日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

「蘇我氏VS物部氏】この対立は宗教戦争ではなく、権力闘争だった!?

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「蘇我氏VS物部氏】この対立は宗教戦争ではなく、権力闘争だった!?」というお話です。

 今回の前半記事では、「蘇我氏物部氏の対立構造」を、後半記事では「両氏の対立は実は権力闘争だったこと」についてみていこうと思います。

インドから中国に伝わった仏教は最先端の思想として日本列島にも歓迎されました。しかし、そんな仏教の受容をめぐって蘇我氏物部氏が対立。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、日本は本格的な仏教の受容に乗り出します。日本はなぜ、仏教を取り入れたのでしょうか。

 インドで起こった仏教は、西暦67年に中国(後漢)に伝来し、その後、384年に朝鮮半島百済へ伝わり、6世紀半ばに百済聖明王(せいめいおう)によって、日本列島にもたらされました。当時は29代の欽明(きんめい)天皇の御代でした。仏教が公伝したのは、538年ですが、これは公伝であり、朝鮮からの渡来人のあいだでは、すでに私的に仏教が崇拝されていたのです。

 公伝してしばらくのあいだ、朝廷は仏教を容認しませんでした。仏教の受容をめぐって、当時の日本の代表政権であるヤマト政権内の有力者間の対立が起こり、政権内が不安定な状態になったのです。

 その有力者の対立こそ、蘇我氏物部氏の対立でした。
 
 ここで蘇我氏物部氏の対立構造を表で確認してみましょう。

蘇我氏 物部氏
崇仏派 廃仏派
新興勢力 旧勢力
渡来人を配下に勢力拡大 元・日本最大の豪族
大臣(経済関係の最高責任者) 大連(軍事・宗教の最高責任者)
積極的改革 現状維持
日本海勢力 瀬戸内海勢力

 蘇我氏は言いました。
「西の諸国は仏法に奉じている。仏法はもはや最先端な思想。我が国だけがそうしないわけにはいかない。物部氏は、国神の名を借りて、国を乱そうとする者だ!」

 これに対し、物部氏も言いました。
「我が国にはすでに天地に180の神がいる。蘇我氏は国神に背き、外国の神(仏教)を礼拝している。それが祖先神の怒りを招き、疫病を流行らせたのだ。」
 物部氏は仏像を捨てるなど、仏教を弾圧しました。対する蘇我氏は、神道など日本古来の思想の弾圧をしませんでした(後述)。

 仏教の受容推進派の旗頭である蘇我氏は、渡来人と結びつきを積極的に強めることで仏教勢力の拡大を図りました。仏教とは、当時、最新の知識教養であり、蘇我氏とは、いわば開明派の新興勢力なのでした。

 時の主で、大臣(おおきみ)というヤマト政権内の経済関連の最高責任者であった蘇我稲目(そがのいなめ)は、仏教の導入が大陸の先進文化や知識人の獲得につながり、ひいては、ヤマト政権の経済力とマンパワーを強化すると確信していました(崇仏派)。

 一方、仏教受容に反対する物部氏は、527年に勃発した磐井の乱を鎮圧した忠臣・物部麁鹿火(もののべのあらかい)を祖先に有する一族で、いわば日本最大の豪族です。以来、物部氏は、ヤマト政権内の軍事・宗教を司る要職に就いており、新興勢力である蘇我氏に対し、旧勢力として対立していました。

 時の主で、大連(おおむらじ)というヤマト政権内の軍事と宗教の実権を握る最高責任者であった物部御輿(もののべのおこし)は、日本古来の神道を重んじる立場から仏教受容に反対する立場を取りました(廃仏派)。

 つまり、蘇我氏積極的な改革をとなえるのに対し、物部氏は、国家体制の現状維持を主張したのです。

 このおり、天皇は現段階での公的な仏教崇拝は認めぬが、蘇我氏の私的な仏教崇拝は許可するという中立的な裁定を下しました。

 しかし、政権内の両氏の対立は、稲目、尾輿の一代に留まらず、その子の代までに及んでいきます。

 これが稲目の子である蘇我馬子(そがのうまこ)と、尾輿の子である物部守屋(もののべもりや)の対立です。

 585年、敏達天皇崩御すると、蘇我馬子用明天皇を推し、正式に天皇として即位させました。天皇家蘇我氏の言う通り、仏教の受容に賛成するようになったのです。

 すると、皇位継承を欲する穴穂部皇子用明天皇の異母弟)は、もう一つの勢力である物部守也を頼るようになりました。

 こうして政権内の両氏の対立は、天皇家の後継問題を巻き込み、一大政争にまで発展しました。

 この二氏の諍(いさか)いは、いよいよ戦乱となります。

 587年、用明天皇崩御した際、馬子は先手を打って速やかに軍を派遣し、遂に物部氏との決戦となりました(丁未の乱)。
31代用明天皇の子である聖徳太子(しょうとくたいし)は、この戦いの勝利の祈願として霊木として白膠木(ぬりで)を切り、四天王像を彫り、髪をたぐり上げたと言われています。

馬子「皇子、御仏(みほとけ)のご加護は我にあり。」

太子「馬子よ、我らは必ず勝ちます。行きましょう。」

 この丁未の乱で、若干14歳の聖徳太子は、敵勢の矢が全く当たらないほどに俊敏な騎馬をこなし、神秘的な活躍をしたとされています。

 この戦いに勝利した馬子は、穴穂部皇子とその派閥、そして守屋を殺害してまいました。馬子は新たに崇峻天皇を擁立し、朝廷内で力を持つようになりました。これにより、日本は本格的な仏教の受容を開始していきます。

 なぜ、天皇家は仏教受容に賛成するようになったのでしょうか。なぜ、日本は仏教の受容に積極的になったのでしょうか。

 実は、この頃、東アジアに超大国が出現したことで、情勢が緊張状態に陥っていたのです。

日本にとって、仏教による中央集権化は早急な課題でした。というのも、中国に隋という強大な統一国家が誕生したのです。蘇我氏物部氏の対立は宗教戦争ではなく、次の政権運営者を決める権力闘争だったのです。

 592年、崇峻天皇が何者かに暗殺されました。

 聖徳太子蘇我馬子に問い詰めました。

太子「馬子、崇峻天皇が殺されたとは、真(まこと)か。」
馬子「ええ。なんでも暗殺だそうだ。・・・恐ろしい。」
太子「・・・・馬子、何か隠しているのか?」
馬子「いいえ。とんでもございません。」

 物部守屋を倒した蘇我馬子は軍事・経済・宗教の権限を一手に掌握し、ヤマト政権の最高権力者となりました。
 しかし、馬子が即位させた崇峻天皇が馬子に敵意を示し始めると、592年、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたえのこま)に崇峻天皇を暗殺させてしまいました。

 皇位崇峻天皇の妹である推古天皇が継ぎました。日本初の女帝です。
 用明天皇の皇子であった聖徳太子は、叔母の推古天皇を補佐する地位に就きました。ここに、蘇我馬子推古天皇聖徳太子による仏教を思想的格とした天皇を中心とした国家体制の構築が始まったのです。

 こうした中央集権体制を整えようとした背景には、東アジア情勢の大変動があったのです。

 588年、隋の文帝(楊堅)は50万を超える大軍勢で中国大陸を南下。翌年には陳王朝を滅ぼして中国大陸を統一しました。

 これにより、西晋滅亡以来、五胡十六国南北朝など273年間も続いた王朝乱立時代が終結しました。

 これにより日本や朝鮮半島を含む周辺諸国は、東アジアに出現した超大国・隋との外交関係を模索する必要に迫られました。

 臣下の礼をとり、超大国の庇護下に入るか?

 それとも、庇護下には入らず、自主独立の道を歩むか?

 朝鮮半島の国々は、次々に柵封されていきました。

 隋の皇帝から詔や称号をもらい、国王に任命してもらうことを柵封といいますが、つまり、超大国・隋の庇護下として朝鮮半島の国々は、君臣関係を結んだのです。

 これに対し、ヤマト政権(日本)は、超大国・隋と対等に交流できる国家の建設するという自主独立路線を選びました。

 このように蘇我氏の仏教導入は、世界情勢の変化に対応することを狙った見事な作戦だったのです。そのためには物部氏を倒し、自らが政権を握り、日本を中央集権国家へと導いていかなければならなかったのです。

 忘れてはならないのは、物部氏は仏像を捨てるなど、仏教を弾圧したのに対し、蘇我氏物部氏を滅ぼした後、神道の潰しにかかっていないことです。つまり、両氏の対決は、宗教戦争ではなく、物部氏から政権を奪うための権力闘争だったのです。

 実は蘇我氏物部氏の対立は、3世紀に勃発した日本海と瀬戸内海の主導権争いにさかのぼります。

 物部氏は大阪や吉備(岡山県)を地盤とする瀬戸内海の覇権を握る勢力でした。これに対し、蘇我氏は出雲で盛行していた方墳を造営するなど日本海の覇権を握る勢力だったのです。

 日本海勢力の蘇我氏と、瀬戸内海勢力の物部氏の主導権争いは、いったんは物部氏の勝利に終わりました。それが6世紀になって、日本海勢力の蘇我氏が巻き返したということです。

以上。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
本宮貴大でした。

参考文献
ビジュアル図説 日本史 歴史文化探訪の会=編著 日本文芸社
早わかり日本史   河合敦=著  日本実業出版
マンガで一気に読める! 日本史 金谷俊一郎=監修 西東社
雑学3分間 古代史  関裕二=著 PHP
図解 オールカラー 古代史    成美堂出版

【どう違う?】19世紀までの戦争と20世紀からの戦争

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。
 今回のテーマ「【どう違う?】19世紀までの戦争と20世紀からの戦争」というお話です。

19世紀までの戦争 20世紀からの戦争
短期決戦 長期戦
農繁期が近づくと終戦 国力尽きるまで戦う
国王のために戦う 国民のために戦う
専制国家に有利 民主国家に有利
職業軍人が戦争に行く 国民が戦争に行く
戦略・戦術が勝敗を決める 技術力・経済力が勝敗を決める

 19世紀までの戦争と20世紀からの戦争、その最大の違いは、短期決戦であるか、長期戦>であるかという違いです。


 確かに19世紀には、百年戦争や、三十年戦争といった非常に長い期間戦い続けた戦争もあります。しかし、それらの戦争は、断続的で、戦っては休み、戦っては休みという繰り返しをしているに過ぎません。20世紀からの戦争は本当に長期間、ずっと戦い続けているのです。

