【江戸時代】江戸の三大飢饉は人災だった!?【松平定信】
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【江戸時代】江戸の三大飢饉は人災だった!?【松平定信】」というお話です。
近世の三大飢饉とは、1732年に享保の飢饉、1782年から88年までの天明の飢饉、1833年から39年までの天保の飢饉になります。
最初に1732年に発生した享保の飢饉ですが、その原因は意外なことに虫でした。イナゴやウンカなどが大量発生したのです。イナゴとはご存じの通り、集団で田園を襲い、稲穂や稲葉を食べつくしては、他の地域へ移動し、新たな田園を襲うといういかにも害虫らしい生態です。
ウンカはセミに似た昆虫ですが、体長はわずか5ミリ程度のコバエみたいな奴です。稲に取りついて養分だけを吸い尽くし、さらにウィルスまで媒介し、家畜や人間に感染症をもたらすとんでもない害虫です。
こいつらが大量発生したことによって、収穫高は例年の半分以下となり、1万2000人も人々が餓えや病気で亡くなったようです。しかし、大量発生という異常は自然界の秩序によって適正な数まで落ち着きます。この享保の飢饉は一年で治まりました。
しかし、この50年後の1782年、東北地方を中心に天明の飢饉が発生します。この天明の飢饉、88年までの6年間にも及びました。なぜこんな長期間に及んだのでしょうか。
東北地方にはやませとよばれる冷たい風が吹き、東北の広い地域で冷害をもたらしました。すると、本来、南方などの暖かい地域で栽培される米は育ちにくくなります。さらに長雨が続き、凶作になってしまいました。
これに追い打ちをかけるようにさらなる悲劇が東北を襲います。
1783年、群馬県にある浅間山が大噴火します。その火砕流はふもとの村を襲い、多くの村人が犠牲になりました。
それだけでなく、噴火によって発生した噴煙は成層圏にまで到達していました。日本列島の大気は西から東に向かっており、成層圏は地表近くの空気の何百倍の風速です。 したがって、噴煙は東北地方に向かって空を覆うように舞い散り、東北の日光は完全に遮られ、大量の火山灰も降り注ぎ、稲は大打撃を被ります。
これらの自然災害が重なったことで、天明の飢饉は長期化しました。この飢饉は近世史上最悪の飢饉とよばれ、餓死者は津軽藩(青森県)だけでも13万~20万人にもおよぶ大惨事となったのです。
東北の人々は餓えに苦しむあまり、馬や犬、猫を殺して食べます。得体の知れない植物やキノコであっても、餓えを防ぐために食べます。背に腹は代えられません。
ある旅人が越後の国(新潟県)を訪れたときに、ある家の様子を覗いてみた。すると衰弱した子供達が柱にくくりつけられているではありませんか。旅人はこれをみて、母親に訪ねました。
「なぜ、こんな弱っている子供達の自由を奪うようなことをするのか。」
母親は力のない声でこう言いました。
「この子達、柱にくくりつけておかないと、餓えにより兄弟が互いに食い合うようになってしまうためだ。」
旅人は言葉を失い、そのまま立ち去りました。
人間、腹をすかせると共食いに走るようです。もはや理性もクソもありません。「腹を満たしたい」という感情だけが先走り、倫理感や道徳感もつまらないものに感じてしまいます。
盗みや暴行も多発します。食料を他人から奪いとるのです。
農村は完全に機能不全となりました・・・。
餓えによって衰弱しきった人間達に、やがて凶暴な野生の動物達が集まってきます。お腹を空かせた野生の犬やタヌキ、キツネ、鷹などです。動物達は何日にも渡って辺りをウロウロしています。人間が倒れるその瞬間までじっと待っているのです。動物といえど、食べることに対する執念は人間以上に強いのです。
以前は食べる側だった人間が今度は食べられる側になるという異常な事態が発生してしまったのです。
これに対し、時の老中・田沼意次は有効な対策が出来ず、江戸の庶民を不安に陥れました。「田沼は一体何をやっているのか。もし江戸でも飢饉や災害が起きたら、どうするのだ。」
江戸庶民は抑えきれない不安と怒りで一揆や打ちこわしを起こし。米を買い占めていた商人の屋敷を襲います。田沼の支持率は急降下し、田沼失脚のきっかけが出来てしまいました。
さらにこの45年後の1833年から39年に天保の飢饉が起こります。この飢饉は全国的な飢饉となり、冷害に加え、大雨や台風が頻繁に発生。その結果、収穫高は例年の3割程度にまで落ち込みました。
