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「【三方ヶ原の戦い】武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか」というお話です。

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【三方ヶ原の戦い武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか」というお話です。

 

 泣く子も黙る戦国大名、それが武田信玄です。

 戦国最強と言われた武田氏は甲斐・信濃を治める有力な戦国大名として君臨していました。

 武田氏は戦(いくさ)のプロ集団であったことは間違いありません。

 「疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし」で知られる「風林火山」は自然の摂理です。戦の心構えは自然界にヒントがあり、風のように素早く動き、林のように冷静沈着に、火のように激しく攻め込み、山のようにどっしりと陣地を構える。これが勝利の秘訣なのです。はあ

 その他にも、「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」という組織において人材がいかに大事かを教える名言など、現代にも通じる経営哲学を生み出しました。

 

 戦国英雄として永遠に語り継がれている織田信長徳川家康でさえ、年齢、経験、知力、体力など実力では武田信玄の足元にも及びません。今回はそんな武田信玄が戦国3英傑の一人である徳川家康をどのようにして大惨敗に追いやったのかを見ていきたいと思います。

 

 

 戦国最強の騎馬軍隊を持つ甲斐・信濃を治める武田信玄

 しかし、その立場が「ある大名」の登場によって揺るがされることになりました。尾張織田信長です。信長は駿河の今川氏を討ち取り、三河徳川家康と同盟を結び、天下を我がものにしようとする戦国大名でした。まさに下剋上によって成り上がった大名です。

 そんな信長は、室町15代将軍・足利義昭を利用し、信長は新たな秩序としての理想国家を創る英雄であると同時に、古き秩序や伝統を蔑(ないがし)ろにする暴君でもありました。

 信長は義昭の権威を利用して、天下統一を迅速に達成させようとしたのです。

 そんな信長を憎んだ義昭は、越前の上杉氏や中国の毛利氏、そして甲斐の武田氏に「打倒!信長!」を記した内容の書状を送り、信長を叩き潰すことよびかける工作をしました。これによっていわゆる信長包囲網が形成されました。

 こうして信長・家康をはじめとした新勢力と、義昭・武田をはじめとした旧勢力の対立構造が出来上がりました。

 義昭と同盟を結んだ信玄は上洛のために兵を派遣することを決意しました。その機に乗じ、信玄は信長に総攻撃を仕掛けようとしたのです。

 信玄はその手始めとして、信長と同盟を結ぶ三河遠江徳川家康に攻撃をしかけました。

 これが家康が大惨敗を喫する1572年の三方ヶ原の戦いのプロローグでした。

 信玄は国境近くの家康領の民家や町家を次々に襲撃しました。

 

「殿、家康公より、伝文です。信玄が襲来したとのことです。」

この報せを受けた信長は家康の本拠浜松城に重臣・佐久間信盛を筆頭とした3千人を援軍として送りました。

 家康軍はこれで1万1千。しかし、対する信玄軍は2万の軍勢で攻めてきています。

 兵隊の数が勝敗を決める当時の戦いにおいて、家康は非常に不利な状況にたたされます。

 

 信長自身も、畿内の三好氏や石山本願寺、浅井・朝倉勢など様々な敵に手いっぱいでたくさんの軍隊を派遣出来なかったのです。そして信長自身も岐阜を離れることが出来ず、

 信玄の侵攻は凄まじく、徳川方属上は次々に陥落されていきました。

 信玄は天竜川東部の徳川方属城を攻撃したころ、家康は出陣を決めました。

 しかし、重臣達は籠城を勧めます。それに対し、家康はこう答えました。

「領主たるものは、民とともにある。その領民が武田軍の略奪に苦しんでいるのに、籠城などしていられない。それに味方の城が陥落されているのに、援軍に向かえないなど領民からの信を失う。それだけでなく、遠江の諸将は離反する恐れもある。」

 家康は4千ほどの兵を率いて出陣しました。

 しかし、すでに1万ほどの武田軍が見附(静岡県磐田市)の北まで進出していました。

 武田軍は家康の旗印を見つけるや、一気に追撃を開始しました。家康軍はこれは敵わないと、わあてて撤退することになりました。重臣達は遠江最大の町として栄えた見附を焼き払うことで、武田軍を撹乱し、追撃を振り切りました。

 しかし、武田軍の一部は町を迂回して、天竜川に至る一言坂で徳川軍に追いつき、激戦となりました。家康は重臣達の奮闘のおかげで、何とか本拠浜松城に逃げ帰ることが出来ました。この戦いを三方ヶ原の戦いのプロローグである「見附、一言坂の戦い」です。

信玄は家康を取り逃してしまったのです。

つづく。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

信長は本当に天才だったのか           工藤健策=著  草思社

20代で知っておくべき歴史の使い方を教えよう  千田琢哉=著  Gakken