19世紀までの戦争は、戦場に駆り出されるのは、王族や貴族出身の職業軍人だけです。他国に宣戦布告するのは国王や王族、貴族達で、戦うのも王族や貴族達です。そして戦争によって勝ち得た利益も、やはり王族達のものです。

 一方、国民(農民)は何をしているのでしょうか。まぁ、畑仕事です。
「おい、聞いたか?おら達の国が戦争をはじめたらしいぞ。」
「え?そうなの?ま~た物騒な世の中になりましたね~。まぁ、勝てばいいですね。」
「好きなだけ戦わせておけばいいのよ。奴ら(王族達)は懲りない連中なんだから。さぁ、仕事に戻りましょう。今日はやることが多いわよ。」
 この通り、大半の国民にとっては戦争など、他人事でしかありません。それもそのはず、彼らはその日その日を生きるだけで精いっぱいなのです。
 一方、20世紀からの戦争は、農民や商人などの国民によって構成された国民軍が戦場にいきます。これに関しては後述します。

 19世紀までの戦争は、王族貴族がそれまで蓄えていた備蓄が尽きれば終戦です。
 また、必要に応じて農民を徴兵しても、戦えるのは農閑期だけです。農業には繁忙期があります。繁忙期が来ればすぐに終戦させないと、王族達は年貢を徴収することができません。このように19世紀までの戦争は終戦の理由はいくらでもありました。

 一方、20世紀からの戦争は、国力が尽きるまで戦争をします。国家総動員なのです。になぜでしょうか。第一次世界大戦も、第二次世界大戦も当事国をよく見ると、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、アメリカ、日本などの世界を代表する主要国家同士の戦いで、それらの国々が互いに利権をめぐっての対立が発展したものです。したがって、敗戦すれば、利権獲得に失敗するだけでなく、相手国からの恐ろしい経済制裁がまってます。
 しかも、世界の強大な国々同士の対立なので、仲裁として入れる国がありません。したがって、どちらかが降伏するまで完膚なきまでに戦い続けるのです。被害が拡大するはずです。

 19世紀までの戦争は、国王のための戦争です。総司令官は国王であり、戦いの指揮は国王とその参謀達によって行われます。したがって、戦争の勝敗は、国王の手腕によって左右されます。
 そんな絶対的な権限を持つ国王や君主に対し、軍人は忠誠を誓い、死を覚悟して戦いに臨むのです。まさに「国王のための名誉ある死」です。
 日本でもこうした精神を武士道精神と言ったりします。
 そんな日本でも有能な国王がいましたよね。そうです。16世紀の織田信長です。彼の決断は迅速かつ明確なので、家臣以下兵士達は俊敏に行動出来る。現に信長軍の機動力は他国の軍よりも抜きんでていました。惜しくも自らの家臣による謀反により、横死した信長ですが、日本に「信長王朝」が誕生していたことは間違いないでしょう。
 このように19世紀までの戦争は専制国家ほど有利なのです。

 一方、20世紀からの戦争は、国民のための戦争でした。19世紀までにヨーロッパを中心にナショナリズム国民意識)という思想が誕生したのです。ナショナリズムとは、国民一人一人が国の人民としての自覚を持ち、自国の独立と、発展を目指して国のために尽くす精神のことで、民族主義国家主義とも言われています。
 例えば、日本人ならば、日本の発展のために一生懸命働こうと努力する精神のことです。

 ナショナリズムはなぜ誕生したのでしょうか。
17世紀~18世紀、世界の国々は絶対的な権限を持つ国王が独裁的に政治を行う「絶対王政」が主流でした。やがて、不満を持った民衆が立ちあがります。
「国王や貴族の権力の濫用は目に余るものがある。」
「彼らは贅沢な暮しをしているのに、我々は貧しい生活をしている。」
 絶対王政を倒すべく国民達は立ちあがり、革命を起こしました。
 その代表的な革命は、17世紀のイギリスのピューリタン清教徒)革命や名誉革命、18世紀のアメリカのアメリカ独立戦争、そしてフランスのフランス革命です。これらは王族貴族を倒して土地に縛られた農奴を解放し、市民の政府をつくった市民革命(ブルジョア革命)です。
 1789年、革命の知らせを聞いた当時のフランスの国王ルイ16世は言いました。
「なに!レヴォルト(暴動)が?」
「いえ、陛下、レボリューション(革命)が起きました。」
「なに、所詮は、農業しかやっていない農民軍だ。早急に鎮圧せよ。」
 しかし、結局、フランス革命は成功し、国王ルイ16世は王妃マリー=アント・ワネットとともに処刑されてしまします。
 これらの教訓から新たな支配者階級はあることを学びます。
「国民軍は職業軍人よりもはるかに強い。国民感情とは、執念深く、恐ろしいものだ。これを利用することが出来る。」

 国民軍が職業軍人より強かった例は日本にもあります。明治初頭に起きた西南戦争では、西郷隆盛率いる武士達(職業軍人)が農民や町民で構成された政府軍に敗れました。

 話を戻します。

 こうして革命によって絶対王政が倒され、イギリスやフランスをはじめヨーロッパに民主国家が誕生しました。
 民主主義とは、国民が主体となって政治を行うしくみのことですが、人間が生まれながらに持っている自由や平等などの権利を尊重した政治形態です。これが国民意識ナショナリズム)を芽生えさせ、イギリス人はイギリス国民として、アメリカ人はアメリカ国民として、フランス人はフランス国民として、その誇りやプライドを持つようになったのです。

 さて、19世紀までの戦争は職業軍人が戦場に向かうのに対し、20世紀からの戦争は国民軍が戦場に向かいます。
 当然ですが、戦争を長期間続けていると・・。
「もっと武器を持ってこい」
「もっと弾薬を持ってこい」
「もっと食料を持ってこい」
「もっと兵隊を持ってこい」
 ということになります。
 兵士の数は職業軍人だけでは明らかに足りません。
 国民軍と国民感情の強さを知ったことで、長期戦である20世紀の戦争では、是非とも国民を扇動して国民軍を率いて戦いたいところです。

 国民意識ナショナリズム)が芽生えたことで、国民同士の団結力は高まったものの、それだけでは、国民を徴兵することは出来ません。国民の戦争参加への大義名分を示さなくてはいけないのです。
 19世紀までの職業軍人の場合、「国王の私腹を肥やすため」というもので十分でしたかが、国民軍はそんな正直なものでは動きません。当然ですね。そこで・・・・。
「国民を守るため」
「自分達の領土を守るため」
「正義のため」
「民主主義のため」
という国民意識に則したものを大義として掲げました。
特に強い動機になったのは、「民主主義のため」です。
民主国家であるイギリスやフランスは、専制国家を「悪の帝国」としてまつりあげ、民主国家を共通の敵としました。
第一次世界大戦では、その構図がはっきりとしています。イギリス・フランス・ロシアの連合国軍(民主国家群)と、ドイツ・オーストリアオスマン帝国による同盟国軍(専制国家群)の対立です。
(当時、ロシアは専制国家でしたが、戦争中にロシア革命が起こり、一時的に民主国家になっています。後にソ連という社会主義国家になります。)

さぁ、国民軍を徴兵します。
「まずは、独身者を徴兵する。」
「兵士が足りなくなってきた。妻帯者も徴兵する。」
「また兵士が足りなくなってきた。年齢制限を引き下げる。」
20世紀からの戦争は、国民のための戦争はとして男たちを前線へと駆り出しました。
いや、むしろ「正義のための戦争」、「民主主義のために戦争」となれば、「悪の帝国」である専制国家群を倒すために男たちは喜んで戦争に参加しました。
「民主主義を守るためだもんね。男たちが戦場で戦うなら、私たち女も軍需工場で働くわ。」
こうして20世紀の戦争は全国民を巻き込んだ国家総力戦となったのでした。

先述の通り、20世紀からの戦争は民主国家である方が有利です。それはつまり長期戦には必要不可欠な国民軍が専制国家にはそぐわないシステムだということです。
これが原因で、当時の専制国家は、次々に滅亡していきました。
1917年のロシア革命によるロシア帝国の滅亡
1918年のドイツ革命によるドイツ帝国の滅亡
1918年にオーストリアハンガリーの二重帝国が滅亡
1922年にトルコ革命によってオスマン帝国が滅亡
このように、時代の流れにそぐわない君主国家はどんどん姿を消していきました。

さぁ、表の最後の項目になりますが、19世紀までの戦争は、国王や参謀本部の戦略や戦術が勝敗を決めました。しかし、20世紀からは、技術力や経済力などの国力のある国が勝敗を決めるようになっていきます。
これに関しては、次回以降、第一次世界大戦を事例として上げ、ストーリーを展開しながら詳しく解説していきたいと思います。(以下のリンクからどうぞ。)
motomiyatakahiro.hatenablog.com
motomiyatakahiro.hatenablog.com


最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
世界史劇場 第一次世界大戦の衝撃       神野正史=著  ベレ出版
学校が教えないほんとうの政治の話       斉藤美奈子=著 ちくまプリマー親書
日本人のための世界史入門           小野谷敦=著  新潮新書

【織田信長】こうして信長は上洛を果たした

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【織田信長】こうして信長は上洛を果たした」というお話です。

 

 1568年9月7日、信長は5万の軍勢を率いて、足利義昭を奉じて岐阜を発し、上洛の途につくと、行路に立ちはだかった南近江の六角氏を蹴散らし、同月26日には京に入った。今回はそれについてご紹介します。

 激しい戦国争乱の中で、室町幕府の統治力は全く失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって朝廷や幕府の権威をかりて全国にその名を轟かせようとするものが多く現れました。その中で、全国統一のさきがけとなったのは尾張織田信長でした。

 1560年、上京を企てて進撃してきた駿河今川義元の大軍を尾張桶狭間で破り、1567年には美濃の斎藤氏を討ち、美濃を岐阜と改め、岐阜に城を構えます。そして「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示しました。

 目標が天下統一になったことで、信長には合戦以外にも大きな仕事が発生しました。
天下を統一するには、当時、中央政権があった京を手中に治めなければなりません。
それに天下統一を目指す信長には決定的に欠けているものがありました。

 それは権力です。駿河の今川や、美濃の斎藤を打ち破り、徐々に実力をつけてきた信長ですが、権力に関しては全くでした。当時は現代とはくらべものにならないくらい身分や家柄、血筋が重視される時代です。

 天下統一を目指す信長の大きな仕事とは、時の天下人に近づき、その権力を後ろ盾に天下の政治を行うことです。時の天下人とは室町幕府の将軍のことですが、信長はいかにして幕府に近づくかを考えていました。

 

