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【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか」というお話です。

 1576年4月、冷戦状態が続いていた本願寺が中国の毛利や越後の上杉と結託して、新たに信長包囲網(第3次信長包囲網)を形成。再度、信長に反旗をひるがえしました。

 信長も本願寺周辺に新たに砦を築き、明智光秀佐久間信盛荒木村重滝川一益羽柴秀吉、原田直正らを投入して、一気に本願寺の攻撃する態勢をつくりました。

 原田直政は、信長の有力武将の一人で、1570年~1573年まで京で行政官を務めていました。1574年からは山城、大和の守護職役に命じられ、長篠の戦い越前一向一揆攻めに参加しています。1575年に信長が家臣の任官を求めたときには、光秀の日向守(ひゅうがのかみ)や秀吉の筑前守(ちくぜんのかみ)とともに、備中守(びっちゅうのかみ)に任じられ、原田の姓を授けられました。

 信長はそんな原田に対し、本願寺包囲戦の総大将に任命し、同年5月3日、天王寺砦の原田隊に木津川砦の攻撃を命じました。本願寺の海への交通路をつぶすためです。
原田は2千人の兵を率いて出撃するも、その動きは本願寺に伝えられ、本願寺からは1万人の門徒衆が次々に出撃して原田隊を三津寺で迎え撃ちました。

 攻撃の中心は雑賀鉄砲衆です。彼らが先頭に立って斉射すると、原田隊は総崩れ、直政は討ち取られました。

 門徒勢は勢いに乗り、逃げる織田勢を追って天王寺砦に殺到しました。砦には明智光秀ら2千人が立て籠っていたが、本願寺勢は増えるばかりで、このままでは砦が落ち、光秀の命も危ないという切羽詰まった状況になった。

 急を聞いた信長は、5月5日、京から若江(東大阪市)に着陣したが、軍勢は騎馬の武者と馬廻り衆を中心に三千人が集まっただけです。門徒衆が本願寺周辺にあふれているので、足軽勢が合流できないのだ。

 本願寺包囲網も分断されると、力が発揮出来なかった。

 間もなく砦は落とされてしまうだろう。原田につづいて光秀まで打たれてしまえば、信長軍の戦力は大いに戦力ダウンし、本願寺戦は頓挫する。

 なんとしても天王寺砦を守り、光秀を助け出さなければならない。
後に自らが討たれる光秀を命懸けで助け出すことになりました。歴史の皮肉です。
信長は3千人の軍勢を三段に分けて若江を出陣し、砦を取り巻く門徒勢の中に突っ込みました。少数で大軍の中に切込んだのは桶狭間の戦い以来、2回目です。
第一段が佐久間信盛、第二段が滝川一益羽柴秀吉、そして第三段が信長と馬廻りです。

 一段と二段が交互に門徒衆に突撃して進路を開け、信長は馬廻りに守られながらその中を進むという戦法だ。

 門徒衆は信長の旗印を見ると、攻撃を信長に集中した。雑賀鉄砲隊の姿も遠望された。彼らが近づけば、損害ははりしれない。信長は自ら陣頭に立つと全軍を密集体形とし、一気に砦を目指しました。体形を崩さずに進むのは難しいが、それができるのは、織田の諸将が戦いの経験を積んだからだ。

 この戦いは激しく、信長は足に鉄砲弾を受けながらも、砦に到着しました。
すると、光秀隊と合流。

 天王寺砦に信長が入ったとわかると、長島、越前で虐殺された同門の仇討ちとばかり、門徒が集まってきました。

 このままでは門徒の大軍に囲まれて自滅を待つだけです。信長は夜になると、一揆勢の群がる砦の外へ討って出た。

 夜になると、鉄砲は使えなくなります。
信長はそれを利用して、突如、雑賀鉄砲隊の征伐に出たのです。
急な信長軍の出撃に門徒衆は統一した対応が取れません。
接近戦においては、サムライの専門集団である信長軍にとって門徒衆は敵ではなく、信長軍は門徒の首二千七百を討ち取りました。
籠城するものと思いこんでいた門徒衆は浮足立って、敗走。本願寺に退却しました。(天王寺合戦)。

 

