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【応仁の乱】足軽ってどんな人達?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【応仁の乱足軽ってどんな人達?」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

 「足軽」という文字は、源平合戦が行われた平安時代末期にすで散見されました。やがて南北朝時代から活躍が目立ち始め、戦国時代になると、足軽たちの集団が大きな力を発揮しました。

 応仁の乱では、東軍16万、西軍11万の兵が動いたとされていますが、戦力の大部分は京都周辺の村々などから寄せ集めた歩兵たちでした。彼らは鎧・兜を身につけた騎馬武者とは違い、馬に乗らず、軽い武装のみで、すばしこく戦うところから足軽と呼ばれました。「足が軽い」という言葉通り、足軽はゲリラ戦を得意とする雑多な集団を意味していました。応仁の乱は、関ケ原の戦いのように「天下分け目の決戦」は行われることはなく、戦いはゲリラ的な小競り合いに終始していました。そうしているうちに、戦乱は日本全国に波及しました。

 

 足軽たちのおもな仕事は、市中への〇火、略奪をおこなって敵を攪乱することにありました。

 応仁の乱では、東西どちらの陣営も足軽たちに兵糧や賃金を支給することが出来なかったので、代わりに略奪を認めていました。そのため、これに便乗して、物盗り・悪党などといわれてきた人々や、飢饉を逃れて京都に流れ込んできた人々までが足軽と名乗って、集団で略奪をはたらいていたようです。

 足軽たちのこうした行動が、応仁の乱の被害を大きくなり、京都の町は混乱状態となりました。公家のひとりは、「京都内外の多くの寺院や神社、公家の屋敷が焼失したのは、すべて足軽の行いが悪いためだ。」と書いて足軽を非難し、強いいかりをあらわにしています。

 足軽たちは、砦を築くために板切れを集めるために、寺に押し入り、ゆか板をはがし、戸も外して持っていきました。

 

 応仁の乱では、足軽は敵を攪乱するだけでなく、戦う歩兵の集団としても活躍しました。東軍に属した300人あまりの足軽の一団は、鎧・兜も身につけず、ただ腰刀だけで敵軍に突入して武将の首をとってくるような強力な部隊でした。足軽たちを率いて戦う大将には、「骨皮道賢」「馬切衛門」などというあだ名でよばれる者まで現れました。

 足軽たちが活躍できた背景には、鎌倉時代の末ごろから始まった戦い方の変化があります。これまでに弓矢を主とする騎馬戦に代わって、太刀・長刀・槍を用いた地上での斬り合いや討ちあいが戦いの主流となったのです。

 このような集団戦になると、個人の勇気や技を競った伝統的な戦いのルールは無意味なものになりました。また、武士が一族や郎党を率いて戦うやり方ではなく、出来るだけ多くの人数を兵として集めることが重要になりました。

 

 ところが、戦国時代が後半戦を迎える頃、足軽という言葉は違う意味で使用されるようになりました。織田信長は、天下布武を達成する過程において、兵農分離を強力に推進する。それまでの軍勢の大多数は、ろくに戦闘訓練を受けていない農民によって構成されおり、なおかつ農繁期になると、農村に戻ってしまう期間限定なものでした。

 これに対して信長は、農民や流れ者を足軽として大量に雇い入れ、平時から戦闘訓練を施しました。こうして組織されたプロの戦闘集団は、弓隊、長槍隊、鉄砲隊などに分けられ、戦場では整然と隊列を組み、法螺貝が吹かれると、一斉に突撃していきました。

 また、特に鉄砲は、操作方法に熟達していなければ有効に活用できなかったことから、鉄砲足軽は専門の戦士である必要が高いものでした。

 こうして足軽というプロの戦闘集団を所有することにより、織田信長の軍隊は各段に強化されました。つまり、信長が活躍した時代になると、足軽は、総大将の命令もきかず勝手気ままに行動する集団ではなく、総大将の命令下に行動する戦闘集団へと変貌を遂げました。

 信長や豊臣秀吉は、足軽というプロの戦士によって構成される軍勢を率い、いまだ兵農分離が行われていない地方の戦国大名たちを打倒していきました。この足軽がなければ、秀吉による天下統一は達成できなかったかもしれません。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり  戦国史   外川淳=著     日本実業出版社

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社