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【ロシア革命】なぜレーニンは資本主義を否定したのか【ウラジーミル・レーニン】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【ロシア革命】なぜレーニンは資本主義を否定したのか【ウラジーミル・レーニン】」というお話です。

レーニンは第一次世界大戦資本主義が生んだ経済戦争であると非難しました。彼はマルクス主義に基づいて社会主義を提唱。ロシア革命を指揮して1922年にソビエト社会主義共和国連邦を建設しました。

 

 

ロシア革命とは、1917年にロシア国内で皇帝を倒した革命で1922年に世界最初の社会主義国家「ソビエト連邦」を建設するきっかけとなった出来ごとですが、今回は

 

19世紀末、ロシアでも近代工業が本格化し、労働者階級が急増しました。ロシアにも資本主義経済が入り込んできたのです。

 

20世紀に入ると、早速ロシアは戦争を経験します。1904年に勃発した日露戦争です。日露戦争の影響でロシア国民は食料難に苦しむようになりました。さらに皇帝のツァーリズム(独裁政治)にも不満を強めた民衆が暴動を起こしました。これを第一次ロシア革命と言います。

 

日露戦争終結後も、ロシア国内では各地で暴動がおこるようになりました。

「皇帝を倒して、我々もイギリスやフランスのような民主制国家を建設するのだ。」

 

そんな不安定な国内情勢が続く中、1914年(大正4)年7月にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。ドイツを中心とした同盟国軍と、イギリス、フランスを中心とした連合国軍が対立しました。ロシアは連合国軍側として参戦しました。

ところが、クリスマスまでには集結するだろうと思われていたこの大戦争は、膠着状態に陥りました。つまり、決着がつきそうにないが、両軍の被害だけがどんどん拡大していくという人類史上類を見ない大損害を引き起こす戦争に発展してしまったのです。

 

第一次世界大戦による品不足、輸出入の停滞などの影響で、ロシア国内では物価が著しく高騰する激しいインフレーションが起こりました。

生活を圧迫された農民や労働者は再び、各地で暴動を起こすようになります。

そして1917(大正6)年2月、遂に革命がおきました。

これが、ロシア革命になりますが、その革命は2段階の政変で構成されます。1段階目は2月革命で、2段階目は10月革命です。

 

 

まずは、1段階目の二月革命を解説します。

首都・ペテログラードで労働者によるゼネストが起こりました。

「戦争反対!」

「皇帝による専制打倒!」

当初、この革命は首都・ペテルブルクで女性達がデモを起こしたのです。これがペトログラード隆起です。

これをきっかけに農民や労働者を中心とした暴動は各地に広がっていきました。

時の皇帝であるニコライ皇帝は暴動を鎮圧するために軍隊を派遣するも、その軍隊もゼネストに参加するという、かえって事態が悪化させてしまいました。

「我々は、一体、誰のために戦っているのだ。皇帝や貴族、地主などの富裕層の利益と支配体制を守るためじゃないか。そのために我々は犠牲になるのか・・・・。そんなのはもうごめんだ。これは搾取というもの以外何でもない。今こそ革命の時だ。」

 

事態を収拾不可能とみたニコライ皇帝は逃げるように退位、後継者のミハイル大公も革命勢力を恐れて王位継承を辞退してしまった。

このため、ケレンスキーらを指導部とする議会の立憲民主党と社会革命党による臨時政府が発足しました。

こうした革命によって300年あまり続いたロマノフ王朝の時代が終わり、ロシアも民主制国家になりました。これが「2月革命」です。

 

臨時政府は今後も、イギリスとフランスとの協調政策をとりながら、ドイツとの戦いを引き続き行うと発表。しかし、ロシア国内は第一次世界大戦争による疲弊は著しく、国民の大半を占める農民や労働者、そして下級兵士達は、戦争反対を強く訴えました。

「戦争とは、富める者の利権を守るために貧しい者が犠牲になる残酷な行為だ。これ以上の犠牲はごめんだ。」

こうした気運が強まり、ロシア国民の間では貧富の差がはっきりと分かれる資本主義社会に対する不満も強くなりました。しかし、臨時政府は経済体制も改革を行わず、資本主義経済を続けることを発表しました。

 

そんな国民感情を利用したのが、ウラジーミル・レーニンという人物です。スイスのジュネーブに亡命していた彼はロシアに帰国してきたのです。

レーニンは反戦論を唱える学者で、マルクス主義に基づいた社会主義を研究していました。そんなレーニンがロシアに帰国してきたのです。レーニンはただちに臨時政府との対決姿勢を打ち出し、臨時政府から政権を奪うことを企てます。

