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【お茶の歴史】日本の茶文化はどのように広まったのか【村田珠光】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【お茶の歴史】日本の茶文化はどのように広まったのか【村田珠光】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 我々が嗜好品として口にするお茶は、9世紀に遣唐使によって中国からもたらされたと言われています。その当時は、一部の貴族のあいだに喫茶を楽しむ風潮が広がり、遣唐使が廃止されると、すたれてしまいました。

 その後、本格的に茶を普及させたのは臨済宗の開祖・栄西でした。12世紀、栄西肥前(長崎)で茶の栽培をはじめ、源実朝に茶を献上して病を癒したと伝えられ、以後その薬効が宣伝され、仙薬として上流階級に愛飲されるようになりました。京都、平戸、博多、鎌倉など、茶の栽培地も生まれました。

 南北朝時代になると、武士のあいだで茶寄合というものが盛んに催されました。寄合では「闘茶」と呼ばれる産地や良否を当てる賭けが盛んに行われ、高額な賭物がやりとりされました。

 足利尊氏室町幕府をひらく際、建武式目でこれを禁止したものの、衰えることはありませんでした。室町時代を通じて、茶を愛飲する階級は爆発的に広まり、町には一服1銭の茶屋も現れたほどでした。

 こうして今日の茶道の原型である「茶の湯」が生まれました。書院造の発達にともない、床の間に中国からもたらされた絵画をかけ、違い棚や付書院に豪華な美術品や陶磁器、書物などをかざって、それを鑑賞しながら茶を飲む「書院の茶」が生まれました。

 こうした茶のあり方に対して、15世紀後半、村田珠光(1422~1502)は、禅僧の一休宗純の教えを受け、喫茶に禅の精神を融合させました。そんな珠光が、発案したのが簡素な四畳半の茶室のなかに、簡素な書や水墨画をかけ、生け花をかざり、それを鑑賞しながら静かに茶をたしなむ作法でした。

 この創意工夫は、武野紹鴎(じょうおう)に継承され、「わび・さび」という冷え枯れた簡素美を理念とした茶禅一致の「わび茶」への志向が明確に打ち出されました。茶の湯ははじめ豪商のあいだに流行し、やがて戦国大名たちも熱中。天下人の織田信長豊臣秀吉も熱中したことから、諸大名も茶人を召し抱え、高価な茶道具の収集に熱を入れ、競って茶室をつくりました。滝川一益(信長の重臣)のように、一国の付与より名茶器の下賜を主君に望む武将が現れるほどでした。

 珠光、紹鴎と伝えられた「茶の湯」は、戦国時代後期に登場した千利休によっていっそう洗練されたうえ、大成されました。

 利休は、秀吉の寵愛を受け、天下第一の茶匠と呼ばれ、その権威は絶対的で、茶器の価格はすべて利休の目利きによって決まったほどだったという。けれど、黄金の茶室に代表される秀吉の豪華な茶と、離宮の目指す「侘び・さび」の茶は次第に乖離・対立するようになり、1591年、離宮は秀吉から自殺を強要されました。

しかし、利休の精神は弟子や子孫らに脈々と受け継がれ、江戸時代には儒教思想茶の湯に取り込まれ、芸道としての茶道が高まっていきます。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

【応仁の乱】足軽ってどんな人達?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【応仁の乱足軽ってどんな人達?」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

 「足軽」という文字は、源平合戦が行われた平安時代末期にすで散見されました。やがて南北朝時代から活躍が目立ち始め、戦国時代になると、足軽たちの集団が大きな力を発揮しました。

 応仁の乱では、東軍16万、西軍11万の兵が動いたとされていますが、戦力の大部分は京都周辺の村々などから寄せ集めた歩兵たちでした。彼らは鎧・兜を身につけた騎馬武者とは違い、馬に乗らず、軽い武装のみで、すばしこく戦うところから足軽と呼ばれました。「足が軽い」という言葉通り、足軽はゲリラ戦を得意とする雑多な集団を意味していました。応仁の乱は、関ケ原の戦いのように「天下分け目の決戦」は行われることはなく、戦いはゲリラ的な小競り合いに終始していました。そうしているうちに、戦乱は日本全国に波及しました。

 

 足軽たちのおもな仕事は、市中への〇火、略奪をおこなって敵を攪乱することにありました。

 応仁の乱では、東西どちらの陣営も足軽たちに兵糧や賃金を支給することが出来なかったので、代わりに略奪を認めていました。そのため、これに便乗して、物盗り・悪党などといわれてきた人々や、飢饉を逃れて京都に流れ込んできた人々までが足軽と名乗って、集団で略奪をはたらいていたようです。

 足軽たちのこうした行動が、応仁の乱の被害を大きくなり、京都の町は混乱状態となりました。公家のひとりは、「京都内外の多くの寺院や神社、公家の屋敷が焼失したのは、すべて足軽の行いが悪いためだ。」と書いて足軽を非難し、強いいかりをあらわにしています。

 足軽たちは、砦を築くために板切れを集めるために、寺に押し入り、ゆか板をはがし、戸も外して持っていきました。

 

 応仁の乱では、足軽は敵を攪乱するだけでなく、戦う歩兵の集団としても活躍しました。東軍に属した300人あまりの足軽の一団は、鎧・兜も身につけず、ただ腰刀だけで敵軍に突入して武将の首をとってくるような強力な部隊でした。足軽たちを率いて戦う大将には、「骨皮道賢」「馬切衛門」などというあだ名でよばれる者まで現れました。

 足軽たちが活躍できた背景には、鎌倉時代の末ごろから始まった戦い方の変化があります。これまでに弓矢を主とする騎馬戦に代わって、太刀・長刀・槍を用いた地上での斬り合いや討ちあいが戦いの主流となったのです。

 このような集団戦になると、個人の勇気や技を競った伝統的な戦いのルールは無意味なものになりました。また、武士が一族や郎党を率いて戦うやり方ではなく、出来るだけ多くの人数を兵として集めることが重要になりました。

 

 ところが、戦国時代が後半戦を迎える頃、足軽という言葉は違う意味で使用されるようになりました。織田信長は、天下布武を達成する過程において、兵農分離を強力に推進する。それまでの軍勢の大多数は、ろくに戦闘訓練を受けていない農民によって構成されおり、なおかつ農繁期になると、農村に戻ってしまう期間限定なものでした。