 京に向かうためには、京に向かうルート(道途)を確保し、さらに上洛する大義名分が必要になりました。

 当時は、現代のような都道府県を自由に行き来することは出来ず、領国間を行き来することは禁じられていました。もし、大軍を率いて他の領国に入れば、他の領国から宣戦布告とみなされ、戦いになります。

 したがって、信長は上洛のために通らなければならない領国を平定するか、若しくは、そこの大名と同盟を結ぶかの方法を取り、京へのルート(道途)を確保する必要がありました。


 大義名分としては「室町幕府の再興」というものがあるとして、問題は京に向かうそのルート(道途)の早急な確保でした。

 ここで、当時の信長の勢力図を確認しておきましょう。信長は1560年、駿河今川義元を打ち破り、人質だった徳川家康を解放し、家康と同盟を結びました。そして家康が遠江を得たことで、信長には砦が出来、甲斐の武田信玄からの侵略を直接受けることはなくなりました。つまり当面の間、東側の憂いはなくなったのです。

 南側は海だし、北側については美濃の斎藤氏を制圧したことで、もう自分の国となったので安泰です。

 残るは西側です。上洛するにはどうしても西側の伊勢(三重県)と近江(滋賀県)を通らなければなりませんでした。

 北近江は浅井長政という戦国大名が治める領地です。上洛のためには、この北近江の浅井を叩き潰す必要がありますが、この時点での信長には長政を叩き潰す兵力はありません。

 ならば、どうにかして浅井長政と同盟を結ばなくてはなりません。

 そこで、信長は自分の妹で絶世の美女と称されていたお市を長政に嫁に出すことで同盟を結びました。長政とお市は政略結婚でありましたが、お市は長政を、そして長政もお市を愛するようになりました。

 このように信長は着々と京へのルートを確保していきました。


 信長が美濃を攻略している頃、京の中央政界にも足利将軍家をめぐる大きな動きがありました。1566年5月19日、室町幕府13代将軍足利義輝が三好義重と松永久秀により暗殺されてしまったのです。

 同年12月5日、信長は義昭から出兵の要請を受けました。しかし、この時、信長は美濃の攻略戦に苦戦しており、余裕はない。切歯扼腕の思いでした。

 1560年、義輝は信長と面談しており、その当時は京の室町御所にいましたが、当時、26歳だった信長の目は京を見すえ、大きく開かれました。

 そして、すでに有名無実の存在になっている将軍家だが、その権威を利用すれば、自分にも天下に号令する可能性があることを知ったことでしょう。
 


 一方で義昭は兄である13代足利義輝将軍の後を継ぐことを示す、すなわち、14代室町将軍になりたいと考えていました。その際、自分を守ってくれる親衛隊を出してくれる大名を探していたのです。

 義昭は越後の上杉、越前の朝倉、安芸の毛利から薩摩の島津にまで御内書を発しました。

 義昭は何とか幕府再興のためにあらゆる大名にお願いしたのです。

 このとき、信長も義昭からの御内書を得ています。

 義昭は一刻も早く上洛し、将軍の座に就きたいと考えていたのです。

 一方の信長も、天下人に近づく絶好のチャンスが出来ました。まさに「飛んで火にいる夏の虫」です。

信長は美濃攻略を急ぎました。しかし、まだもう少しかかりそうです。

 

 一方、義昭は上洛の意を伝えるため、上杉や朝倉の許(もと)に向かいました。
義昭自身は身分が高いので、上杉からも朝倉からも一応歓待はしてもらえます。越前の朝倉のところに行ったときなど、御殿を建ててくれたり、女をあてがってくれたり、朝夕、酒を飲ませてくれたりと大変な歓待を受けています。

 ところが、いざ兵を出して京で将軍家を再興してくれというと、してくれません。

 上杉にも朝倉にも、上洛したくても出来ない事情がありました。

 彼らは兵農一致であり、京に兵を派遣出来たとしても1年を通して常駐させることは出来ません。農繁期になれば必ず郷土に戻し、農作業に専念させなければなりません。さもないと、農民の生活はおろか、自分達の年貢米までおろそかになってしまいます。それだけでなく、大軍を京都に置いてしまったら、本国が侵攻されてしまう危険もあります。なので、彼らはしたくても出来なかったのです。

 しかし、信長は違いました。信長の兵は兵農分離がされた軍隊なので、1年を通して常駐が可能です。

 これを知っていた信長は美濃攻略を急ぎました。

 

 同年9月、義昭はとりあえず、朝倉義景を頼って、越前の敦賀金が崎に身を移しました。朝倉家なら自らを奉じて上洛を目指すというよりも、まず、身の安全を図ったのです。

 

 翌1567年9月、信長はようやく美濃の稲葉山城を陥落させました。すると、兵を休めることなく、すぐに全軍を伊勢に侵攻させました。京に通じるルート(道途)を開くためです。

 東は徳川、西は浅井と同盟関係を結び、その安全を確保した信長にとって、南につながる伊勢の平定にも乗り出したのです。はどうしても平定しておかなければならない。信長は重臣の滝川一益を大将に北伊勢への侵攻を開始しました。

 翌1568年早々、越前から義昭の使いとして明智光秀が信長の居城・岐阜城にやってきました。この当時、光秀は義昭の側近としてその外交を任されていました。

 信長は、後にその命を奪われる男と初めて出会ったのです。

 光秀は義昭の言葉を信長に伝えました。

「上洛軍を催して、京に入り、三好三人衆を討ち滅ぼしたうえ、義輝将軍の正当な後継者として自分を14代将軍に就けよ。これが公方様(義昭)の意向です。」

 光秀はそれだけでなく、義昭の上洛を有利に運ぶために自らが考えついた方策を提案しました。

光秀「信長殿、京へのご出陣の前には、必ず公方様を岐阜にお迎えいただきますように。」

信長「越前の一乗谷から直接京に向かうのでは、不都合なのですか。」

光秀「公方様が岐阜にご動座されれば、将軍の臣下である上杉、朝倉、武田氏などが信

長殿の留守に美濃・尾張に攻め込むことは出来なくなります。」

信長「なるほど、さすれば、浅井と徳川の軍勢を北と東の守りに置かなくてもよくなり、その分を上洛軍に回せるということですな。」

光秀「ご明察、畏れ入ります。」

信長「京に入るには、戦も覚悟しなければならぬ。大事ないか。」

光秀「軍勢に公方様をお迎えすれば、信長殿の軍勢は将軍親征軍となります。さすれば、公方様をお支えんとする畿内の諸豪族達は皆、協力的になるでしょう。それゆえ、さほど大きな戦になることはないと考えます。」

信長「だが、三好三人衆は敵対しよう。奴らは間もなく、新しい将軍を立て、それを盾に我が軍と対立しそうな気がしますが・・・・。」

光秀「公方様は一刻も早い上洛を望んでおられます。そのためなら、軍勢の先頭に立つご決意でございます。」

信長「それはたのもしいお方であることよ。義輝将軍の血を受け継いでいることはある。」

信長は続けて言いました。

信長「それにしても光秀殿、そなたは知恵者じゃ。」

光秀「畏れ入ります。」

 

 こうして信長は光秀に義昭を伴っての上洛を約束し、光秀は室町幕府再興の可能性を感じ取って越前に帰っていきました。

 このとき、信長は光秀の外交能力に注目し、家臣として迎え入れてしまいました。一方の光秀も信長の描く理想国家に深く心酔していたのです。

 同年2月8日、畿内三好三人衆の保護下にあった足利義栄(あしかがよしひで)が室町幕府14代将軍の座に就任しました。朝廷を抑えている三好氏の工作によるものです。

 信長は焦りました。

 もし、義栄将軍が各大名に認められれば、義昭の価値は下がり、彼を奉じて上洛する大義名分がなくなってしまいます。

 7月25日、義昭は光秀を伴い、信長の居城・岐阜城にやってきました。

 義昭は当初、名門でも何でもないただの成り上がり者の信長に対し、半信半疑で、どうせコイツも他の大名と同じだろうと考えました。

 信長と義昭の初めての対面です。

義昭「信長殿、そなたは、余のために何をしてくれるのだ。御殿でも建ててくれるのか。それとも酒でも飲ませてくれるのか。ああん?」

信長「いいえ。私は御殿など建てません。」

義昭「何だと?」

信長「美濃に御殿を建てても仕方ないでしょう。私なら京に将軍御所を建てて差し上げますよ。」

義昭「それは真(まこと)か?」

信長「いかにも。それに、私の軍であれば、年中京に常駐することが出来ます。将軍の護衛はお任せください。」

しかし、義昭は終始、半信半疑でした。

 信長といえば、尾張守護の斯波氏の家老のそのまた家臣の血筋に過ぎずない。その信長を頼るのは、名流を誇る将軍家としては覚悟がいります。

 光秀は義昭を説得します。

「信長公は他の大名とは一味違います。彼を護衛軍として迎え入れれば、室町御所は強固となります。」

 義昭が光秀の説得に応じることにしたのは、一向に実現しない上洛や義栄の存在などで焦りを感じていたからです。

 

 信長は上洛の準備を着々と進めます。

 信長は南近江にたちはだかる六角義賢(ろっかくよしたか)を説得するべく、8月7日、義昭の使者を伴い、佐和山城に出向きました。

「義賢殿が人質を出したうえで上洛軍に加わってくれれば、摂津を与えた上、幕府の侍所の所司代に任命いたします。」

 信長は条件をだして六角氏を味方につけようとしました。

 六角氏と合戦になり、籠城でもされれば、攻城に時間がかかるうえ、上洛路の安全さえ保てなくなる。そのために懐柔しようとしたのです。

 義賢は決断がつきませんでした。

 すでに第14代将軍として三好三人衆に擁立された義栄がいるから、義昭の味方につけば逆賊の汚名を着せられる。信長軍も全兵力をもってしても、せいぜい2万がいいところだろう。

 これでは、上洛しても三好三人衆畿内の諸豪族はおろか、上杉や朝倉、武田からも京を守ることができないだろう・・・・。

 それに家柄も格式もない新興武将の信長相手では、どのような好条件を出されても納得できません。

 義賢は、信長には京を維持する力はないと判断しました。

 信長は六角氏を力攻めすることにしました。信長の平定した全領国は総国高は120万石余り、動員可能兵力は3万ほどでした。

 しかし、予想外のことが起きました。

 尾張、美濃、北伊勢だけでなく、北近江の浅井軍、三河の徳川軍からも参陣が相次ぎ、総数は5万を超えたのです。信長の銭で雇う兵の出兵は可能だとしても、刈り入れを控えての他国勢の参陣は「将軍の上洛軍」との宣伝がきいたからです。将軍といっても正確には次期将軍候補ですが、現将軍の義栄が名前だけで、京に入ることすら出来なかったのも追い風となりました。

