【兵農分離】武士のサラリーマン化!?織田信長の兵農分離政策をわかりすく
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【兵農分離】武士のサラリーマン化!?織田信長の兵農分離政策をわかりすく」というお話です。
信長の行った代表的な政策には、「兵農分離」と「楽市楽座」があります。
今回はその「兵農分離」についてご紹介したいと思います。
戦国時代、兵士とは、普段、農業に従事する農民兵でした。
この時代、大名は兵隊を自分の領内から調達するのを原則としていました。
したがって、「いざ戦」のときになると、大名は領内に陣触れを出します。すると、領内の小豪族達は自らが支配する村々から農民を率いて集まり、戦に参加していきました。
つまり、当時の下級兵士である「足軽」は普段、農業に従事し、戦いとなれば、弓や槍をもって出動していたのです。こうした状態を兵農一致といいます。
これには大きなメリットがあり、農民兵は普段、自分で田畑を耕し、自給自足の生活をしています。なので、戦争がない時期は給料を払う必要がありません。
もちろん手柄を立てれば、その農民兵には何らかの報酬が与えられますが、働き盛りの若者を何千人も、仕事もさせずに養うということは出来ません。なので、人件費をタダで徴集することが出来る「兵農一致」は当時の主流であり、戦国大名はみな農民兵を率いて戦いに臨んでいました。
ところが、信長は農民兵ではなく、専門兵士を使って戦いに臨みました。
信長は彼らを銭で雇い入れ、一年中馬や弓、槍や剣術の稽古をする専門兵士集団をつくりあげたのです。
つまり、武士をサラリーマン化したのです。これを兵農分離といいます。
「兵農分離」とは、文字とおり、兵士と農民の身分をはっきりさせ、両者を切り離すという意味ですが、信長は、農業に専念する農民と、専門兵士とに分離させたのです。
しかし、銭で雇うには大量の銭が必要です。そのためには市場から銭を大量にかき集める必要があります。
信長の領国経営の特徴として、重商主義、つまり、商業を活性化することで国庫を潤していることがあげられます。それを象徴するのが、信長のもうひとつの政策である「楽市楽座」です。
ところで、農民兵と専門兵士、どちらが強いのでしょうか。
これは本当に意外ですが、実は農民兵です。
農民兵は自分の土地や家族を守るために命懸けで戦います。
これは、いわゆる「一所懸命」の精神であり、当時の住民は自分の生まれ育った地域のために汗を流し、時には血を流すことが美徳とされてきました。というのも、もし、戦いで負ければ、自分達の地域は従属国となり、領主だけでなく、領民達も略奪や奴隷など様々な辛酸をなめることになるからです。
一方、信長の専門兵士は、常日頃から戦いの訓練をしているので、強そうですが、お金のために戦うので、農民兵ほどには必死になれなかったのです。それに彼らは身元も知れない流れ者です。統制性や団結力など皆無に等しいものでした。
この時代、流れ者はほとんど農民や町人の出身者ですが、わけあって落ちぶれ、流れ者となった人達です。
平たく言えば、社会不適格者です。そんな寄せ集め集団に団結力や仲間意識があるはずもなく、主人に対する忠誠心はおろか、その統制すらもとれていない。信長の兵農分離された専門兵士は情けないほど弱い集団だったのです。
では、なぜ、信長は生涯にわたって、兵農分離を行ったのでしょうか。
なぜ、わざわざ費用をかけてまで兵士を雇ったのでしょうか。
兵農分離には一体、どのようなメリットがあったのでしょうか。
そのメリットを最大限にまで生かされたエピソードがあります。それは信長が美濃を攻略したときです。ということで、後半記事は信長の美濃攻略を見ていきながら、兵農分離の最大のメリットについてご紹介していきたいと思います。
信長は1567年、一大勢力だった美濃平定に成功します。信長を勝利に導いたのは、兵農分離によって一年中戦いに臨める専門兵士の活躍でした。信長は攻撃を農繁期に集中させ、斎藤氏をじわじわと弱らせていきました。斎藤氏はそんな信長の長きにわたる攻撃に根負けしたのです。
1560年、信長は桶狭間の戦いで、駿河の名門・今川義元を討ち取ることに成功しました。
今川氏を打ち破った信長は、今川氏に人質としてとらえられていた三河の徳川家康を解放。以後、信長は家康と同盟を結び、当面の東側の憂いをなくすことに成功しました。
これに自信をつけた信長は、 次に信長は尾張(愛知県西部)の西と北に広がる美濃(岐阜県南部)の斎藤龍興の攻略を視野に入れ始めました。
というのも、斎藤義龍から家督を継いだ斎藤龍興は、常に織田一族に謀反をそそのかし、信長の足許(あしもと)を脅かす存在でした。尾張国内で勢力を増す信長を抑えこみ、尾張全域を配下に置こうとする龍興の野望です。これに信長は危機感を覚え、美濃の制圧に乗り出したのです。
こうして、桶狭間の戦いから僅か3か月後、信長は美濃に侵攻、斎藤龍興との戦いが始まりました。
しかし、信長が本拠とする清州城は美濃からは遠く、遥か南に位置していたため、より近くに新たな戦略拠点が必要になりました。