 これに対して信長は、農民や流れ者を足軽として大量に雇い入れ、平時から戦闘訓練を施しました。こうして組織されたプロの戦闘集団は、弓隊、長槍隊、鉄砲隊などに分けられ、戦場では整然と隊列を組み、法螺貝が吹かれると、一斉に突撃していきました。

 また、特に鉄砲は、操作方法に熟達していなければ有効に活用できなかったことから、鉄砲足軽は専門の戦士である必要が高いものでした。

 こうして足軽というプロの戦闘集団を所有することにより、織田信長の軍隊は各段に強化されました。つまり、信長が活躍した時代になると、足軽は、総大将の命令もきかず勝手気ままに行動する集団ではなく、総大将の命令下に行動する戦闘集団へと変貌を遂げました。

 信長や豊臣秀吉は、足軽というプロの戦士によって構成される軍勢を率い、いまだ兵農分離が行われていない地方の戦国大名たちを打倒していきました。この足軽がなければ、秀吉による天下統一は達成できなかったかもしれません。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり  戦国史   外川淳=著     日本実業出版社

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

【応仁の乱】室町幕府はなぜ東西に分裂したのか【細川勝元・山名宗全】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は、「【応仁の乱室町幕府はなぜ東西に分裂したのか【細川勝元山名宗全】」というテーマでお伝えします。

 

 1467年、東西南北全国各地から25万以上の大軍勢が京都に雲集し、東軍と西軍の2つの勢力に分かれて衝突を始めました。応仁の乱の勃発です。京都は瞬く間に火の海と化し、戦乱は11年も続き、京都は完全に焦土と化してしまった。

 応仁の乱といえば、日本を戦国時代へと導くきっかけとなってしまった悪名高い内乱ですが、応仁の乱はなぜ起きてしまったのでしょうか。

一般的には足利義政の跡継ぎ争いが原因だとされていますが、実際はそうではなかったという説もあります。応仁の乱は、畠山氏と斯波氏の跡継ぎ争いが原因であり、有力大名たちの勢力争いでした。

 

 管領とは、室町将軍を補佐して幕政を統轄する幕府のナンバー2ですが、細川、畠山、斯波の3家が順番に担当していました。

 そんな管領3家の一角を占める畠山家では、畠山持国の死後、子の義就と政長が家督をめぐって対立し始めました。

 同じ頃、もうひとつの管領家の斯波家でも、斯波義敏と義廉(よしかど)の家督争いが起こっていました。

 室町時代は畠山氏・斯波氏だけでなく、どの有力な守護大名でも、家督争いが常に存在していました。これは、鎌倉時代の分割相続が、南北朝時代を経て、所領の細分化を防ぐために単独相続に移行したことが原因でした。父親の財産を後継者が全て相続すると、残りの兄弟は財産を一切相続出来ないわけです。そのため、後継者たちは、その家臣団を巻き込んで常に厳しく対立していました。

 畠山・斯波氏にかわって幕府のなかで勢力をもったのは、管領をつとめた細川勝元と侍所長官をつとめた山名宗全でした。

 細川勝元は、管領3家の一角を占める細川宗家にあたる「細川京兆家」の嫡男として誕生し、幼い頃から惣領となるべく育てられました。幼名は聡明丸で、1442年、12歳のころに細川京兆家の当主となり、7代将軍に就任した足利義勝から一文字もらい「勝元」と名乗りました。

 1445年、父が早世したため、勝元は15歳という若さで初めて管領に就任し、19歳で管領を辞した後も、22歳再度管領に就任し、室町幕府の実権を握り続けました。

 そんな勝元が、34歳になると、管領を辞職し、8代将軍・足利義政の後継者となった足利義視の後見人となりました。義政とその正妻である日野富子のあいだに男児が生まれなかったため、1464年、義政は弟の義視を後継者に決め、義視は勝元を後見人(後ろ盾のようなもの)にすることを条件でこれを引き受けたのです。

 しかし、翌1466年に富子が男児(義尚)を出産し、富子は義尚を将軍に継がせたいと主張するようになりました。しかし、すでに次期将軍は義視に決まっています。それを富子は強引に義尚を将軍職につけようと、山名宗全(持豊)に接近し、宗全を義尚の後見人としました。

 こうして、義視の後見人となった勝元と、義尚の後見人となった宗全との対立が決定的となり、その溝はうめがたいものになりました。

 山名宗全は、室町幕府の侍所をつとめる4家の一角を占める山名氏の嫡男でした。山名氏は、室町時代初期には1族で11国も治めるなど非常に強い力を持っていました。しかし、3代将軍足利義満は「一つの家が大きな力を持っているのは危険だ」として、同族同士で争うように画策。その結果、山名氏はあっという間に没落。領地は3国までに激減してしまいました。

 ここから1段階復活させたのが父の山名時煕のときで、その後を継いだ宗全が、山名氏のかつての栄華を超えた繁栄をもたらしました。きっかけは、1441年の「嘉吉の変」で、播磨国守護大名赤松満祐を討ったことです。当時の6代将軍・足利義教を暗殺した満祐を追いつめ、自害へと追い込みました。こう功から山名家は、道祐の所領を得ることになり、領地と権威を見事に回復しました。

 頭脳明晰で知略に富んだ勝元に対し、宗全は武闘派といったイメージです。山名氏は、本来ならば、政治の中枢にいるような一族ではないのですが、とにかく武力が強いため、多くの守護たちも口出しが出来ずにいました。

 勝元と宗全は、畠山・斯波両家の後継者争いをめぐって、勝元が畠山政長を助けると、宗全は畠山義就の側につきました。さらに勝元が斯波義敏を助けると宗全は斯波義廉を助けるといったふうに、ことごとく対立しました。

 

 細川勝元山名宗全の両陣営が軍勢を集め、すぐにも戦いが起こりそうな状態となりました。このとき両軍が陣を置いた位置から、細川方を東軍といい、山名方を西軍といいます。両陣営には、他にも赤松氏や一色氏、京極氏などの幕府の有力守護たちが加勢し、対立構造は以下のようになりました。

東軍足利義視(将軍の弟)/細川勝元畠山政長斯波義敏大内氏/赤松氏/武田氏/京極氏など(約16万の兵力)

西軍足利義尚(将軍の子)/日野富子山名宗全畠山義就/斯波義簾/一色氏/土岐氏/六角氏など(約11万の兵力)