 信長は改めて「将軍の威光」を知りました。

 六角義賢は京に在陣中の三好三人衆と連携し、領国の防備を固めていましたが、2万ほどと見ていた信長勢が5万もの大軍と聞いて戦意を喪失。六角方の砦であった箕作城、観音寺城は12日までに落とされ、義賢は翌13日に城を捨てて伊賀に逃れました。

 南近江はわずか2日で平定されました。

 六角氏が目立った抵抗も出来ずに逃げたと聞くと、三好三人衆も京を捨てて、摂津、和泉へと逃げました。

 

 こうして上洛ルートを確保した信長は岐阜城にいる義昭に使者を送って呼び寄せ、26日、義昭とともに京に入りました。義昭は1565年に松永久秀らに追われて流浪の生活になって以来、長年の夢が信長によってあっという間に実現したのでした。

 信長は約束通り、京に将軍御所として二条城を建て、義昭の住まいとしました。織田軍も将軍親征軍として京に常駐するようになり、室町幕府の権威は一気に復活しました。
 そして、1568年10月信長の奔走によって、天皇より義昭は室町幕府第15代将軍に任命されました。

 夢が叶った義昭は大喜びしました。

 そして義昭は信長に恩礼を示しました。

「信長殿、君のおかげで我が幕府は再興出来た。君には本当に感謝している。もし良けれれば、我が幕府の副将軍にならないか。」

 信長は答えました。

「せっかくですが、お断りします。私など、副将軍の器ではありませんので。その代わり、堺や大津、草津などの経済の拠点を掌握する権限を頂きたいと存じます。」

 義昭はまたしても驚きました。

「何だと?一体何をするつもりだ。」
「権威だけでは世を支配出来ません。経済を活性化させ、民衆からの支持も得る必要があります。私なら現在停滞している経済の息を吹き返すことが出来ます。どうかご検討の方を。」
 この信長の提案に義昭はまたしても喜びました。
「お前はなんて謙虚なやつなんじゃ。よろしく頼む。期待しておるぞ。」

信長の活躍は続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
戦国時代の組織戦略             堺屋太一=著     集英社
組織の盛衰                 堺屋太一=著     PHP文庫
教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著     旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業     井沢元彦=著     PHP
もういちど読む 山川日本史         五味文彦・鳴海靖=著 山川出版社

【兵農分離】武士のサラリーマン化!?織田信長の兵農分離政策をわかりすく

こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【兵農分離】武士のサラリーマン化!?織田信長兵農分離政策をわかりすく」というお話です。

 信長の行った代表的な政策には、「兵農分離」と「楽市楽座」があります。

 今回はその「兵農分離」についてご紹介したいと思います。

 戦国時代、兵士とは、普段、農業に従事する農民兵でした。

 この時代、大名は兵隊を自分の領内から調達するのを原則としていました。

 したがって、「いざ戦」のときになると、大名は領内に陣触れを出します。すると、領内の小豪族達は自らが支配する村々から農民を率いて集まり、戦に参加していきました。

 つまり、当時の下級兵士である「足軽」は普段、農業に従事し、戦いとなれば、弓や槍をもって出動していたのです。こうした状態を兵農一致といいます。

 

 これには大きなメリットがあり、農民兵は普段、自分で田畑を耕し、自給自足の生活をしています。なので、戦争がない時期は給料を払う必要がありません。

 もちろん手柄を立てれば、その農民兵には何らかの報酬が与えられますが、働き盛りの若者を何千人も、仕事もさせずに養うということは出来ません。なので、人件費をタダで徴集することが出来る「兵農一致」は当時の主流であり、戦国大名はみな農民兵を率いて戦いに臨んでいました。

 

 ところが、信長は農民兵ではなく、専門兵士を使って戦いに臨みました。

 信長は彼らを銭で雇い入れ、一年中馬や弓、槍や剣術の稽古をする専門兵士集団をつくりあげたのです。

 つまり、武士をサラリーマン化したのです。これを兵農分離といいます。

 

 「兵農分離」とは、文字とおり、兵士と農民の身分をはっきりさせ、両者を切り離すという意味ですが、信長は、農業に専念する農民と、専門兵士とに分離させたのです。

 しかし、銭で雇うには大量の銭が必要です。そのためには市場から銭を大量にかき集める必要があります。

 

 信長の領国経営の特徴として、重商主義、つまり、商業を活性化することで国庫を潤していることがあげられます。それを象徴するのが、信長のもうひとつの政策である「楽市楽座」です。

 

 ところで、農民兵と専門兵士、どちらが強いのでしょうか。

 これは本当に意外ですが、実は農民兵です。

 農民兵は自分の土地や家族を守るために命懸けで戦います。

 これは、いわゆる「一所懸命」の精神であり、当時の住民は自分の生まれ育った地域のために汗を流し、時には血を流すことが美徳とされてきました。というのも、もし、戦いで負ければ、自分達の地域は従属国となり、領主だけでなく、領民達も略奪や奴隷など様々な辛酸をなめることになるからです。

 一方、信長の専門兵士は、常日頃から戦いの訓練をしているので、強そうですが、お金のために戦うので、農民兵ほどには必死になれなかったのです。それに彼らは身元も知れない流れ者です。統制性や団結力など皆無に等しいものでした。

 この時代、流れ者はほとんど農民や町人の出身者ですが、わけあって落ちぶれ、流れ者となった人達です。

 平たく言えば、社会不適格者です。そんな寄せ集め集団に団結力や仲間意識があるはずもなく、主人に対する忠誠心はおろか、その統制すらもとれていない。信長の兵農分離された専門兵士は情けないほど弱い集団だったのです。

 

 では、なぜ、信長は生涯にわたって、兵農分離を行ったのでしょうか。

 なぜ、わざわざ費用をかけてまで兵士を雇ったのでしょうか。

  兵農分離には一体、どのようなメリットがあったのでしょうか。

 

 そのメリットを最大限にまで生かされたエピソードがあります。それは信長が美濃を攻略したときです。ということで、後半記事は信長の美濃攻略を見ていきながら、兵農分離の最大のメリットについてご紹介していきたいと思います。

 

 

 信長は1567年、一大勢力だった美濃平定に成功します。信長を勝利に導いたのは、兵農分離によって一年中戦いに臨める専門兵士の活躍でした。信長は攻撃を農繁期に集中させ、斎藤氏をじわじわと弱らせていきました。斎藤氏はそんな信長の長きにわたる攻撃に根負けしたのです。


 1560年、信長は桶狭間の戦いで、駿河の名門・今川義元を討ち取ることに成功しました。

 今川氏を打ち破った信長は、今川氏に人質としてとらえられていた三河徳川家康を解放。以後、信長は家康と同盟を結び、当面の東側の憂いをなくすことに成功しました。

 

 これに自信をつけた信長は、 次に信長は尾張(愛知県西部)の西と北に広がる美濃(岐阜県南部)の斎藤龍興の攻略を視野に入れ始めました。

 というのも、斎藤義龍から家督を継いだ斎藤龍興は、常に織田一族に謀反をそそのかし、信長の足許(あしもと)を脅かす存在でした。尾張国内で勢力を増す信長を抑えこみ、尾張全域を配下に置こうとする龍興の野望です。これに信長は危機感を覚え、美濃の制圧に乗り出したのです。

 こうして、桶狭間の戦いから僅か3か月後、信長は美濃に侵攻、斎藤龍興との戦いが始まりました。

 しかし、信長が本拠とする清州城は美濃からは遠く、遥か南に位置していたため、より近くに新たな戦略拠点が必要になりました。

 当時、「城」というのは、言ってみれば「拠点」であり、そこに兵や馬、食料を蓄えておき、そこから侵攻するという領土を拡大する上で、極めて重要な役割を果たすものだったのです。

 信長は濃尾平野小牧山に城を建て、居城を清州から小牧山に移しました。(小牧山城)。

 信長は木曾川を何度も超え、斎藤方の砦に何千人もの大軍で攻めました。

 しかし、斎藤氏は強かった。

 砦を守る番兵でさえ熟練の腕前を持つ兵士集団であり、櫓(やぐら)から素早く、信長軍を発見し、弓を放ちました。

 信長軍は、斎藤軍の何十倍もの人数を持ちながら大敗し、ときには信長自身も負傷するようなことさえありました。

 こんな状態ですから、戦いのほとんどは斎藤氏が勝ち、信長軍は負けて逃げる。

 こんな状況がずっと続きました。

 

 信長軍は情けないほど弱かった。

 それもそのはず、彼の軍隊はいわゆる流れ者の寄せ集め集団であり、ほとんどが農民や町人出身者ですが、わけあって落ちぶれ、流れ者となった兵士達です。そんな社会不適格者の寄せ集め集団に団結力や仲間意識があるはずもなく、忠誠心はおろか、その統制すらも満足にとれていない状況でした。


 信長が流れ者を兵士として雇い入れたのには訳があります。

 信長は1551年に父・信秀から家督を継いで以来、流れ者を兵士や小者(雑用係)として銭で雇い入れるということをしていました。しかし、これには訳がありました。
家督を継いだばかりの未熟な信長に仕えようとする織田家累代の宿将や兵士達が信長から相次いで離反していしまったのです。

 「うつけ者」と言われ、常識もわきまえない織田信長という人物に尾張を統一できる器があるとは思えない。

 それに、家臣を大事に扱おうともしない。

 重臣達が離反したのも、無理はありません。

 信長が動員できる兵士は少ないものになってしまいました。

 そこで、信長が考えたのが、「銭で雇う兵」でした。

 このことを多くの歴史学者は、「信長は天才だったからだ。」といいます。

 家柄や身分、血統が重視される当時の社会において、信長はそれらにかかわらず、能力ある者をどんどん活用していく当時としては新しいタイプの大名であり、歴史学者はそんな信長の人材を見抜く鋭い洞察力をたたえています。

 しかし、これは結果論であり、信長は本当にたくさんの家臣や兵士達から嫌われていたのです。

 話を美濃攻略に戻します。

 信長は考えました。

 流れ者の寄せ集め集団で、斎藤氏を打ち破るにはどうしたらよいか。

 桶狭間で今川氏を討ち取れたのは、時期や状況が奇襲攻撃に合致していたからです。しかし、今回は戦況も相手の武力も全く違います。二番煎じは通用しません。

 そこで、信長の考えた戦略はこれです。

「侵攻の時期を農繁期に集中させるのだ。」

 斎藤方の兵士はみな、農民兵です。当時は現在のように機械などないので、農業は重労働です。春は代掻きから秋の刈り入れまで休めるときはありません。そのため、とてもではありませんが、働き盛りの男性が田畑を放り出して戦争に行くわけにはいきません。

