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【南北朝時代4】なぜ守護は大名化したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【南北朝時代4】なぜ守護は大名化したのか」というお話です。

南北朝の動乱期、室町幕府北朝側)は勝利するために、地方武士を束ねる各国の守護に3つの権限を与えて協力を呼びかけました。

3つの権限とは、苅田狼藉を取り締まる権限、幕府の判決を強制執行する使節遵行の権限、国内の荘園や公領の年貢の半分を徴収する権限です。

 

苅田狼藉とは、田地をめぐる紛争が起きた際に、当事者の一方が所有権を主張して勝手(実力)に稲を刈り取る実力行使のことで、守護はその取り締まりが行えるようになりました。

使節遵行の権限は所領についての争いの判決を執行し、敗訴人をその土地から追い出して勝訴者に引き渡すことをいう。この権限は検断権(刑事事件の取り締まり)しかなかった守護が、当時の人々の最大の関心事だった所領についての紛争に介入する権限を獲得したことを意味し、その任国の一括的な支配に大きく歩を進めるきっかけになりました。

年貢の半分を徴収する権限は、1352年にはじめて発布された半済令によって伝えられた。これは荘園の年貢の半分を兵糧米(兵士のための食料)を軍事費として差し出させる権限を守護に与えたものです。それを国内の武士にどのように配分するかは守護の権限とされました。当初、この半済令は1年限りで動乱の激しかった近江・美濃・尾張に限定されていたが、1368年には全国に拡大され、無期限になってしまいました。

 

これらの権限は守護が国内の武士に恩賞を与えることが出来るようになったことを意味します。

こうして権限が拡大した守護たちは、任国内の荘園や公領を侵略し、その利益を国内の地方武士に分け与えることで彼らを支配下に置きました。当時、荘園を支配していた地方武士たちを国人と呼びます。国人たちの中には、守護に頼らずに自分達で結束して、相互の紛争を解決したり、農民を支配するために契約を結ぶ者もいました。こうした地域的な自主的結束を一揆国人一揆)といいます。守護の支配に抵抗する者もいましたが、多くの地方武士は守護の支配下に入っていきました。

また荘園や公領の年貢の徴収を領主から守護が請け負う守護請も普及した。これにより守護の中には、国衙の機能を吸収して一国全体を領国のように支配する者も出てきました。こうした守護を鎌倉時代の守護と区別して守護大名といいます。

 

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

聞くだけ日本史  古代~近世  東京大学受験日本史研究会

いっきに学びなおす 日本史 古代・中世・近世【教養編】 東洋経済新報社 山岸良二=監修