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【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか」というお話です。

 織田信長の居城といえば、「安土城」です。

 豊臣秀吉の居城といえば、「大阪城」です。

 

 ですが、実は、大阪城は信長が構想した城だったのです。信長は生涯にわたって、自らの居城を転々としています。その回数は清州、小牧山、岐阜、そして安土と4度にも及びます。

 そんな信長が最終的に大阪に居城を築き、天下を牛耳る。これが信長の最終的な夢だったのです。だからこそ、秀吉は信長の後継者となった翌年に大阪城の築城に取り掛かっています。

この大阪城は紛れもない石山本願寺のあった跡なのです。

 こうした信長の夢が一向宗浄土真宗)の石山本願寺との10年戦争のきっかけとなるのです。

 

 ということで、今回から織田信長石山合戦をみていきたいと思います。

 

 中世までの日本では、商人達が「座」と呼ばれる組合を作り、商売の免許料を本願寺のような有力寺社や公家に支払うことで、その存在を認められ、税の免除や各種特権を得ていました。

 しかし、この「座」は、中世末期になると権限が巨大化し、商品の過剰生産による値下がりや、同業他社の参入を厳しく制限する閉鎖的な商業形態へと発展していきました。

 

 当時の最大宗門だった一向宗浄土真宗)の大阪本願寺もその典型例で、その信徒を増やすとともに、蓄財した財力を増やし、守護大名や在地領主の介入を受けない治外法権の宗門世界をつくりあげていった。

 

 大阪本願寺の始まりは、本願寺の祖といわれる蓮如が1457年に本願寺第8代法主に就任、その後、蓮如は15世紀中頃から末にかけて摂津、河内、和泉に進出して末寺や道場を開いて宗勢を広めた。大阪は大河に囲まれたデルタ地帯に南から上町台地が張り出した地相で、台地の先端地帯は石山と呼ばれ、そこに「石山本願寺」と呼ばれる坊舎が出来上がったのが始まりです。

 沖積が進むにつれて河川地帯に農民が流れ住み、人口が増えると都市が形成され、手工業も発達。商人達も行き来するようになり、日本有数の商業都市となりました。
大阪に移り住んだ農民、職人、商人は本願寺門徒になり、本願寺も彼らを取り込み、寺内町をつくり、ともに繁栄していきました。

 15世紀から100年ほどの間です。

 石山本願寺は信徒を増やすと、蓄財した財力を背景に、守護大名や在地領主と交渉して治外法権の宗門世界をつくりあげていきました。

 寺が武家の支配から独立しているだけでなく、寺内町も領主の介入を受けない守護不入権や諸役免除の特権を獲得していきました。

 石山に御影堂や阿弥陀堂などの坊舎が建ち並ぶようになると、寺内町も含めた寺の外縁を土塁や堀で囲み、武家勢力や法華勢の攻撃に備えました。総構えと呼ばれる一大城郭になりました。

 

 当時は日本人の半分以上が一向宗と言われ、本願寺を含めた「石山城」には武家に対抗できるだけの人と資金が集まりました。

 

つづく

 

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著     草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史          西東社

 

【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(後編)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(中編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 今回もストーリーを展開しながら、長篠の戦いにいたるまでの経緯をご紹介していこうと思います。

 

 酒井隊が武田の後方を占拠。背後から武田軍をにらみつけました。

 武田軍は完全に逃げ場を失ったのです。

 3万人の織田軍と1万5000人の武田軍、ただでさえ兵力に差があるのに、さらに後方にも軍を割かねばならない状況に武田軍は追い込まれてしまったのです。

「しまった・・・。」

 勝頼も思わず口にしました。

 武田軍は進撃することも、立ち退くことも出来ず、織田・徳川連合軍に完全に包囲されてしまったのです。

 

 そのまま、両者のにらみ合いが続いたのち、しびれをきらした勝頼はとうとう全軍に攻撃開始を命じました。

「こうなったら正面から決戦だ!柵を超えろ!突破口をつくるのだ。」

 勝頼の法螺貝によって、武田軍は信長方へ突進していきました。

 その時です。

 馬防柵の中から顔を出した信長軍鉄砲第1陣による発砲が行われました。

 それでも怯まない武田軍は突進を続けます。

 続いて信長軍鉄砲第2陣による発砲が始まりました。

 戦国最強の武威を誇る武田軍はそれでも怯みません。

「十分引き付けろ。狙いを定めるんだ。今だ!!!。」

 そして信長軍鉄砲第3陣による発砲が武田軍を襲いました。

 度重なる銃声に武田軍自慢の馬達も遂に取り乱しました。

 総重量100キロの甲冑をまとった騎兵達は地面に叩きつけられ、致命傷を負う者が続出しました。

 1000丁だと思われていた信長軍の鉄砲は、なんと3000丁もあり、三段に分けての発砲作戦だったのです。

 騎馬隊は馬防柵に体当たりしました。

 すると、柵の中から一斉に信長軍が飛び出し、両軍は正面衝突しました。接近戦が始まりました。

 1万5千人の武田軍と3万の信長軍では、圧倒的に信長軍が有利で、武田軍は総崩れとなり、退却を余儀なくされました。

 しかし、敗走する武田軍を信長軍の弓矢隊が襲います。

 この戦いによって、「武田四名臣」とよばれた高坂弾正山県昌景馬場信春、内藤昌秀のうち、高坂弾正を除く3名が討死しました。

 

 壊滅的なダメージを食らった武田氏はこの後、一気に衰退していきます。

 信長は勝頼を放っておくことにしたのです。

 その理由は、石山本願寺との決戦に集中していたいということもありますが、実はあることを待っていたのです。

 それは武田氏の自滅です。

 今回の大敗北は老臣達の忠告を無視した勝頼の頑固さが招いたものです。さらに信長は勝頼が領国の経営下手であることもしっていました。

 このまま家来はおろか、領民からも見限られ、勝頼は放っておいても自滅すると読んだのです。

 長篠の戦いの後も、勝頼はたびたび軍勢を催した。軍事行動を起こさなければ武田軍は再起できないほどの損害を受けたと天下に知られてしまう。農村は戻らぬ者、傷ついた者が多く、田植えや畑の世話が出来ず、手の足りないところでは収穫高は落ちた。