 一方、信長の「銭で雇う兵」は、流れ者の兵士なので、農作業もなければ、郷土というしがらみもありません。一年中、武術に専念出来ます。なので、繁閑期を問わず、いつでも戦いに臨めます。

 また、領主たちとしても、年貢徴収のために農民に農業をやらせないわけにいきません。しかし、信長の兵隊にはそんなの関係ありません。

 これが勝利のカギとなりました。

 信長軍は農繁期に集中して攻め入るようになりました。

 信長方が攻めてくるとわかると、斎藤方の農民達は慌てて農具を捨て、弓や槍を持って出動します。

 主力戦になると、結局、斎藤氏が勝ち、信長軍は負けて逃げます。

 しかし、斎藤方の兵士達が農作業に戻ると、再び信長軍が大軍を持って攻めてきます。

 すると、また斎藤方が農民を動員します。斎藤方が農民を動員してくるまでの何日間のあいだ、信長軍は2つ3つの砦を落とすことに成功。

 一方で、いざ合戦になると、信長軍は負けて逃げ戻る。

 そして斎藤方の兵士が農作業のために地元に戻ると、すぐまた信長軍は攻めていく。

 この戦術で、信長はじわじわと斎藤氏の戦力を削り取っていきました。

 信長軍の「銭で雇う兵」は、流れ者集団なので兵員の補充は簡単だし、戦死者を出しても嘆く者さえいない。何度負けても大したダメージはないのです。

 一方の斎藤方とすればたまったものではありません。兵士達は自分の生活のために農繁期に農業を放置するわけにいきません。

農繁期に動員命令を出されてしまい、農業に専念出来ない。」

 斎藤氏は、住民から大きな反感を買うようになります。

 やがて斎藤方の人々には、厭戦気分が湧きあがり、大名の動員命令にも従わない者が出てきました。そうなると、残った忠実な者だけで戦わなくてはなりません。斎藤氏は徐々に戦闘能力を失っていきます・・・・。

 そして遂に美濃の領民達が一揆を起こし、領主同士の争いが起きるなど内部分裂が起きてしまいました。

 こうした中で、信長は、斎藤方の鵜沼(うぬま)城、猿喰(さるばみ)城、加治田(かじた)城が次々に開城、信長側に寝返らせることに成功しました。

 これによって信長は龍興の居城・稲葉山城の東側を制圧することに成功しました。

 

 次に信長は、信長は稲葉山城の西側からも攻撃をしかけるようにしました。

 信長はその前線基地として墨俣に城を築くことを計画しました。

 この墨俣城の築城を成功させたのが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)です。秀吉の本格的な天下人への立身出世物語は、ここから始まりますが、秀吉は敵陣の最前線である墨俣に「墨俣一夜城」を築き上げたのです。

 こうして信長は真綿で締め上げるように稲葉山城攻略の準備を進めていきました。

 1567年8月1日には斎藤方の重臣である美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄氏家卜全安藤守就の3人が信長に内応してきました。この3人は土岐氏が斎藤銅三により追放されると宿老として斎藤氏に仕えたが、成り上がりの斎藤氏の危機に反旗を翻してしまったのだ。

 これで信長は、稲葉山城の西側も押さえ、多くの実力者を味方につけることが出来ました。

 美濃三人衆が味方についたことで、信長はこれを勝機と意を決しました。そして8月15日、それまで三河遠征を装って集めておいた兵をあげ、一挙に総攻撃を開始しました。稲葉山城の斎藤方では、あまりに速攻に家臣団を城下に結集させることができず、翌日には落城してしまいます。

 龍興は船にのって伊勢長島まで落ち延び、斎藤道三以来の斎藤氏は滅亡しました。信長はすぐに稲葉山城に入り、これまで井の口と呼ばれていたこの地を岐阜と改め、稲葉山城岐阜城とし、ここに居城を移しました。

 ここに稲葉山城は落ち、美濃は信長の手中に落ちたのでした。

 桶狭間の合戦で 信長の勇名は「僥倖の賜物」と見下す大名達もいましたが、尾張・美濃の2国を治めることとなった信長はようやく戦国大名として各勢力から認められる存在となったのです。

 信長はこの戦勝により、これまで斎藤氏によってふさがれていた西上ルートを開けることが出来るようになったのです。

 美濃を制圧した信長は本拠を岐阜に置き、岐阜城を構えました。

 

 やがて信長は「天下人になる」と公言し始めました

 信長はある目標・ビジョンを掲げました。それが「天下布武」です。

 「天下布武」とは、天下に武を布くことによって戦国時代を終わらせるということ。つまり、天下を武士が一元的に支配する統一国家を作るということです。

 

 この頃、天下という言葉を使っていたのは、信長だけでした。

 信長とその他の戦国大名との違い、それは勢力拡大が自らの私利私欲を満たすためのものか、それとも天下泰平の世を築くためのものだったかの違いだったのです。当然、信長のような人物は庶民から絶大な人気を集めました。

 信長は尾張と美濃の2国を領有した時点で、信長は早くも、「天下人となる」と公言するようになります。それが天下布武という判子の使用です。

 天下布武とは、天下に武を布くことによって戦国の世を終わらせるという意味ですが、

 1567年時点での信長の領地は尾張と美濃の2国だけです。今でいえば、愛知県の西半分と岐阜県の中央部を取っただけです。

 当時の国は現在の都道府県よりも小さく、天下は66国を数えました。

 そのうちたった2か国しか取っていない、しかも身分の低い成り上がりの戦国大名が「俺が天下を取る」と言い出したのです。

 私達は歴史の結末を知っていますから、さすが信長、と思いますが、当時の人々の誰が本気にしたことでしょうか。

おそらく、信長の周囲の人達は、

「何をバカなことを」

「うつけがぶり返したな。」

と笑ったことでしょう。

 それでも、信長は「天下を取る」という明確なビジョンを持って、行動したのです。
ちなみに「天下」という言葉を作ったのは、信長です。この時代、他の大名は自分の領土を広げることしか考えていません。彼らがやっているのは、すべて自分の領土を広げるための戦い、つまり私戦だったのです。

 大名同士が勝手に私戦を行い、幕府はそれを抑える力もなく、将軍はいるけど領地すら持たない。幕府といってもそれはもう有名無実の状態でした。地道に領土を拡大しながら天下を平定するのは、あまりに時間がかかりすぎる。美濃を攻略するだけで7年も費やしてしまった。

 目的達成性の高い方法は何か、つまり、天下統一のために最も手っ取り早い方法は何かを考えるようになりました。

 そして、信長が出した結論は、時の天下人である足利将軍家に近づくことでした・・・・・。

 

信長の統一事業は続きます。

以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
戦国時代の組織戦略                 堺屋太一=著 集英社
組織の盛衰                     堺屋太一=著 PHP文庫
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著 Gakken
教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著 旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業         井沢元彦=著 山川出版社
マンガでわかる日本史                河合敦=著  池田書店

【織田信長2】桶狭間の戦いの知られざる真実とは?

こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【織田信長2】桶狭間の戦いの知られざる真実とは?」というお話です。
ぜひ、最後まで読んでいただきますよう、よろしくお願いします。

尾張戦国大名織田信長は1560年、駿河遠江三河を支配する最大勢力である今川義元の侵攻を受け、窮地に立たされます。しかし、信長はこれを奇襲攻撃によって破ります。なぜ信長の奇襲攻撃は成功したのでしょうか。

1560年、27歳の織田信長は生涯最大ともいえる窮地に立たされました。
信長は尾張領国にさえ、まだ敵対勢力が残っているというのに、東の最大勢力である今川義元の侵攻を受けたのです。今川氏は、駿河遠江三河の3ケ国を支配下におく大大名で、義元はその勢力を西へと拡大させようと尾張の織田領に侵攻し始めたのです。

今川義元は1519年の生まれ。室町幕府から駿河守護大名に任命されており、遠江の守護も任されていました。その上、三河支配下に置き、統治領域の総石高は100万石にもおよび、名門意識も強い大大名でした。
そんな義元は、下剋上の世を憂い、自らの力で足利将軍家を助けるという大義名分のもと、京に今川の旗を立てようと野望を抱いてしました。
義元は信長の父・信秀とも戦っており、尾張東部も支配下に収めていましたが、これまで尾張中央部への侵攻は出来ませんでした。それは、国境を接する東の北条氏、北の武田氏と敵対関係にあったからです。しかし、武田、北条と友好関係を築き、1560年、満を持して尾張侵攻に乗り出したのです。
そんな信長の尾張の国は、江戸時代では60万石でした。しかし、当時、信長はまだ尾張全域を支配しきれていないため、石高は30万石程度でした。
5月17日、駿河を出発した今川義元率いる2万5千の大軍勢は三河の国境を越えて、信長領に侵攻してきました。
迎え撃つ信長は尾張の大半を領有していたとはいえ、動員出来る兵力は5000人程度。直接やり合っても、勝ち目がないことは誰の目にも明白でした。

こうした状況下で、信長方の家来達は次々に今川方に寝返りました。
その結果、尾張領内の大高(おおだか)城、鳴海城、沓掛(くつかけ)城などが、あっさり義元の手中に入ってしまいました。信長は義元にクサビを打ち込まれてしまったのです。

5月18日、義元は沓掛城に入り、そこで軍議を開き、尾張攻略の方法を考えました。
まず、2千3百の兵で織田方の丸根砦、鷲津砦を攻め、陥落させる。19日には、善照寺砦を落として、鳴海城に入る。鳴海城に入れば、信長の居城清州城までは4キロメートル程しかない。
そうなれば、今川勢の勝利は確定します。

戦国時代は江戸時代とは違い、1国の中に幾つもの城がありました。大名(当主)の住む城、家老を守る城、そしてその家老の家来が守る城があり、それを「砦(とりで)」と呼んでいました。
(江戸時代になると‘一国一城令‘という法令が出来、城の数は減らされます。)
今川勢の軍議では信長を見下す発言が飛び交いました。
「それにしても信長のやつ、なぜ砦に兵を分散させるのだ?これでは無駄に兵を消耗するだけだぞ。」
戦のときに一番やってはいけないのは、「逐次(ちくじ)投入」といわれるものです。これは戦争用語ですが、例えば味方が5000の軍勢、敵が5000の軍勢なのに、500人ずつ小出しにして敵に当たらせることを「逐次(ちくじ)投入」言います。これをやると必ず負けで、やってはいけないこととされています。つまり、相手が5000なら、こちらも5000で出さなくていけないのです。向こうは全力できているのですから、小出しに兵を出しては負けるに決まっています。
当時の信長もこの程度だったのです。
「信長のやつ、うつけ者とは聞いていたが、本当にただのうつけ者ではないか。」
「フハハハッ」

