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【豊臣秀吉4】なぜ秀吉は農民から天下人になれたのか

こんにちは。本宮 貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【豊臣秀吉4】なぜ秀吉は農民から天下人になれたのか」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 

「この茶を用意したのはお前か?」

「はい。そうです。」

「歳はいくつじゃ?」

「14歳です。」

秀吉は小僧の頭をワシワシと撫でながら言いました。

「はっはっはっ。おみゃ~さんは歳の割に賢い子じゃ。」

「名は何という?」

「・・・。佐吉と申します。」

「ふふ。そんなに緊張せんでも良い。ワシは長浜城羽柴秀吉という。よろしくな。」

「え?・・・城主様ですか!?」

「そうじゃ。ワシはおぬしが気に入ったぞ!のう佐吉や。ワシの家臣になってみんか?まぁ、悪いようにはせんよ。」

「え・・・・・あ・・ははっ。」


 長浜城主となった秀吉は、鷹狩りの途中、近江国観音寺(おうみのくにかんのんじ)という寺に立ち寄り、寺小僧の佐吉にお茶を出してもらいました。すると、そのお茶の絶妙な量と温度に感嘆した秀吉は佐吉を家臣に迎え入れることに成功しました。佐吉とは石田三成の幼名です。

 

 木下秀吉から羽柴と名乗るようになった秀吉は、信長から拝領した小谷の城から今浜の地に移り、長浜城を築き、1576年、無事41歳の新年を迎えました。
今回も、秀吉はなぜ天下人になれたのかを見ていきたいと思います。

 


 1573年1573年、浅井・朝倉攻めにおける一連の活躍を評価された木下秀吉は、近江の国(滋賀県)の小谷城主として 長浜城主として12万石の領地と3千人ほどの家来が与えられました。

 秀吉は近江の国を支配する大名になったのです。

 現代でいうところの、近江の国の営業所長兼子会社社長になったのです。
この頃になると、坂本城を得た明智光秀佐和山城をもらった丹羽長秀など信長に仕える有力家臣がぞくぞくと頭角を現してきた時期です。秀吉も彼らと並ぶ地位に登りつめたのです。

 

 しかし、秀吉のような農民出身の武将が大名に上がるとなると、周囲からの嫉妬や妬みを買ってしまいます。

羽柴秀吉だと?木下から随分と重々しい響きのある名に変えたな。サル、羽柴の由来は何だ?」

「はい。我が織田家の先輩家臣の中でも剛毅果断の柴田勝家殿、温情忠実な丹羽長秀殿、このお二方を見習うために、その一文字ずつをいただいたのでございます。」

 

 柴田勝家といえば、織田家にとって最古参の実力者です。

「秀吉?ふん、あやつは、ゴマすりとおべっかで成り上がっただけの大名だ。」

 勝家は昔ながらの身分と序列を守る保守的な性格であり、秀吉のような出世を続けるような跳ね返り者をすごく嫌います。なので機会さえあれば、出る杭の頭に痛撃を加えてやろうと、鴨の目鷹の目、失策を見つけだそうと考えている。

 そんな勝家に秀吉は言いました。
「勝家殿、そなたの姓より‘柴‘の文字を拝借したいと存じます。」
「何だって?全く変わった奴じゃのう。まぁ好きにせい。」
 勝家は苦笑いしながらも、悪い気もせず、姓の使用を許可しました。

 

 一方、丹羽長秀は、温情な長者、秀吉の足軽時代から様々な面で目をかけてもらった人物です。

「秀吉殿、本当に立派になられましたのう。流れ者の身からよくぞここまで。大したものじゃ。」
「いやいや、おかげ様で、神仏の加護、いや、それもこれも長秀殿のおかげじゃ。是非とも姓の拝借許可を願い申し上げます。」

