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【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【マニュファクチュア】日本の産業革命明治維新地殻変動の始まり。」というお話です。

江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。これによって大成功を収めた藩が薩摩藩長州藩。いよいよ明治維新地殻変動が水面下ではじまったのです。

 

 

 18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。

 「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。

 実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。

 

 これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。

 時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。

 

 江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。

 しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。この副業形態を農村家内工業と言います。

 

 例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。

 人間には欲がありますから、はやり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。

 

 そんな膨大な需要を逃す手はありません。より多くの人の手に行き渡らせるには、庶民でも買えるような価格に落とす必要があります。そのためには何をすれば良いでしょうか。ヒントは数が少ないと高価になり、数が多いと低価格になります。例えばダイヤモンドと石ころではダイヤモンドは数が少ないから高価であり、石ころは数が少ないから低価になるのです。

 そうです。大量生産が必要になります。そこで豪商達を中心に設備投資として道具や原材料を購入し、農家に前貸しし、製品を作らせるという問屋制家内工業が行われるようになります。

 

 さらに庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。

 

 そこで問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

 そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。

 

 量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。

 

 このマニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)

 中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。

 こうした大量生産・大量消費の時代とともに徐々に明治維新地殻変動が起き始めていたのです。明治時代以降、日本は急速な西洋化が図られます。その結果、資本主義国家として大きく発展出来たのは、今みてきたようにそれを受け入れる下地が既に出来上がっていたからです。

 

 

 「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。

 田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」

 

 ハッキリ言います。この法令、諸藩にとっては全くの不評でした。

 だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。

 定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ。

 何を考えているのだ。この人は。まったく。

 

  もちろん、工業技術が発展しましたが、かといって農業を疎かにしていいわけではありません。

藩の中には従来通り、農業を復興させることで藩財政の再建を図った藩もあったのです。

つづく。