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【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか」というテーマでお伝えしたいとおもいます。

 中世は、一般に「自力救済」の時代と言われています。それは、自分のことは自分で守るというという意味ですが、それは個人単位だけでなく、組織や地域単位でも重視されました。

 鎌倉時代末期になると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現しました。これを惣村(惣)といいます。この惣村では「一致団結」というのが何より重視されます。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられました。

 今回は、そんな自治的村落(惣村)について解説していきながら、「なぜ農民たちは自自治組織をつくったのか」について見ていこうと思います。

鎌倉時代、農村では、地頭や荘官(領主)からの不当な要求や収奪に対して自衛組織を作って対抗しました。彼らは領主への年貢は村で一括して納入する地下請(百姓請)を行いました。もし領主が過分に税を強要したり、不正に農民から搾取しようとした場合、一致団結して抵抗しました。

 鎌倉時代は、農業技術の進歩により、荘園では生産性が高まった時代でした。生産力が高まったことで農民の暮らしが良くなると、名主から土地を借りて耕作していた農民たちが、自ら新田を開き、小作農から自作農へと成長していく者も現れました。

 こうしたことから、農民の暮らしは徐々に向上していき、荘園で暮らす農民たちは、収穫をあげる努力を続け、とれたものを出来るだけ多く手元に残そうとしました。

 これに対して、荘園を支配・管理していた地頭や荘官などの武士は、様々な名目をつけて農民たちに臨時の税をかけたり、労働にかりたてて直営地の耕作などに当たらせようとしました。農民たちは、自分たちは下人や所従ではないので、従者のように使われてはたまらないと抵抗しましたが、年貢や公事が滞れば、罰金を取られ、罰金を払えずに下人に身を落とす人もいました。

 こうした地頭や荘官の厳しい圧迫に対して、農民たちはだまっていたわけではありません。荘園領主に地頭・荘官の乱暴や非法を訴えたり、年貢を減らすように要求したりしました。こうした要求をするときには、荘園領主に文書を差し出して訴えました。これを百姓申状といいます。その際、農民たちは神社などに集まって共同して行動することを誓い、約束したことを破らないと神仏に誓う文書(起請文)をつくりました。

 そして、訴えが認められない場合には、農民たちは一致団結して抵抗し、要求を認めさせようとしました。その方法は、主に以下の3つです。

「強訴」・・・村人全員で要求を掲げて、地頭や荘官のもとに押しかける。

「逃散」・・・農民たちが集団で田畑を耕すのをやめ、荘園の外に逃げ出すこと。

土一揆」・・・刀や弓などを持ち出し、武力によって抵抗すること。

 こうして団結を強めた農民たちは、村ごとにまとまり、鎌倉時代の後期になると、地下請(百姓請)といって、荘園領主と契約して自分たちで年貢の徴収や納入を請け負うようになりました。 

南北朝時代になり、戦乱が多発すると、農民の自衛組織は、運営面から自治組織(惣村)へと発展していきました。惣村では、寄合という村民による会議を重視し、惣掟という規則を自分達で決めました。乙名・沙汰人などと呼ばれる指導者を中心に、地域の神社などの祭礼を主催した宮座などを核に団結しました。

 農村内で自作農が増えてくると、これまで名主(古くからの有力な農民)にしたがっていた中小の農民たちも、権利を主張するようになり、荘園内の様々な問題を、名主だけの考えで決めることが出来なくなりました。

すると、惣村内での様々な取り決めが必要になりました。

山野の共同利用はどうするか、

かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか、

祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、

盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、

荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか、

周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、

 などについて、名主ばかりではなく、中小の農民もふくめてみなが神社などに集まって相談して決めるようになりました。

 こうして鎌倉後期から名主・農民たちが村や地域ごとにまとまった、惣村とよばれる自治組織が畿内を中心に生まれました。

 惣村内部では、名主を含めた構成員(村人達)は、惣百姓とよばれ、農業の共同作業や、戦乱に対する自衛を通じて結束しました。惣百姓は山や野原などの共同利用地である入会地を確保し、灌漑用水などを共同で管理しました。年貢も惣村がひとまとめに請け負う地下請、もしくは百姓請が広まっていきました。

 また、惣村は、番頭・沙汰人・乙名(おとな)と称するリーダー(地侍や名主層)によって構成される宮座とよばれる祭祀集団が中心となって運営されました。村の重要な決定事項には、合議機関として寄合(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされました。なお、寄合は全員参加が原則でした。

 また、戦乱や犯罪から村人の命や財産を守ことも、惣村運営における重要な要素でした。惣村では、団結を守るために村内の掟である惣掟を定め、掟を破ったり、犯罪をおかしたりした者を厳しく処罰しました。

たとえば、1504年2月14日の深夜、村共有のワラビ粉を盗んだ母子(母1人、子供2人)が村人たちに捕らえられ、処刑されました。この話を聞いた領主の九条政基は、「なにも殺すことはないだろう」と日記に書きつけているが、たかがワラビ粉であっても、村落の秩序と結束を乱した母子の罪は、村人たちにとっては許し難い裏切りだったのです。それほど惣村の結束には固いものがありました。

 村内では、村全体の秩序を保つために村民同士が互いに警察権を行使し、違反者・犯罪者以外にも、浮浪者やよそ者を取り締まりました。これを地下検断といいます。

他にも惣掟には、生活に密着したものが多く定められていました。

「よそ者は身元保証人がいなければ、村に住まわせてはいけない」、

「入会地の木枝をとった者は罰金100文に処する」、

「拾ったと偽って畑の作物を盗んではいけない」

などがありました。

また、戦争の余波で村に兵士が乱入した際には、武力で兵士を追い払うこともしばしばだったそうです。

 

では、最後に惣村が発達した事例を紹介して終わりにしたいと思います。

惣村として、よく知られているのは、琵琶湖の北岸にあった菅浦(滋賀県長浜市)です。菅浦の住民は13世紀から15世紀にかけて、となりあった大浦の住民と境界をめぐって激しく争い、それぞれの村は団結を強めていました。菅浦の人々によって結成された惣は、15世紀から16世紀にかけて次第に組織を整え、乙名(おとな)とよばれる年長の指導層が、若衆とよばれる者たちを率いて惣の運営に携わりました。住民たちは警察や裁判に関する権限まで自分たちの手に握り、自治を行いました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

聴くだけ  日本史  古代~近世    東京大学受験日本史研究会

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著    日本実業出版社