この飢饉も20万~30万人の人々が餓えや病気によって亡くなっています。当時の人口は2000万人から3000万人ほどと言われており、2000万人として20万人が餓えで亡くなるということは100人に1人の割合です。餓死することはなくても餓えで苦しんだ人は相当数にのぼりました。このため、全国的に百姓一揆や打ちこわしが発生。
これには飢饉だけでなく、江戸に対する不満もありました。実は江戸では天明の飢饉の庶民の暴動を教訓に、各地の米を集めさせ、貧民のために炊き出しを行ったのです。江戸を救うために大阪の米すらも江戸に集中させられたことに大阪の庶民は衝撃を受けます。やがてこれが大塩平八郎の乱を引き起こすきっかけとなるのでした。
江戸の三大飢饉によって少なくても100万人の人々が亡くなったのです。
江戸の経済成長によって消費がさかんに行われるようになりました。この時代背景から天明の飢饉は一部の権力者による私利私欲が大勢の人々の命を奪ったということで人災だという声も上がりました。そんな中、東北地方でありながら、一人の餓死者も出さなかった藩がありました。その藩主こそ、あの人物です。
1783年から89年まで6年続いた天明の飢饉ですが、これは自然災害ではなく、人災だという声もあがりました。
江戸時代中期の経済成長によって、消費物資が増え、たくさんの娯楽も生まれました。当時の老中は田沼意次で、貨幣至上主義の政治が行われていました。貨幣がどんどん市場に流通し、巷には消費を促すような謳い文句が溢れていた時代です。
人間は欲深い生き物なだけでなく、世間の風潮にも流されやすい生き物ですから、当然それらの消費を楽しみます。すると本来、手段であるはずの消費が目的化してしまい、消費中毒者が多数誕生します。現代のアベノミクスのように。
それがある藩の領主にも現れ、悲惨な事態を招いてしまいました。
津軽藩は大量のムダ遣いによって商人から多額の借金を抱えてしまいました。津軽藩は農民から徴収した年貢米を換金して借金を返済していました。
そんな中に起きたのがこの天明の飢饉です。借金に追われた津軽藩は非常時の備蓄米すらもお金に換えていたため、餓えに苦しむ農民達に米を支給することが出来なかったのです。東北は本来、ヒエや麦が適した地域で、米の栽培には適していません。しかし、お米はお金になるという理由で、東北の多くの藩も商品性の高いお米の栽培を奨励していたのです。
したがって、東北の自然環境が自体が厳しいのではなく、当時の経済状況がミスマッチを起こしたのです。
話を戻します。
消費中毒者が現れると、貧富の差が生まれます。近代的な商品やサービスを提供していた商人達が田沼の保護政治も相まって大金持ちになりました。したがってお金は江戸に住む商人達のもとに集中します。地方の人達が東京や大阪に憧れを持つのはそのためです。
一方で、地方は荒廃します。人は華やかで明るい所に集まる傾向がありますので、江戸ドリームを夢みる人達が江戸や上方などの都市に流れ、地方の人口は激減するという現象もおきてしまいました。
田沼の行った貨幣至上主義は中央集権を加速させ、地方分権がおろそかになり、地方自治体が自然災害という非常事態に対処出来ないという悲惨な結果を招いてしまいました。
東北の災害とういうことで、2011年に起こった東北太平洋沖地震(東日本大震災)が連想されます。この少し前の2008年のリーマンショックという世界同時不況後、日本の基幹産業である製造業が軒並み経営悪化し、撤退、廃業、海外移転が相次いで起こりました。特に地方の疲弊は著しく、商店街はシャッター通りと化し、人口は都心部へと流入してしまいました。
要するに、お金が地方から都市部に集中してしまったのです。
中央集権化が進んだことで、被災地の自治体すら地元の被災者を援助出来ないという事態がおこりました。
あの震災は地方が自立して政治を行うことが出来ていない状態となっていることを世間に知らしめる結果となってしまいました。
東北地方を中心に深刻な災いをもたらした天明の飢饉ですが、東北地方にありながら、唯一餓死者を一人も出さなかった藩がありました。それは白河藩(福島県白河市)です。そこの藩主こそ、松平定信です。質素倹約重視だった定信はお金に余裕があり、江戸や大坂から大量の米を購入し、餓えに苦しむ農民達に分け与え、飢饉を乗り切ったのです。
定信のこの功績は全国的に高く評価され、1788年、彼は老中へと昇格します。その翌年、いよいよ松平定信による寛政の改革が始まるのです。
以上。
次回もお楽しみに。
本宮でした。それではまた。