【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか(中編)
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか(中編)」というお話です。
信長は、当時経済の中心地であった大阪に城を築きたかった。
その場所とは、当時、国際貿易都市であった「堺」の町の河口に位置する上町台地です。
そこは信長が10年間も苦しめられた石山本願寺のあった場所です。
信長と本願寺の10年にも及ぶ死闘の始まりです。
信長の夢は彼の死後、明智光秀を倒した後、天下統一を引き継いだ豊臣秀吉によって成し遂げられます。
ということで、今回もストーリーを展開していきながら、石山本願寺の戦いをご紹介いたします。
1568年、将軍になりたいと頼ってきた足利義昭を京に入れ、15代将軍に就任させました。義昭はその労に報いるために副将軍と畿内5ヵ国を治める管領職につくよう進言しました。
しかし、信長はこれを断り、代わりに大阪の堺・大津・草津などに代官所を設置するなど主要商業都市を配下に置く権利をもらいました。
特に「堺」は、現在の大阪府堺市の大阪湾に面する地域にあり、自由都市と呼ばれる国際貿易都市です。古代、中国や朝鮮の使節の発着地だったといわれています。
その後は漁港として栄え、室町時代に日明貿易が開始されると、貿易港として栄えるようになりました。
かつての外国人宣教師からも「大いなる特権と自由を有し、共和国のごとき政治を行っている」と称えられました。
そんな自由都市・貿易都市である「堺」の河口に位置する上町台地。その立地の良さは相当なもので、ここに城を築けば、市場から莫大な利益が得られるだけでなく、朝廷や公家、西国大名すらも牽制出来る。
それに現在、信長の居城は「岐阜」にあります。そんな山中よりも「大阪」という経済の拠点にあったほうがより天下人としての気分を味わえるのは当然のこと。
信長は羨望の眼差しで石山本願寺に狙いを定めました。
1568年10月、上洛に成功した信長は足利義昭を征夷大将軍の座に就け、三好三人衆を阿波に追うと、本願寺に5千貫(5億円)の戦費を要求した。
しかし、戦費というのは単なる建前で、要するに本願寺の特権を認められたいなら権利料を払えということです。
信長の本願寺に対する挑発行為です。
本願寺はすぐには応じなかった。信長は将軍の命令に背いたということを口実に5万人の兵を動員し、本願寺を包囲しました。
この圧力が効いたのか、本願寺は信長の要求に応じました。
当時は日本人の半分以上が一向宗と言われ、本願寺を含む寺内町には武家に対抗できるだけの人と資金が集まっていました。
法外な請求にも関わらず、本願寺は「将軍のためなら」ということで支払いに応じました。
本願寺はそれまでも、銭で武家の不入権を買い、寺内町の商業や交易権に対する介入を防いでいたのです。
しかし、今回の信長への支払いは当面の軍事介入を回避する一時的なもので、将来にわたって本願寺の存在を保証するものではありません。
「このまま信長に従うか、反信長派にまわって徹底抗戦するか。」
本願寺宗主の顕如はどちらにつくかの決断の時は近いと感じます。
1569年正月、三好三人衆は信長の留守を狙って京に侵入し、義昭のいる本圀寺を襲いました。
急を聞いた信長は岐阜から駆け付け、近隣で信長派の諸豪族なども救援に集まりました。
このとき本願寺は中立の立場を守っていました。
1570年6月、信長は盟友の徳川家康と連合し、姉川で浅井・朝倉軍と戦い、見事勝利を治めました。
これに自信をつけた信長は本願寺に要求します。
「この世の主は信長である。本願寺の場所は、この信長に明け渡すように。」
遂に信長はその一方的な要求を本願寺に突きつけたのです。
1570年8月、三好三人衆は浅井・朝倉の出兵に呼応し、再び摂津へ侵攻。
対する信長勢も、天満ヶ森(大阪市北区)、川口(西区)、渡辺(東区)、難波などに付け城を築いて対抗、両者は大阪で激突しました。
三好や浅井・朝倉勢が敗れれば、信長の軍事力は本願寺に向けられる。もはや中立な立場でいられるはずがない。
本願寺は三好三人衆と盟約を交わし、反信長勢力に加わりました。
反信長の旗を上げた本願寺は、門徒衆を集めて信長方の砦を攻撃して、その姿勢を鮮明にした。
これを受けた織田勢もすぐに反撃し、本願寺に鉄砲を撃ち込みました。
今後10年にも及ぶ、信長VS本願寺による戦いの始まりです。
同年9月、顕如は全国の門徒に檄を飛ばし、信長を法敵として戦うよう命じました。
「信長が上洛して以来、私達はとても迷惑をしています。無理難題をふっかけてきたことにも随分と応じてきたのに、その甲斐もなく、『本願寺の城構えを破却して、この地から退去せよ』という最終通告をしてきました。こうなった以上、もう戦うしかありません。全国の門徒の皆さん、怖け気づくことなく、生命と身体を惜しまず忠誠をつくしてくれるものとありがたく思っています。でも、もしこれに従わない人がいたら、その人は門徒とは言えません。」
「進めば、往生極楽。退けば、無限地獄」
これが門徒への合言葉となりました。
伊勢長島の一向一揆衆はこれに応え、11月、尾張領に入り、小木江城を攻め、その城将で信長の弟である織田信興(おだのぶおき)を切腹に追いやりました。伊勢長島の一向一揆の始まりです。
ところで、信長自身は後の秀吉や家康に比べれば、宗教に対しては寛容門徒たちが信心して宗教をもつことには何も反対していませんでした。ただ、宗門や信徒が商業権や通行権を独占していることが許せなかった。
それらの権利を享受するのは天下人である信長である。
これが信長の一貫した主張です。
一方の本願寺も宗門の利益を守ろうとしただけです。
寺内町の住民は宗門に集まり、税を納めることで、商売や交易における独占権や同業他社の新規参入を防いでいました。そして本願寺は朝廷や公家に税を納めることで、武家勢力などの不入権を得ていました。天下人として経済を掌握したい信長が本願寺と相いれなくなるのは当然です。
意外なことに信長を除く戦国大名は、天下統一の野望を持っておらず、本願寺とは多少の利権争いはあっても、均衡を取りながら互いにその存在を認め合っていました。
しかし、信長だけは許さなかった。
大阪を立ち退かなければならないならば、全面対決は避けられない。
しかし、それは本願寺側からすれば、正当防衛というもので、十分な大義名分が成立していました。
戦いが始まると、それまで義昭将軍の下にいた門徒の雑賀衆が顕如の命令に従って石山に集まりました。本願寺の火力は一気に強化され、本願寺には3千丁の鉄砲が集まりました。
このときはそれ以上の戦いはなく、両軍のにらみ合いが続いている状態でした。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著 草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史 西東社
早わかり 日本史 河合敦=著 日本実業出版