当時、「城」というのは、言ってみれば「拠点」であり、そこに兵や馬、食料を蓄えておき、そこから侵攻するという領土を拡大する上で、極めて重要な役割を果たすものだったのです。
信長は濃尾平野の小牧山に城を建て、居城を清州から小牧山に移しました。(小牧山城)。
信長は木曾川を何度も超え、斎藤方の砦に何千人もの大軍で攻めました。
しかし、斎藤氏は強かった。
砦を守る番兵でさえ熟練の腕前を持つ兵士集団であり、櫓(やぐら)から素早く、信長軍を発見し、弓を放ちました。
信長軍は、斎藤軍の何十倍もの人数を持ちながら大敗し、ときには信長自身も負傷するようなことさえありました。
こんな状態ですから、戦いのほとんどは斎藤氏が勝ち、信長軍は負けて逃げる。
こんな状況がずっと続きました。
信長軍は情けないほど弱かった。
それもそのはず、彼の軍隊はいわゆる流れ者の寄せ集め集団であり、ほとんどが農民や町人出身者ですが、わけあって落ちぶれ、流れ者となった兵士達です。そんな社会不適格者の寄せ集め集団に団結力や仲間意識があるはずもなく、忠誠心はおろか、その統制すらも満足にとれていない状況でした。
信長が流れ者を兵士として雇い入れたのには訳があります。
信長は1551年に父・信秀から家督を継いで以来、流れ者を兵士や小者(雑用係)として銭で雇い入れるということをしていました。しかし、これには訳がありました。
家督を継いだばかりの未熟な信長に仕えようとする織田家累代の宿将や兵士達が信長から相次いで離反していしまったのです。
「うつけ者」と言われ、常識もわきまえない織田信長という人物に尾張を統一できる器があるとは思えない。
それに、家臣を大事に扱おうともしない。
重臣達が離反したのも、無理はありません。
信長が動員できる兵士は少ないものになってしまいました。
そこで、信長が考えたのが、「銭で雇う兵」でした。
このことを多くの歴史学者は、「信長は天才だったからだ。」といいます。
家柄や身分、血統が重視される当時の社会において、信長はそれらにかかわらず、能力ある者をどんどん活用していく当時としては新しいタイプの大名であり、歴史学者はそんな信長の人材を見抜く鋭い洞察力をたたえています。
しかし、これは結果論であり、信長は本当にたくさんの家臣や兵士達から嫌われていたのです。
話を美濃攻略に戻します。
信長は考えました。
流れ者の寄せ集め集団で、斎藤氏を打ち破るにはどうしたらよいか。
桶狭間で今川氏を討ち取れたのは、時期や状況が奇襲攻撃に合致していたからです。しかし、今回は戦況も相手の武力も全く違います。二番煎じは通用しません。
そこで、信長の考えた戦略はこれです。
「侵攻の時期を農繁期に集中させるのだ。」
斎藤方の兵士はみな、農民兵です。当時は現在のように機械などないので、農業は重労働です。春は代掻きから秋の刈り入れまで休めるときはありません。そのため、とてもではありませんが、働き盛りの男性が田畑を放り出して戦争に行くわけにはいきません。
一方、信長の「銭で雇う兵」は、流れ者の兵士なので、農作業もなければ、郷土というしがらみもありません。一年中、武術に専念出来ます。なので、繁閑期を問わず、いつでも戦いに臨めます。
また、領主たちとしても、年貢徴収のために農民に農業をやらせないわけにいきません。しかし、信長の兵隊にはそんなの関係ありません。
これが勝利のカギとなりました。
信長軍は農繁期に集中して攻め入るようになりました。
信長方が攻めてくるとわかると、斎藤方の農民達は慌てて農具を捨て、弓や槍を持って出動します。
主力戦になると、結局、斎藤氏が勝ち、信長軍は負けて逃げます。
しかし、斎藤方の兵士達が農作業に戻ると、再び信長軍が大軍を持って攻めてきます。
すると、また斎藤方が農民を動員します。斎藤方が農民を動員してくるまでの何日間のあいだ、信長軍は2つ3つの砦を落とすことに成功。
一方で、いざ合戦になると、信長軍は負けて逃げ戻る。
そして斎藤方の兵士が農作業のために地元に戻ると、すぐまた信長軍は攻めていく。
この戦術で、信長はじわじわと斎藤氏の戦力を削り取っていきました。
信長軍の「銭で雇う兵」は、流れ者集団なので兵員の補充は簡単だし、戦死者を出しても嘆く者さえいない。何度負けても大したダメージはないのです。
一方の斎藤方とすればたまったものではありません。兵士達は自分の生活のために農繁期に農業を放置するわけにいきません。
「農繁期に動員命令を出されてしまい、農業に専念出来ない。」
斎藤氏は、住民から大きな反感を買うようになります。
やがて斎藤方の人々には、厭戦気分が湧きあがり、大名の動員命令にも従わない者が出てきました。そうなると、残った忠実な者だけで戦わなくてはなりません。斎藤氏は徐々に戦闘能力を失っていきます・・・・。
そして遂に美濃の領民達が一揆を起こし、領主同士の争いが起きるなど内部分裂が起きてしまいました。
こうした中で、信長は、斎藤方の鵜沼(うぬま)城、猿喰(さるばみ)城、加治田(かじた)城が次々に開城、信長側に寝返らせることに成功しました。
