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阿部正弘はなぜ不平等性の少ない日米和親条約を結べたのか。【阿部正弘】

 こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「阿部正弘はなぜ不平等性の少ない日米和親条約を結べたのか。」というお話です。

 

  1853年6月3日、にペリー率いるアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻が日本に来航しました。江戸湾浦賀沖に姿を現したのは、その日の午後5時頃です。

沿岸部では異国船襲来を知らせる鐘が鳴り、江戸の町は大パニックになり、人々は家の中に非難しました。しかし、恐いモノ見たさからか、むしろ家の中に閉じこもってじっと外の様子をうかがう冷静な町人達も多かった。

 巨大な艦隊は黒く塗装され、多くの大砲が搭載され、煙突からは黒煙をあげ、櫓や櫂もないのに水上を自由に動き回っている。

 恐怖心よりも好奇心旺盛な連中は黒船を一目見ようと海辺に集まってきた。中には舟をこぎ出して黒船に接近する者さえあった。

 

 すぐさま浦賀奉行所が小舟に乗って対応に当たる。

 ペリーは、当時のアメリカ13代大統領・フィルモアから日本の将軍に宛てた親書を届けるために、やってきたのです。

 当時の将軍は12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)でしたが、実質的な権力者は老中・阿部正弘でした。(老中とは、現代で喩えると総理大臣です。)

 親書には開国要求が記されており、ペリーは、「もし、この要求を退ければ、アメリカは戦争をしかける。」と武力で脅します。

 日本はこの親書の返事を保留。ペリーらに再度、浦賀に来てもらい、その時に返事をすると約束しました。ペリーらは「1年後にまた来る」といって去っていきました。

 

 ペリー率いるアメリカ艦隊をとりあえず退去させることに成功した阿部は、彼らが再びやってくるまでの間に国論を決定しなければならなくなりました。

 しかし、折しもペリー来航直後の6月22日、12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)が61歳で死去してしまいます。後を継いだのは、13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)です。身体の弱く、指導力に不安のある将軍・家定のもと、老中首座である阿部正弘は今回のペリーとの外交を担当するのでした。

 

 近年、この阿部正弘に対する評価が高まっているようです。彼はペリーの来航時の老中首座であり、によって、阿部はあらかじめ開国を決断しており、その優れた外交手腕によって、ペリーに通商条約を破棄させ、不平等性の少ない日米和親条約の締結することに成功したと・・・・・。つまり阿部正弘はかなりの実力者だったのだと・・・・・。

 

 ちょっとまてえええええええい。はぶらかし作戦?優れた外交手腕?阿部君にそんなスキルあるわけないだろう。

 

 確かに結果だけみれば、阿部は不平等性の少ない日米和親条約の締結に成功しています。

 

 当ブログでもたびたび述べていますが、結果を分析することは人工知能でも出来ることです。私達は、原因を分析出来るようにならなければいけません。結果だけ見れば何とでも言えのです。

 また、手段と目的を間違えてはいけません。手段が目的化する・・・仕事出来ない人が陥りがちな罠です。

 結果よりも原因を。手段よりも目的を。物事の本質をとらえるようにしましょう。

 

話を戻します。

 

 結論を最初に言うと、阿部は開国の決断などしていません。

阿部は最後の最後まで開国の決断が出来なかったのです。いや、間違いです。決断が出来なかったのではなく、決断したくなかったのです。すなわち、阿部はこのままずっと鎖国を続け、天下泰平の世を再建したかったのです。

 

 そんな日本側の呆れるほどの優柔不断さに遂にぺリーが折れ、自ら通商要求を取り下げます。そしてこう提案します。

「貿易はもういいから、とりあえず下田と箱館の2港だけでも使わせてくれないかな。まぁ、悪いようにはしないから。」と、幕府側としては「開いた口に団子」のような展開に。

こうして日米和親条約が結ばれたのです。

まぁ、だいたいこんな感じです。

 

阿部は考え、そして悩みます。

「開国って平たくいえば、相手国の属国になることでしょ?そしたらどうなってしまうの?清国みたいに、次々に列強の支配を受け、たっぷりと搾取されるのか??家康公の築いたあの天下泰平の世はもう来ないのか?」

 

「出来れば、このまま鎖国を続け、天下泰平の世を再建したいところだけど、そしたら、アメリカと戦争になりかねない。かといって、開国を決断しても、その結果の責任を幕府は負いたくない。」

 

開国すべきか・・・鎖国を守るべきか・・・・

服従か・・・・・死か・・・・

 

 いやいやいやいやいやいや!!あのね阿部さん、悩むだけ無駄ですから。悩めば悩むほど決断出来なくなりますから。結果は決断してみなければ誰にもわかりませんから。

「開国が良い」とか「鎖国が良い」という問題ではなく、決断出来ないことが問題なのです。

 結果は決断してみなくては誰にもわかりません。

 

 悩みに悩んだ阿部はあることを考え付きます。

「そうだ。全国の諸大名や幕臣達に意見を聞いてみよう。」

 

 阿部はアメリカ大統領の親書を幕府役人、御三家、譜代大名外様大名ら回覧し、その意見を求めました。さらにアメリカ大統領から親書を受理したことを朝低にも報告しました。日本の外交権を一手に握っていた幕府にとって、これらの措置は前代未聞のことでした。

 

 前任者の水野忠邦が極端な独断専行タイプだったことに比べて、みんなの意見を取り入れて平穏無事に幕政を取り仕切る理想的なリーダー・・・といえば、聞こえが良いですが、要するに「責任の分散」と「結論の先送り」です。

 