 それでも勝頼は軍勢を集めました。

 兄が死んだ家は弟が、父が死んだ家はまだ幼い子が集められた。そんなことをすれば農村はますます疲弊し、国力の回復は遅れるが、かえりみる余裕はありません。

 武田氏の健在ぶりを示さなければ、信長、家康がすぐにでも国境を越えて攻めてくると恐れていました。

 勝頼はたびたび家康と衝突するようになりました。武田軍の疲弊を知った家康は強気な姿勢で二俣城の奪還を急ぎました。二俣城は三方ヶ原の戦いで武田氏に攻め落とされた城です。

 勝頼率いる武田軍は度重なる軍事行動で武田氏の力を衰弱させていきました。

 1576年4月、信玄の葬儀が甲斐の恵林寺で行われました。信玄からの3年間は死を隠せという遺言に従ったのです。

 葬儀に参列するはずの老臣や重臣達の多くも長篠の戦いで討たれてしまい、もうこの世にはいません。

「勝頼殿がもっと老臣達の忠告を間違えなければ、こんなことににはならなかったろうに。」

「我が武田軍もこれまで・・・・か。」

 武田軍では脱走兵が相次ぎ、信長方に寝返る者も続出しました。

 信長はまだ武田に手を出さなかったが、家康は1579年から遠江からどんどん攻め入った。

 信長は武田の力が最弱になるまで待つことにしたのです。

 そして、1582年、信長は勝頼討伐のために甲斐に侵攻。勝頼は大善寺の近くの山の中で信長軍にびっしりと囲まれた中、切腹しました。このときには、もうほとんど家来は残っていませんでした。

 皆さんご存知の通り、この年の6月は本能寺の変が起こり、信長が横死する年です。
つまり、信長は京の東に位置する最大の敵・武田氏を一掃し、天下統一が現実味を帯びてきた、まさにその時に無念の死を遂げたのです。

 

 今回は長篠の戦いを見ていきましたが、武田軍が信長に敗北した最大の原因は、やはり武田軍が十分に鉄砲を入手できなかったことにあると思います。

 さらに、兵農分離がされていない武田軍には、土着兵を専門の鉄砲兵へと育成する期間もなく、信長の専門兵のように補充も効かなかったことも大きな原因とひとつと思われます。

 そして何より信長の決してあなどることのない綿密な戦略と戦術が武田軍を苦しめたのでしょう。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著 草思社

【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(後編)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(後編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

前回までの話はこちらから↓ 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 豊臣秀吉明智光秀、この2人は共に織田信長に仕える実力者としてメキメキと重臣にまで出世していきました。2人は主人信長様の愚痴を言い合い、共に励まし合う仲でした。そんな中、光秀は信長に謀反を決起。躍起になる光秀を止められないと悟った秀吉は信長に代わって天下統一を引き継ぐことを決意しました。

 1582年6月2日、まだ夜が明ける前の早朝のことでした。1万を超える明智光秀の軍勢がぞくぞくと京の都に入ってきました。

 軍勢はやがて本能寺を包囲しました。

 

 本能寺に宿泊していた信長は物音で目が覚めました。そして世話係の蘭丸に状況を報告させました。

「誰か喧嘩でもしておるのか?」

「いえ。寺が兵に包囲されています。」

「なんだと!?如何なる者の企てぞ。」

明智の配下のようです。」

「光秀!?謀反か・・・・?」

 信長は一瞬のうちに頭の中で様々な思考を巡らせました。

 それまでの光秀とのやりとりを思い返したのです。

 自分は光秀を嫌い、冷や飯を食わせるようなことをしてしまった。しかし、人間関係は双方向。光秀もまた自分を嫌っており、彼はそんな信長に反旗を翻したのだと・・・・。

 そして信長はようやく以下のことに気づきました。

「ワシは自ら死を招いたな・・・・。」

 蘭丸は信長に報告します。

「殿、もう逃げ場がありません。気付くのが遅すぎました。」

「分かっておる。ふん、光秀などにくれてやる首などないわ。寺に火を放て。」

信長は自ら弓を持って、応戦しました。

しかし、間もなく銃弾が信長の左肩に命中。応戦を断念しました。

「是非に及ばず。」

そう言い残し、信長は燃え盛る炎の中、自害しました。享年49歳でした。

 本能寺の近くにある妙覚寺に泊まっていた信長の長男・信忠は、騒ぎを聞きつけ、わずかな兵を集めて本能寺に救援に向かいました。

しかし、信長を救助しようにも本能寺はすでに炎上しており、中に入ることは出来ません。

「信忠様、お逃げください。明智軍は信忠様も狙っております。」

「たわけ!このまま逃げられるか。父上の仇を討つのだ。二条城に入れ!守りを固るのだ!」

 信忠は二条城で防戦態勢を取るも、1万3千の明智軍が相手では多勢に無勢、攻撃を受けて城は陥落。信忠も戦死してしまいました。

 京都は一時、大騒動になりましたが、戦闘が一部地域に限定されていたため、多くの人は何が起こったのかまだ知らぬままでした。

 

