【大日本帝国憲法】なぜドイツの憲法を手本にしたのか【伊藤博文】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【大日本帝国憲法】なぜドイツの憲法を手本にしたのか【伊藤博文】」というお話です。
今回は「日本はなぜ、ドイツの憲法を手本にしたのか」に触れながら、大日本帝国憲法が発布されるにいたるまでのストーリーを紹介していこうと思います。
天皇を通じて国会開設を約束した政府は、憲法作成に乗り出します。その際、政府の最大の目的は、「天皇の権限を利用して、人民を支配すること」です。一方、国内では自由民権運動が盛り上がりを見せ、フランス流の自由党、イギリス流の立憲改進党が結成されました。これに対抗するべく政府はドイツの君主制の強い憲法に着目し、その目的を果たそうとしたのです。
幕末の革命で、徳川将軍家から政権を奪った明治政府ですが、彼らは「尊王」という大義名分のもと、倒幕を図りました。彼らが目指したのは、天皇を中心とする国家体制であり、もっと言うと、「天皇の権限を利用して、人民をコントロールする支配体制を築くこと」でした。
明治政府がドイツに強い興味を示したのは、岩倉使節団として欧米を視察した時に遡ります。岩倉らは、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、イタリア、そしてドイツの視察をしました。(岩倉使節団については以下のリンクから)
motomiyatakahiro.hatenablog.com
岩倉らが欧米を視察した1871年、プロイセンはビスマルク首相の強いリーダーシップによりフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利。プロイセンはドイツ帝国として成立しました。
「万国公法よりも力の理論」を説くビスマルクは、国家の統一に必要なのは、鉄と血、つまり兵器と兵士であるとする鉄血演説を行いました。
岩倉使節団員の大久保利通や木戸孝允、そして伊藤博文はこの演説に強い感銘を受けます。日本が今後、軍事国家を目指すのは、このドイツ帝国を範にしているからなのです。
岩倉使節団が帰国した後、1870年代半ばから、政府に対し、憲法の制定や参政権を求めて国内で自由民権運動が盛り上がってきます。次第に民権派は、どのような国会で、どのような憲法を作るかを具体的に提起していきます。
一方、政府内部では、「開拓史官有物払い下げ事件」の世間への暴露は、参議・大隈重信と民権派が手を組んで行った陰謀ではないかと疑いが湧きあがります。
1881(明治14)年、政府は大隈を罷免。(明治14年の政変)同時に、1890(明治23)年を期して国会を開設することを約束した国会開設の勅諭を明治天皇の名前で宣言しました。
国会開設が決まったところで、板垣退助を党首としたフランス流の自由党、さらに政府から追放された大隈重信を党首としたイギリス流の立憲改進党が結成されます。両者は、当時、既に民主国家として成立していたフランスやイギリスをモデルとした政治形態を謳う政党です。
一院制で主権在民(国民主権)、さらに君主のいない共和制のフランス、ニ院制で君主の権限が制限されている立憲君主制のイギリス。この両者をモデルとした憲法を作ってしまうと天皇の権限が著しく低下するだけでなく、人民に主導権を奪われてしまうと危惧した政府は、民権派に対抗するべくドイツの君主制の強い憲法をモデルに憲法草案を作成することに決めました。
(君主とは、西洋では国王のことを指し、日本では天皇のことを指します。)
岩倉具視は、伊藤博文にドイツ帝国へ憲法調査に向かうよう命令します。
こうして伊藤博文らは憲法調査のためにドイツに向けて1882(明治15)年3月14日、横浜を出港した。憲法調査団の中には、皇室制度などを調べるために西園寺公望なども随行します。
伊藤ら一行は同年5月2日、イタリアのナポリを通って、16日にベルリンに到着。翌1883年2月まで滞在することになります。
到着して間もなく、伊藤はビスマルク首相に面会を求めて言いました。
