【幕藩体制危うし!】幕府の財政を食いつぶしたオットセイ将軍【徳川家斉】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは、「【幕藩体制危うし!】幕府の財政を食いつぶしたオットセイ将軍【徳川家斉】」というお話です。
19世紀初頭から中頃まで江戸幕府11代将軍・徳川家斉による大御所時代が続きます。家斉は享楽的生活に溺れ、幕府財政を食いつぶします。そのツケは養子縁組というカタチで大名に押し付けました。これが取り返しのつかない幕藩権力の低下につながるのです。
18世紀後半から19世紀中頃までの江戸時代後期は町人文化が最盛期を迎えます。いわゆる化政文化です。江戸時代中期の元禄文化は豪商達を中心に発達した文化なのに対し、化政文化は一般的な都市の住人達が中心の庶民的な文化です。
特に版画が全盛期を迎えます。版画とは木の板を彫って、インクを垂らして絵を写し取る手法ですが、風景版画において重要な人物が2人紹介しておきます。富士山の風景を三十六枚描いた葛飾北斎の『富嶽三十六景』と、東海道の風景を描いた歌川(安藤)広重の『東海道五十三次』です。
さぁ、世間が化政文化に華開いていた頃。幕府内ではどのような動きが起きていたのでしょうか。
今回は幕藩体制の亀裂がどのようにして起きたのかを理解する上で非常に大事な内容を書きましたので、是非、最後まで読んでみてください。
さぁ、今回の主人公は江戸幕府11代将軍・徳川家斉(とくがわ いえなり)です。
誰だそれ?なんて言ってはいけないですぞ。彼はナント徳川歴代将軍の中で最も将軍在任期間の長い将軍です。参考までに徳川歴代将軍の在任期間ワーストスリー及びベストスリーを見てみましょう。
ワースト1位.15代・徳川慶喜(10カ月)
ワースト3位.6代・徳川家宣(4年間)
続いて、在任期間ベストスリーを見てみましょう。
ベスト1.11代・徳川家斉(54年間)
ベスト3.4代・徳川家綱(28年1カ月)
ご覧の通り、家斉は将軍在任期間において2位の吉宗を大きく引き離し、堂々の1位です。家斉の1787年から1841年の長きに渡る将軍在任期間を大御所時代と呼びます。
ところで大御所とは将軍職を次の将軍へ譲り、隠居した後の前将軍の敬称ですが、家斉は12代将軍・家慶に将軍職を譲った後も大御所として実権を握ったために大御所時代と呼ばれているのであり、家斉が実際に大御所となったのは最後の4年間です。
同じ大御所でも初代将軍・徳川家康は後継者の秀忠を権威と実力を兼ね備えた将軍とするべく将軍引退後も実権を握り続けましたが、家斉は12代将軍となった徳川家慶(とくがわ いえよし)には実権を渡さず、ただ将軍として面倒な事務作業を押し付けただけで、家斉には家康のように後継者を育てようなどとは思っていなかったのです。
さて、そんな恣意的なダメ将軍・家斉は、1787年に15歳で将軍に就きます。時の老中・松平定信はそんな若き将軍を補佐するカタチで寛政の改革を実行しました。
厳格で質素倹約を重視する定信と、豪華で享楽的な生活を送る家斉。この正反対のタイプである両者が当然分かり合えるはずもなく、尊号事件も重なり、家斉が定信を罷免するカタチで定信は失脚します。同時に寛政の改革も終わります。
19世紀に入り、定信というストッパーがいなくなったことを良いことに家斉の恣意的な政治は加速します。
家斉には特筆するべき政治的偉業はありません。理想を掲げ、幕政をリードする姿勢はかけらもありません。家斉は寛政の改革の反動で、毎日毎日豪華で贅沢で享楽的に暮し、国家や政治のことなど、どうでも良いのでした。
そんな家斉が特にお金を投じたのは、大奥でしょう。通常、城内には700人程度の女性が住んでいますが、家斉の時代には1400人と倍増しています。本当に欲望の赴くままの生活をおくったのでしょう。
その証拠に、家斉は通称・オットセイ将軍というあだ名がついているように、驚くべきはその側室の数です。家斉の奥さんはナント40人。これまた歴代将軍の中で最も多く、2位が家康の16人だったことを考えると、群を抜いています。さらに16人の側室から55人の子供(男28人、女27人)を生ませているファックマン。
ところで大奥とは何でしょう。これは将軍様の血統を絶やさぬように創られた組織であり、徳川将軍1人のためのハーレムです。城内にはもちろん将軍様と大奥のプライベート空間が存在します。なので、将軍様は欲すればこの女性達をいつでも自由に出来ます。
男性にとっては誠に夢のような話ですが、当時は現在のように両親の健康状態や栄養状態が万全ではないため、子供を作るのは、簡単なことではありません。なので、将軍様は出来るだけたくさんの女性と関係を持ち、その血統を絶やさぬようにしたのです。当時の観念では子供が出来ることはまさに「おめでたい」事だったのです。