 その頃、中国地方の備中高松城では羽柴秀吉の軍が城を包囲していました。城の周囲を水で満たし、兵糧尽きるまで待つという「水攻め」をしていました。

「お!官兵衛殿、今、城の中に美人が見えたぞ!側室として迎えても良いのう。ムフフッ」

「殿、いい加減にしないと、また信長様に怒られますぞ。」

「しかし、早く降伏してくれんかのう。このままじゃ城の中の女も子供もすべて無駄死にじゃ。」

 毛利方は和睦を申し出たものの、秀吉はこれを拒否。大将・信長の援軍が到着するのは今か今かと待っていました。

 援軍が到着すれば毛利方5万との正面衝突は避けられません。一同はまさに一触即発の空気の中にいました。

 そんな時でした。6月3日、一片の悲報が事態を急変させました。

「殿、大変です。」

「どうした!?」

「親方様が・・・・信長様が・・・・・」

すぐに事態を察した秀吉の眼にはすでに涙が出ていました。

明智殿が本能寺にて信長様を襲撃、信長様はご自害されたとのこと・・・・」

「それは真か?・・・」

「先程、明智方から毛利軍に送った諜報員が我が軍の警戒網に引っ掛かりまして。これはその諜報員より奪った密書でございます。おそらく真かと・・・・」

「光秀殿、なぜ・・・・・。」

 秀吉は激しく後悔しました。やはりあの時、光秀を阻止しておくべきだったと。自分を支えていた強固は足場が、はかいまでに崩壊してしまったのです。

 泣き崩れる秀吉を官兵衛は説得します。

「殿、しっかりしてください。親方様が亡くなった今、天下を取るのは秀吉様、あなたです。」

「たわけ!!天下などどうでも良いわ。それより今は、一刻を争う事態だ。」

秀吉はすぐに立ち上がり、全軍に言いました。

「毛利とは和睦申し入れをせよ。そして全軍、京へ戻れ!!!!」

「どうするおつもりで!?」

「決まっているだろう。光秀を討ち取るのじゃ。信長様の弔い合戦じゃ!!」

「オオーーーッ」

 なんと、講和申し入れをしていた毛利に対し、逆に秀吉軍の方から講和を申しいれるカタチとなりました。

「輝元様、あの羽柴軍が講和の申し入れをしてきました。」

「一体、どうしたというのだ。」

「主君・信長が横死したそうです。」

「なんと・・・・。でもそれは絶好の機会ではないか。これで信長の援軍はなくなったわけだ。ワシらにも武運が開けたわけだ。」

「殿、冷静になってください。我が軍はこれまで散々、羽柴軍の切り崩しに遭ってきました。その結果、多くの重臣達が羽柴軍に寝返ってしまいました。もはや毛利家中は崩壊寸前です。」

「うん、そうだったな・・・・。」

「実力で羽柴軍に勝ち目はありません。今後のことを考えると、ここはひとつ奴らに恩を売っておいたほうが賢明かと・・・。」

 こうして毛利氏は秀吉からの講和申し入れを即時に受け入れました。そしてこの決断は後に毛利氏の窮状を救うことになるのでした・・・。

 6月4日、毛利と和睦を成立させた秀吉は2万の軍勢を率いて中国から全速力で京へ戻りました。(中国大返し

 しかし、鎧や武器を持った兵士達の足どりは遅すぎました。おまけに長期に及ぶ毛利との戦闘で兵達は酷く疲弊していました。

「駄目だ。この速度では遅すぎる。」

7日沼城城に到着した一同に対し、司令官の秀吉は思わぬことを命じます。

「全軍、甲冑を脱げ!最低限の武器だけ持って再出発じゃ。」

甲冑を脱いだことで身軽になった兵士達は猛スピードで再出発しました。

 その頃、光秀はどうなったのでしょうか。

本能寺の事件から2~3日も経つと各地に「織田信長重臣明智光秀の謀反のよって討たれた」という情報が流れていきました。事件発生当日よりもさらに大きな混乱と衝撃が波及していきました。

 そして6月5日、光秀は京都周辺を掌握するようになりました。光秀は天皇や公家に金銀を献上するなどして朝廷工作に乗り出しました。そして天皇は、光秀の行動を高く評価し、光秀を征夷大将軍に任命しました。

 以降、光秀は全国の諸大名に「信長横死」の手紙を送りました。

「諸大名の皆さん、従来の武家社会をもう一度再建していきましょう。」

 全国の諸大名にそう呼びかけたのです。

 しかし、光秀の意向に反し、信長征討は全国の諸大名をはじめ、多くの領主・領民から反感を買うこととなりました。意外にも織田信長という人物は庶民から絶大な人気を誇っていたのです。

 室町時代から続く「座」や「関所」は庶民の自由な商売を大きく阻害し、一部の特権階級にのみ利益が集中する状態になっていました。信長の代表的な政策の1つです。

「楽市・楽座」と呼ばれる自由な商業政策は、中世の悶々とした封建的な閉鎖的な社会制度を取っ払い、近世の合理的で開放的な社会制度を作り上げるための政策だったのです。

 信長の偉業とは一言でいうと、「日本のルネサンス」と言えるでしょう。

 光秀はそんな先進的なリーダーを殺してしまったのです。

 そして、極めつけは光秀の重臣達すらも光秀に協力しようとしなかったことです。
光秀の重臣である細川藤孝は一足先に秀吉軍の援軍として中国地方へ遠征していました。
「光秀の謀反による信長横死」を聞いた細川は光秀に大きく失望、そして光秀からの協力要請に対し、こう答えました。
「今は君主・信長公の追悼をあげるだけです。」

 光秀の認識は甘かった。

 朝廷や公家を取り込めば自分が天下を担うことが出来ると考えていたが、単なる一領主に過ぎない光秀にとってそれは極めて困難なことでした。光秀は思ったほど多くの勢 力から支持を得ることが出来なかったのです。

 光秀はただ、室町時代以来の伝統的で秩序ある国家を再建したかっただけだった。しかし、今では「君主殺しの逆賊」のレッテルを貼られるという秀吉の予測通りの結果となってしまいました。

