長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(中編)
こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(中編)」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
今回もストーリーを展開しながら、長篠の戦いにいたるまでの経緯をご紹介していこうと思います。
戦国最強の騎馬軍団。
それは甲斐(山梨県)の武田氏のことを指します。
武田信玄の没後。その子勝頼がおとなしくしていたわけではありません。1574年正月、勝頼は織田領である美濃に侵入することを決意しました。
これに対し、武田家の老臣達は勝頼に忠告しました。
「殿、我が軍は織田には勝つことは不可能でしょう。奴は鉄砲の入手経路を独占しているゆえ、戦にはおそらく大量の鉄砲を投入してきます。そうなれば我が騎馬軍団も再起不能なまでに壊滅することでしょう。」
戦国時代もこの頃になると、鉄砲は戦の重要な武器となっていましたが、武田軍は鉄砲を余り持っていませんでした。
それには理由があります。
当時の国際貿易港である「堺」の町を信長が掌握しており、鉄砲の入手経路を絶たれてしまったのです。鉄砲を使う上で絶対に必要な物、それは黒色火薬です。よく歴史ドラマ等々でも出てくると思います。
黒色火薬の主原料は、硫黄と木炭、そして硝石(硝酸カリウム)です。日本は火山大国なので硫黄はどこでも手に入ります。木炭も簡単に手に入ります。しかし、硝石だけは手に入れることができず、海外から輸入するしかありませんでした。
当時の日本の国際貿易港は鹿児島、平戸、山口など数か所ありました。しかし、それらはすべて西日本であり、堺の町は一番東よりの国際貿易港だったのです。
したがって、東日本の大名達は誰一人として硝石を簡単に手にいれることが出来なくなり、甲斐の武田も十分な鉄砲隊を持つことが出来なかったのです。
しかし、そんな老臣達の忠告を勝頼は聞き入れません。
「京で義昭様が待っておる。何としても上洛し、義昭様の天下をお守りするのだ。」
室町幕府15代将軍である足利義昭は、武田軍を当てにして京で信長と宣戦布告しました。しかし、そんな武田軍が京に上がることが出来ないなど戦国最強の武田氏の面目は丸つぶれになります。勝頼はそう考えていたのです。
「お気持ちはわかりますが殿、もう一度再考を願います。」
「信長に天下を独占されてはかなわぬ。いずれにしても、この辺りで信長とは決着をつけなければならないことは明白じゃ。」
結局、勝頼は老臣達の忠告をすべて却下しました。
勝頼も決して無謀な戦いをするつもりはありませんでした。本人としては当然勝つ自信はありましたし、現に武田軍はそれまでも数々の戦を勝ち抜いて、圧倒的な実績を誇っていました。
1574年正月から武田軍は織田領である美濃に侵攻。織田方の城を次々に落とし、その支配領域を広げていきました。
自分の領土を侵食される信長は盟友である徳川家康に言いました。
「家康殿、すまないが、おとりになってくれないか。すぐに2万の大軍勢として援軍にうかがうので。」
家康は信長からの2万の援軍を受けることを条件に武田領に侵攻しました。家康は三方ヶ原の戦いで武田軍の恐ろしさを身をもって体験しています。家康の身震いする侵攻作戦が開始されました。
これに対し、勝頼は一転して徳川方に矛先を変え、1575年3月、1万5千人を率いて、徳川の本拠地である三河に侵入。5月には長篠城(愛知県新城市)を囲みました。
自軍だけでは到底勝てそうにない家康はすぐに信長に援軍を要請しました。
「武田方をうまく誘い出しました。信長殿、早急な援軍を頼みます。」
1575年5月13日、家康の要請を受けた信長は3万人の兵と大量の鉄砲を携え、美濃を出発。兵士達は鉄砲を持つ者と丸太を持つ者がいました。
「武田軍の強さはわかっておる。まともに戦えばわが軍は手ひどい痛手を負うだろう。大兵を失えば、石山本願寺など今後の戦いに支障が出る・・・・。」
信長は自軍が野戦に弱いことを自覚しており、綿密な作戦と計画を立てていました。
織田援軍の知らせを聞いた徳川は安堵。長篠城にあと数日間持ちこたえるよう命令しました。
信長軍は18日、長篠城の西、設楽ヶ原に布陣しました。
信長はさっそく、家臣以下、兵士達に命令します。
「持ってきた丸太を組め、馬防柵をつくるのじゃ。」
「馬防柵の前には切り岸をつくれ。」
「馬防柵の後ろには土を掘れ、土塁をつくるのじゃ。」
切り岸とは、敵の前進を防ぐため、連子川に降りる斜面を垂直にしたもので、土塁とは、敵の侵入を防ぐために築かれた土製の堤防上の壁です。
3万の兵士によって行われたこの大土木事業は1日で完了しました。
信長は設楽ヶ原にある種の城を築き、そこから鉄砲による猛攻で武田軍を圧倒しようと考えていたのです。信長は十分に勝てる状況の中で武田軍と雌雄を決しようとしたのです。
さらに、家康側からも提案がありました。
「信長殿、我が軍の名将・酒井忠次を設楽ヶ原の山中を夜のうちに迂回させましょう。武田軍を挟み撃ちにするのです。」
酒井は徳川自慢の名将でした。先述の三方ヶ原の戦いでは、味方が崩れた後も酒井の軍だけは隊伍を崩さず、武田の追撃をかわしながら浜松城に帰還しました。
戦場において、軍団の向きを変えたり、負け戦で逃げようとする兵をまとめるのは並大抵のことではありません。酒井はそれができる武将だったのです。
この家康からの提案を受け入れた信長は確信しました。
「この戦、もらったな。我が名を天下に轟かせるのだ。」
そして勝頼も1200人の騎馬兵を含む1万の兵を率いて、設楽ヶ原に布陣しました。鉄砲も700丁装備しています。
「信長め。調子に乗りすぎだ。目にもの見せてくれるわ。」
その頃、設楽ヶ原を迂回した酒井軍は武田の手に落ちた長篠城を奪還。その時、銃声が鳴り響きました。
「長篠の戦い」が始まったようです。
発砲したのは、武田軍でした。
しかし、信長軍は柵から出てきません。
鉄砲を撃っても、騎馬兵が挑発しても織田勢は柵から現れません。
「功を焦って柵から出たものは死罪に処す。」
信長は兵士達にそう命じてあったのです。
「信長め。持久戦に持ち込む気だな。」
つづく。
本宮でした。