「現状維持は退歩なり」と言いますが、現状維持を決めた国や組織は緩やかに衰退していきます。
そして、松陰は西洋の技術を取り入れるために、人口100万人の都市であり、政治、経済、文化の中心である江戸へ向かいます。
江戸に向かった松陰は、蘭学者・佐久間象山に出会い、塾生となります。同じ塾生には勝海舟もいました。この頃、既に尊王攘夷運動が盛んに行われていましたが、佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」(この場合、芸術とは科学のこと)という言葉を残し、単に外国を排除するのではなく、発達した西洋の科学技術をむしろ取り入れるべきだと主張しました。
そんな象山の弟子である松陰は、西洋の科学技術を徹底的に学び、「和魂洋才」の姿勢をとるようになります。「和魂洋才」とは、「魂」は日本のままだけど、科学技術などの「才術」は西洋のものを使うという意味です。
1851年、松陰は、異国に対する東北の備えを検分することを目的に東北への旅を希望します。しかし、東北の関所には藩の通行手形が必要です。松陰は江戸に設置されている長州藩庁に旅の許可を申し出ましたが、通行手形を発行するには長州藩主の捺印がいるとのこと。今から江戸を出て、長州に戻り、藩主の捺印をもらい、江戸に戻るとなると最短でも2カ月はかかります。藩庁は松陰に旅を延期するように言いました。
こんな役所体質の藩に松陰は腹を立て、1851年、松陰は遂に脱藩してしまいます。
脱藩した松陰は、東北を旅し、津軽(青森県)にまで足を延ばしています。
その途中、松陰は水戸藩(茨城県)で水戸学に異常な興味を示すようになります。水戸学とは鎌倉時代以前に存在した天皇を中心とする皇国意識と鎖国制度を守る海防意識を背景に、江戸時代初期から発達してきた学問であり、天皇を中心とした中央集権国家を謳っていました。
列強に対抗するべく日本が一致団結する必要性を説いていた松陰にとって、この思想・学問は非常に重要なものに映ったのです。こうして松陰は水戸学という尊王攘夷に目覚めたのでした。
そして、1853年、松陰は東インド艦隊司令長官ペリー率いる黒船が下田に停泊しているとの情報を入手し、急いで下田に向かうのでした・・・。
後編につづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。