 自己啓発の分野ではよく、秀吉が羽柴の名を冠したのは、出世術のとしての嫉妬対策だったと紹介されています。

 しかし、秀吉自身は出世したいとは微塵も思っていませんでした。

 ただ信長様が好きで、上様の天下統一のため障害となるであろう要素を取り除いただけなのです。


「殿が構想する天下の世は、もはや時間の問題になられた。この大切な時期に部下達の嫉視反目など、あって良いはずがないであろう。」

「常に上様の心を自分の心として、物事を考える。」

 当時のような身分や家柄が重視される時代に、信長のような能力主義者によって武士として立身出来た秀吉は常にそのような態度でした。


「ではサル、なぜに小谷の地から今浜の地に城を移したのだ。」

「いや~殿から拝領しました小谷の城は、由緒は深いものの、古風な山城で舟運の便も悪い。」

「さようか。」

「しかし、ワシが殿から近江の国を任されたのは、地侍の反乱を恐れてひっそりとたてこもるためではありません。」

 

 領主たるもの、領民の生活を安定させ、物資の流通を活性化、そして信長の構想する新しい社会への希望と展望を抱かせる。これこそ秀吉のモットー。

 そのためには、城は平地で、道路・交通の要地であり、その上、琵琶湖の岸近く、舟運の便に恵まれた土地に築かれなくてはならないとして選ばれたのが今浜の地でした。

 「繁栄の長久と、信長様の名にあやかり、‘長浜‘と改名させてもらいました。」

 秀吉はいつもこんな調子でした。

 大名になったことで、それまでの足軽頭のような小規模な組織では済まなくなります。これまで派遣社員から中堅規模の子会社を経営するようになったのですから。
戦闘の作戦だけではなく、年貢の取り立てから治安維持や訴訟の解決まですべて秀吉の組織でやらねばなりません。

 秀吉は組織づくりと人材探しに努めました。幸い、領土である北近江には商業が盛んな土地で行政財政に詳しい者も多かった。秀吉は近江の民衆の中から有能な者や、利口そうな少年を探しては召し抱えるようになっていきました。

 かつて自分が信長様にしてもらったように、秀吉もまた自分の領地より身分に関わらず有能な者を見つけ、才能を発掘し、どんどん登用していったのです。
それは、先ほどの石田三成、さらに長束正家や益田長盛など、後に豊臣家の内閣機能として豊臣家を支える中心人物に近江出身者がいかに多いかを見れば、一目瞭然です。

 

 1576年。この頃になると信長の支配圏は一気に拡大していきます。前年の長篠の戦い武田勝頼を下し、当面の危機を脱した信長のその勢力圏は尾張・美濃・近江・京都をはじめ、伊勢から紀州、越前そのほか北陸路を合わせれば石高400万石にまで達していました。

 もはや戦国大名の範囲を超え、中央集権的な一種の近世国家が出来上がりつつありました。

 自信をつけた信長は天下統一への道を加速させていきます。

「天下を拒むのは、もはや越後の上杉と中国の毛利のみ。」

 上杉に関しては越前の柴田勝家が司令官として担当しています。柴田は北陸方面統括部長になったのです。そこで問題は毛利になりました。その領土は山陽・山陰・そして九州にまでおよび、瀬戸内海の船運を押さえている経済力豊かな大大名です。

「中国の毛利攻めの総大将、我こそはと思う者は名乗り出よ。」

家臣団が黙りこく中、一人の重臣が名乗り出ました。

「中国攻めはワシにやらせてください。」

それは羽柴秀吉であり、秀吉は毛利こそ織田家にとって最大の敵と考え、一番困難な仕事を自ら願い出たのです。

「危険ばかり多くて、馬鹿な生き方じゃ。」
と冷たく見る人も多かったかも知れない。でも世間は常に{盲千人、目明き千人」、秀吉の生き方に感動と共鳴を覚え、そうした仕事の手助けをしたいと思った男達も数多くいました。その典型人物こそ、乱世の名参謀と呼ばれた黒田官兵衛でしょう。

「サル、これは一世一代の大仕事だ。覚悟は出来ているのか。」
「もはや、我が織田家に恐れるものは何もありません。喜んで引き受け申し上げます。」

 これ以降、織田家は軍事組織としてその体裁を整えていきます。

 総司令官の織田信長以下、北陸方面を統括する柴田勝家、近畿方面の明智光秀、関東方面の滝川一益、四国方面の丹羽長秀、そして中国方面の羽柴秀吉
織田信長の天下統一は目前まできていました。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「秀吉」をたっぷり楽しむ法     高野冬彦=著  五月書房
戦国時代の組織戦略        堺屋太一=著  集英社
マンガで一気に読める!日本史 金谷俊一郎=著 西東社