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【第1次伊藤内閣】伊藤博文率いる閣僚の皆さん【伊藤博文】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【第1次伊藤内閣】伊藤博文率いる閣僚の皆さん【伊藤博文】」というお話です。

 

 政府は、自由民権運動を取り締まる中、自らの主導のもとで、立憲体制の実現を図りました。まず、1882~1883年には伊藤博文率いる憲法調査団がヨーロッパに渡り、ベルリン大学グナイストモッセウィーン大学シュタインに立憲政体に関する講義を受けるなど憲法起草に伴う知識獲得を行いました。

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 続いて1884年、華族が制定されます。華族令によって、旧大名や旧公家などのかつての支配者層に公(こう)・侯(こう)・伯(はく)・子(し)・男(だん)の爵位を与えられました。なぜこの制度が作られたのでしょうか。この後、明治政府は国会を開くわけですが、それに伴い、政府は衆議院貴族院の2院制を考えていました。衆議院は選挙によって国民の中から選出されますが、貴族院に関しては、旧大名や公家、明治維新の功労者など有力者を選出母体とする必要があります。華族令も立憲体制樹立のための大事な制度なのです。

 

 そして1885(明治18)年、内閣制度が発足さ、第1次伊藤博文内閣が誕生しました。伊藤博文率いる閣僚の皆さんは、以下の通りです。官職、氏名、年齢、出身、爵位の順で列してあります。

総理大臣  伊藤博文(いとう ひろぶみ)  45歳 長州藩出身 伯

外務大臣  井上馨(いのうえ かおる)     51歳 長州藩出身 伯

内務大臣  山縣有朋(やまがた ありとも) 48歳 長州藩出身 伯

大蔵大臣  松方正義 (まつかた まさよし)  51歳 薩摩藩出身 伯

陸軍大臣  大山厳(おおやま いわお)        44歳 薩摩藩出身 伯

海軍大臣  西郷従道(さいごう つぐみち) 43歳 薩摩藩出身 伯

司法大臣  山田顕義(やまだ あきよし)    42歳 長州藩出身 伯 

文部大臣  森有礼(もり ありのり)              39歳 薩摩藩出身 

農商務大臣 谷干城(たに たてき)               49歳 土佐藩    子

逓信大臣  榎本武揚(えのもと たけあき) 50歳 元幕臣   

 

ご覧の通り、長州4人、薩摩4人、土佐1人、元幕閣1人という完全なる薩長藩閥体制です。この薩長藩閥体制は、戦後まで続きます。というわけで、第1次伊藤内閣の閣僚の皆さんのプロフィールをご紹介いたします。

総理大臣  伊藤博文    45歳 長州藩出身

 言わずと知れた初代内閣総理大臣です。長州の下級武士の子として生まれたため、幼少期は、まともな勉強をすることが出来ずにいました。しかし、16歳で吉田松陰が主宰する松下村塾に加わり、松陰の影響を受けます。その後、高杉晋作桂小五郎木戸孝允)の弟分になり、尊王攘夷思想を学びました。21歳で東京・品川のイギリス公使を襲撃するなど若い頃は血気盛んな暴走族でした。

 明治維新後は、兵庫県知事に就任。岩倉使節団では副使を務めました。自信家でプライドが高く、任された仕事は最期まで責任をもって取り組む性格。そのため、大久保利通にみ込まれ、工部卿宮内卿とメキメキ出世していきます。

 内務卿の大久保が殺された後は、内務卿を引き継ぎ、井上や大隈重信とともに明治政府の中心人物として政治運営をしていきました。そして今回の総理大臣就任とともに、大日本帝国憲法の起草という大きな仕事をやり遂げました。

 明治天皇からも厚い信頼を得ており、天皇は何かというと伊藤に命令したそうです。伊藤は今後も5代、7代、10代と合計4回総理大臣をやります。また、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監府を歴任します。

 

外務大臣 井上馨(かおる) 51歳 長州藩出身

 

 幕末に高杉、伊藤らと尊王攘夷運動に参加。第二次長州征討では幕府軍と戦い、勝利に貢献しました。明治維新後の太政官制度下では外務卿を務めており、今回の内閣制度発足とともに外務大臣としてその役職を引き継ぎました。