ここに、室町幕府重臣たちは東西に分裂する結果となったのです。

 

そして、1467年年1月、畠山政長畠山義就の軍勢が京都の上御霊社(京都市上京区)のそばの御霊林で戦いを始めました。

また、細川方(東軍)の赤松正則が播磨国へ侵攻し、山名氏から同国を奪還する戦いも起こりました。冒頭で触れた「嘉吉の変」の逆襲です。

これらの戦いを口火として両軍は、京都を中心に戦いを始めました。

 

同年5月になると、両軍の戦いは激しさを増しました。開戦当初は、東軍が有利でしたが、周防国山口県東部)の大内氏が西軍に寝返ってからは、兵力がほぼ互角となり、一進一退を繰り返しました。

しかし、翌1468年に、義視が山名方(西軍)に寝返り、義尚・富子が細川方(東軍)に寝返るという現象が起こりました。

こうなってくると、「なぜ戦っているのか」、「誰が味方で打ち倒す相手は誰なのか」という当事者さえも理解できないような複雑な状態になっていきます。

さらに悲惨なのは主な戦場が京都だったということです。京都の町じゅう、いたるところで戦いが行われ、平安時代からある建物が焼かれ、仏像は破壊され、経典や書籍なども灰となってしまいました。

京都に住んでいた貴族や僧侶たちも荒れ果てた京都を離れ、各地の大名を頼って、地方に亡命していきました。

応仁の乱は、関ケ原の戦いのような「天下分け目の決戦」が行われることはありませんでした。戦いはゲリラ的な小競り合いに終始しているうちに、戦乱は全国に波及。

宗全は、早い時期から「ムダな戦いになっている」と気づき、和平を画策していたようですが、結局果たせないまま1473年に病で死去しました。これによって、同年、勝元は擁立していた9歳の義尚を9代将軍に就任させましたが、その直後、宗全の後を追うように亡くなりました。

翌1474年には、細川勝元の子・政元と、山名宗全の子・正豊のあいだで和議が結ばれ、両氏の争いは収まりました。

両軍の総大将がいなくなったことで、戦いは下火になったものの、勝敗も決まらず、ダラダラと続いていきました。

結局、1477年に畠山義就河内国大阪府東部)に兵を引いたのをきっけかに、西軍の大内氏土岐氏らも領国に戻ったため、京都での戦乱は静かに終息していきました。

応仁の乱後の日本国内に残されたのは、政治的な混沌でした。将軍と幕府の権威は失墜し、その後の室町幕府はほとんど亡命政府と化しました。

そんな中央政府が存在しない状態となった日本では、以後、戦乱が100年以上も続いてしまいます。日本全土は血で血を洗う戦国時代へと突入したのでした。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

あの偉人たちにも黒歴史!? 日本史100人の履歴書  矢部健太郎=監修 宝島社

早わかり 戦国史  外川淳=編著  日本実業出版

1日1ページ読むだけで身につく日本の教養365   斎藤孝=監修 文響社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

【足利8代将軍】なぜ足利義政は応仁の乱を引き起こしてしまったのか【足利義政】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【足利8代将軍】なぜ足利義政応仁の乱を引き起こしてしまったのか【足利義政】」というテーマでお伝えしたいと思います。 

 1467年、東西南北全国各地から25万以上の大軍勢が京都に雲集し、東軍16万、西軍11万の2つの勢力に分かれ、衝突を始めました。「応仁の乱」の勃発です。京都は瞬く間に火の海と化し、戦乱は11年も続き、京都は完全に焦土と化してしまい、以降、日本は戦国時代へと突入するのでした。

 応仁の乱といえば、時代を「戦国の世」へと導くきっかけとなってしまった悪名高い内乱ですが、応仁の乱はなぜ起きてしまったのでしょうか。その原因を作ったのは、一組の夫婦でした。室町幕府8代将軍・足利義政と、その正妻・日野富子です。

 今回は、応仁の乱の原因の一つである義政の後継者問題についてストーリーを展開していきながらみていくことにしましょう。

 

 1441年、強権政治を展開した室町幕府6代将軍・足利義教が播磨の守護大名・赤松満祐に暗殺されるという重大事件が起こりました(嘉吉の変)。幕府はすぐに討伐軍を送り、赤松を討ちました。このとき功績を上げたのが山名持豊(後に出家して宗全となる)の一族でした。その恩賞として赤松氏の領地であった播磨・備前・美作が山名氏に与えられ、山名は、細川や畠山、斯波といった管領家に並ぶ実力ある守護大名へと成長しました。

 義教亡き後、その長男である義勝が1442年に7代将軍に就任しました。しかし、もともと病弱だった義勝は翌1443年にわずか10歳で天折。代わりに義勝の弟である義政が1449年に13歳で8代将軍に就任しました。

 義政の政治は、6代将軍・義教の強権政治の反省から、将軍の側近たちの合議体制のうえで進められることになりました。合議体制は、室町幕府の本来の政治体制でしたので、特に問題ないように思えます。しかし、その中には幕府の実力者以外にも、義政の母や乳母、そして正妻なども含まれていました。

 まず、幕府の実力者ですが、管領家は、斯波・畠山・細川の3氏が順番で担当していました。これに加えて義政の母の日野重子、乳母の今参局(いままいりつぼね)、やがて妻となる日野富子、さらには幕府の財政を握っていた政所執事伊勢貞親らの政治介入も目立つようになってきました。こうした側近たちの積極的な政治介入が裏目に出る結果となるのです。

 一方の義政は、ほとんど名目だけの将軍となり、贅を尽くした山荘を築き、猿楽見物や見物山遊を繰り返すなど、政治には全く関心を示しませんでした。

 そんな義政も20歳になると、日野氏から正妻を迎えました。室町将軍は代々から日野氏から正妻を迎えることになっており、義政も例にたがわず、16歳の日野富子と結婚したのです。

 しかし、義政と富子の夫婦仲は悪く、数年経っても富子は世継ぎを生みませんでした。そこで、義政は、弟ですでに僧侶となっていた義尋(ぎじん)を自分の後継者にするとしました。義政は義尋を武士に戻らせて義視と名乗らせ、養子として後継者にしようとしました。義政としては早急に将軍職を譲り、隠居して山荘で優雅な生活を送りたかったのでしょう。