「我々は、憲法調査のために欧州にやってきた。ベルリンはその拠点にしたい」
面会に応じたビスマルクは答えます。
「出来る限りの協力は惜しまない。」
ビスマルクはドイツ法曹界の最高権威であるベルリン大学教授のグナイストや、ウィーン大学のシュタインなどからドイツ憲法の概要について講義を受けました。
(ウィーン大学・・・当時、オーストリアは1866年の普墺戦争でプロイセンに敗れ、ドイツの支配下に置かれていた。)
伊藤らは、体系的な法体系を学ぶためにグナイストやシュタインからプロイセン憲法の概論について講義を受けます。
さらに、グナイストの紹介で、ドイツの国法学・行政学者でベルリン市裁判所判事であるアルベルト・モッセから講義を受けます。モッセの講義内容は非常に充実おり、伊藤らはプロイセン憲法制定の歴史、国王の地位、国民の要件、選挙制度、政府と議会の関係、司法、警察、財政、地方自治などの講義を受けました。
モッセは後の1886年(明治19)年、お雇い外国人として来日し、内務省法律顧問として就任。日本の地方自治制度の起草において活躍します。
その後、日本は憲法発布に伴い、立憲体制をどんどん整備します。そして1889年、大日本帝国憲法が発布されたことで、アジア初の近代憲法を持つ国となった日本は各地で祝賀イベントが開催されました。しかし、憲法の規定する帝国議会は人々の望んだ主権在民(国民主権)とは程遠く、後の大正デモクラシーを引き起こす原因になるのでした・・。
憲法調査団一行は、1883(明治16)年8月3日に帰国します。
翌1884(明治17)年から伊藤はプロイセン憲法を手本に本格的な憲法草案を書き始めました。憲法草案はドイツ人顧問ロエスエルの指導のもと、何度も加筆修正を加えながらどんどん起草されていきます。
翌1885(明治18)年、内閣制度が発足され、伊藤は、初代内閣総理大臣に就任します。それに伴い、今後、日本の立憲体制はどんどん整備されていきます。
1888年には、先程のモッセの指導のもと、山縣有朋を中心に市制・町村制が制定されるなど地方自治制度も確立していきます。
同年、憲法の番人とよばれた枢密院が設置されます。伊藤は黒田清隆に内閣を譲り、枢密院の議長として憲法作成の最終段階に入ります。
そして、1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が欽定憲法として、明治天皇が黒田首相に手渡すカタチで発布されました。
(欽定憲法・・・・天皇が制定した憲法のこと。因みに民定憲法とは、国民が作った憲法。)
ここにアジア初の近代憲法を持つ国が誕生しました。
明治維新以降、欧米諸国に対抗するべく近代国家樹立を目指してきた日本は、ここでようやく立憲体制の樹立という1つのピリオドを打ったのです。
発布当初は、国の歴史的慶事として官民あげての祝賀イベントが全国で行われました。実際に発布された憲法が人々の望むものだったかどうかはともかく、国中はお祭りムードになりました。式典用の洋服や帽子、靴などの注文が殺到して品切れ状態が続いたり、国旗が旗屋から姿を消したりと、異常な社会現象が巻き起こりました。
発布に伴って潤った業者は、提灯屋、旅人宿、洋服屋、旗屋、貸馬車、車屋、借馬、料理屋、弁当屋など多岐にわたります。
そして、この当時、「万歳(ばんざい)」という言葉も生まれました。これは大日本帝国憲法発布を盛り上げるための高唱として考案されたものだったのです。
大日本帝国憲法の発布は、日本が近代国家として誕生したことへの大きな感慨を抱いた出来ごとだったのです。
しかし、憲法の規定する帝国議会は、貴族院と衆議院のニ院制であり、衆議院の選挙権は直接国税15円以上の一部の納入者(全人口の1.1%)にしか与えられず、人民が主体に政治に参加する民主主義とはかけ離れたものでした。これが後の大正デモクラシーに繋がっていくのでした・・・・。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
お雇い外国人とその弟子たち 片野勧=著 新人物往来社