【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(前編)
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(前編)」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか。これは意外に簡単で、人に嫌われたからです。
この2人は流れ者の身から信長に召し抱えられ、実力者としてメキメキと頭角を見せ、重臣にまで出世していきました。
しかし、信長のポジティブな面に焦点が当てていた秀吉と、ネガティブな面に焦点が当たっていた光秀。この両者の視点の違いが2人のその後の明暗を分けたのでした・・・・。
「サル、お前が俺に仕えてからどのくらい経つ?」
信長は琵琶湖のほとり標高198mにそびえたつ安土城から城下町を見下ろしながら言いました。
「う~ん。もう20年近く経ちますねぇ。あの時は殿が21歳で、ワシが18歳の時でした。」
「もうそんなに経つかぁ。なあサル、俺は今まで、人を殺し過ぎてきたと思うか。」
「あまり深く考えない方が良いですぞ。天下泰平の世を築くには仕方がなかったことです。」
「しかし・・・・。」
「殿、少し疲れているのではありませんか。戦はしばし我らに任せて羽でものばされてください。」
「サル・・・ありがとう。そんなことを言ってくれるのはお前だけだ・・・。」
「へへへ。なんか照れくさいですな。」
皆さんご周知の通り、織田信長という人物は、とんでもなくクセの強い人物でした。短気で傲慢で人の話を一切聞かない完全な独裁者のような人でした。
しかし、短所と長所は表裏一体です。大きな短所を持っている人は、それを補うほどの大きな長所も持っているのです。
信長の独裁志向は、部下への指示を非常に迅速かつ明確にしました。それは人の話を一切聞かない信長だからこそ出来たこと。優れたリーダーは、一方では非常に傲慢なのです。
このように長所も短所も含めてその人の「ありのまま」なのです。
秀吉はそんな「ありのままの信長」を知っていました。だから秀吉は信長のことが大好きだったのです。
そして人間関係は双方向です。あなたが好意を示せば、相手もあなたに好意を持ってくれます。なので、信長もまた秀吉のことが大好きでした。
一方で明智光秀と信長の関係はどのようなものだったのでしょうか。
「殿、明智殿がお見えです。」
「構わん。通せ。」
ガラッ
「殿、四国の長宗我部の件でお話に参りました。」
「またその話か。その件はもう済んだ。下がれ。」
「信長様、四国攻めの件、今一度お考え直しくださいませんか。」
「おい。くどいぞ、光秀。」
「この光秀、長年、長宗我部と交渉を続け降伏を促して参りました。交渉成立まであと少し・・・何卒もう少しお時間を頂きたくお願い申し上げます。」
「光秀・・・それ以上しゃべるな。下がれ。最後の警告だ。」
「・・・・・ハハッ。大変失礼しました。」
当初は信長に心酔していた光秀。ですが、次第に光秀は信長を良く思わなくなっていきました。しかし、人間関係は双方向です。信長も光秀を良く思っていませんでした。
当時、四国を治めていたのは長曾我部元親という人物です。実はこの長曾我部元親と信長は大変仲が良く、その頃の長曾我部氏はまだ四国の中の土佐の領主であり、そんな元親に信長は自分の家臣である斎藤利三の妹を嫁がせました。
しかし、信長も元親もそれぞれ力をつけていき、信長が天下統一に王手をかける頃になると、元親は四国全土を配下に置くほどの勢力を増していました。
天下統一を目指す信長は、ここにきて四国を統治下に置くため、元親に四国の半分をよこせと迫ったのです。
しかし、もともと対等な関係にあった信長と元親です。
「なぜ苦労して手に入れた領土を信長に渡さなければいけないのか。」
元親は信長と対立するようになりました。
この時、斎藤利三はどこにいたかというと、明智光秀の筆頭家老になっていました。その縁もあって長曾我部との交渉は光秀が担当していたのです。
秀吉と光秀は互いに信長に対する愚痴を言い合っていました。
「まったく、なぜ殿は、あんなにも人の話を聞かないのだ。」
「ははは。光秀殿、心中察しますぞ。」
「それに、あの傲慢さと気まぐれさには愛想が尽きた。」
「だいぶ溜まっておりますなぁ。光秀殿。」
「黙っていれば批判と受けとられ、眼をそらせば軽蔑したと思われる。」
「うん。信長様ほど気難しい人はこの世にはおらぬな。」
「あんな乱心者に天下人になる資格などない。ワシは今まで粉骨細心、信長様に尽くしてきたが、もう限界かも知れない・・・・。」
すると光秀は秀吉に懇願しました。
「お願いじゃ、秀吉殿。私とともに信長を討ち取ってはくれぬか。」
そんな光秀に秀吉は忠告しました。
「何をおっしゃるか。そんなことをしたら君主殺しの逆賊となってしまうぞ。」
「心配はいりません。信長は将軍・義昭様をはじめ朝廷や公家、そして多くの諸大名からすこぶる評判が悪い。あらゆる勢力から支持されることでしょう。」
秀吉はしばらく黙ってから言いました。
「うん。光秀殿の気持ちは痛いほどよくわかります。確かに信長様は勇将ではあっても、良将とは程遠いものじゃ。目的達成ばかり重視し、人から愛されるということを軽視しておられる。」
秀吉は十分すぎるくらい光秀に同情しつつ、言いました。
「光秀殿、そなたもワシ同様、もとは身元も知れぬ流れ者の身だったのだ。それを召し抱え、ここまで立身出世出来たのは、まぎれもない信長様のおかげですぞ。」
「そりゃそうだが・・・・。」
「ワシは信長様が大好きじゃ。」
「秀吉殿・・・・・。」
「いけませんぞ。光秀殿。ワシは明日から毛利氏と戦うため中国方面に出陣し、当面は京には戻ってきません。しかし、そなたがもし、信長様を討ち取るような真似をしたら、ワシがそなたを討ち取りに戻ってきますぞ。」
