【無意味だった!?】なぜ日本はシベリア出兵に参加したのか【寺内正毅】
こんにちは。本宮貴大です。この度は、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【無意味だった!?】なぜ日本はシベリア出兵に参加したのか【寺内正毅】」というお話です。
シベリア出兵は無意味な出兵だったと言われています。
「アメリカと組んだことで強気になった日本がロシアに干渉してしまった愚かな出兵」、または、「シベリア侵略の野望にかられた愚かな出兵」などと、何の意味もないムダな戦争と自虐されています。3千人余りに犠牲を出して、結局は撤兵します。
今回は、なぜ日本はシベリア出兵に参加したのかについてみていきたいと思います。
ロシア革命による社会主義国家の誕生は日本にとっても大きな脅威でした。日本国内でも資本主義社会に対する不満から労働運動が高まり、大逆事件以来息をひそめていた社会主義者も復権しました。ロシア革命が波紋を呼び、日本の社会主義化・共産化を恐れた寺内内閣はシベリアへ軍隊を派遣。反革命軍を支援しました。
19世紀末、ロシアでも近代工業が本格化し、労働者階級が急増しました。資本家と労働者による資本主義社会がロシアにも到来したのです。
ところが、20世紀に入り、1905年に、日露戦争による食料難が深刻さを増す中、民衆が暴動を起こしました。(第一次ロシア革命)
そして1914年(大正4)年に第一次世界大戦が勃発。再びロシア国内で暴動がおこるようになりました。
人類史上類を見ないこの大戦争は、予想以上に長引きます。これによってロシア国内は食糧難など経済的に深刻化していきました。
そんな中、ロシア国内では資本主義社会に対する不満が強まっていきました。
資本主義社会は一言でいうと競争社会なのです。いかに大きな市場を見つけるか、その巨大な市場からいかに多くの利潤を得るか、これが全てなのです。
これによって、19世紀中頃から、欧米列強は自国の商品を売りつける巨大な市場を求めて、世界中の植民地をはかりました。帝国主義の時代です。
各国は、より多くの植民地を拡大するために競争してきました。
しかし、この競争が第一次世界大戦に発展してしまったのです。
ロシアでは、ボリシャビキと呼ばれる急進的な社会主義者たちが勢力を拡大。彼らの指導者となったレーニンは労働者のための社会である共産主義・社会主義の国を建設しようとしました。
「人類史上類を見ないこの大戦争は資本主義社会が生んだものだ。我々はイギリスやフランスのような資本家に都合の良い社会を目指すのではなく、労働者の国、すなわち、共産主義の理想国家を創るのだ。」
レーニンは即時休戦と食料問題の解消、そして地主から没収した土地の再分配という3つの政策を「平和とパンと土地」というわかりやすいスローガンを掲げ、兵士、農民、そして工場労働者から熱烈な支持を獲得しました。
第一次世界大戦勃発時、連合国で唯一の非民主的国家であったロシアが1917年の二月革命によって民主主義的国家となったとき、イギリスやフランスなどの連合国は最初のうち、これを歓迎する姿勢でいました。
ところが、レーニンという革命家による十月革命で民主主義が倒され、共産主義体制が確立されるようになると、資本主義を完全否定する社会主義・共産主義の政治思想を自国の体制を脅かす危険思想とみなしたイギリスとフランスは一転してロシアの革命政府を敵視するようになりました。
実はこのレーニンを後押ししていたのは、実はロシアと敵対国にあったドイツでした。ドイツがロシアとの講和を狙ってレーニンを後押しし、戦局を打破しようとしたのです。第一次世界大戦は1917年のアメリカの連合国側への参戦によって、それまで形勢が逆転。ドイツは敗北の危機に直面していました。
レーニンのような「反戦」を唱える社会主義者に武力革命を行わせ、ロシアとの間に講和条約を結びたかったのです。
1917年の十月革命でロシア国内の主導権を握るようになったレーニンは翌1918年3月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、正式に停戦協定を結びました。ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱したのです。
ドイツの狙いは大成功。
これによってドイツは東部戦線(ロシア)にまわしてした戦力をイギリスやフランスなどの西部戦線(イギリス・フランス)に集中させることが出来ました。
ロシアと連合国軍として戦っていたイギリスやフランスは困惑し、ドイツ軍は3月21日、西部戦線に大攻勢をかけ、英仏両国は撤退を余儀なくされてしまいます。
イギリスとフランスはロシアを「裏切り者」として敵視するようになります。
連合国軍はロシアに宣戦布告しました。
「ボリシェビキ政権はロシアの正式な政府とは認めない。」
連合国軍はロシアのシベリア地方に軍を送り込んでドイツを撹乱し、再び二正面に追い込もうとしました。たまたまシベリアではロシアの捕虜となった後、反乱を起こしたチェコ軍がロシア軍と戦っています。そのチェコ軍の救出が表向きの理由にイギリスとフランスの連合国は軍隊を派遣したいと考えます。
しかし、イギリスやフランスには戦力をさく余裕はありません。