 6月6日、京を目指す秀吉軍は途中、本拠地である姫路城に入り、2日ほどの休息を取ることにしました。

「信長様の仇を討つため、光秀との戦いには絶対勝たなくてはいけない。」

 そこで秀吉は、現在の価値でいう80億円相当の金銀を将校クラスの武将達に。そして8万石の備蓄米を全ての兵隊に分け与えたのです。

「勝つ前にこれだけくれるのだから、勝った後はどれだけくれるのだろう。」

 部下達の士気は最高潮にまで高まりました。

 食ったことでエネルギーが出て来た武将達は9日、全速力で京へ向かいました。
 
 そして6月12日の朝、秀吉軍は尼崎に到着。この頃、秀吉軍の動向を明智軍も察知するようになります。

「殿、大変です!秀吉軍がこちらに向かっております。」

「なんだと!」

「その数およそ3万!もの凄い速さです。」

 京に戻る途中、秀吉軍に加担する勢力は増えていました。信長の弔い合戦という秀吉の大義名分は多くの勢力の共感を呼んだのです。

「秀吉め・・・やっぱり来たか。」

「殿、大至急、兵の召集を願います。」

「いいだろう。奴らを迎え討て!!!!」

 これから合戦だというのに、光秀の表情はどこか清々しいものがありました。3万という数を聞いた瞬間、光秀は悟ったのでしょう。「自分は秀吉に圧倒される。自分は最期、秀吉と戦い、精も根も尽き果てよう。」そう光秀は決心したのかもしれません。

 6月13日、秀吉軍と光秀軍は京都と大阪の県境に位置する山崎で対峙しました。秀吉軍3万に対し、光秀軍は1万余り、もはや光秀に勝ち目はありません。

 合戦の火ぶたがきられたのは午後4時頃です。数で劣る光秀軍は多少健闘するも間もなく総崩れ、合戦は2時間ほどで終結しました。

「殿、光秀を取り逃しました。只今より追撃し、早急に首を持って参ります。」

 慌てる官兵衛を秀吉は制止しました。

「放っておけ。どうせ奴に味方する者などいるはずもない。世の中には殺して良い君主と殺してはいけない君主が存在する。光秀殿は明らかに殺してはいけない君主を殺してしまった。こうした摂理を彼は見抜けなったのだ。」

 秀吉は光秀を断罪しました。一方で、秀吉は光秀に共感もしています。

「まぁ光秀殿の気持ちもわからんでもない。信長公は、勇将ではあっても良将とは程遠いものだった。目的達成ばかり優先し、人から好かれるということを生涯に渡り怠ってきたのだ。」

 秀吉は、主君信長の「失敗の本質」をしっかり見抜いていました。社会的成功には、信長のような「剛の精神」だけでは達成できず、「柔の精神」も必要だったのです。

 だからこそ、秀吉は天皇や有力大名に懐柔しながら天下統一事業を進めました。秀吉は他人の力を借りて天下統一を達成したのです。

 
 戦いに敗れた光秀は坂本城へ向かうべく京都市内の竹やぶの中を移動中、百姓からなる落ち武者狩りに襲われて竹槍で突かれ、あえなく落命してしまいました。

 光秀を破った秀吉は天に向かって信長に詫びました。

「信長様、大変申し訳ございませんでした。ワシは光秀の暴走を止めることが出来ませんでした。こんなことになってしまって、許してくれなど言いません。ワシに出来ることは信長様の無念を晴らすことです。」

 秀吉は信長の達成出来なかった天下統一を何としても成し遂げることを誓ったのでした。

 以上、今回は本能寺の変をご紹介いたしました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
「秀吉」をたっぷり楽しむ法      高野冬彦=著        五月書房
マンガで一気に読める日本史      金谷俊一郎=監修      西東社
詳細図説 信長記           小和田哲男=著       新人物往来社
信長は本当に天才だったのか      工藤健策=著        草思社

【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(前編)

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(前編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか。これは意外に簡単で、人に嫌われたからです。

 信長の家臣には豊臣秀吉明智光秀がいました。

 この2人は流れ者の身から信長に召し抱えられ、実力者としてメキメキと頭角を見せ、重臣にまで出世していきました。

 しかし、信長のポジティブな面に焦点が当てていた秀吉と、ネガティブな面に焦点が当たっていた光秀。この両者の視点の違いが2人のその後の明暗を分けたのでした・・・・。

 