 おそらく、阿部は諸大名達も冷静な判断をすると思ったのでしょう。アメリカ大統領の親書を実際に回覧させることで、「このまま鎖国を維持すると、アメリカと戦争をすることになる」ということを分からせ、そのうえで現実的な意見があがることを期待したのです。

 

 阿部には決断力がなかったのです。なので、諸大名に「戦争を回避するために開国はやむを得ない」といった意見を上げさせることで、「開国した結果の責任はみんなでとろうね。」という了承をあらかじめ得ようとしたのです。

こうして、彼は国のリーダーであるにも関わらず、「ぼくちんには、責任を負うような器はありません」ということを全国の諸大名に自ら宣伝してしまったのです。あ~あ・・・・やってしまった。

 

 こんな前代未聞 外様大名を含む諸大名達は驚愕します。そして失望します。

「今まであれだけふんぞり返っていた徳川幕府が、俺達に意見を求める!?なんだこの腑抜けぶりは。情けないよね~。」と。

 

 阿部の諮問に対する諸大名からの意見は8月末までにはほぼ出そろいました。

 その中の多くは攘夷派の意見。つまり「無礼なアメリカに和を講じてはならない。国威をあげて闘うべきだ」という意見が圧倒的多数だったのです。

 

「うわ~攘夷派ばっかり。みんなやる気満々だな。本当にアメリカと戦争になっちゃうよ。いいの?マジかよ。」

「俺は国のトップだから、捕まったら、たっぷり尋問されたうえに、斬首刑。恐いよ~。」(この時、阿部は日本側の風習で考えている)

 

ありゃりゃりゃ・・・阿部さん、余計に決断出来なくなってしまいました。

 

「開国すれば、諸大名から猛反発を食らう。そしたら幕藩体制は終わりだ。」

「かといって、開国を断れば、アメリカと戦争になる。我が国に勝ち目はない。」

 

 繰り返しになりますが、阿部は開国を決断出来なかったのではなく、決断したくなかったのです。結果は決断してみなければ誰にもわかりません。

したがって、決断出来なかったという理屈はそもそも成立しないのです。でなければ、外様大名含む諸大名や藩士たちに意見を募るような前代未聞のようなことをしません。幕府の権威を落とすどころか、外様大名に発言力を持たせる危険性があることは明白です。

 

開国したくないけど、戦争したくないので、開国は避けて通れそうにない・・・・。こうなると、後は結論を先送りにするしかありません。

「自分一人では決められません。」

「検討には時間がかかります。」

「最高責任者は病弱でして・・・。」

といった言葉を繰り返すしかありません。

 

 

 1年後の約束と言っておきながら、ペリーは半年後に再度、浦賀に来航しました。

そう、ぺリーは焦っていたのです。実は最初に浦賀来航の1カ月後、ロシアのプチャーチンが4隻の艦隊を率いて長崎に入港しています。ロシアはアメリカがペリー艦隊を日本に派遣したことを知り、ラックスマンの頃から懸案であった日本との貿易を実現しようとしたのです。日本はプチャーチンに対し、「日本が他国に通商を許すときは隣国であるロシアにも許すこと」を約束してしまいます。

 ロシアが日本に開国交渉を始め、イギリスやフランスにも動きがある。ペリーにとって他国に先を越されるのは我慢のならないことでした。

 そして恐れていたのです。ビットルのように日本の開港に失敗し、世論の非難を浴びることを。それは掘り高きペリーにとっては耐えがたい屈辱。せっかくメキシコ戦争で名声をあげたのに、これでは水の泡。とにかく手ぶらでは帰れない。何とか日本開国を成し遂げて有終の美を飾ろうと考えていたペリーにとって、日本開国は早急な最重要任務だったのです。

 

ペリーも中々返事を出さない幕府に対し、焦燥感を抱きます。

「さっきからずっと話が平行線ではないか。いつまで続くのだ?このやりとりは。軍艦50隻が日本近海で待機させているとホラを吹いたものの、ジパング側は一向に返事を出そうとしない。

かといって、戦争をしかける口実も見つからない。開国をはぶらかされた程度では戦争の口実としては弱すぎる。ジパングと我が国にそれほど深い遺恨があるわけでもないし。そもそも武力行使は本国から禁止されている。それに今、本国は、北部と南部で対立が激化している。遅かれ早かれ戦争になるだろう。とても兵力をこちらに回す余裕などないだろう。」

(1861年にアメリカでは南北戦争が来ています。)

  こうして、1854年、日本にとって不平等性の少ない日米和親条約が無事、結ばれたのでした。

 

 日米和親条約には不平等な部分も含まれています。最も有名なのが、アメリカへの最恵国待遇と呼ばれるものです。

 しかし、列強諸国がアジア諸国と結んだ条約の不平等さは、この比ではありません。戦争に敗れて講和条約というカタチで国を開き、多額の賠償金を支払わされ、領土を奪われ、武力で脅され半ば植民地のような条項を飲まされたりするケースがほとんどです。平和的な交渉によって開国条約が締結されたのは、日米和親条約が初めてです。

 

 阿部正弘はそんな日米和親条約を締結した時の老中首座であるにも関わらず、なぜこんなに歴史上の人物として存在感が薄いのか。その理由も分かってきましたね。織田信長がなぜ、抜群の知名度と屈指の人気を誇っているのか。

 彼に優れた外交手腕などなく、単に幕府の権威を失墜させるきっかけをつくっただけです。

 

 今回は、‘本当に頼りない国のリーダー‘として描いてしまいまいたが、彼は彼なりに悩んでいたのでしょう。阿部は39歳の若さで病死します。死因はストレスによる消化器系のガンと思われました。幕府内には頼りになる人がおらず、彼は一人で問題を抱え込み、連日不眠不休の状態と精神的負担が重なり、過労死へと追い込まれたのです。

以上。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。