 

レーニンはロシア国民に演説します。

「我々が現在体験している大戦争は、資本主義が生んだ経済戦争だ。一部の人間の限りない欲望は、多くの人間を犠牲にした。資本主義社会は悪魔の制度だ。」

 

資本主義社会は一言でいうと競争社会なのです。いかに大きな市場を見つけるか、その巨大な市場からいかに多くの利潤を得るか、これが全てなのです。

これによって、19世紀中頃から、欧米列強は自国の商品を売りつける巨大な市場を求めて、世界中の植民地拡大をはかりました。帝国主義の時代です。

各国は、より多くの植民地を拡大するために競争します。しかし、この競争が第一次世界大戦に発展してしまったのです。

 

また、レーニンは、資本主義の下での貧富の差も、痛烈に非難しました。

「労働者や農民など貧しい人々は生まれてから死ぬまで貧しいままで、資本家や地主・株主などの富裕層はどんどん金持ちになるという大変不平等なしくみだ。我々はイギリスやフランスのような資本家に都合の良い社会を目指すのではなく、労働者の国、すなわち、共産主義の理想国家を創るのだ。」

 

このようなレーニンの演説にロシア国民は大熱狂。レーニンは即時休戦と食料問題の解消、そして地主から没収した土地の再分配という3つの政策を「平和とパンと土地」というわかりやすいスローガンを掲げ、兵士、農民、そして工場労働者から熱烈な支持を獲得しました。

農民、労働者、下級武士を中心としたはロシア国民の感情を上手く利用し、ボリシェビキという勢力をつくりあげました。

 

ロシアでは、ボリシャビキと呼ばれる急進的な社会主義者たちが勢力を拡大。臨時政府内でその影響力を強めていきました。労働者や反乱平時らによるソビエト(評議会)への権力集中を訴えた。

 

そして1917年10月、ボリシャビキ勢力がケレンスキーの臨時政府を打倒します。ロシアの政体は、それまで下層下級として虐げられていた農民・労働者・兵士の評議会(ソビエト)が全ての権力を掌握するというマルクス主義の思想に基づく社会主義体制を樹立しました。ところで、先程から社会主義共産主義の2つのキーワードが出て来ていますが、両者の違いは何なのでしょうか。それに関しては以下のリンクから勉強してください。

 

トロッキー率いるソビエト軍事革命委員会が臨時政府の冬宮を制圧、翌日のソビエト大会でレーニンが社会主義国家建設を宣言した。

 

国内の主導権を握ったレーニンは、翌1918(大正8)年3月、各国に即時停戦を呼びかけました。そして自らも、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、第一次世界大戦の戦線から脱出しました。

連合国軍の中心であるイギリスとフランスは大きく困惑しました。

 

実はこのレーニンを後押ししていたのは、ロシアと敵対国にあったドイツだったのですドイツがロシアとの講和を狙ってレーニンを後押しし、戦局を打破しようとしたのです。第一次世界大戦は1917年のアメリカの連合国側への参戦によって、それまで形勢が逆転。ドイツは敗北の危機に直面していました。

レーニンのような「反戦」を唱える社会主義者に武力革命を行わせ、ロシアとの間に講和条約を結びたかったのです。

 

ドイツの狙いは大成功。

これによってドイツは東部戦線(ロシア)にまわしてした戦力をイギリスやフランスなどの西部戦線(イギリス・フランス)に集中させることが出来ました。

 

ロシアと連合国軍として戦っていたイギリスやフランスは困惑し、ドイツ軍は3月21日、西部戦線に大攻勢をかけ、英仏両国は撤退を余儀なくされてしまいます。

イギリスとフランスはロシアを「裏切り者」として敵視するようになります。

イギリスとフランスは盟友国である日本とアメリカに援軍を要請しました。

これがシベリア出兵です。

シベリア出兵とは連合国軍による対ソ干渉戦争なのです。

しかし、いくらイギリスやフランスなどの盟友国からの要請だからといって、社会主義体制になったロシアに出兵する理由としては弱いです。ロシアは社会主義政権になっただけで、周りの国に迷惑をかけているわけではありません。一体、なぜ日本はヨーロッパ諸国のシベリア出兵に参加したのでしょうか。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社