「サル、お前が俺に仕えてからどのくらい経つ?」

 信長は琵琶湖のほとり標高198mにそびえたつ安土城から城下町を見下ろしながら言いました。

「う~ん。もう20年近く経ちますねぇ。あの時は殿が21歳で、ワシが18歳の時でした。」

「もうそんなに経つかぁ。なあサル、俺は今まで、人を殺し過ぎてきたと思うか。」

「あまり深く考えない方が良いですぞ。天下泰平の世を築くには仕方がなかったことです。」

「しかし・・・・。」

「殿、少し疲れているのではありませんか。戦はしばし我らに任せて羽でものばされてください。」

「サル・・・ありがとう。そんなことを言ってくれるのはお前だけだ・・・。」

「へへへ。なんか照れくさいですな。」

 皆さんご周知の通り、織田信長という人物は、とんでもなくクセの強い人物でした。短気で傲慢で人の話を一切聞かない完全な独裁者のような人でした。

 しかし、短所と長所は表裏一体です。大きな短所を持っている人は、それを補うほどの大きな長所も持っているのです。

 信長の独裁志向は、部下への指示を非常に迅速かつ明確にしました。それは人の話を一切聞かない信長だからこそ出来たこと。優れたリーダーは、一方では非常に傲慢なのです。

 このように長所も短所も含めてその人の「ありのまま」なのです。

 秀吉はそんな「ありのままの信長」を知っていました。だから秀吉は信長のことが大好きだったのです。

 そして人間関係は双方向です。あなたが好意を示せば、相手もあなたに好意を持ってくれます。なので、信長もまた秀吉のことが大好きでした。

 一方で明智光秀と信長の関係はどのようなものだったのでしょうか。

「殿、明智殿がお見えです。」

「構わん。通せ。」

ガラッ

「殿、四国の長宗我部の件でお話に参りました。」

「またその話か。その件はもう済んだ。下がれ。」

「信長様、四国攻めの件、今一度お考え直しくださいませんか。」

「おい。くどいぞ、光秀。」

「この光秀、長年、長宗我部と交渉を続け降伏を促して参りました。交渉成立まであと少し・・・何卒もう少しお時間を頂きたくお願い申し上げます。」

「光秀・・・それ以上しゃべるな。下がれ。最後の警告だ。」

「・・・・・ハハッ。大変失礼しました。」

 当初は信長に心酔していた光秀。ですが、次第に光秀は信長を良く思わなくなっていきました。しかし、人間関係は双方向です。信長も光秀を良く思っていませんでした。

 当時、四国を治めていたのは長曾我部元親という人物です。実はこの長曾我部元親と信長は大変仲が良く、その頃の長曾我部氏はまだ四国の中の土佐の領主であり、そんな元親に信長は自分の家臣である斎藤利三の妹を嫁がせました。

 しかし、信長も元親もそれぞれ力をつけていき、信長が天下統一に王手をかける頃になると、元親は四国全土を配下に置くほどの勢力を増していました。

 天下統一を目指す信長は、ここにきて四国を統治下に置くため、元親に四国の半分をよこせと迫ったのです。

 しかし、もともと対等な関係にあった信長と元親です。

「なぜ苦労して手に入れた領土を信長に渡さなければいけないのか。」

 元親は信長と対立するようになりました。

 この時、斎藤利三はどこにいたかというと、明智光秀の筆頭家老になっていました。その縁もあって長曾我部との交渉は光秀が担当していたのです。

 

 秀吉と光秀は互いに信長に対する愚痴を言い合っていました。

「まったく、なぜ殿は、あんなにも人の話を聞かないのだ。」

「ははは。光秀殿、心中察しますぞ。」

「それに、あの傲慢さと気まぐれさには愛想が尽きた。」

「だいぶ溜まっておりますなぁ。光秀殿。」

「黙っていれば批判と受けとられ、眼をそらせば軽蔑したと思われる。」

「うん。信長様ほど気難しい人はこの世にはおらぬな。」

「あんな乱心者に天下人になる資格などない。ワシは今まで粉骨細心、信長様に尽くしてきたが、もう限界かも知れない・・・・。」

 すると光秀は秀吉に懇願しました。

「お願いじゃ、秀吉殿。私とともに信長を討ち取ってはくれぬか。」

そんな光秀に秀吉は忠告しました。

「何をおっしゃるか。そんなことをしたら君主殺しの逆賊となってしまうぞ。」

「心配はいりません。信長は将軍・義昭様をはじめ朝廷や公家、そして多くの諸大名からすこぶる評判が悪い。あらゆる勢力から支持されることでしょう。」

秀吉はしばらく黙ってから言いました。

「うん。光秀殿の気持ちは痛いほどよくわかります。確かに信長様は勇将ではあっても、良将とは程遠いものじゃ。目的達成ばかり重視し、人から愛されるということを軽視しておられる。」

秀吉は十分すぎるくらい光秀に同情しつつ、言いました。

「光秀殿、そなたもワシ同様、もとは身元も知れぬ流れ者の身だったのだ。それを召し抱え、ここまで立身出世出来たのは、まぎれもない信長様のおかげですぞ。」

「そりゃそうだが・・・・。」

「ワシは信長様が大好きじゃ。」

「秀吉殿・・・・・。」

「いけませんぞ。光秀殿。ワシは明日から毛利氏と戦うため中国方面に出陣し、当面は京には戻ってきません。しかし、そなたがもし、信長様を討ち取るような真似をしたら、ワシがそなたを討ち取りに戻ってきますぞ。」

この秀吉の冗談ではない真剣な表情に光秀は尻ごみしてしまいました。

「光秀殿、どうかご容赦を。」

 

 1582年3月初旬、秀吉が中国の毛利攻めをしている頃、信長は甲斐の武田氏の大将・武田勝頼を遂に討ち取り、京にさらし首としました。

 武田という強敵がいなくなったことで信長は遂に天下統一への王手をかけました。

 

「おい。光秀ッ」

「ハハッ、何でしょうか。」

「今度、武田攻略を祝って京で戦勝祝賀会を開くことにした。そこに家康公も招いている。光秀は京の伝統料理に詳しいだろう。そこで、光秀には家康公の接待を取り仕切って貰いたい。」

 光秀は数秒経ってから返事をしました。

「ハハッ、承知しました。」
 
 

 その後、信長は中国遠征をしている秀吉から援軍要請の通知を受けました。

「毛利が主力部隊を投入してくるつもりだと!?サルも苦戦しているようだな。」
 そんな中、5月15日、信長に誘われて、安土城に入った徳川家康。光秀は手の込んだ京風料理で家康をもてなしました。

 すると、家康は鯛の味に違和感を覚えました。

 そして信長は光秀に問い詰めました。

「なんだ、この鯛は。光秀、まさか腐った鯛を出したんじゃないだろうな。」

「そんなはずはありません。京風料理は薄味でして尾張三河のものとは違います。」

「お前、バカか。三河の家康公にこんな薄味でもてなすとは何事だ。」

「で、ですが京風料理でもてなせとおっしゃったのは殿ではありませんか。」

「うるさい。こんな鯛食えるか。この役立たずめ。」

 信長は光秀に罵声を浴びせた上に、足蹴りを食らわせました。

「も・・・申し訳ございませんでした・・・・。」

「もういい。お前に接待役など頼んだ俺が間違いだった。光秀、お前はサルの援軍として中国地方に出陣しろ。しばらく京には戻らなくて良い。分かったな。」

 光秀は数秒経ってから返答しました。

「ハハッ。承知致しました。」

 光秀は次の大仕事であった四国の長宗我部攻略の任を解かれ、秀吉の指揮下として中国の毛利征討に加わることになりました。光秀は格下げされたのです。

 決定的でした。

 光秀の中で、プツリと糸の切れるような思いが起こりました。

 翌日以降、光秀は中国出陣のための準備を始めました。
 そんな中、光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)は信長征討を訴えました。