しかし、義視は当初、これを断りました。

「兄さんも、今後、世継ぎとしての男児が生まれることでしょう。そうなれば、私は邪魔者になるでしょう。最悪の場合、命も危ない。」

 当時、義尋のような高僧であれば、かなり豊かな暮らしが出来、命を狙われることもありませんでした。義尋としては、命の危険を冒してまで義政の養子になろうと思わなかったのです。

そんな義視に対し、義政は約束しました。

「そんなことはないから安心しなさい。もし男児が出来ても、出家させるから大丈夫。」

 その後も、義政からの説得によって、1464年、義視は遂に、当時の幕府の実力者である細川勝元を自分の後見人(証人のような人)にすることを条件で義政の養子に入ることを承諾しました。

 この時点で、後継ぎが決まったわけなので、義政は子供を作ってはいけませんでした。

 ところが、である。結婚10年目となった義政と富子のあいだに男児足利義尚)が生まれてしまいました。そして案の定、富子は息子の義尚を次期将軍にしたいと口出しするようになりました。

 しかし、すでに次期将軍は義視に決まっています。それを富子は強引に義尚を将軍職につけようと、細川氏と肩を並べるほどの実力者となっていた山名宗全(持豊)に接近し、宗全を義尚の後見人としました。

 また、1466年には義尚に将軍を継がせたいと願う伊勢貞親らが義視の暗殺を企てましたが、事前に発覚したため、貞親らは幕府から追放されました。

 これに対して、義視は、後見人である細川勝元とともに、義尚方と戦う姿勢を示しました。ここに、足利義視細川勝元と、足利義尚山名宗全との対立が決定的となり、その溝は埋めがたいものとなってしまいました。

  本来であれば、ここで義政が、正式な後継者をどちらにするのか決めればよかった。どのみち争いの種は残ると予想されますが、一応の収束は出来たはずです。しかし、義政は山荘に引きこもり、趣味に没頭してしまうのでした。

 そんなことをしているうちに、やがて畠山氏と斯波氏の両管領家における後継者争いも加勢し、室町幕府は2つの勢力に分裂してしまいました。

以下は、その対立構造です。

東軍足利義視(将軍の弟)/細川勝元畠山政長斯波義敏大内氏/赤松氏/武田氏/京極氏など(約16万の兵力)

西軍足利義尚(将軍の子)/日野富子山名宗全畠山義就/斯波義簾/一色氏/土岐氏/六角氏など(約11万の兵力)

そして1467年1月、畠山政長畠山義就の軍勢が京都の上御霊社(京都市上京区)のそばの御霊林で戦いが始まりました。

さらに、細川方(東軍)の赤松正則が播磨国へ侵攻し、山名氏から同国を奪還する戦いも起こりました。冒頭で触れた「嘉吉の変」の逆襲です。

これらの戦いがきっかけとなり、同年5月、細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍の軍勢が京都に集まり、両軍は激しくぶつかり合いました(応仁の乱)。

しかし、この応仁の乱は途中から、義視が山名方(西軍)に鞍替えし、義尚・富子が細川方(東軍)に鞍替えするというという現象が起こりました。こうなってくると、「なぜ戦っているのか」、「誰が味方で打ち倒す相手は誰なのか」という当事者さえも理解できないような複雑な状態になっていきます。こんな当初の目的もわからない、敵味方が入り乱れる戦いが11年も続いてしまいました。

さらに悲惨なのは主な戦場が京都だったということです。京都は焦土と化し、平安時代からある建物が焼かれ、仏像は破壊され、経典や書籍なども灰となってしまいました。

応仁の乱が終わり、夫婦仲はすっかり悪くなってしまった義政は、富子と別居して趣味三昧な生活に入りました。銀閣の造営にも力を入れ、幕府の財源を自分の趣味につぎ込みました。

今回は、応仁の乱が起きた原因について、将軍後継者問題をとりあげました。応仁の乱は、義政の不手際や優柔不断さが招いた悪名高い内乱と言われていますが、そもそも義政は将軍就任当初から、父・義教のような強権政治を敷かないように政治からは遠ざけられていました。そして合議体制による政治を進めるために、管領家の他にも多くの側近たちを政治に介入させたことが裏目に出る結果となってしまったのです。

それに対して政治力を育成されなかった義政は、何もしなかったし、何も出来なかった。そういう意味では、父のようにしないために育成された義政は、父親以上のモンスター将軍となってしまったといえるのではないでしょうか。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

あの偉人たちにも黒歴史!? 日本史100人の履歴書  矢部健太郎=監修 宝島社

早わかり 戦国史  外川淳=編著  日本実業出版

1日1ページ読むだけで身につく日本の教養365   斎藤孝=監修 文響社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【10代~15代】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介(11代~15代)」というテーマでお伝えします。

今回は以下のような室町幕府の10代~15代将軍の活躍や功績をご紹介していこうと思います。

8代将軍・足利義政のときに勃発した応仁の乱によって、室町幕府の衰退がはじまりました。この頃の室町幕府は、事実上、細川氏が強い実権を握っていたため、細川幕府と呼ぶこともあります。さらに、三好氏や松永久秀、そして織田信長の台頭など、室町将軍はもはや名ばかりとなってしまいました。やがて室町幕府は、各地で起こる守護大名戦国大名の勢力争いに巻き込まれ、多くの将軍が不幸な最期を遂げていきました。

 

・史上初、2度将軍になる

  10代将軍 足利義材(義稙)(在位期間:1490~93、1508~21)

・生涯にわたり義稙と争う

  11代将軍 足利義澄(在位期間:1494~1508)

・政情不安が続いた長期政権

  12代将軍 足利義晴(在位期間:1521~46)

・聡明かつ剣豪だった名交渉人

  13代将軍 足利義輝(在位期間:1546~65)

・在位7カ月、一度も京に入れず

  14代将軍 足利義栄(在位期間:1568)

・信長包囲網を築いた最後の将軍

  15代将軍 足利義昭(在位期間:1568~73)

 

史上初、2度将軍になる

室町10代将軍・足利義材(義稙)(在位期間:1490~93、1508~21)

1490年に10代将軍に就任した足利義材は、かつて義尚と将軍の跡継ぎを争った足利義視の子供です。義材は、応仁の乱が勃発した際に、父・義視とともに亡命していました。そんな義材は、日野富子に擁立されて将軍に就いたのです。