 この戦い以降、門徒勢は本願寺に籠り、出撃して戦うことはなくなった。本願寺包囲戦は籠城戦となった。

 石山本願寺は、非常に規模の大きい城構えでした。周囲には塀がめぐらされ、その中は籠城できるように町が作られていました。

 塀の中には田んぼまであったといいますから、まさに難攻不落の城と言ってよいでしょう。

 信長は籠城する本願寺を攻めるにあたり、兵糧攻めを選びました。周囲をびっしり囲んで、石山本願寺が音を上げるのをじっと待つという作戦です。
本願寺の中にいるのは兵ではありません。普通の戦争なら城内にいないはずの女性や子供、老人なども宗教施設であるが故にたくさんいました。兵糧攻めにすれば、そういう兵以外の人たちも日々大量の食べ物を消費していくので、飢えるのも早いだろうと信長は踏んでいたのです。
しかし、石山本願寺もさるもので、毛利と手を組み、物資の補給を依頼します。
でも、敵に取り囲まれた城にどのようにして物資を運び込もうというのでしょうか。毛利が選んだのは甲斐路による補給でした。幸い、石山本願寺の目の前には木津川という川があり、川は大阪湾とつながっていました。それに毛利氏の配下にはこの仕事にうってつけの「村上水軍」という部隊がいました。
村上水軍が、大量の補給物資を積んだ船で大阪湾から木津川に入る。川の河口を遡れば、すぐに本願寺です。
信長も、もちろん情報として毛利と本願寺が手を組んだということは知っていたので、村上水軍を迎え撃つべく、自分の配下に「九鬼水軍」を木津川の河口に配し、「敵の補給船を絶対に木津川に入れるな。」と命令しました。つまり、狭い河口で「村上水軍」を待ち伏せするという作戦です。
信長は高を括っていました。
この戦いは、狭い河口を守り抜くだけだ。敵の舟の侵入を防ぎさえ
しかし、信長軍・九鬼水軍は完敗します。
なぜ負けたのかというと、敵の村上水軍が「炮烙(ほうらく)」という強力な火器を使用したからでした。炮烙とはどのようなものなのかというと、火薬を詰めた陶製の器に導火線のついたもので、火をつけて相手に投げるというものです。形はハンマー投げのハンマーのような球体でうが、火炎瓶のような武器だと思っていただければよいとおもいます。
これが織田軍・九鬼水軍にほとんど全滅に等しい被害を与えました。
九鬼水軍の船は和船ですから木造で帆は布です。それが火薬の弾をぶつけられ、一度、火がついたらもう手も足も出ません。九鬼水軍がほとんどの船を焼かれて、手も足も出ない中、村上水軍は悠々と木津川を遡り、補給物資を石山本願寺内に運びこみました。
これに信長は大激怒しました。
「何てザマだ。貴殿に期待した分、失望は大きい。天下への道は遠のくばかりだ。」
船のプロである九鬼義隆も「あれについては防ぎようがありません。」
ここまで来て、本願寺包囲戦を諦めるわけにはいきません。
天下への情熱が冷めない信長は誰も思いつかない画期的なアイディアを出しました。
「鉄だ。鉄の船をつくってみろ」
信長が義隆に授けた案は「鉄甲船」でした。
信長の考えた鉄甲船とは、木造の船の船体を薄い鉄板で覆いつくすというものですが、鉄板で船全部を覆えば、炮烙をぶつけられても燃えるものがないので火災にはなりません。これならいくら炮烙を使われても船はは沈まない、ということです。
「殿、誠に素晴らしい発想だとは思いますが、鉄は重く、錆びやすいので、船の素材には向きません。」
「鉄は燃えない。」
この戦いは、敵の船の侵入を防ぐだけで、もっぱら防御に徹すればよいので、駆動性の良し悪しはそれほど問題ではありません。また、今回の木津川の攻防に勝てばよいだけなので、長期間その船を使用するわけではありません。
ですから、最大の問題である「重い」と「錆びる」ということも、それほど大きな問題ではありません。
ここまで考えて、信長の中で鉄の使用にゴーサインが出たのだと思います。
人間というものは新しいアイディアを考えようとするときに、必ず常識に縛られているのです。
こうして生み出された鉄甲船には大砲も装備され、九鬼水軍は再び木津川で毛利・村上水軍を迎え撃ちました(第二次木津川の戦い)。
こうして1578年11月、毛利・村上水軍は物資補給を諦めて撤退していきました。織田軍・九鬼水軍の大勝利です。
こうして信長は遂に本願寺への補給路を完全に絶つことに成功しました。
これ以降、本願寺にとって、情勢は悪くなる一方でした。しかし、本願寺はしぶとく、その後も抵抗を続け、信長はとうとう最後まで本願寺を攻め落とすことが出来ませんでした。
最終的に講和が成立したのは、第二次木津川の戦いから2年後の1580年3月のことでした。
そのときも顕如が決して信長に屈しようとしなかったため、信長は天皇家の仲介を得ることでようやく講和に持ち込んだのです。条件は本願寺側の安全を保証することと顕如門徒が大阪から退去することで、顕如は4月9日、石山を退去し、紀伊に移り、徹底抗戦を主張した子の教如も8月2日に退去しました。
本願寺との戦争はなぜ10年にも及んだのでしょうか。
1つは鉄砲と石の力です。本願寺の地名である石山は石の多い土地であることを示しています。城には雑賀鉄砲衆3千人をはじめ、4万の門徒終結したが、籠城衆は堀を深くし、土塁の上には石を積み上げて鉄砲狭間(はざま)とし、櫓(やぐら)も高くした。石の壁で相手の鉄砲玉から身を守り、防壁の間から撃てば、攻め方は近寄れない。信長は大鉄砲を使ったというが、目立った成果はありません。大鉄砲は長島攻めでも使われているが、日本の鉄砲鍛冶がつくったものか南蛮渡来品かは不明。
軍事史的にみると、城砦の優位性は大砲の出現まで保たれます。家康が大阪城にカルバリン砲を打ち込んだ大阪冬の陣は1614年で、本願寺の40年もあとのことです。
2つは周囲が4キロもあるという総構えの城域です。
本願寺寺内町を含む広大な地域には鍛冶、石工、大工などがあり、鎧、鉄砲の修理、弾薬の製造もおこなっていました。
弾薬の原料や米や、味噌、塩、魚などは近隣の門徒が命懸けで運びました。3つは信長にとって、本願寺を攻める大義名分がなさすぎたことです。
なぜ、大阪なのか。なぜ、本願寺なのか。
その答えとなっているのは、専ら信長自身の利益のためであり、天下泰平だとか、平安楽上などの大義名分がないため、民衆の共感を得られなかったことも原因ではないかと考えられます。

 

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著     草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史          西東社
早わかり 日本史                      日本実業出版