「殿、もう我慢出来ません。信長公を討ち取りましょう。間もなく四国攻めが始まってしまいます。私はもう元親殿に合わせる顔がありません。」

 先述とおり、斎藤利三は妹を四国の長宗我部元親に嫁がせており、信長と長宗我部氏の友好関係に貢献していました。そんな長宗我部氏を信長が攻め滅ぼすというのだから利三としては納得出来ません。

「殿、ご決断を。」

 年上の老臣である利三は光秀に決断を迫ります。

 しかし、光秀には思いとどまるものがありました。

(光秀殿、どうかご容赦を・・・・。)

 秀吉の声が光秀の頭をよぎりました。

 そんな光秀のブレーキが外れる出来ごとはすぐに起こりました。

5月26日、光秀の居城・丹波亀山城に信長の使者がやって来ました。信長の書状には

こう記されていました。

「光秀の治める丹波・近江の国は信長に召し上げよ。代わりに出雲・石見の国を与える。」

 これは「国替え」と呼ばれるもので、現在でいう転勤のようなものです。

 しかし、問題なのは、出雲と石見は毛利氏の領地であることです。信長は未だ敵領地であるはずの地を与えると命じてきたのです。

 「国替え」は何も光秀だけに命じられたものではありません。しかし、敵の領地が代わりに与えられるというのは前例がありません。領地を失えば、領主は家来を養うことが出来ません。つまり、今回の毛利攻めを成功させなければ、光秀とその家来達は路頭に迷うことになるのです。

 まぁ、事実上のクビです。光秀は領地すらも信長に取り上げられてしまったのです。

 5月29日、信長は朝廷達に暦の変更など様々な改革案を提案するべく京に入りました。

 信長はその日から数日間、本能寺にチェックインしています。

 その情報はすぐに明智軍に伝わりました。

「信長勢は6月2日まで京に滞在してから四国に出陣するようです。その間の宿泊先は本能寺になるようです。」

 信長が宿泊する本能寺は‘寺‘であり、‘城‘ではありません。したがって、必然的に信長の手勢はわずかであることは容易に予想されました。

 それに、信長の重臣達は全国に散らばっています。

 柴田勝家は北陸方面を、滝川一益は関東方面を、織田信孝は四国方面を、そして羽柴秀吉は中国方面に遠征中です。畿内にいるのは明智光秀だけでした。

 つまり、信長は完全に無防備な状態で宿泊しているのです。

「今しかない。」

 そう思った光秀は利三など重臣達と本能寺襲撃の作戦会議を開きました。

 そして6月1日の夕方、光秀は1万3千人の兵を率いて丹波丹波亀山城を出発しました。
 その道中、光秀は号令をしました。

敵は本能寺にあり。」

「ハハッ。」

 家来達は「待ってました!」と言わんばかりに急に進路を東に替え、京都に向かいました。

 つづきはこちらから↓

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 


最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
太閤記」の人間学 豊臣秀吉     湯本陽、童門冬二ほか=著  プレジデント社
「秀吉」をたっぷり楽しむ法      高野冬彦=著        五月書房
マンガで一気に読める日本史      金谷俊一郎=監修      西東社
詳細図説 信長記           小和田哲男=著       新人物往来社
信長は本当に天才だったのか      工藤健策=著        草思社

長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(中編)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(中編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 今回もストーリーを展開しながら、長篠の戦いにいたるまでの経緯をご紹介していこうと思います。

 

 戦国最強の騎馬軍団。

 それは甲斐(山梨県)の武田氏のことを指します。

 

 武田信玄の没後。その子勝頼がおとなしくしていたわけではありません。1574年正月、勝頼は織田領である美濃に侵入することを決意しました。

 これに対し、武田家の老臣達は勝頼に忠告しました。

「殿、我が軍は織田には勝つことは不可能でしょう。奴は鉄砲の入手経路を独占しているゆえ、戦にはおそらく大量の鉄砲を投入してきます。そうなれば我が騎馬軍団も再起不能なまでに壊滅することでしょう。」

 戦国時代もこの頃になると、鉄砲は戦の重要な武器となっていましたが、武田軍は鉄砲を余り持っていませんでした。

 それには理由があります。

 当時の国際貿易港である「堺」の町を信長が掌握しており、鉄砲の入手経路を絶たれてしまったのです。鉄砲を使う上で絶対に必要な物、それは黒色火薬です。よく歴史ドラマ等々でも出てくると思います。

 黒色火薬の主原料は、硫黄と木炭、そして硝石(硝酸カリウム)です。日本は火山大国なので硫黄はどこでも手に入ります。木炭も簡単に手に入ります。しかし、硝石だけは手に入れることができず、海外から輸入するしかありませんでした。

 当時の日本の国際貿易港は鹿児島、平戸、山口など数か所ありました。しかし、それらはすべて西日本であり、堺の町は一番東よりの国際貿易港だったのです。

 したがって、東日本の大名達は誰一人として硝石を簡単に手にいれることが出来なくなり、甲斐の武田も十分な鉄砲隊を持つことが出来なかったのです。

 

 しかし、そんな老臣達の忠告を勝頼は聞き入れません。

「京で義昭様が待っておる。何としても上洛し、義昭様の天下をお守りするのだ。」

 室町幕府15代将軍である足利義昭は、武田軍を当てにして京で信長と宣戦布告しました。しかし、そんな武田軍が京に上がることが出来ないなど戦国最強の武田氏の面目は丸つぶれになります。勝頼はそう考えていたのです。