しかし家斉の場合、子供の数が桁外れに多いため、子供達のその後の処遇に困りました。この頃、幕政は火の車。とても男児一人一人に領地を与え、大名に取り立てるような余裕はありません。そこで家斉は諸大名に自分の子供達を養子や嫁に押し付け始めたのです。
家斉の養子縁組先は御三家をはじめ会津藩、仙台藩、加賀藩、福井藩、広島藩、佐賀藩など合わせて36人の実子が送り込まれました。
これには藩の領地が狭く、人口が少ない無名の弱小大名は、大いに喜びました。将軍の子供を迎え入れることで、自身の家格を上げることが出来るうえ、松平姓と三ツ葉葵(みつばあおい)の紋の使用が許されたからです。
しかし、伝統ある家紋をもつ有力大名にとっては家斉のために血統をズタズタにされる大変迷惑極まりないことでした。当時は現代とは比べ物にならないくらい血筋を重んじる社会です。
例えば親藩の福井藩。藩主の松平斉承は、家斉の娘・浅姫をめとり、第1子をもうけます。しかし、その子が早世してしまうと、第2子が生まれる可能性があったにも関わらず、すぐに家斉は48番目の子供・民之助を養子に押し込みました。民之助はうまれつき目が見えず、目の不自由な方には藩主は務まらないとされていた当時の観念からすれば、大変迷惑なことです。家斉はこのような非常識なやり方で養子縁組をおこなったのです。
しかし、家斉は自分の子供の養子縁組先大名に対し、拝借金を貸与したり、所替えを行うなど露骨な優遇措置を講じるようになります。
さらに官位への昇格など、その大名の家格の面で先例のない異例の出世を認めた養子縁組先もありました。
(所替え・・・大名の領地を他の領地へと移し替えること。本来、改易処分(領地没収)や減封処分(領地を減らす)などと同様に大名への処分の1つであったが、家斉は財政難にあえぐ大名を凶作地域から豊作地域へと領地替えをするなどの優遇措置として利用した。)
このような不公平で恣意的な幕政に対し、諸大名の間では、幕府に対する不満と反感が強まります。そんな中、マニュファクチュアのような藩の殖産興業と藩の専売制を背景に、諸藩が力をつけ、「藩の自立化」が着々と進んでいくのでした。
決定的だったのは、1840年に発令された三方領地替えです。これは3つの藩がそれぞれの領地を入れ替える政策です。
最も有名な事例は武蔵国の川越藩(埼玉県川越市)の三方領地替えでしょう。当時、川越藩は財政難に苦しんでおり、農村疲弊が著しく、最盛期の15万石から5万~6万石まで低下する凶作地域となってしまい、多額の借金も背負っていました。
そこで、川越藩は家斉の養子を迎え入れたことで、川越藩主は19万石と豊作地域である庄内藩(山形県鶴岡市)に領地替えをし、藩財政の立て直しを図ったのです。代わりに庄内藩主は、7万石の長岡藩(新潟県中越)の領地へ移されました。すなわち、川越藩→庄内藩→長岡藩→川越藩という領地転換です。
しかし、こんな露骨な優遇政策は当然ですが、庄内藩主から強い反発をうけます。それだけでなく、藩主を支持していた庄内藩の領民からも激しい反対運動が起こりました。
さらに、同じように財政難にあえぐ諸藩から予想以上に強い反発と、有力外様大名を中心とした幕政批判も招いてしまったため、幕府は翌年の7月に三方領地替え制度を撤回します。
しかし、こうした幕府の一連の醜態が将軍の権力と権威の低下を全国へまざまざと見せつける羽目になってしまいました。
それに追い打ちをかけるように、天保の飢饉による幕府への反乱として大塩平八郎の乱や生田万の乱も起きます。
こうした幕府批判は全国へ飛び火し、いよいよ幕府の権力が危うくなってきます。
今まで、幕府の権威と武力によってねじ伏せてきた幕藩体制が脆くも崩れ去るきっかけを家斉はつくってしまったのです。
権威とは結果です。権威とは、それに忠誠心を持ち、従う人達がいて、初めてその威力を発揮するのであり、幕府に見切りをつけた藩が増えたことは幕府の権威が、もはや意味を成さない所まで低下していることを意味します。
後は、幕府の武力を凌駕する藩が現れれば、いよいよ倒幕は時間の問題となります。その武力を凌駕する大名こそ、薩摩藩と長州藩だったのです。
ところで、今回は19世紀半ばまでを取り上げましたが、この1820年代から30年代にかけて、いよいよ幕末の勇士達がこの世に生を受けます。参考までにその人達の生年を列挙しておきます。
1823年 勝海舟
1827年 西郷隆盛
1830年 吉田松陰
1833年 木戸孝允
1834年 福沢諭吉
1835年 坂本龍馬
1837年 徳川慶喜
さぁ、こんな「幕藩体制危うし!!」の中、老中・水野忠邦が江戸の三大改革の最後の改革である天保の改革を断行するのです。
以上。
今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。