しかし、幕府では応仁の乱後、細川氏管領職を独占しており、義材は将軍にありながら、実権は管領細川政元に握られていました。

そんな状態ですから、結局、義材は富子や政元と対立するようになり、義材は1493年に出陣のために京都を離れたすきに、政元に将軍職を廃されたのちに、京都の竜安寺に幽閉されてしまいました(明応の政変)。以降、義材は諸国を流浪する生活を送ります。

 

生涯にわたり義稙と争う

室町11代城軍・足利義澄(在位期間:1494~1508)

 足利義材を幽閉した後に、富子と政元は、関東から堀越公方足利政知の子である足利義澄を京に連れてきて、1494年に11代将軍としました。義澄は義材の従兄弟にあたります。しかし、幕府の実権は政元が握っており、義澄は名目だけの将軍でした。

 そんな政元でしたが、女人禁制の修験道に傾倒していたため、実子がおらず、3人の養子(澄元、澄之、高国)が後継ぎをめぐって争いを始め、政元は暗殺されてしまいました(永正の錯乱)。

 一方、前将軍・足利義材は再度将軍に就こうと京都を脱走し、周防国山口県)の大内義興を頼るようになります。大内氏は、全盛期には日明貿易を独占しており、その結果、領国は大いに潤い、栄えていました。その勢力は、義材を保護し、彼を担いで上洛を果たせるほどのものでした。

 そして1508(永正5)年、義材を奉じた大内義興は、細川氏の後継ぎ争いを制した細川高国と組んで、大軍勢を率いたうえで上洛を果たし、義澄を駆逐しました。こうして上洛を果たした義材は「義稙」と改名して、再度将軍に返り咲きました。

 京都を追われた義澄は、たびたび京都の奪回を図るも、結局は果たせず、遂に近江国滋賀県)で死亡しました。

 一方、義稙のほうも、結局は細川高国と仲たがいした後に、淡路国に出奔。直後に行われた後柏原天皇即位式に出仕しなかったため、義稙はすっかり信用を失い、1521年には高国によって将軍職を解任されてしまいました。

 

・政情不安が続いた長期政権

12代将軍 足利義晴(在位期間:1521~46)

 義稙に代わって1521年に12代将軍に就任したのは、義澄の子である足利義晴でした。義晴は就任当初、まだ10歳だったため、政治は細川高国らが中心となって行いました。この時代になると、室町幕府の権威もすっかり地に落ちており、高国は幕府を守るために将軍直属の奉公衆を強化しました。

 1526年、そんな細川家で内紛が起こり、高国と細川六郎が対立をはじめました。最初に挙兵したのは六郎の方で、1527年、六郎は堺公方足利義維を擁立して挙兵しました(桂川原の戦い)。この戦いで高国は敗北を喫し、六郎が幕府の実権を握ることになりました。一方、将軍・義晴は高国を伴い、近江国に逃亡しました。しかし、奉公衆や幕臣の多数は義晴側の味方になっており、朝廷や地方大名との関係も維持されていました。

 こうした状況だったので、幕府の乗っ取りに成功した六郎も、結局は京都を追われ、その煽りを受けた義維も阿波国徳島県)の平島に逃れました。以降、義維は平島公方として、細川氏重臣・三好氏にかくまわれるのでした。(この義維の遺児が、この後の14代将軍に就任します。)

 こうして京都を奪還した義晴でしたが、細川氏重臣だった三好氏が下剋上現象によって台頭し、やがて義晴は三好長慶によってたびたび京都を追われるようになります。幕府の実力者だった細川氏の実権は、この頃になると、家臣の三好氏に握られていたのです。

 その後、義晴は京都を奪還しては追われを繰り返し、その結果、将軍在位期間は、この時期には珍しい25年間という長期間に及びました。そんな長期政権を維持した義晴でしたが、1546年に近江国で自害に追い込まれました。

 

・聡明かつ剣豪だった名交渉人

13代将軍 足利義輝(在位期間:1546~65)

 義晴を追放した長慶は、自らが擁立した義晴の子・足利義輝を13代将軍に就任させました。義輝は様々な兵法を学んでいる剣豪であり、かつ聡明で、交渉手腕にも長けており、織田信長上杉謙信武田信玄などの地方大名と親交を結び、大名間の争論を仲介し、功労者には位階を授けるなど幕府としての権威を復活させたかに思われました。

 しかし、義輝も名目だけの将軍であり、幕府の重臣となった長慶の傀儡将軍でした。そんな状況ですから、やがて義輝は長慶を排除しようとしますが、逆に義輝が京都を追放されてしまいます。

 その後、義輝は何とか長慶と和解し、京都に戻るも、やはり長慶の傀儡将軍でした。

 先ほど、三好氏が主君の細川氏を凌ぐようになったと述べましたが、下剋上現象はこれだけではありませんでした。というのは、三好氏の家臣だった松永久秀も次第に頭角を現すようになり、主人である三好氏を上回るほどの実力者に成り上がっていきたからです。

 そんななか、長慶が死ぬと、義輝は再度、幕府を立て直そうと奔走しました。具体的には反発する松永久秀を打倒するために地方の有力大名に協力を要請していたのです。その動きを察知した久秀は、先手を打って将軍殺害という思い切った手段を決行しました。

 そして義輝は、松永久秀や三好義継らによって屋敷を襲撃され、自害を余儀なくされました(永禄の変)。このとき義輝は、寄せ来る数十人の敵を斬殺するほどの剣豪ぶりを発揮し、刀が刃こぼれすると、あらかじめ畳に忍ばせておいた刀と交換して再び敵と対峙したと伝えられています。

・在位7カ月、一度も京に入れず

14代将軍 足利義栄(在位期間:1568)

 義輝を殺害後、松永久秀三好三人衆三好長逸三好政康・岩成友道)と結託し、義輝の従兄弟にあたる義栄を14代将軍に就任させました。義栄は、三好三人衆によってかくまわれていた足利義維の遺児でした。しかし、義栄は久秀や三好氏の傀儡将軍で、京に入ることすら出来ない名目上の将軍でした。久秀は、将軍を攻め滅ぼしながらも、将軍の権威を必要としたことから、幕府を滅ぼさずに傀儡将軍を就任させたのです。

 やがて、久秀と三好三人衆も対立するようになり、一進一退の攻防を繰り広げましたが、1568年に尾張国織田信長の軍勢が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してきたため、両者は停戦を余儀なくされました。