このとき、清州城にいた信長とその家臣団は迎撃か、籠城かを決められずに日を過ごしていました。
「殿、清州にて籠城策をとりましょう。」
家臣達が籠城策を進言するのは当然でした。大軍を迎える戦法としては一般的だし、3千人ほどで籠れば、たやすく落城することはありません。
それに、今川勢は大軍といえど、農民兵を動員したもので、5月に出てきたのは田植えを終えたからです。獲り入れ時期の秋になれば今川勢も引き上げざるを得ないため、籠城もそこまで持てば良い。
どう考えても、寡兵(少ない兵数のこと)で大軍に挑むなど無謀過ぎる。重臣達は籠城策を声高に進言しました。

しかし、信長としては、籠城策はあり得なかった。
織田家累代の家臣の多くは信長から離反したし、残った家臣達もいつ寝返るかわかりません。重臣達は今川勢と戦うのを嫌っています。
彼らは籠城した後でも、勝ち目がないと読めばいつでも今川軍に降伏できます。
主君・信長は殺されるか、切腹することになるが、家臣達は降伏するタイミングさえ間違わなければ命を失うことはないし、今川勢に寝返ればとりえあずは安泰です。
今後は、三河松平氏徳川家康)のように常に先陣としてこき使われることになるが、今川が天下に号令するようになれば、1国1城の主となることも夢ではありません。
それに信長に尾張全土を治める器量があるとも思えません。
こうした家臣団の考えを信長は読んでいました。

このピンチの状況をどう切り開くか。信長は頭をフル回転させて考えました。

そんな中、5月18日の夜、偵察兵の梁田政綱(やなだまさつね)が戻ってきました。
「今川勢の状況を報告せよ。」
「ハッ、只今、今川勢は桶狭間近くで宴会を開いており、酒に酔いぶれている最中でございます。」
今川勢は完全に油断していました。
今川勢は軍議通り、丸根砦も鷲津砦もあっさり陥落させていました。残るは善照寺砦を落とし、鳴海城に入る。そうなれば、今川勢の大勝利です。

 これを聞いた家臣団は信長に言います。
「殿、これは千載一遇の時です。全兵力を投入して一気に攻め入ってしまいましょう。」
しかし、信長は黙ったままです。
「殿、どうするおつもりですか。敵は目の前まで来ています。早くご決断を。」
 
しかし、信長はずっと黙ったままでした。そしてこう言いました。
「もう夜も更けた。お前達は帰って休め。御苦労だった。」
 結局、信長は軍議を凝らすことなく家臣達を解散させました。
 呆れた家臣達は囁きあいます。
「さすがの殿の知恵の泉も尽き果てたか・・・・。我が軍もこれで終わりか・・・。」

ところが、その夜、突然起き出した信長は「敦盛」の幸若舞(こうわかまい)を舞うとただちに出撃していきました。
「兵士を募る。心ある者は熱田神宮に集まれ。」
信長はわずか200の供廻りとともに熱田神宮を参拝し、兵士達の集合を待った。
やがて3000人の兵士が熱田神宮に集まりました。
しかし、信長は言いました。
「軍を分散させる。1000は善照寺砦に進め。2000はワシと一緒に来い。」

この情報はすぐに今川氏の耳にも届きました。
「織田勢の近況を報告せよ」
「ハッ、只今、織田本隊が善照寺の砦に向かっております。」
「織田のやつ、遂に動きだしたか。ここ桶狭間で帰り討ちにしてくれるわ。」

そう、信長が3000の兵を善照寺に進めたのは、ただのおとり。
正面攻撃と見せかけて、迂回した信長率いる2000の兵が、義元の本陣の側面から攻撃を仕掛けるという奇襲作戦です。
信長は2000の兵士達にこう伝えました。
「いいか、他の連中など相手にするな。狙うのは義元の首だけだ。」
信長の作戦は兵士達にしっかりと伝わりました。そしてその勝利を確信しました。
「ハハッ!!」
信長軍の士気は最高潮にまで高まりました。

19日午前、桶狭間は大雨で視界が悪く、足音も雨音でかき消されてしまう状況でした。しかし、奇襲作戦を実行する信長にとって、これは願ってもない幸運でした。

午後2時、信長率いる2000の兵は、田楽狭間で休憩していた今川義元の本陣に奇襲攻撃を仕掛けました。
本陣は5000ほどの兵で守られていたが、今川勢は奇襲に驚き、適切な対応が出来ない。同士討ちさえする始末で、そんな混乱状況では応戦が出来ない。
義元は300人ほどの護衛とともに退却しようとしたが、信長の馬廻りに発見され、服部小平太が一番槍を、そして毛利新介が、義元の首を討ち取りました。
あっという間の決戦でした。
信長勢はこの戦いで今川方3000人を討ちとりました。
大将を失った今川軍は大混乱に陥り、戦意を喪失、そのまま尾張から撤退していきました。
信長は危機を脱したばかりか、敵将の今川義元を討ち取り、10倍以上の兵力差のある今川軍を迎え撃つことに成功したのです。追い返したのです。
以上が、信長が日本史の舞台に登場し、その名を轟かすきっかけとなった桶狭間の戦いです。


桶狭間の戦いは、奇跡的な大勝利でした。信長を勝利に導いたのは、優れた洞察力でも軍略でもない。領民からの圧倒的な支持でした。

今川義元を打ち破った信長は歓喜しました。
「戦(いくさ)は数で圧倒しなくても、勝つことが出来る。」
信長はそれを学びました。
しかし、信長はその後の戦いで奇襲攻撃をニ度とやりませんでした。
そう、奇襲作戦という成功体験に溺れることがなかったのです。
大きな仕事で成功すると、その瞬間誰もが心の中で狂喜することでしょう。
しかし、その成功体験に固執してしまうと、その後も成功し続けることは不可能です。

信長が本当に学んだのは別のことにありました。それは、
「あきらめずに考えに考え抜けば、必ず突破口が見えてくる。」
ということです。
信長が天下統一を目指せたのは、過去の栄光にしがみつくことなく、戦う相手によって新たな戦術や戦略を考え抜き、実行に移して戦いに勝利したからなのです。

また、この桶狭間の戦いを考えるうえで不思議なのは、信長の信長率いる2000の兵が迂回している情報が今川側にまったく知られていなかったことです。
信長は19日の早暁(そうぎょう)に清州城を出発してから桶狭間に到着するまでに14時間以上費やしています。今川側がその動きを知る時間的余裕がなかったわけではありません。さらに2000人の兵も決して少ない人数ではありません。
まだ武士も農民も区別があいまいだった当時、一方の行動を他方に伝え、褒美をもらおうとする野心家が多かったのが実情です。そんな中で2000人もの兵を連れて14時間もうろついていれば、信長軍を発見した領民も多かったはずです。
おそらく、尾張の領民達は気づいていたのでしょう。信長の天才的なカリスマ性に。
信長は家臣団からはともかく、領民達からの絶大な人気を誇っていたのです

応仁の乱をきっかけに時代は「戦国の世」へと突入しました。各地では実力で成り上がった戦国大名が群雄割拠し、領土拡大のために互いに争いを始めました。
しかし、室町幕府はそれを抑える力もなく、無名無実の状態となっていました。その結果、庶民は飢饉に苦しみ、各地では一揆が多発、盗難や火付けなどの治安も悪化していました。
 そんな時代情勢の中、庶民は願います。
 「豊かで平和な時代を創ってくれるリーダーが欲しい」と・・・・・。
戦国時代という非常に不安定な時代に人々は安定した平和な時代を求めていたのです。そんな時、どうして必要になるのが、みんなを牽引していくリーダーの存在です。信長はそんな時代が求めたカリスマ的リーダーだったのです。
こうした領民達からの支持も、信長が天下統一を目指せた大きな要因の一つといえそうです。

 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と比喩されているように、短気で残虐なイメージのある織田信長ですが、その一方で信長は、新たな国家や社会のビジョンを示し、人々の共感を集め、理想国家の実現にむけて万難を排して邁進する哲人でもあったのです。

 信長の統一事業は続きます・・・・・。

以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
信長は本当に天才だったのか     工藤健策=著  草思社
戦国時代の組織戦略                 堺屋太一=著 集英社
組織の盛衰                     堺屋太一=著 PHP文庫
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著 Gakken
教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著 旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業         井沢元彦=著 山川出版社
マンガでわかる日本史                河合敦=著  池田書店

【織田信長1】なぜ信長は天下統一を目指せたのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【織田信長1】なぜ信長は天下統一を目指せたのか」というお話です。


信長は他のどんな戦国大名よりも‘情熱‘に満ちた戦国大名でした。その情熱はどのようなものだったのか。その情熱は信長の原動力となり、着実に粘り強く、勢力を広げ尾張の小大名から全国を飲み込むほどの大大名に膨張していくのでした・・・。


 室町時代後期、下剋上の風潮が激しくなり、各地に戦国大名が登場し、国の奪い合いが始まりました。世はまさに「戦国時代」です。

 

 東北の国人から成り上がった伊達氏。

 越後(新潟)の守護代から戦国大名に成り上がった上杉氏。

 堀越公方を追放し、関東一円を支配するようになった北条氏。

 摂津(大阪)の守護代から戦国大名に成り上がった三好氏。

 安芸(広島)の国人から中国地方で勢力を強めた毛利氏。

 甲斐(山梨)・信濃(長野)の守護大名から戦国大名に転身した武田氏。

 

 そして、尾張(愛知)の守護代から戦国大名に成り上がった織田信長がいました。

 

 この頃、戦国大名達の目標は領土拡大という私欲のための争いでした。しかし、この中で、天下に最も近かったのは尾張の信長でした。信長の野望は他の大名とは異なり、天下を統一することでした。