「お気持ちはわかりますが殿、もう一度再考を願います。」

「信長に天下を独占されてはかなわぬ。いずれにしても、この辺りで信長とは決着をつけなければならないことは明白じゃ。」

 結局、勝頼は老臣達の忠告をすべて却下しました。

 勝頼も決して無謀な戦いをするつもりはありませんでした。本人としては当然勝つ自信はありましたし、現に武田軍はそれまでも数々の戦を勝ち抜いて、圧倒的な実績を誇っていました。

 

 1574年正月から武田軍は織田領である美濃に侵攻。織田方の城を次々に落とし、その支配領域を広げていきました。

 

 自分の領土を侵食される信長は盟友である徳川家康に言いました。

「家康殿、すまないが、おとりになってくれないか。すぐに2万の大軍勢として援軍にうかがうので。」

 家康は信長からの2万の援軍を受けることを条件に武田領に侵攻しました。家康は三方ヶ原の戦いで武田軍の恐ろしさを身をもって体験しています。家康の身震いする侵攻作戦が開始されました。

 これに対し、勝頼は一転して徳川方に矛先を変え、1575年3月、1万5千人を率いて、徳川の本拠地である三河に侵入。5月には長篠城(愛知県新城市)を囲みました。

 自軍だけでは到底勝てそうにない家康はすぐに信長に援軍を要請しました。

「武田方をうまく誘い出しました。信長殿、早急な援軍を頼みます。」

1575年5月13日、家康の要請を受けた信長は3万人の兵と大量の鉄砲を携え、美濃を出発。兵士達は鉄砲を持つ者と丸太を持つ者がいました。

「武田軍の強さはわかっておる。まともに戦えばわが軍は手ひどい痛手を負うだろう。大兵を失えば、石山本願寺など今後の戦いに支障が出る・・・・。」

信長は自軍が野戦に弱いことを自覚しており、綿密な作戦と計画を立てていました。
織田援軍の知らせを聞いた徳川は安堵。長篠城にあと数日間持ちこたえるよう命令しました。

信長軍は18日、長篠城の西、設楽ヶ原に布陣しました。

信長はさっそく、家臣以下、兵士達に命令します。

「持ってきた丸太を組め、馬防柵をつくるのじゃ。」

「馬防柵の前には切り岸をつくれ。」

「馬防柵の後ろには土を掘れ、土塁をつくるのじゃ。」

切り岸とは、敵の前進を防ぐため、連子川に降りる斜面を垂直にしたもので、土塁とは、敵の侵入を防ぐために築かれた土製の堤防上の壁です。 

 3万の兵士によって行われたこの大土木事業は1日で完了しました。

 信長は設楽ヶ原にある種の城を築き、そこから鉄砲による猛攻で武田軍を圧倒しようと考えていたのです。信長は十分に勝てる状況の中で武田軍と雌雄を決しようとしたのです。

 さらに、家康側からも提案がありました。

「信長殿、我が軍の名将・酒井忠次を設楽ヶ原の山中を夜のうちに迂回させましょう。武田軍を挟み撃ちにするのです。」

 酒井は徳川自慢の名将でした。先述の三方ヶ原の戦いでは、味方が崩れた後も酒井の軍だけは隊伍を崩さず、武田の追撃をかわしながら浜松城に帰還しました。

 戦場において、軍団の向きを変えたり、負け戦で逃げようとする兵をまとめるのは並大抵のことではありません。酒井はそれができる武将だったのです。

 この家康からの提案を受け入れた信長は確信しました。

「この戦、もらったな。我が名を天下に轟かせるのだ。」

 

 そして勝頼も1200人の騎馬兵を含む1万の兵を率いて、設楽ヶ原に布陣しました。鉄砲も700丁装備しています。

「信長め。調子に乗りすぎだ。目にもの見せてくれるわ。」

 

その頃、設楽ヶ原を迂回した酒井軍は武田の手に落ちた長篠城を奪還。その時、銃声が鳴り響きました。

長篠の戦い」が始まったようです。

 発砲したのは、武田軍でした。
 しかし、信長軍は柵から出てきません。

 鉄砲を撃っても、騎馬兵が挑発しても織田勢は柵から現れません。

「功を焦って柵から出たものは死罪に処す。」

 信長は兵士達にそう命じてあったのです。

 

 「信長め。持久戦に持ち込む気だな。」

 

つづく。

本宮でした。

【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?」というお話です。

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 甲斐の名将・武田信玄が死んだことで、信長は一気に2つの勢力を滅ぼしました。室町幕府と浅井・朝倉連合軍です。

 今回もストーリーを展開しながら、長篠の戦いにいたるまでの経緯をご紹介していこうと思います。

 

 1573年4月12日、信玄は死んだ。

 そして、信玄は遺言として以下のようなことを家臣達に残しました。
「3年間はワシが死んだことを隠せ。喪を秘し、そして必ず京に上がれ。信長に天下を取られてはならん。」

 

 昨年の10月に甲斐国山梨県)の甲府を出発した信玄率いる武田軍は、12月下旬に三方ヶ原の戦いで信長の盟友である徳川家康を破りました。大惨敗を喫した家康は慌てて浜松城に逃げ帰りました。

 家康をボコボコに叩きのめした武田軍はそのまま京に向かうかに思われました。

 しかし、浜名湖付近で突如行軍を停止します。本来なら西に進むはずのルートを北へ方向変換し、三河長篠城に入ると、そのままその動きを止めてしまいました。信玄の病状が悪化したのです。

 その頃、京では室町幕府15代将軍・足利義昭が信玄の上洛を今か今かと待ちわびていました。

 この頃になると、信長と義昭は犬猿の仲になっており、義昭は打倒信長を掲げて甲斐の武田、越後の上杉、中国の毛利などに呼びかけ、信長包囲網を形成していました。
そんな義昭の耳に三方原の戦いで信長の同盟軍である家康軍がコテンパンに敗れたという情報が入りました。