 久秀は信長方に帰属することを許可されたことから、三好三人衆は将軍・義栄を伴って京都から追い払われました。義栄は、阿波国に逃れた後に、間もなく病死しました。

 

・信長包囲網を築いた最後の将軍

15代将軍 足利義昭(在位期間:1568~73)

 信長の助力を得て15代将軍に就任した義昭は、幕府の再建を目指して意欲的に政務を行いました。義昭は信長を「余の父上」と位置づけ、感謝したとそうです。

 しかし、やがて信長に行動を制限されるようになったため義昭は不満を持つようになりました。義昭もまた、信長に天下を狙うための権威付けとして利用されただけだったのです。義昭は、武田信玄毛利輝元などの各地の有力大名と密約を交わして信長包囲網を形成し、「打倒・信長」をはかります。しかし、そのリーダー格であった武田信玄が病死したことで包囲網は瓦解。それでも諦めなかった義昭は、今度は兄を殺した憎き敵であるはずの松永久秀らと手を組んで挙兵し、公然と信長に対抗しました。しかし、残念ながら結果は敗北。1573年、捕らえられた義昭は、命こそ助けられたものの、京都を追い出されてしまいました。ここに室町幕府は滅亡したのでした。

 しかし、義昭が正式に征夷将軍を辞したのは、1588年のことです。信長が1582年に本能寺の変で横死したことを考えると、それまで室町幕府は健在だったことがいえそうです。義昭は信長が死んだという知らせを聞くと、「天罰が下ったのだ」と喜んだとされています。

 その後、信長の家臣だった豊臣秀吉によって天下が統一され、義昭は、豊臣政権の御伽衆(おとぎしゅう)として政界に復帰することとなりました。

 御伽衆とは、政治顧問のようなもので、農民出身だった秀吉に対し、政治的なアドバイスをする役職です。秀吉によって、かつての権力者や著名人の多くが御伽衆として起用され、義昭は、そんな秀吉のブレーンの一人として優雅な余生を過ごしたそうです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる   日本史  山岸良二=監修

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社

【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【6代~9代】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【6代~9代】」というテーマでお伝えします。

今回は以下のような室町幕府の6代~9代将軍の活躍や功績をご紹介していこうと思います。

3代将軍・足利義満の頃に全盛を迎えた室町幕府は、その後、やや停滞気味となり、強権的に政治を推し進めることで、幕府の権威を回復しようとしました。しかし、やがて日本全体を戦国時代へと突入させてしまった悪名高き「応仁の乱」が勃発してしまいました。

・クジ引きで選ばれた恐怖の将軍

  6代将軍 足利義教(在位期間:1429~41)

・幼くして没した短命将軍

  7代将軍 足利義勝(在位期間:1442~43)

・側近たちの政治介入が裏目

  8代将軍 足利義政(在位期間:1449~73)

・幕府再建に尽力

  9代将軍 足利義尚(在位期間:1473~89)

 

クジ引きで選ばれた恐怖の将軍

6代将軍 足利義教(在位期間:1429~41)

 前将軍の足利義持が、「次の将軍は皆で話し合って決めるように」と遺言を残したため、次の将軍は義持の4人の兄弟のなかから選ぶことになりました。話し合いの末、クジ引きで決めることにしました。当時、クジ引きには、「神の意志を問う」という意味があり、選ばれた者は、人知(じんち)を超えた神の意志で選ばれたことになり、選ばれなかった者の不満を抑えることが出来ると考えたからです。栄えある当選者は、義教に決まりました。

 義教は、当初、重臣たちに政務を委任していましたが、やがて独裁体制をしくようになり、兄・義持の時代に停滞気味だった室町幕府の政治の再強化を図りました。具体的には義持の時代に途絶えていた日明貿易を復活させ、比叡山延暦寺を屈服させ、その他にもささいな理由で意にそわない貴族や大名を次々と抹殺していきました。

 1439年には鎌倉公方足利持氏を自害に追いやっています(永享の乱)。しかし、このような苛酷な粛清が家臣たちを疑心暗鬼にし、領地を没収されて殺されると思い込んだ播磨の守護大名・赤松満祐によって、義教は謀殺されてしまいました。

 

幼くして没した短命将軍

7代将軍 足利義勝(在位期間:1442~43)

前将軍・足利義教が急逝したため、その長男・義勝がわずか10歳で7代将軍に就任しました。しかし、もともと病弱だった義勝は在位8カ月で天折。したがって、特記すべき功績はほとんどありません。しかし、政治面では義教の弔問として訪れた朝鮮通信使と対面したこと。文化面では、10歳のときに描いた達磨図が残っています。将軍の後を継いだのは、義勝の弟の義政でした。

 

側近たちの政治介入が裏目

8代将軍 足利義政(在位期間:1449~73)

兄・義勝が天折したため、義政は棚ぼた式に将軍に就任しました。就任当初はわずか13歳でした。義政といえば、日本を戦国時代へと突入させるきっかけとなった応仁の乱を引き起こした将軍ですが、その原因は、義政の正妻である日野富子だったのではないでしょうか。

室町将軍は代々、日野氏から正妻を迎えることになっており、義政も例にたがわず、20歳のときに16歳の富子と結婚しました。

また、義政の政治は、6代将軍・足利義教の強権政治の反省から、乳母や実力者、そして正妻などの側近たちの合議のうえで進められることとなりました。そのため、義政は将軍就任当初から政務に無関心で、贅を尽くした山荘の新築や、猿楽見物や見物山遊と、文化に熱中する生活を送っていました。一方で、義政と富子のあいだには世継ぎとしての男児が生まれない状況でした。

そんな義政は、次期将軍には弟の義視にするとしていました。義政としては早急に引退して優雅な生活が送りたかったのでしょう。

ところが、結婚後10年して富子が男児(義尚)を出産しました。富子は義尚を次期将軍にしたいと願うようになりました。

しかし、すでに次期将軍は義視に決まっています。それを富子は強引に息子の義尚を将軍職につけようと幕府の実力者である山名持豊(宗全)に接近しました。これに対して義視方は、元管領細川勝元に助力を求めるようになり、大規模な跡目争いへと発展しました。

しかし、義政はこの問題を解決しようとはせず、やがて畠山氏と斯波氏のそれぞれの家督争いも加勢してしまい、そして畠山氏の家督争いがきっかけとなって京都で戦闘が起こりました。東西南北全国各地から25万以上の大軍勢が京都に雲集し、ひしめきあって二手に分かれ衝突を始めたのです。これが1467年に始まる応仁の乱です。

