【開国】ペリーはなぜ日本にやってきたのか。【マシュー・カルブレイス・ペリー】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【開国】ペリーはなぜ日本にやってきたのか。【マシュー・カルブレイス・ペリー】」というお話です。
1853年、アメリカから東インド艦隊司令長官のペリーが来航します。日本は、アジア貿易における食料や石炭などの補給基地の建設には絶好の位置にありました。世界の航路を独占するイギリスの勢力が日本に及ぶ前に何とか日本を手中に収めたかったのです。
青い太平洋の端に浮かぶ小さな島国。4つの大きな島と4千を超える小さな島々からなり、冬には数メートルの深さまで雪が積もる北の国から、サンゴ礁の浜辺に揺れる南国まで存在し、アジア大陸の東側に孤を描くように連なっている。
春には桜が咲き、秋には紅葉が深まる。自然の景観は四季折々にその表情を変え、人々に感動を与えます。
北からの寒流と、南からの暖流とが沿岸で合流するため、魚介類が集まり、沢山の海の幸をもたらします。国民はそんな自国を日出る(いづる)国、「日本」と呼んでいます。
13世紀にマルコ・ポーロによって書かれた『東方見聞録』の中で「黄金の国ジパング」として登場して以来、欧米人は夢をかき立てられ、16世紀以降、コロンブスを初め多くの探検家に太平洋航路における強い動機を与えました。
そんな日本を羨望の眼差しで見ている欧米列強が侵略の機を伺い、着々とその準備を初めていました。
日本が平和な江戸時代を迎えている頃、彼ら欧米列強は産業革命を達成し、自国で大量に生産した工業製品を売りつける市場開拓と、新たな原料や資源を求めて、我先にと侵略の手を世界へと伸ばしていったのです。
このような世界の動きに巻き込まれるように日本もいよいよ列強の脅威にさらされることになるのでした。
18世紀末、ロシアのラックスマンやレザノフ、19世紀に入るとイギリス軍艦のフェートン号などが日本に接近してくるようになりました。
そして最終的に、アメリカのペリーがやってきて開国ということになるのです。
アメリカがイギリスから独立したのは、1776年のこと。この頃、日本は10代将軍・徳川家治の治世であり、老中はあの田沼意次であり、さまざまな内政課題を抱えながらも泰平の時代でした。
1800年にアメリカは首都をフィラデルフィアからワシントンDCに移します。この頃のアメリカは首都であるワシントンですら人口わずか5000人程度という国家としてはまだまだ成長段階にありました。
アメリカはヨーロッパからたくさんの移民を受け入れながら、フロンティアスピリット・・・・ではなく、先住民の土地を奪い取り、領土を西へ西へと拡大させていきました。
その頃、イギリスは国内で大人気の紅茶を清(中国)から大量に輸入していました。
一方、国家の厳しい管理下のもと貿易を行っていた清国に対しては、イギリスはまともな輸出が出来ず、銀ばかりが国外に流出し、大きな貿易赤字を抱える羽目になりました。
そこでイギリスは植民地であるインドでアヘンを栽培し、清国に密輸出をすることで流出した銀を取り戻し、強引に貿易黒字にしました。
清国は突然の銀の流出に大混乱。輸入を禁止していたはずのアヘンが国内に流入していたことに衝撃を受けた清国は政治家・林則徐の手によってイギリス商人からアヘン2万箱を没収し、海中に投げ捨てました。
この至極当然の行為に対し、イギリスは大激怒。わずか軍艦2隻で清国海軍の兵船29隻を撃破。こうして1840年、イギリスと清国によるアヘン戦争が勃発しました。
1842年、イギリスはアヘン戦争に勝利。清国は兵隊の近代化を怠っており、イギリスの最新鋭の軍事力にあっさり屈服したのでした。
清は南京条約という屈辱的な不平等条約の締結を余儀なくされ、イギリスは巨大市場を獲得することに成功したのです。
イギリスは歴史上、最も強引で卑怯なやり方でその商圏を拡大させたのです。
これに便乗したアメリカは1844年に清に望か条約を結ばせます。
実はこの頃、アメリカ国内では綿織物業の産業革命が起きており、大国である清国を開国させれば、綿織物の巨大市場を獲得出来るとして大きな期待が寄せられていたのです。