「よし。信長もこれでおしまいだ。そのうちに信玄が来る。」

 義昭は歓喜をあげて喜びました。

 信玄が来るものと信じた義昭は、1573年3月、二条城に籠って「信長を討つ」と宣言したのでした。

 ところが、信玄が来ません。どうしたのでしょう。

 そう、信玄はこのときすでに病に倒れ、死の床に伏していたからです。
当時は電話もファックスもメールもありませんから、信玄の死が義昭に伝わるまでに時間がかかります。それに武田軍は信玄の死を隠そうとしていたため、むやみに情報を漏らすことをしません。

 結局、義昭は信玄が来るものと信じ、ずっと待っていました。

 そのうちに信長軍の方が先に「これはちょっとおかしいぞ。」ということに気づきます。

 兵農分離がされていない武田軍は、たとえ京に来たとしても、翌年の春までには田植えのために甲斐に帰らなくてはいけません。であれば、三方ヶ原の戦いで徳川軍を破ったのだからどんどん攻め上がってくるはずです。それが来ない。

 この時期なら少なくとも浜松城を攻めて遠江の国を占領するくらいでなければならない。

 こうした異変に信長は薄々考えていたことが確信に変わりました。

「おそらく、信玄公が死んだのであろう。」

 一方、義昭は焦りを募らせていました。

「信玄殿はなぜ来ない。余は信玄殿が来てくれると信じていたから、信長に宣戦布告したのだぞ。このままでは、余は信長から総攻撃を食らってしまうではないか。」

 信玄は来ないと確信した信長は、義昭を攻撃します。その後、一度は信長を和議を受け入れた義昭でしたが、やがてその和議を棄却、あくまでも反意を見せたので、遂に信長も義昭追放を決意しました。

「世話になったな、義昭殿。京はワシに任せ、そなたはご隠居されよ。」

 あたかも室町幕府を受け継いだような言い方をした信長は義昭を追放した後、新たな将軍をたてることはしませんでした。こうして室町幕府は事実上、滅亡しました。

 信玄の死が確定しても、信長はすぐには動きませんでした。

 信長には、武田よりも先に、片を付けなければならない宿敵がいました。
浅井・朝倉連合軍です。同年8月、信長は浅井・朝倉攻めを開始。わずか半月で朝倉義景切腹に追いやり、浅井長政の居城である小谷城を落としていまいました。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著 草思社

【弥生時代】古代の文明開化!人々の暮らしはどのように変わったのか。

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【弥生時代】古代の文明開化!人々の暮らしはどのように変わったのか。」というお話です。
 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

弥生時代は大陸から稲作が伝わったことで、それまでの狩猟・採取社会から農耕社会へ徐々に移行した時代です。移住生活から定住生活へ。日本の社会構造は大きく変化したのです。また、弥生中期には鉄器と青銅器も伝わり、稲の生産力の高まりと、豊作祈願も行われるようになりました。

 日本が縄文時代を中国大陸では紀元前6500~5500年頃、北の黄河中流域でアワやキビなどの農耕が始まり、農耕社会が成立しました。さらに紀元前6世紀頃から鉄器の使用が始まり、春秋・戦国時代には農業生産も著しく進みました。

 こうした生産力の発展に伴って、やがて紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強力な統一国家も形成されました。

 

 その頃、日本列島の人々は30名ほどの小さな集団で行動し、協力しながら獲物を捕らえ、仲良く獣肉を分け合うという平等で平和なのんびりとした生活を送っていました。縄文時代です。


 しかし、そんな平和な日本列島を配下に置こうと中国の統一王朝は渡来人を派遣。彼らは朝鮮半島を経て、日本列島にやってきました・・・・。

 


 縄文時代晩期に突如として現れた稲作技術(水田農耕)は、それまでの日本にはなく、大陸からの渡来人によってもたらされた全く異質なシステムです。それにも関わらず、なぜ、わずか十数年の間に日本全国へと急速に広まっていったのでしょうか。

 縄文時代は狩猟・採取を中心とする社会でしたが、ある程度の農耕も行われていました。クリやヒョウタンなどの植物を栽培した原初的農耕の痕跡がみとめられるし、後期に入ると、焼畑農耕によってアズキやアワ、裸麦などが作られていたことが明らかになっています。このように縄文時代には、すでに植物栽培が開始されており、稲作技術を受け入れるのに十分な素地が出来上がっていました。

 

 しかし、それ以上に稲作技術は日本全国に普及するのに十分な理由がありました。

「おい。米の栽培って便利だな。」

「ああ。もう食料を求めて移住しなくても済むからな。」

 縄文時代のような狩猟・採取の生活では安定して食料を確保することができませんでした。しかし、稲作であれば安定した食糧の供給が望めます。人々はこぞって稲作技術を学びました。

 このような経緯があったからこそ、短期間に稲作が広がっていったのです。

 九州地方にはじまった水稲耕作は、紀元前4世紀頃から100年の間に近畿地方まで広がり、紀元後には関東地方から東北地方南部に、2世紀ころには東北地方北部にまでおよびました。こうして北海道と西南諸島を除く、日本列島の大部分の地域は食料採取の時代から食料生産の時代へと移行していきました。

 

 この紀元前(B.C)4世紀頃から紀元後(A.D)3世紀までを弥生時代といいます。弥生文化の誕生です。

 

 日本に伝来した稲作は、弥生時代を通して飛躍的に耕地面積を拡大していったが、農具の面でもその進化は著しい。

 初期の頃は、鍬(くわ)や鋤(すき)といった耕作具は木製へ、鎌や石包丁などの収穫具は石製の道具を使用していたが、弥生時代も後期になると、鉄製のものが多くなり、収穫率も増大します。また水田も、自然の低湿地を利用する「湿田」より、人工的な灌漑施設を有する「乾田」が多くなっていきました。