乱の勃発後、一年もたたないうちに京は完全に焼け落ち、1473年に細川勝元山名持豊がともに死去した後も争いは終わらず、1477年にようやく両軍は戦いを辞めました。

しかし、その後の室町幕府の権威は失墜し、下剋上の風潮が強まり、戦乱は全国的に波及していく結果となりました。

 

幕府再建に尽力

9代将軍 足利義尚(在位期間:1473~89)

 応仁の乱のさなか、9代将軍に就任したのは富子の子である義尚でした。しかし、義尚はまだ8歳だったため、政治を行えず、実権は父・義政が握っていました。しかし、その義政が全く政務を行わず、政治は乱れる一方で、しびれを切らした、義尚は15歳になった時点で、伴始め(政務始めの儀式)を行い、全国に自立をアピールしました。

 しかし、その後も中々実権を譲らない父・義政に対し、義尚は遂に出家するぞと脅しました。こうして父から実権を獲得した義尚は、失墜した将軍の権威を回復させるべく、乱れた政治を何とか再建しようとしました。

 応仁の乱以降、世間では下剋上の風潮が強まり、近江国滋賀県)の六角氏が幕府をないがしろにし、成り上がろうと目論みました。義尚は、そんな六角氏を征伐するために自ら近江国に出兵しました。しかし、思わぬ長期戦を強いられた挙句、義尚は陣中で25歳の若さで病死してしまいました。

 さらに、義尚には兄弟も子供いなかったため、結局、前将軍の義政が代わりに政務をとることになりました。しかしその義政も翌1490年に死去したため、将軍の位にはポッカリと穴があく結果となりました。

 この義政・義尚の治世下で、それまで幕府を支えてきた功臣たちも相次いで亡くなっており、幕府の基盤は恐ろしく脆弱なものとなっていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる   日本史  山岸良二=監修

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社

【足利6代将軍】クジ引き将軍の不都合な真実とは?【足利義教】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【足利6代将軍】クジ引き将軍の不都合な真実とは?【足利義教】」というテーマでお伝えします。

 今回の主人公は、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)です。しかし、この将軍、小中学校の教科書には出てこず、高校の日本史でも名前程度しか出てきません。そのため、世間での知名度は非常に低いでしょう。

 しかし、この将軍、知名度の割には、特記するべき政策や出来事が多いです。

 独裁政治を敷き、貿易に熱心で、比叡山延暦寺を焼き討ちし、言うことを聞かない守護大名を次々に滅ぼしていきました。その結果、有力守護で重臣でもある赤松満祐に暗殺されてしまいました。

 これと似た実績を持つ者が戦国時代に現れています。織田信長です。信長といえば、時代の破壊者であり、先駆者というイメージが強いですが、じつのところ、信長以前に、足利義教という独裁者が現れているのです。

 参考までに2人の実績をまとめてみました。

足利義教/独裁政治を展開/日明貿易を復活させる/比叡山延暦寺の焼き討ち/意に沿わない有力守護の追放・暗殺/有力守護で重臣の赤松満祐によって急逝する。

織田信長/独裁政治を展開/貿易に活路を見出す/比叡山延暦寺の焼き討ち/無能な家臣を追放/重臣であるはずの明智光秀によって急逝する。

 このように足利義教とは、織田信長と同等かそれ以上の実績を持ち、似たような最期を遂げているのです。

 にもかかわらず、足利義教の独裁者としてのイメージは定着していません。織田信長の独裁神話は、足利義教という「不都合な先駆者」に守られているといえるでしょう。

では、そんな義教の政治的実績を信長のそれと比較しながら見ていこうと思います。

 

 1394年、義教は、室町幕府3代将軍・足利義満の5男として生まれました。そのため、義教は本来ならば、将軍の座にはほぼ就けない状態でした。

 同年、義教の兄・足利義持室町幕府4代将軍に就任しました。しかし、実権は父・義満に握られており、義持はそんな父に不満をもっていました。そんな義持は、義満の死後、その政策を取捨選択しました。

 まず、義満の敷いた独裁政治を辞め、管領をはじめとする有力守護たちの意見を尊重する室町幕府本来の政治体制に戻しました。1411年には朝貢形式をとる日明貿易も屈辱的だとして中断し、1419年には明との国交も断ちました。

 そんな義持は1423年、息子の義量に将軍職を譲るものの、義量はかなりの大酒飲みでした。そのせいか義量はまともな政治が出来ず、健康を害した後にわずか19歳で亡くなりました。やむを得ず、義持が出家したまま政務を執ることになりましたが、そんな義持も1428年に亡くなりました。

 義持は亡くなる直前、次の後継者を指名してほしいと要請する重臣たちに向かって、「指名しても、みなの助けがなければ幕府は成立しえない。管領以下の人々が相談して決めるように。」と言い残しました。

 そこで、重臣たちは相談して、義持の4人の弟のなかからクジ引きで次の将軍を選出することにしました。当時、クジ引きには、「神の意志を問う」という意味があり、選ばれた者は、人知(じんち)を超えた神の意志で選ばれたことになり、選ばれなかった者の不満を抑えることが出来るのです。

 重臣たちは、源氏の氏神(うじがみ)である石清水八幡宮(京都)の意志をクジで問いました。このときには、管領畠山満家が神前で将軍候補の4人の名前をクジ書いたクジを引き、義持の死後の直後に重臣たちの前で開封されました。

栄えある当選者は、足利義教でした。

しかし、このとき義教はすでに出家しており、青蓮院門跡の僧侶で、義円(ぎえん)という名前でした。義円は、義教と改名したうえで、室町幕府6代将軍に就任しました。

 

以後、義教はクジ引き将軍のイメージとは正反対の強権政治を行うようになります。兄・義持の時代に停滞気味だった室町幕府の政治の再強化を図ったのです。

まず、足利義教が行ったのは、幕府の経済基盤の強化で、義持の時代に途絶えていた日明貿易を復活させました。織田信長も交易には熱心でしたが、先駆である義教もまた交易に活路を見出していました。

義教の強権政治が発揮された最初の例は、比叡山延暦寺の焼討ちでした。中世は多くの寺社が時の権力者に服従するどころか、「独立国」のような様相を呈していました。比叡山延暦寺はその代表でした。したがって、権力者が己の政権を安定させたいなら、延暦寺をはじめとする寺社勢力を抑え込む必要がありました。