 なぜ、尾張の一大名にすぎず、身分も低い、成り上がりの織田信長が天下統一を目指せたのでしょうか。

「信長にはケタ外れの行動力があったからだ。」

「迅速な決断力と、明確な指示が部下に出来たからだ。」

「生まれながらに天才的な才能を持っていたからだ。」

 いろいろあると思います。そしてこれらの仮説はすべて正しいでしょう。

 しかし、これら全ての原動力となっているものが信長にはありました。

 それは情熱です。

 信長には他のどんな戦国大名よりも強い情熱があったのです。

 ここでいう情熱とは、やる気に満ちた人のことを言います。もっというと、結果に対してやる気を出す人ではなく、行動に対してやる気を出す人のことを言います。

 例えば、将来の夢を決めるときに、上手くいきそうかどうか、もしくは儲かりそうかどうかで決める人がいます。これは結果に対してやる気を出す人の考え方です。

 本心では、「将来は小説家になりたい!!」と思ったとします。

 結果に対してやる気を出す人だと、すぐに頭の理屈で考えてしまいます。

「いや~。いまどき小説家なんて、食えない職業の典型だよな。」

 と言って、せっかく沸き上がった情熱を自ら冷ましてしまいます。

 一方、行動に対してやる気を出す人は、こう考えます。

「小説を書いているときが最も熱中できる。上手くいくまで続けよう。」と。

 将来の夢を叶えるには、結果が出るまで情熱あふれる行動を続けていかなくてはなりません。

 つまり、結果に対してやる気を出す人だと、何も夢を叶えることが出来ません。

 なので、信長以外の他の大名はこう考えたのです。

「いや~。全国(天下)を平定するなんて、絶対無理だよな。」と。

 しかし、信長は、行動に対してやる気を出す人だったので、こう考えました。

「天下平定を目指して頑張っているときが最も熱中できる。天下統一を達成するまで続けよう。」

 そんな信長の情熱は行動のガソリンとなって、その情熱から信長の伝説として語られている天才的な戦略や独創的なアイディアを生み出したのです。信長の夢や理想に対する「情熱」は他のどんな戦国大名よりも強いものでした。

 そんな信長の‘情熱‘はどのようにして形成されたのでしょうか。


「3つ子の魂100」までという言葉がありますが、信長が3歳までに受けた英才教育は、信長が生涯にわたって尽きることのない情熱を生み出し、その情熱が信長の天才的な戦略や画期的なアイディア、そして領民からの圧倒的な支持を得ることが出来たのです。

 1534年、戦国時代のさなか、織田信長尾張守護代織田信秀の三男として名古耶(なごや)城で生まれました。

 信長は生後、0歳から3歳までのあいだに英才教育を施されました。

 教育といっても、特別な知識やスキルのようなものではなく、信長が欲しいと思うものがすべて与えられただけです。

 泣きたい時に泣き、おっぱいを飲みたい時に飲ませてもらい、寝たいときに寝かせてもらい、抱っこしてほしい時に抱っこさせてもらい、走り回りたい時に走り回らせてもらったりと、信長が望むものはすべて満たされました。

 「3つ子の魂100まで」という諺を聞いたことがあると思います。これは0歳から3歳頃までの間に受けた教育によって形成された性格や適性は100歳になっても根底は変わらないという意味です。

 欲望のままに生きてきた3歳の信長の心にはあることが刻まれました。それは・・・

「欲しいものは望めば何でも手に入る。余は特別な存在じゃ。」

 信長は生涯にわたって、ケタ外れの行動力や決断力を発揮していきます。それは信長が3歳までに形成した「自分の欲望は満たされることが当たり前なのだ。」とする考えがその原動力になっています。そういう意味では彼が3歳までに受けた教育は‘最高の英才教育‘といえるでしょう。

 そして父・信秀からもこういわれ続けていました。

「お前は賢くて良い子じゃ。お前は領民達の希望となれ。すべてを照らす日の光のように人々に活力を与えるのじゃ。」

 そんな信長はどんどん成長していき、吉法師とよばれた少年時代、「尾張のうつけ者(バカ者)」と言われるようになりました。

 ボウボウと伸ばしたものを藁で結び、腰帯には瓢箪(ひょうたん)だの燧(ひうち)石の袋だの、いくつもぶら下げている。

 そして馬上で、餅だの柿だの、人目も構わず喰い散らかし、それを恥とも思わない異様なふるまいを見せました。

 欲望のままに生きる少年・信長は、はみだし者として織田家から軽んじられてきました。

 

 そんな少年・信長がいつも口癖のように言っていたことがあります。

「我こそは神仏なり。いずれこの世の主となり、莫大な富と名声を手に入れようぞ。」

 これを聞いた織田家の老臣達は嘲笑しました。

「またいつものがはじまったよ・・・・・・。」

「あんな傲慢な子が我が織田家を継ぐのか・・・・。」

「大丈夫。あの子はまだ若い。世間知らずなのですよ。いずれ現実というものがわかってきますよ。」

 戦国時代とは守護大名の統治から、戦国大名の統治へと移り代わった時代です。室町幕府の体制下では、尾張守護大名三管領家の一つの斯波家であり、その守護代織田家でした。

 その織田家には2つの流れがあり、上四群(かみよんぐん)は織田伊勢守家(おだいせのもりけ)が、下四群(しもよんぐん)には織田大和守家(おだやまともりけ)とそれぞれ尾張の南北半国ずつを支配していました。

 大和守家のその下には、同じ織田姓の家老が三家あり、信長の家系である織田弾正家(おだだんじゅうけ)はその三家のひとつでした。

 どれもこれも織田姓なので、ややこしいですが、要するに信長の家系はごく限られた地域を支配する豪族程度の家柄であり、決して高い身分ではありませんでした。

 身分や家柄が重視される当時において、尾張の小大名に過ぎない信長が全国のトップに君臨するなど、全く荒唐無稽な夢であり、老臣達を呆れさせました。

 しかし、信長はこの当時から、つまり、天下人になるずっと前からすでに天下人になったつもりで振る舞っていたのです。

 大きなことを成し遂げる人物によく見られる傾向として、「未来完了形」の発想や生き方があげられます。未来完了形とは、未来のことをまるでもう達成しているかのように考え、そして振る舞うことです。成功者のように考え、成功者のように行動する者が、本当に成功する。成功者は若い頃から「成功している未来」をリアルに想像しているのです。

 

 信長の家系が本拠としていた津島は、伊勢湾に通じる良港を支配していおり、商品流通が盛んになるにつれ、経済力を増していきました。それを基盤に信長の父・信秀は勢力を広げ、主君の織田大和守家だけでなく、守護大名の斯波家も圧倒する尾張の一大勢力となりました。

 そして1547年、14歳になった信長は、初めて戦いに出るようになります。しかし、この年は父・信秀にとって大変は年であり、美濃の斎藤に攻め入るも斎藤道三に惨敗、岡崎を攻めても松平宏忠(徳川家康の父)に敗れています。

 信秀は窮地に立たされました。

 そして、このタイミングで‘あの大名‘も攻め入ってくるようになりました。

 駿河今川義元です。信秀が強大なライバルになる前に、一泡吹かせておきたかったのです。

 1549年3月、信秀はこの窮地を打破するべく、斎藤道三の娘・濃姫を信長に嫁がせ、いわゆる政略結婚によって斎藤氏と同盟を結びました。

 しかし、その2年後の1551年、信秀は流行病により急死してしまいました。45歳でした。

 信秀の死後、19歳になった信長は家督を継ぎますが、1554年、斎藤道三が息子の龍興と争って敗死。織田家はその後ろ盾を失ってしまいました。

 こうして東は駿河の今川、西は美濃の斎藤の2大勢力に挟まれるという非常に苦しい状況に立たされました。

「あんな‘うつけ者‘に従えるわけにはいかない」

 そんな中、織田家の家臣達は若き主君・信長に見切りをつけ、次々に離反していきました。

 信長の呼びかけに応じる尾張地侍は少なくなっていきました。

 この状況を打破するため、信長は各地の流れ者を雇い入れ、自分の手足のように使える精鋭部隊を編成していきました。

 その中には、後に織田家重臣となる滝川一益前田利家、そして木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がいました。このとき、信長は有能な武将達の獲得に成功したのでした。

 以降、信長は国内の敵対勢力の一掃に乗り出しました。

 1557年には、反逆を企てた、弟の信行を清州城内で謀殺、1559年には信行と通じていた上四群(かみよんぐん)の支配者である織田信賢を降伏させ、2分されていた尾張守護代織田を統一。

 ここに、尾張の大半を支配する戦国大名織田信長が誕生しました。

 この時、信長は26歳でした。

 信長の統一事業は続きます。

 

【本能寺の変】なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【本能寺の変】なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

織田信長には並はずれた才能がありました。その才能の正体は並はずれた願望にありました。しかし、そんな信長は目的達成ばかり優先し、他人から愛されるという努力を怠ってきた。社会的成功とは、並はずれた才能や努力だけでは達成出来ず、同時に「強運」である必要もあるのです。というのも、「運」とは他人が運んでくるものだからです。

信長の類まれな才能とは何でしょうか。

「リスクを恐れない勇気」

「即、行動する力」

「迅速な決断力」

 

 様々な意見が出ると思います。

 例えば行動力ですが、信長が天下に王手をかけることが出来たのはその並はずれた行動力にあったことは確かです。物事を決断するのも早く、決断したら即、行動に移すようなエネルギーのある人物でした。

 しかし、そんな信長の持つエネルギーの原動力は何でしょうか。

 そう、「願望」や「欲」です。

 信長には絶対に成功してやるという並はずれた願望があったのです。

 しかし、並はずれた願望や欲を持つ信長は最終的に天下統一という社会的成功を成しえませんでした。

 

 なぜ、信長は天下統一を達成できなかったのでしょうか。

 その理由は実は非常に簡単です。

 信長は多くの人達から嫌われていたからです。

 言い換えると、信長には「運」がなかったのです。「運」を引き寄せるには人から好かれる必要があります。

「運」とか「引き寄せる」という言葉を使うと「宗教っぽい」とか「オカルトっぽい」とか言う人がいると思うので、もう少し分かりやすい言葉を使いたいと思います。

 例えば、「運」という言葉を、「信用」とか「仁徳」という言葉に置き換えてみると良いと思います。
 人から好かれる人は信用のある人です。逆に言うと、信用がなければ人から好かれません。

 人から好かれる人は仁徳のある人です。逆に言うと、仁徳がなければ人から好かれません。

 つまり、信長には信用も仁徳もなかったのです。

 

信長は勢力拡大とともに相当なストレスを受けていました。天下統一に焦る気持ちと、責任とともに増えるストレスに信長は限界を感じていました。やがて、そのストレスは家臣達にぶちまけられていくのでした・・・。

 1582年5月、信長は焦っていた。

 人生50年といわれた当時において、信長は49歳。

 信長は能力と時間の面で限界を感じていました。

 今後の天下統一事業をどのように進めるか、そして天下平定後の統治方法をどうするか。天下布武を標榜して15年あまり、戦いに明け暮れてきた信長は、今度は政治や経済のプロとして方策と成案を示さなくてはならない。