しかし、当時の蒸気船には大量の燃料を必要としたため、どうしても石炭の補給基地が必要でした。そこで絶好の位置にあったのが日本だったのです。
さらに、当時のアメリカは、灯火用鯨油をとるための捕鯨業が盛んで、多くの捕鯨船を北太平洋に展開されていました。この捕鯨船の水や食料、燃料基地も必要とされていいました。
アヘン戦争での清の敗北は日本にも通達されました。それを引き合いに出し、当時西洋唯一の交易国だったオランダは1844年にオランダ国王・ウェルム2世の親書を送り、日本に開国を勧告します。しかし、日本はこれを断ります。
実は、当時の幕府内では失脚した水野忠邦が老中首座に返り咲き、他の老中・阿部正弘らとの対立が起きており、開国などという火中の栗を拾うような提案に応じるような余裕はとてもありませんでした。
そんな中、日本に羨望の眼差しを送っていたアメリカも日本との通商が可能かどうかを打診するため、東インド艦隊司令長官・ジェームズ・ビットルを日本に派遣します。
ビットルは1846年に軍艦2隻で浦賀沖に来航。通商要求をするも、やはり幕府はこれを拒否。あっさりビットルは退去しました。
この時、ビットルの使命はあくまで日本に通商の意思があるかどうかを打診することが目的だったので、強硬な手段を用いてまで日本との通商を開くことは命じられていなかったのです。
その頃、アメリカでは、1846年にアメリカとメキシコによるメキシコ戦争が勃発。これに勝利したアメリカはカリフォルニア州やニューメキシコ州を獲得。遂に領土を西海岸にまで拡大させることに成功します。
このメキシコ戦争の勝利にアメリカ国内は熱狂に湧きました。この時、大きな戦果をあげ名声を得たのが、マシュー・カルブレイス・ペリーだったのです。
さらにカリフォルニアでは各地で金鉱が発見され、一攫千金のゴールドラッシュにわきました。
こうしてアメリカ国内で生産された綿織物をアメリカ西海岸から船積みし、清国まで運ぶという太平洋航路の開設が現実味を帯びてきました。
そんな中、日本の開港に失敗してノコノコと帰国してきたビットルに対し、アメリカ世論は非難を浴びせました。
アメリカは海外進出において太平洋航路を開くことは必須であり、早急に行う必要がありました。というのも、当時の世界の航路はイギリスの独占状態であり、本国からアフリカ南端の喜望峰、インド、シンガポールを経て、上海やオーストラリアに至る航路を往来する蒸気船を大量に保有。さらに石炭、水、食料の捕球基地を世界各地に構築。
さらに7つの海を支配する軍事力をもって、世界中の富をイギリス本国へ集めようとしていたのです。
もはや、イギリスの勢力が日本に及ぶのは時間の問題です。
その前に何とか日本との提携関係を結ぼうとアメリカ大統領第13代大統領フィルモアは、メキシコ戦争で名声を得たペリーを東インド艦隊司令長官に任命。ペリーを日本に派遣しました。
ところで、アメリカも日本が鎖国主義を貫いていることを知っていました。しかし、アメリカとしてみれば、オランダと通商している日本が他の列強の通商要求を拒絶する理由はないと思われていたのです。
こうしてアメリカの太平洋航路開拓とアジア進出が開始されたのです。
ここで少し疑問が出ます。ビットルもそうですが、ペリーの肩書は東インド艦隊司令長官です。なぜ太平洋の西に位置する日本に対し、東インド艦隊を派遣したのでしょうか。
日本への艦隊派遣が計画された1851年の段階では、最新鋭の蒸気式軍艦の母港はアメリカ東海岸に位置するフィラデルフィアでした。そこで主力艦隊が極東の日本へ行くには大西洋を南下し、喜望峰やインドを経由するのが最善の航路でした。
さらに東インド艦隊は、インドより東のエリア(中国や東南アジア)の自国民の保護も任務となっていたのです。つまり東インド艦隊の活動拠点は東アジアであり、日本もその範囲内に含まれていたのです。
その頃、幕府内では、水野忠邦を追放たことで老中首座となった阿部正弘は、友好国であるオランダからアメリカが日本に向かっているという通報を受けます。しかし、幕府は有効な対策がとれないまま、黒船来航を迎えることになります。
つづく
本宮でした。