 この後、井上は不平等条約改正で風俗や生活様式を西洋化する欧化政策を進めます。東京・日比谷に鹿鳴館という洋式の建物を建て、交渉のための舞踏会や音楽界を連日連夜行ったことで、世論の非難を浴びます。結局、条約改正は失敗に終わり、外務大臣を辞任します。

 その後は、大蔵大臣に就任し、当時の経済界、特に財閥の三井や、大阪の鴻池と深い関係を持ち、三井の最高顧問のような地位となって、三井物産などの貿易商社創設に関わります。また、日本銀行設立に関与するなど日本の資本主義経済の基盤を整えていきます。このように経済界においては大きな勢力を振るったものの、とうとう総理大臣になることはありませんでした。

内務大臣 山縣有朋   48歳 長州藩出身

 

 

 伊藤と同じく、大変身分の低い下級武士の子として生まれる。10代後半で松下村塾の塾生として尊王思想を学びました。高杉晋作が組織した奇兵隊の幹部となり、事実上の指導者となり、その後は、軍人としての道を歩みました。

 伊藤のような一匹オオカミタイプではなく、人脈作りや人材育成が大変上手。そのため、山縣閥という派閥が出来ました。彼の直系から後に総理大臣になるのは、桂太郎という人物です。軍人でありながら、今回の内務大臣だけでなく、後に司法大臣もやります。人材育成のプロである山縣は、内務省や司法省の中にも山縣閥を作り上げます。そして山縣は第3代、第9代内閣総理大臣に就任します。それと同時に山縣閥の官僚がどんどん引きたてられ、巨大勢力を形成し、伊藤が暗殺されてからは、その勢力は加速。途方もなく巨大な山縣閥が出来上がります。この山縣閥に対抗したのが、後に第19第内閣総理大臣となる原敬(はらたかし)でした。

大蔵大臣 松方正義   51歳 薩摩藩出身

 

 薩摩藩の下級武士の子として生まれます。大久保利通に実力を見込まれるも、伊藤や大隈重信から比べると、かなり地味な印象でした。また、井上や山縣のような超特急で出世するようなタイプではなく、しばらくは県知事として地方を回っていました。

 静かに淡々と正確に仕事を進めるタイプで実行力に富むキレ者タイプではありませんでした。

 激しいインフレが起きていた1881(明治14)年、大蔵卿の大隈が罷免されたことで、松方が大蔵卿引き継ぎました。これがいわゆる「松方デフレ」というヤツです。

 薩摩出身のリーダーといえば、黒田清隆西郷従道であり、松方はナンバー3と、やはり地味な印象。今回の伊藤、続く黒田、山縣の後に第4代、そして第6第内閣総理大臣に就任します。

陸軍大臣 大山厳(おおやま いわお)44歳 薩摩藩出身

 

 薩摩の砲術職人の子として生まれる。西郷隆盛とは親戚関係。幕末では島津久光大久保利通と共に寺田屋を襲撃し、倒幕派を一掃しました。(寺田屋事件)。薩英戦争では、黒田清隆や、西郷従道らとともにイギリス艦隊に乗り込むことにも成功しています。(薩英戦争では、薩摩藩の敗北で終わりました。)

 藩論が、倒幕路線になってからの大山は薩摩の最新鋭の銃隊を率いて鳥羽・伏見の戦い会津藩と戦いました。明治維新後の西南戦争では政府軍として前線で指揮を取り、西郷軍を圧倒しました。

 その後、大山は日清戦争では第2陸軍司令官として、日露戦争では満州軍の司令官として日本の勝利に貢献します。これによって、同じく薩摩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」とよばれるようになります。

海軍大臣 西郷従道(さいごうつぐみち) 43歳 薩摩藩出身

 

兄・西郷隆盛と共に時の薩摩藩主・島津斉彬の雑務係になる。明治維新最大の立役者である「西郷隆盛」の弟です。18歳で尊王攘夷運動に加わると、最前線で戦いに臨みます。鳥羽・伏見の戦いでは、銃弾が身体を貫通する大けがを負うも、一命を取りとめる。