足利義教の対決姿勢は、延暦寺による園城寺焼き討ち事件から始まります。義教は、ここで決断し、1433年、比叡山を包囲し、軍事力でいったんは屈服させました。しかし、比叡山はそののちも反抗的であり、足利義教は翌1434年にも比叡山を包囲し、焼き討ちを仕掛け、そのすえに、比叡山側の代表4名を処刑しました。これに延暦寺側は激怒し、抗議の集団自殺をしたうえ、根本中堂にも火を放ちました。しかし、義教の幕府軍にはまったく無力でした。

織田信長比叡山焼き討ちは、それから1世紀以上も経った後です。比叡山焼き討ちをした信長は、宗教権威に屈しない魔王扱いされていますが、実は初代の攻撃者ではありませんでした。彼のモデルには足利義教があったとしてもおかしくありません。義教は織田信長の先駆者だったのです。

 

延暦寺を屈服させた足利義教は、関東の平定にも乗り出しました。古くから関東は朝廷からの支配に苦しんでおり、独立を願っていました。それは室町時代も同じで、関東は京都の幕府のコントロールから離れようとしていました。

そんな関東を抑え込むべく、室町幕府は鎌倉府を置き、鎌倉公方には足利一族がなりました。それだけに鎌倉公方は室町将軍の地位に興味があり、室町将軍と鎌倉公方の暗闘は絶えませんでした。鎌倉公方は、室町幕府の爆弾と化す恐れがあったのです。

将軍の後継者がクジによって足利義教に決まると、鎌倉公方足利持氏はそれに不満を持ちました。義教よりも自分の方がよほど将軍にふさわしいと思っていたからです。(近年の研究では、将軍決定の際のクジ引きは八百長だった可能性が指摘されています。)

持氏は年号が、正長から永享に改められても正長の年号を使い続け、子供が元服(男子の成人式)のときに室町将軍の名前の一部をもらう習わしがあったのをやめるなど、幕府に対する挑発行為を示すようになりました。関東管領の上杉憲実は、そんな持氏の行為を諫めると、持氏と憲実が対立するようになりました。そのため、1438年、身の危険を感じた上杉憲実は自分の領国である上野国群馬県)に帰ると、これを謀叛とみなした持氏は、遂に憲実を攻めようとしました。これを受けて将軍・義教は、ただちに憲実に援軍を送り、関東・東北の武士達に持氏を攻め滅ぼすよう命じました。

そして、幕府軍に惨敗した持氏は、出家して鎌倉の永安寺に入りました。

憲実は、将軍・義教に持氏の許しを願いました。

しかし、義教は、持氏を殺すように命じました。

塀をはさんで持氏方と憲実方の戦いが繰り広げられるなか、持氏は、これまでと覚悟し、自害しました。最終的には持氏一族は滅ぼされてしまいました。

室町将軍と、鎌倉公方の暗闘は、室町将軍の勝利によって幕を閉じたのです。

その後、関東では1440年に結城合戦が起こります。これは、永享の乱で持氏に味方したため下野国(栃木県)の守護職を奪われた結城氏朝が、持氏の子を担いで起こした反乱です。翌1441年、義教はやはり上杉氏に援軍を送って、これも平定しました。

足利義教は東西に分裂しがちだった日本を統一・安定に導いたのです。しかし、この後、応仁の乱が起きて室町幕府が有名無実となると、関東は中心となる治める支配者がいなくなり、混乱の状態に入ってゆくのでした。

織田信長は、関東を制圧できないままでしたが、一方の義教は、圧倒的な武力で関東をねじ伏せたのです。

義教の独裁体制は、織田信長以上でした。義教は有力守護大名の跡継ぎ決定に口をはさみ、自分の命に従順な傀儡武将に後を継がせようとしました。そして言う事を聞かない大名に関しては殺害までしました。例えば1440年に若狭国福井県南西部)の守護の一色義貫を、さらには伊勢国三重県南東部)の守護の土岐持頼を暗殺し、翌1441年には河内(大阪府東部)など3か国の守護だった畠山持国も追放してしまいました。

織田信長は不出来な家臣・佐久間信盛をせいぜい追放するくらいで有力武将の誅殺などとても出来ませんでした。

義教と信長のもうひとつの共通点は、ともに暗殺に倒れたことです。1441年、言うことをきかない有力守護を次々と暗殺していく義教に恐怖を覚えたのは同じく有力守護大名である赤松満祐でした。

当時、義教は赤松の領地没収に動いていたと噂されており、やがて自分も殺されてしまうことを恐れた赤松は先手を打って義教の暗殺を決めたのです。

1441年のある日、赤松は、義教を京都の邸宅に招き入れ、結城合戦の勝利を祝う宴(うたげ)を開きました。義教の好きな猿楽能が演じられている最中、突然、赤松の家臣たちが現れ、油断していた義教は、あっさりと討ち取られてしまいました(嘉吉の変)。

もちろん、赤松満祐はその1カ月後、幕府に誅殺されました。

嘉吉の変は、赤松満祐の恐怖心から起きた事件とされています。一方の織田信長もまた有力家臣の明智光秀の反逆によって本能寺で絶命しています。しかし、明智の造反は恐怖心からとは断言できず、天皇家や伝統を守るため、はたまた信長に代わって自らが天下をとる野心があったともみられています。

同じ暗殺に倒れても、家臣の恐怖心によって殺害された義教、家臣の野心によって殺された信長とでは、独裁力の差は明らかでしょう。

将軍・義教が殺されたため、幕府はその後、義教の子で8歳になったばかりの義勝を将軍の後継者とし、管領細川持之に補佐させることになりました。

 

今回は、足利義教についてみていきました。

信長以上の強権政治を発揮しながら、なぜ義教の名がふるわないのでしょうか。それは同時代のスターの不在が大きいのではないでしょうか。信長の時代には、今川義元武田信玄上杉謙信浅井長政など、後世にも語り継がれる英雄たちが揃っていました。そして信長の家臣からは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が輩出されています。

結果的に豪華絢爛となった信長の物語に対し、義教の逸話は非常に地味な物語となってしまいました。

そのため、信長以上の独裁的な実績を残しながら、足利義教の名はくすみ、信長が独裁者の代名詞にさえなっているのです。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本史 誤解だらけの英雄像   内藤博文=著   夢文庫

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社