この秀吉の冗談ではない真剣な表情に光秀は尻ごみしてしまいました。
「光秀殿、どうかご容赦を。」
1582年3月初旬、秀吉が中国の毛利攻めをしている頃、信長は甲斐の武田氏の大将・武田勝頼を遂に討ち取り、京にさらし首としました。
武田という強敵がいなくなったことで信長は遂に天下統一への王手をかけました。
「おい。光秀ッ」
「ハハッ、何でしょうか。」
「今度、武田攻略を祝って京で戦勝祝賀会を開くことにした。そこに家康公も招いている。光秀は京の伝統料理に詳しいだろう。そこで、光秀には家康公の接待を取り仕切って貰いたい。」
光秀は数秒経ってから返事をしました。
「ハハッ、承知しました。」
その後、信長は中国遠征をしている秀吉から援軍要請の通知を受けました。
「毛利が主力部隊を投入してくるつもりだと!?サルも苦戦しているようだな。」
そんな中、5月15日、信長に誘われて、安土城に入った徳川家康。光秀は手の込んだ京風料理で家康をもてなしました。
すると、家康は鯛の味に違和感を覚えました。
そして信長は光秀に問い詰めました。
「なんだ、この鯛は。光秀、まさか腐った鯛を出したんじゃないだろうな。」
「そんなはずはありません。京風料理は薄味でして尾張や三河のものとは違います。」
「お前、バカか。三河の家康公にこんな薄味でもてなすとは何事だ。」
「で、ですが京風料理でもてなせとおっしゃったのは殿ではありませんか。」
「うるさい。こんな鯛食えるか。この役立たずめ。」
信長は光秀に罵声を浴びせた上に、足蹴りを食らわせました。
「も・・・申し訳ございませんでした・・・・。」
「もういい。お前に接待役など頼んだ俺が間違いだった。光秀、お前はサルの援軍として中国地方に出陣しろ。しばらく京には戻らなくて良い。分かったな。」
光秀は数秒経ってから返答しました。
「ハハッ。承知致しました。」
光秀は次の大仕事であった四国の長宗我部攻略の任を解かれ、秀吉の指揮下として中国の毛利征討に加わることになりました。光秀は格下げされたのです。
決定的でした。
光秀の中で、プツリと糸の切れるような思いが起こりました。
翌日以降、光秀は中国出陣のための準備を始めました。
そんな中、光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)は信長征討を訴えました。
「殿、もう我慢出来ません。信長公を討ち取りましょう。間もなく四国攻めが始まってしまいます。私はもう元親殿に合わせる顔がありません。」
先述とおり、斎藤利三は妹を四国の長宗我部元親に嫁がせており、信長と長宗我部氏の友好関係に貢献していました。そんな長宗我部氏を信長が攻め滅ぼすというのだから利三としては納得出来ません。
「殿、ご決断を。」
年上の老臣である利三は光秀に決断を迫ります。
しかし、光秀には思いとどまるものがありました。
(光秀殿、どうかご容赦を・・・・。)
秀吉の声が光秀の頭をよぎりました。
そんな光秀のブレーキが外れる出来ごとはすぐに起こりました。
5月26日、光秀の居城・丹波亀山城に信長の使者がやって来ました。信長の書状には
こう記されていました。
「光秀の治める丹波・近江の国は信長に召し上げよ。代わりに出雲・石見の国を与える。」
これは「国替え」と呼ばれるもので、現在でいう転勤のようなものです。
しかし、問題なのは、出雲と石見は毛利氏の領地であることです。信長は未だ敵領地であるはずの地を与えると命じてきたのです。
「国替え」は何も光秀だけに命じられたものではありません。しかし、敵の領地が代わりに与えられるというのは前例がありません。領地を失えば、領主は家来を養うことが出来ません。つまり、今回の毛利攻めを成功させなければ、光秀とその家来達は路頭に迷うことになるのです。
まぁ、事実上のクビです。光秀は領地すらも信長に取り上げられてしまったのです。
5月29日、信長は朝廷達に暦の変更など様々な改革案を提案するべく京に入りました。
信長はその日から数日間、本能寺にチェックインしています。
その情報はすぐに明智軍に伝わりました。
「信長勢は6月2日まで京に滞在してから四国に出陣するようです。その間の宿泊先は本能寺になるようです。」
信長が宿泊する本能寺は‘寺‘であり、‘城‘ではありません。したがって、必然的に信長の手勢はわずかであることは容易に予想されました。
それに、信長の重臣達は全国に散らばっています。
柴田勝家は北陸方面を、滝川一益は関東方面を、織田信孝は四国方面を、そして羽柴秀吉は中国方面に遠征中です。畿内にいるのは明智光秀だけでした。
つまり、信長は完全に無防備な状態で宿泊しているのです。
「今しかない。」
そう思った光秀は利三など重臣達と本能寺襲撃の作戦会議を開きました。
そして6月1日の夕方、光秀は1万3千人の兵を率いて丹波の丹波亀山城を出発しました。
その道中、光秀は号令をしました。
「敵は本能寺にあり。」
「ハハッ。」
家来達は「待ってました!」と言わんばかりに急に進路を東に替え、京都に向かいました。
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motomiyatakahiro.hatenablog.com
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「太閤記」の人間学 豊臣秀吉 湯本陽、童門冬二ほか=著 プレジデント社
「秀吉」をたっぷり楽しむ法 高野冬彦=著 五月書房
マンガで一気に読める日本史 金谷俊一郎=監修 西東社
詳細図説 信長記 小和田哲男=著 新人物往来社
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著 草思社