兄・隆盛が征韓論に敗れ、政府を去った後、従道は政府に残りました。これが兄との最後の別れとなりました。なお、西南戦争には、出兵せず、東京で留守番をしていました。その理由は、「あいつは隆盛の弟だ!」と罵られ、とばっちりで仲間達から殺されると思ったためです。総理大臣の候補として上がるも、従道はずっと断り続けます。その理由は、「兄が反逆者なのに、その弟が国のリーダーを引き受けるわけにはいかない」ということでした。

司法大臣 山田顕義(やまだあきよし) 42歳 長州藩出身

 

 伊藤、山縣と同じく松下村塾に入門。当時、山田は15歳で、最年少でした。高杉晋作久坂玄瑞の弟分として尊王攘夷思想を学ぶ。「八月十八日の政変」では三条実美ら7人の長州亡命に随行し、「禁門の変」では、久坂玄瑞と共に出兵するなど、いわゆる「ならず者長州藩士」の一員でした。薩長同盟締結後の第二次長州征討では幕府軍艦の奇襲攻撃に成功しました。

 明治維新後は 岩倉使節団にも随行し、ヨーロッパ各国を視察し、各国の法制を学びました。それがきっかけで、軍人として人生から、憲法や法整備に尽力する人生を歩むようになりました。今回の伊藤内閣に続き、黒田内閣、山縣内閣でも引き続き司法大臣を務めます。法整備を進める傍ら、日本法律学校(現在の日本大学)を創設します。

文部大臣 森有礼 39歳 薩摩藩出身

 

 薩英戦争でイギリスの最新鋭の武器を目の当たりにし、西洋の偉大さを肌で感じました。その後、薩摩藩の渡英事業のメンバーとして五代友厚寺島宗則らとともにイギリスへ留学しました。明治維新後は、西洋の思想を日本に普及させるために、明治の啓蒙団体「明六社」を創設しました。

 森は文部大臣就任後、帝国大学令師範学校令・中学校令・小学校令など一連の学校令を制定します。

農商務大 臣谷干城 49歳 土佐藩

 

 土佐の下級武士の子として生まれる。尊王攘夷運動に加わった後、長崎で坂本龍馬後藤象二郎に出会い、攘夷は不可能と知る。その後は倒幕路線を取り、西郷隆盛と共に戊辰戦争では前線で戦いました。西南戦争の時には軍隊を指揮し、熊本城を守り、皮肉にも旧友だった西郷隆盛ら軍隊を蹴散らしました。今回の農商務大臣就任後は、伊藤内閣の欧化政策、特に井上馨外務大臣の連日連夜の舞踏会や音楽会を批判しとことで、政府内での関係が悪化し、大臣を辞任します。後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開していきます。

逓信大臣 榎本武揚 50歳 元幕臣

 

 彼は元幕臣であり、かつて政府軍の敵として戊辰戦争を戦った人です。当時の政府は面白いもので、一時的に政府に盾ついた人でも、有能であれば、大臣にまで引き上げてくれました。幕臣の子として江戸に生まれ、昌平坂(しょうへいざか)学問所で英語や洋学を学びました。20歳で長崎海軍伝習所に入り、勝海舟から軍官の操縦や航海術を学びました。

 戊辰戦争がはじまると、旧幕府軍として政府軍と戦います。旧幕府は敗走を続け、軍艦で函館に向かい、土方歳三らと五稜郭に立て籠もりました。北海道で新しい国家を築こうとしたのです。しかし、政府軍の執拗な攻撃を受け、降伏しました。明治維新後は、許してもらい、開拓史長官・黒田清隆のもとで、北海道開拓に尽力しています。

 

政府はこの後も立憲体制の整備を着々と続けていきます。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史       石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史     鳴海靖=著  山川出版社

明治大正史              中村隆英=著 東京大学出版会

https://jpreki.com/ooyama/

https://bushoojapan.com/tomorrow/2014/05/03/19223

http://www.sankei.com/region/news/170518/rgn1705180008-n1.html

http://www.tosa-jin.com/tani/tani.htm

http://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_06.html