そこでイギリスは同盟国であるアメリカと日本にシベリアへの出兵を要請してきました。
日本に対しては「シベリア鉄道の占領を認める」というほうびまでちらつかせてきました。
これに対し、時の寺内正毅内閣は慎重でした。
ヨーロッパの戦争には深入りしないというのが日本の大方針であったし、日本単独で出兵しても、目的は達成できないと考えたのだ。特に元老・山県は強く反発しました。
ところが、1918年の7月になると、アメリカがシベリアに出兵を決めました。
これを機に日本もシベリア出兵やむなしの気運が高まりました。
この頃、日本国内でも労働者が低賃金・長時間労働など資本主義社会への不満を持った労働者が各地で労働運動を展開していました。そして大逆事件以来、息をひそめていた社会主義者も復権するようになりました。
「ロシアの共産主義者による革命は、我が国にとっても脅威だ。革命の波紋が日本にもやってくるであろう。革命に干渉し、シベリアに親日領土を作るのだ。そこを日本との緩衝地帯とするのだ。」
これは寺内首相だけでなく、政友会総裁である原敬など多くの政治家が社会主義・共産主義思想を、国家体制を脅かす危険思想として恐れていたのです。
こうして8月、日本もシベリア出兵に応じることを決定しました。
しかし、いきなり軍隊を派遣すると「侵略」になってしまい、ロシアだけでなく国内からも非難が殺到することが予想されました。なので、「正当な政権を失って弱体化したロシアの反革命軍(白軍)を支援するため」、「シベリアで反乱を起こしたチェコスロバキア軍(同盟国軍)を救出するため」という大義名分を掲げたうえで出兵が開始されました。
明治時代の日露戦争前の「戦争始めろブーム」は大正時代になると一気になくなり、むしろ平和で豊かな生活を人々が望むようになっていたのです。
万が一、ロシア革命が日本にも波及すれば日本の共産化や社会主義国家へと変貌してしまう危険性があったのです。
「ロシアの皇帝が退位したそうだ。レーニンという革命指導者が社会主義国家の建設を推進している。」
ロシアの共産化は日本にとって脅威でした。当時の日本国内でも労働運動が湧きあがっており、低賃金・長時間労働を強いられる労働者が待遇改善を求めて社会主義を唱えていました。これはロシア革命の影響も否定できません。
そのためにシベリアのあたりに共産革命を防ぐ緩衝地帯を作りたい。それがシベリア出兵の大きな目的でした。その難しさを痛感されたのも事実です。
当時の日本もロシアの共産化を警戒していました。
1918(大正7)年8月12日、日本は慌ただしく約1万2千人の日本兵が日本海に面したウラジオストクに上陸しました。
ところが11月、第一次世界大戦が連合国軍側の勝利で終わりました。このためアメリカ軍は撤兵するが、日本軍はそのままシベリアに居残りました。兵力も7万3千に増やし、
ロシアの赤軍と戦いを続けました。
しかも、当初、シベリア出兵における連合国軍との取り決めでは、ウラジオストク周辺にしか部隊を派遣しない約束でしたが、日本側はバイガル湖から東のシベリアを日本の支配下に置こうとしたのです。日本は以前からロシアの南下政策に悩まされてきました。そんな悩みの種であった「ロシアの脅威」から解放されれたいと考えていたのです。
日本軍はシベリアの奥地や樺太(サハリン)北部、そして当時ロシアが権益を持っていた満州北部にも軍隊を送り込んでいました。
こうした日本の単独行動は、以前から日本を警戒していたアメリカからの不信を招きました。
「日本はかなり急進的な国だ。非常にやっかいな存在だ。」
さらに国内からもシベリア出兵に対する批判に声が高まりました。この頃、日本国内では米騒動が全国的に展開されており、一説には70万人以上の人々が米の輸送の妨害や精米会社を襲撃したりしていました。
内外からの圧力を受けた日本政府は、シベリアを支配下に置くという現実離れした野望を諦め、1922(大正11)年に3千余りの犠牲を払い、家局撤兵することになりました。
このシベリア出兵はロシア人の反日感情を強めるきっかけとなりました。シベリア出兵以前は日本人は大人しくて礼儀正しい民族であるという印象がありました。日露戦争の時も、悪いのはむしろロシアであり、日本のような小国がよく頑張ったと、むしろ賞賛されていたようです。
それが、シベリア出兵後は、「日本人」は怖いというイメージに大きく変わったようです
ソ連時代の教科書には「ロシア人を大きな鍋に投げ込んで殺す日本人」といった図が載るなど反日教育がされていました。現在のロシアの対日感情はソ連時代の教育宣伝の影響です。日本はシベリアに居座り、かなり乱暴な軍事行為をとったのでしょう。このような日本軍の印象をソ連政府が強く抱いたことが第二次世界大戦の対立構造を生むきっかけにもなります。
これ以降、日本は国益という名のもと、かなり無茶な行為をしていきます。これが第二次世界大戦の悲劇を招くことになります。いよいよ日本の暗黒時代が訪れようとしていたのでした・・・。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木善久=著 産経新聞出版
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山本雅弘=著 ダイヤモンド社
教科書よりやさしい世界史 旺文社