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【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか」というお話です。

 

 1570年、信長と本願寺の戦いが始まると、それまで足利義昭の下にいた門徒の雑賀、根来衆が命令に従って石山に集まったので、火力は一気に強化され、本願寺には3千丁の鉄砲が集まりました。

 このときはそれ以上の戦いはなく、にらみ合いが続いていました。

 

 しかしこの後、信長にとって大きな転機が訪れます。

 それは1573年5月に甲斐の名将・武田信玄が死んだことです。

 信長包囲網の最大勢力である武田信玄が死んだことで、勢いを増した信長は将軍・足利義昭を京から追放、続いて浅井・浅倉を滅亡、1574年9月には伊勢長島を陥落させると、情勢は信長有利に変わっていきました。

 このように、それまでの信長包囲網が崩れたことで、本願寺は危機的状況に追い込まれました。

 

 そして1575年4月、信長は10万と号する大軍で摂津、河内を攻めました。まず、6日に本願寺の支城萱振(かやふり)を攻略、つづいて三好三人衆の一人、三好正康の河内高屋城を落とし、13日には天王寺に布陣し、その威勢を見せました。

 14日には本願寺に迫ったが、周辺の田を荒らしただけで、それ以上の攻撃はしなかった。

 まだ武田氏が健在であり、信玄の子・武田勝頼との戦いが迫っており、そちらに力を振り向ける必要があったからです。しかし、10万の軍勢は本願寺に十分な威圧を与えました。

 同年10月、越前で一向一揆が敗北し、さらに武田勢が長篠で敗れたことも影響し、本願寺は信長に和睦を申し入れました。

 信長もこれに応じ、一旦は和睦が成立しました。

 しかし、本願寺は抗戦を辞めたわけではありません。本願寺はこの和睦によって、次の戦いに備えて態勢を整える準備期間にしようとしただけです。

 

 一方、信長も面白くなかった。

 夢にまで見た大阪の居城、しかしその場所はいつまで経っても落とせそうにない。

 この時、信長は42歳。人生50年といわれた当時、信長には年齢的にも時間が残されていませんでした。

 一方、自分の重臣である羽柴秀吉は、北近江の領主として琵琶湖のほとりに長浜城を築き、領内の寺院、商工業者を呼び集めて城下町をつくり、楽市・楽座とした。城下町は手工業が振興し、商品の流通も活性化し、秀吉は莫大な利益を得ることが出来ました。

 信長は面白くなかった。

「サルに出来て、天下を目指すワシに出来ないなんて・・・・」

 信長にとってこれほどの屈辱はありません。

 妬けを起こした信長は1566年早々、突如安土に新城をつくると決め、すぐに普請に取り掛かりました。

 安土は長浜から30キロの位置にある。そう、信長は秀吉の利益を横取りしようとしたのです。

 信長は南近江の商人や手工業者、輸送業者を城下町に集めました。もちろん楽市・楽座としました。

 安土は東山道(とうさんどう)から外れていたが、城下を通る脇道をつくり、東山道を往還する者は必ず城下を通れと命令した。

 安土の天守閣も、その姿を現すのに従って、町の賑わいも増していきました。

 そんな中、同年4月、冷戦状態が続いていた本願寺が中国の毛利や越後の上杉と結託して、新たに信長包囲網(第3次信長包囲網)を形成。再度、信長に反旗をひるがえしました。

 

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著    草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史       西東社
早わかり 日本史                日本実業出版