これによって信長は龍興の居城・稲葉山城の東側を制圧することに成功しました。
次に信長は、信長は稲葉山城の西側からも攻撃をしかけるようにしました。
信長はその前線基地として墨俣に城を築くことを計画しました。
この墨俣城の築城を成功させたのが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)です。秀吉の本格的な天下人への立身出世物語は、ここから始まりますが、秀吉は敵陣の最前線である墨俣に「墨俣一夜城」を築き上げたのです。
こうして信長は真綿で締め上げるように稲葉山城攻略の準備を進めていきました。
1567年8月1日には斎藤方の重臣である美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就の3人が信長に内応してきました。この3人は土岐氏が斎藤銅三により追放されると宿老として斎藤氏に仕えたが、成り上がりの斎藤氏の危機に反旗を翻してしまったのだ。
これで信長は、稲葉山城の西側も押さえ、多くの実力者を味方につけることが出来ました。
美濃三人衆が味方についたことで、信長はこれを勝機と意を決しました。そして8月15日、それまで三河遠征を装って集めておいた兵をあげ、一挙に総攻撃を開始しました。稲葉山城の斎藤方では、あまりに速攻に家臣団を城下に結集させることができず、翌日には落城してしまいます。
龍興は船にのって伊勢長島まで落ち延び、斎藤道三以来の斎藤氏は滅亡しました。信長はすぐに稲葉山城に入り、これまで井の口と呼ばれていたこの地を岐阜と改め、稲葉山城を岐阜城とし、ここに居城を移しました。
ここに稲葉山城は落ち、美濃は信長の手中に落ちたのでした。
桶狭間の合戦で 信長の勇名は「僥倖の賜物」と見下す大名達もいましたが、尾張・美濃の2国を治めることとなった信長はようやく戦国大名として各勢力から認められる存在となったのです。
信長はこの戦勝により、これまで斎藤氏によってふさがれていた西上ルートを開けることが出来るようになったのです。
美濃を制圧した信長は本拠を岐阜に置き、岐阜城を構えました。
やがて信長は「天下人になる」と公言し始めました
信長はある目標・ビジョンを掲げました。それが「天下布武」です。
「天下布武」とは、天下に武を布くことによって戦国時代を終わらせるということ。つまり、天下を武士が一元的に支配する統一国家を作るということです。
この頃、天下という言葉を使っていたのは、信長だけでした。
信長とその他の戦国大名との違い、それは勢力拡大が自らの私利私欲を満たすためのものか、それとも天下泰平の世を築くためのものだったかの違いだったのです。当然、信長のような人物は庶民から絶大な人気を集めました。
信長は尾張と美濃の2国を領有した時点で、信長は早くも、「天下人となる」と公言するようになります。それが天下布武という判子の使用です。
天下布武とは、天下に武を布くことによって戦国の世を終わらせるという意味ですが、
1567年時点での信長の領地は尾張と美濃の2国だけです。今でいえば、愛知県の西半分と岐阜県の中央部を取っただけです。
当時の国は現在の都道府県よりも小さく、天下は66国を数えました。
そのうちたった2か国しか取っていない、しかも身分の低い成り上がりの戦国大名が「俺が天下を取る」と言い出したのです。
私達は歴史の結末を知っていますから、さすが信長、と思いますが、当時の人々の誰が本気にしたことでしょうか。
おそらく、信長の周囲の人達は、
「何をバカなことを」
「うつけがぶり返したな。」
と笑ったことでしょう。
それでも、信長は「天下を取る」という明確なビジョンを持って、行動したのです。
ちなみに「天下」という言葉を作ったのは、信長です。この時代、他の大名は自分の領土を広げることしか考えていません。彼らがやっているのは、すべて自分の領土を広げるための戦い、つまり私戦だったのです。
大名同士が勝手に私戦を行い、幕府はそれを抑える力もなく、将軍はいるけど領地すら持たない。幕府といってもそれはもう有名無実の状態でした。地道に領土を拡大しながら天下を平定するのは、あまりに時間がかかりすぎる。美濃を攻略するだけで7年も費やしてしまった。
目的達成性の高い方法は何か、つまり、天下統一のために最も手っ取り早い方法は何かを考えるようになりました。
そして、信長が出した結論は、時の天下人である足利将軍家に近づくことでした・・・・・。
信長の統一事業は続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
戦国時代の組織戦略 堺屋太一=著 集英社
組織の盛衰 堺屋太一=著 PHP文庫
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著 Gakken
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著 山川出版社
マンガでわかる日本史 河合敦=著 池田書店