 

 統一事業に関しては、3月に甲斐・信濃の武田氏を滅ぼし、中国の毛利氏とは交戦中だが、サルの活躍によって情勢は有利。毛利を降ろせば、九州の大半もなびいてきます。あと数年で敵対する勢力はなくなると思われる。天下統一の目途はついた。

 朝廷は自分を征夷大将軍に叙任しようとしている。

 時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇は、信長を次の天下人として認めたのです。

 任官を受ければ天下の支配はしやすい。自分は武家社会の棟梁となり、各分国に領主を任命して領内の統治を任せればいいからだ。しかし、それでは室町幕府の制度を踏襲するだけだ。何事にも旧習に従わなかったのに、天下統一の最後になってそうするのもいさぎよくない。

 しかし、九州平定を終えて「天下布武」がなるまでは、朝廷の権威を利用したほうが良いのは確かです。征夷大将軍になれば、敵対するものはすべて、賊軍となるから戦がしやすい。

 一方、天下統治の方法となると未だに方針が定まらない。
 自分を頂点として一元的に全国を支配する体制をつくりたいが、具体的にどうするかの策が思いつかなかった。


 キリスト教宣教師からも知識を得ている。

 どうやらポルトガルという国は、海外との交易で大きな利益を上げているようだ。

 また、イングランドという国ではエリザベスという女王が独裁的な政治運営し、急速な近代化を果たしているようだ。

 政治体制はイングランドのような絶対王政とでもいうのだろう、国王が政治の全権を握り、官吏を使って政治を行う。交易の利益を独占するから、国王に利益が集中する。

 ポルトガルは交易のためにインドや中国に拠点をつくっているが、宣教師がその先兵の役割を果たしているのもわかっている。

 いずれにしても、引き続き宣教師から詳しく聞かなければいらない。

 日本もポルトガルのように海外に進出し、朝鮮や明だけでなく、インドや東南アジア、さらにはイスラム教圏にまで交易の手を伸ばす国際貿易国家としてスタートしていく必要がある。

 

 それには、従来の日本のような保守的な国家体制ではとても通用しない。

 

 自らが先陣をきって日本の国家体制を根本から変えなくてはならない。

 しかし、征夷大将軍という伝統的地位に組み込まれてしまうと、それがやりにくくなることは明白だ。

 そのためには、天皇や朝廷、公家勢力をいつかは潰さなければならない。

 そうすれば、さらなる反発も起こるだろう。

 そして、また長い戦いが続く・・・・・。

 焦れば焦るほど、天下統一が遠のいていくような気がする・・・・。

 

 一体、誰が自分の天下統一の道を阻んでいるのか。

「夢を描き、それに向かって行動しているのに、叶わない。」

 こんなつらいことはありません。

 信長のストレスは最高頂にまで達しました。

 

 

「殿、明智殿がお見えです。」

「構わん。通せ。」

ガラッ

「殿、四国の長宗我部の件でお話に参りました。」

「またその話か。その件はもう済んだ。下がれ。」

 信長を訪れたのは、重臣である明智光秀でした。

 天下統一に焦る信長は四国を配下にするべく、大量の兵隊を派遣する計画をしていました。中国と四国を同時に制圧する勢いを見せれば、九州もなびいてくると考えたのです。

 信長には一刻の猶予も残されていません。

当時、四国を治めていたのは長曾我部元親という人物です。
 実はこの長曾我部と信長は大変仲が良く、その頃の長曾我部氏はまだ四国の中の土佐の領主であり、そんな元親に信長は自分の家臣である斎藤利三の妹を嫁がせました。
 しかし、信長も元親もそれぞれ力をつけていき、信長が天下統一に王手をかける頃になると、元親は四国全土を配下に置くほどの勢力を増していました。
 天下統一を目指す信長は、ここにきて四国を統治下に置くため、元親に四国の半分をよこせと迫ったのです。
 しかし、もともと対等な関係にあった信長と元親です。
「なぜ苦労して手に入れた領土を信長に渡さなければいけないのか。」
 元親は信長と対立するようになりました。
 この時、斎藤利三はどこにいたかというと、明智光秀の筆頭家老になっていました。その縁もあって長曾我部との交渉は光秀が担当していたのです。

そんな長曾我部を一方的に攻め入ろうというのですから明智としては納得がいきません。

 

 当初は相思相愛の関係だった信長と明智ですが、信長は次第に明智を良く思わなくなっていきました。

 しかし、人間関係は双方向です。あなたが相手を嫌っていれば、相手もあなたを嫌いになります。明智も信長を良く思っていませんでした。

 

 そんなとき、備中高松城岡山市)を囲む羽柴秀吉から、毛利の本隊が遂に姿を現したとの報せがあった。
 信長の武将としての血が騒ぎました。
 戦はすべてを忘れさせてくれる。毛利勢を破り、当主・毛利輝元や先代の元就の2人の息子、小早川景隆や吉川元春の首が目の前に並べられるさまが目に浮かびました。

 5月、武田攻め祝勝会が安土で開かれ、徳川家康も招かれました。信長は明智に接待役を命じたが、料理が腐っていると信長が光秀を叱りつた上に足蹴りにしました。日頃の鬱憤をぶちまけてしまいました。

 これにはさすがの明智も怒り、料理を掘に投げ捨てたほどでした。

 

 人間は自分に対する態度を他人に対してもする傾向があります。

 例えば、自分に厳しい人は、他人対しても厳しく、自分に甘い人は、他人に対しても甘いのです。

 これと同様に、ストレスを受けている人は、他人に対してもそのストレスをぶちまける傾向があります。

 明智に接待役など頼んだ自分が間違いだった。やはり明智には戦を頼んだほうが良い。

 天下統一に焦る信長は、畿内方面軍である明智軍を中国方面に増援軍として向かうよう命じました。秀吉・光秀の2枚看板で中国を制圧し、そのまま九州まで攻め入ってしまおうという作戦です。

 明智は数秒経ってから返答しました。

「ハハッ。承知致しました。」

 明智は何の抗力もなく、四国の長宗我部攻略の任を解かれ、秀吉の指揮下として中国の毛利征討に加わされました。

 明智の中で、プツリと糸の切れるような思いが起こりました。

 

 翌日以降、明智は中国出陣のための準備を始めました。

 そんな中、老臣である斎藤利三は信長征討を訴えました。間もなく信長の四国征伐が始まってしまう。利三はもう元親に合わせる顔がありません。

 しかし、明智には思いとどまるものがありました。

 落ちぶれていた自分がここまで立身出来たのは、紛れもない信長様のおかげです。信長には感謝してもしきれない。本来なら自分が積極的に四国討伐するべきところなのです。

 

 しかし、そんな明智のブレーキが外れる出来ごとはすぐに起こりました。

 5月26日、明智の居城・丹波亀山城に信長の使者がやって来ました。信長の書状にはこう記されていました。

明智の治める丹波・近江の国は信長に召し上げよ。代わりに出雲・石見の国を与える。」

 これは「国替え」と呼ばれるもので、現在でいう転勤のようなものです。

 明智はこれを左遷として恨み、信長征伐を決断しました。

 

 一方、信長としてはそんなつもりはありません。

 当時の岩見は全国的に銀の産地でした。経済を重視する信長にとって、明智が岩見を支配するということは彼を織田家の経済管理者として任命したということです。

 なんだかんだ信長は明智の実力を認めていたのです。

 しかし、問題なのは、出雲と石見が未だ敵領地であることです。領地を失えば、領主は家来を養うことが出来ません。つまり、今回の毛利攻めを成功させなければ、明智とその家来達は路頭に迷うことになるのです。

 信長は本当に人の気持ちを考えるのが苦手なようです。

 浅井長政のときもそうですが、合理的思考ばかり重視する信長にとって人の気持ちという非合理的なことにまで考えが及ばなかったのです。

 結局、そんな信長の悪い癖は、最後まで改まることはありませんでした。

 

 事件は突然やってきました。

 それは1582年6月2日の夜が明ける前の早朝のことでした。

 1万を超える明智軍がぞくぞくと京の都に入り、信長の宿泊する本能寺を包囲しました。

 信長は物音で目を覚まします。

「如何なる者の企てぞ。」

明智が者と見え申し候う。」

 信長は一瞬のうちに頭の中で様々な思考を巡らせました。

 それまでの明智とのやりとりを思い返すと、自分は明智を嫌い、冷や飯を食わせるようなことをしてしまった。

「ワシは自ら死を招いたな・・・・。是非に及ばず。」

 そう言い残し、信長は燃え盛る炎の中、自害しました。享年49歳。

 

 その頃、中国地方で毛利氏と対峙していた秀吉は、主君信長が殺されたことを聞くや直 ちに毛利氏と和睦を結び、凄まじいスピードで軍を京都方面に返し、山崎の地で、明智の軍を倒しました。

明智軍を倒した秀吉はこう言いました。

明智殿、なぜこのようなことを。まぁ明智殿の気持ちもわからんでもない。信長公は、勇将ではあっても良将とは程遠いものだった。目的達成ばかり優先し、人から好かれるということを生涯に渡り怠ってきたのだ。」

 

 秀吉は、主君信長の「失敗の本質」をしっかり見抜いていました。社会的成功には、信長のような「剛の精神」だけでは達成できず、「柔の精神」も必要だったのです。
だからこそ、秀吉は天皇や有力大名に懐柔しながら天下統一事業を進めました。秀吉は他人の力を借りて天下統一を達成したのです。

 社会的成功とは、信長のような類まれな才能や努力、気合などではコップの半分までしか満たすことが出来ませんでした。残り半分は他人が注いでくれるものなのです。

つまり、「自力のあとに、他力あり」。

または、「人事を尽くして天命を待つ」。

 他人から慕われる信用や人徳のある人こそ、運を引き寄せ、社会的成功を成し遂げることが出来るのです。

 勘違いしないで欲しいのは、自分の努力が不要なわけではありません。圧倒的な努力が出来る人だからこそ、他人の力を利用することが出来るのです。

 自分が積み上げてきた努力や才能は、他人の力によってレバレッジがかかるのです。

以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献  
信長は本当に天才だったのか     工藤健策=著  草思社
誤解だらけの英雄像         内藤博文=著  夢文庫
「秀吉」をたっぷり楽しむ法     高野冬彦=著  五月書房
戦国時代の組織戦略         堺屋太一=著  集英社
マンガで一気に読める!日本史    金谷俊一郎=著 西東社
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著  PHP文庫