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【経済史1】鎌倉時代の農業をわかりやすく

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【経済史】鎌倉時代の農業をわかりやすく」というお話です。 

政治と経済は密接に関係しています。

基本的には戦争や内紛が起こると、経済は右肩上がりに成長し、好景気となります。一方で豊かで平和な世の中であれば、経済は停滞し、不景気となります。それは現代の日本の情勢をみれば、納得できると思います。

人間は命の危険に晒されると、思考をめぐらせ、積極的に行動するようになるのです。

 国の経済は、生産・流通・消費の活動を繰り返しながら循環し、成長していきます。今回は、鎌倉時代の農業について見ていきたいと思います。

では、鎌倉時代はどうだったのでしょうか。

鎌倉時代とは、武士の時代と呼ばれています。それまでの時代と大きな違いは、各地で戦乱が相次ぐようになったことです。そのため、人々は積極的に行動し、産業が成長し、経済は右肩上がりとなっていきました。

 

鎌倉時代は麦を裏作とする二毛作がはじまり、鉄製農具などの農業技術も発展していきました。また鍛冶・鋳物師・紺屋などの各種手工業者も、農村から登場しました。

鎌倉時代、各地の荘園では、荒れ地や湿地などの開発がさかんに進められるようになりました。用水路や貯水路などの灌漑施設がつくられ、先進地域では川から田に水をくみ上げる揚水車も現れはじめ、全国の田の面積は大きく広がりました。

それに伴い、蒙古襲来前後の13世紀後半から、農業では、米の単作に加えて、裏作に麦をつくる二毛作が都を中心に近畿地方で始まりました。

二毛作を始めると裏作の麦に養分をとられるので、肥料を十分に施さなければ稲の収穫量は落ちます。そのため、肥料として刈敷や草木灰、家畜のフンなどが利用されました。さらに出来るだけ肥料を地中に蓄えておけるように田畑を深く耕すことも大切でした。この時代には、すき・くわなどの鉄製の農具が広く行きわたるようになり、牛や馬に唐耒(からすき)や馬ぐわを引かせて、より深く耕せるようになりました。

こうした農業技術の進歩もあって、生産力の高まった荘園では、名主から土地を借りて耕作していた農民たちが、自ら新田を開き、小作農から自作農へと成長していく者も現れました。

また、貨幣経済の浸透により、商品作物が作られるようになり、農民たちは副業として灯油の原料である荏胡麻も栽培するようになりました。他にも麻布などの織物や、鍛冶、鋳物師、紺屋などの各種手工業者も、農村から誕生しました。

こうして農民の暮らしは徐々に向上していき、荘園で暮らす農民たちは、収穫をあげる努力を続け、とれたものを出来るだけ多く手元に残そうとしました。これに対して、荘園を支配・管理していた地頭や荘官などの武士は、様々な名目をつけて農民たちに臨時の税をかけたり、労働にかりたてて直営地の耕作などにあたらせようとしました。

農民たちは、自分達は下人や所従ではないので、従者のように使われてはたまらないとして抵抗しました。しかし、年貢や公事が滞れば罰金をとられ、罰金を払えずに下人に身を落とす人も多くいました。

 

こうした地頭や荘官の圧迫に、農民たちは黙っていたわけではありません。荘園領主に地頭・荘官の乱暴を訴えたり、年貢を減らすように要求したりしました。こうした要求をするときには、荘園領主に文書を差し出して訴えました。これを百姓申状といいます。その際、農民たちは神社などに集まって共同して行動することを誓い、約束したことを破らないと神仏に誓う文書(起請文)を作りました。そして、その訴えが認められないと場合には農民たちが集団で逃亡(逃散)するという行動に出ました。具体的には農民たちがそろって田畑を耕すのをやめ、荘園の外に逃げ出すなどして、自分たちの訴えをみとめさせようとしたのです。

また、阿氐河荘民に見られるように団結して訴訟を起こす例も少なくありませんでした。