【どう違う?】日本陸軍の皇道派と統制派
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【どう違う?】日本陸軍の皇道派と統制派」というお話です。
国体明徴運動によって、日本国民の思想が1つの方針に統一されつつあった頃、陸軍内部では、陸軍が政治の実権を握り、今後の日本の進むべき方針を決めようという軍部独裁政治を目指す動きが始まりました。
しかし、その手段や目的の違いによって2つの派閥に分裂してしまいました。両者は凄まじい対立と抗争を繰り広げるようになりました。(以下、表参照)
皇道派 | 統制派 |
---|---|
20代の青年将校 | 30代~40代の中堅幕僚 |
陸軍士官学校卒 | 陸軍大学校卒 |
ノンキャリア組 | キャリア組 |
精神主義 | 官僚主義 |
既成勢力を排除しよう | 既成勢力を利用しよう |
非合理的 | 合理的 |
派閥の1つは「皇道派」で、陸軍士官学校を卒業して隊付勤務を行うようになった20代の青年将校で、いわば現場で働く「ノンキャリア組」、「非エリート」の一団でした。
1935(昭和10)年に起こった天皇機関説問題によって陸軍内では同年4月6日に「天皇機関説の全否定」を意味する訓示が発され、これによって皇道派は「天皇主権説」を強く信奉するようになりました。
彼らは若さゆえの知識や経験不足から、どうしても精神主義に頼らざるを得ず、天皇親政・軍部独裁国家を叫び、政治家や財界などの既成勢力一方的に排除し、天皇が直接的に政治の指導力を発揮する国家体制を理想としていました。
彼らは、天皇の周辺にいる重臣や軍人、政治家を「君側の奸(くんそくのかん)」として蔑み、これらを倒すことで国家改造を主張する急進派でした。
彼ら青年将校が担いだのが、1931(昭和6)年から1934(昭和9)年まで陸軍大臣を務めた荒木貞夫(あらきさだお)大将と、1934(昭和9)年から1935(昭和10)年まで陸軍教育総監という地位にあった真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)大将でした。2人は陸軍大学校の同期でした。
荒木は中堅官僚でありながら、青年将校からの受けが良く、その理由は「皇軍は・・・・・」とか「皇国は・・・・」といった神がかった言い方をよくしたからです。
皇道派という名前も、そんな荒木大将が常日頃から口にしていた「皇道(軍は天皇に絶対的に仕える)」からとられたものでした。彼らは陸軍大学校をあえて受験せず、
こんな神秘的な意識は青年将校には刺激が強く、そして精神的な言葉で自分達の正当性を主張したのです。
一方、もう1つの派閥である「統制派」は、陸軍大学校を卒業した30代から40代にかけての将校で、東京の陸軍中枢部である陸軍省や陸軍参謀本部に勤務するスタッフで、陸軍の中堅幕僚でした。
彼らはキャリア組であり、多くは陸軍大学校を卒業しているエリートコースを進む将校の一団です。陸軍組織の「統制」を重視する立場から、その名前で呼ばれていました。
中心になったのは、一夕会という結社をつくって集まっていた永田鉄山(ながたてつざん)、岡村寧次(おかむらねいじ)、東条英機(とうじょうひでき)らのグループで、これに桜会という結社をつくっていた橋本欣五郎(はしもときんごろう)らのグループの将校も加わっていました。
統制派の将校は、第一次世界大戦後のドイツを見て、これからの時代は「国家総力戦」という考え方が必要だと理解しました。
そんなヨーロッパ諸国が経験した「国家総力戦」を研究した上で、日本が将来「総力戦」を戦わざるを得ない立場になった場合、軍だけで戦いのではなく政界や財界、産業界とも一致協力した体制を作る必要があるとの考えから、既成勢力を利用することで戦時体制を仕立て上げなければならない、と考えていました。
統制派の理論的指導者は永田鉄山ですが、永田は国家総力戦体制をつくるためには合法的に権力を握り、そして議会、官界、産業界とともに戦時体制をつくりたいと主張していました。したがって、皇道派のような非合理的活動とははっきりと一線を画していました。
一方で、統制派の幕僚は、陸軍の長老たちの旧式な考え方とは完全に溝をつくっていました。
当時の日本の財政界は、皇道派の「暴走」を恐れており、どちらかといえば統制派が陸軍の主導権を握ってくれた方が望ましいと考えていました。
しかし、荒木の後任として1934年に陸軍大臣となった林銑十郎大将が、側近の軍務局長に統制派の永田鉄山少将を任命したことで、陸軍の中枢から皇道派を締め出そうとしたため、これに反発した皇道派の相沢三郎中佐が、1935年8月12日に陸軍省の建物内で永田中佐が永田軍務局長を斬殺するというショッキングな事件を引き起こします。
相沢中佐が永田少将を殺害した動機の1つは、林と永田が本人の同意を得ないまま、皇道派の尊敬する真崎大将を陸軍教育総監から罷免したことへの報復でした。
1936(昭和11)年2月25日、相沢中佐を裁く第10回公判が開かれ、真崎大将も証人として出廷しましたが、その翌日の2月26日、帝都(帝国の首都)東京で新たな大事件が発生します。
皇道派の若手将校約1500人が、東京の政治の中枢を占拠し、天応申請への体制変更(昭和維新)を求める「クーデター」を決行したのです。
以上
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント 保阪正康=著 PHP
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代 保阪正康=著 朝日新聞出版