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【一向一揆】なぜ一向宗は一揆を起こせたのか【蓮如】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【一向一揆】なぜ一向宗一揆を起こせたのか【蓮如】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

一揆という言葉の原意は、「一致団結」ということでした。やがてそれが武力で権力に抵抗し、自分達の要求を受諾させるという意味に転化したのです。当時、一揆とは庶民が支配者層に対抗する、ほとんど唯一にして強力な手段でした。

一言で一揆と言っても、その性格によって次の4つに分けられます。

土一揆・・・惣村の農民(土民)が結束して徳政(借金の帳消し)などを求めて抵抗すること。

一向一揆・・・・・一向宗門徒が挙兵すること。

国人一揆・・・・国人(有力な土着武士)が守護大名から一国の支配権を奪取しようとすること。

百姓一揆・・・・江戸時代に農民が年貢の減免などを幕府や藩に要求して隆起すること。

今回は、この中の一向一揆について解説します。今回もストーリー形式で、なぜ一向宗一揆を起こせたのかについて見ていこうとおもいます。

 

一向宗とは、浄土真宗のことです。

浄土真宗の教えは、他の修行に気を取らたりせず、阿弥陀仏を信じてひたすら念仏を唱えることでしたが、一向に念仏を専修することが由来です。

この一向宗の信者たちが起こした一揆が、一向一揆です。一向一揆は、1467年の応仁の乱以降に頻発するようになり、時代を動かす要因の1つとなりました。

その背景にあったのが、室町時代に活躍した蓮如でした。1457年、蓮如存如を継いで本願寺第8世に就任しました。

本願寺親鸞墓所から発展した寺院ですが、当時の本願寺天台宗の青蓮院の末寺扱いとされており、経営に苦しみ、ひどく寂れていました。

(青蓮院・・・・京都市東山区にある天台宗の寺院。天台座主・行玄が1150年に創建。)

蓮如はこれを打開するために、親鸞の教えを再びさかんにしようと京都周辺で積極的に布教活動を行い、信者を組織化することで、本願寺の再建を図りました。

領主(地頭や荘官)たちの厳しい収奪行為に苦しめられた農民は、自衛組織(一揆)をつくることで、抵抗しました。さらに、応仁の乱をはじめとした戦乱が乱発すると、農民や町民は自衛意識をさらに強め、農民たちの自衛組織は、運営面を考えて自治組織へと発展していきました。

蓮如は、そうした民衆の自衛意識や連帯意識を利用しました。蓮如は庶民でも読める平易な仮名遣いの文章で教義を説く御文を各地の門徒に送って布教を促し、信者を獲得していきました。

こうしたやさしい言葉遣いで書かれた蓮如の教えに惹かれた民衆は、一向宗門徒(信者)となっていきました。

こうした信仰心によって一体感を強めた民衆は、さらに自衛組織を強め、守護大名とも渡り合えるようになっていきました。

こうした門徒たちが作った町は、寺内町といって周囲を土塁や堀で囲むという独特な構造を持っていました。いわば城塞都市です。こうして寺を中心に形成された城郭都市を寺内町といいます。

一方、蓮如の方は、比叡山延暦寺から1465年に大谷の本願寺を焼かれてしまうなどの迫害を受けていました。延暦寺は、一向宗本願寺派の急激な門徒増加に危機感を抱いたのです。

そのため、蓮如は難を避けるために加賀国との国境に近い越前国の吉崎(福井県あわら市)に拠点を移し、そこに寺(吉崎御坊)を開きました。

以後、蓮如北陸地方を中心に教団を拡大させていきます。

蓮如は北陸の村々に講とよばれる門徒の組織をつくり、要所に道場を設けて、そこを信仰の拠点としました。そして、教えをわかりやすい手紙でつづった御文を各地に送って、門徒たちを指導しました。

こうした蓮如の活動によって、北陸一帯には浄土真宗門徒が増えていきました。

そのころ、加賀国の守護である富樫家では、兄の政親と弟の幸千代が後継者争いをしていました。政親は本願寺門徒を味方につけて、弟を破りましたが、それから1年もしないうちに今度は門徒の力を恐れて一向宗本願寺派を弾圧するようになりました。

これに対して、門徒たちは、年貢の納入を拒むなどの抵抗をしました。蓮如はこうした門徒たちの動きを抑えようとしますが、抑えきれなくなり、1475年、遂に吉崎を去ります。そして1483年、蓮如は京都に戻り、郊外の山科に本願寺を再建しました。そこは、土塁や堀、石垣で周囲を堅め、境内には堂塔のほか門徒の居住エリアもあり、城郭都市の様相を呈していました。

 

一方、加賀国では、1487年、政親が9代将軍・足利義尚の要請に従って、従軍するために国を離れました。そのすきに本願寺派門徒や地元の武士達が政親の一族である富樫泰高をかつぎあげて蜂起しました。そn数は10万とも20万ともつたえられています。

この知らせを聞いた政親は急いで帰国するも、門徒の力は強大で、1488年に自害しました。これを加賀の一向一揆といいます。

以後、加賀国門徒らに支配され、幕府が税をかけようとしても、荘園領主が年貢をとろうとしても、本願寺の了解がなければ何も出来ない状態になりました。つまり、このときの加賀国は、時の権力者の力の及ばない独立国となっていたのでした。

これお以後、約100年間、加賀国一向宗本願寺派の領国となり、「百姓の持ちたる国」とまで言われ、その隆盛を極めましたが、16世紀後半に織田信長によって滅ぼされるのでした。

一方の蓮如は、晩年には大阪に石山本願寺を創建し、本願寺派の隆盛の礎を築き上げました。

 

今回は一向一揆について解説してみましたが、16世紀以降に活発化する一向一揆は、農民たちの自衛意識や連帯意識が基盤となっており、蓮如は、そうした農民たちの感情を利用して信仰心のもと、権力者たちに対抗できるくらいの組織を創り上げたのでした。

寺内町は近畿・北陸・中部地方などに多く造られました。現在でも、今井町、一身町、富田林にその名残を見ることができます。