日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【縄文文化】縄文人の食生活はどのようなものだったのか

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【縄文文化縄文人の食生活はどのようなものだったのか」というお話です。
 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。


 縄文クッキーというものをご存知でしょうか。
 ドングリやクルミ、長イモ、ウズラの卵などを材料につくる縄文時代のクッキー状の非常食ですが、100グラムあたり500カロリーもあり、1つ食べれば朝食分相当のエネルギーが取れてしまう優れものの非常食です。

 縄文人はこれを食べることで不猟や不作時期を乗り切ったそうです。
 小学生の頃、文化祭で縄文クッキーを再現したクラスがあり、私もそれを食べてみましたが、正直、苦かったです。

 ということで、今回は縄文人の食生活について解説してみたいと思いますが、

 縄文人は意外と豊かな食生活を送っていたようです。

 縄文時代の食料を得る方法としては、主としてシカやイノシシを狩る(狩猟)や魚や貝を捕る(漁労)、木の実を拾う(採取)によって食物を獲得していま。しかし、最近では縄文時代前期においてすでに原初的農耕が営まれていた事実も判明しています。

 縄文人の食生活は、貝塚(ゴミ捨て場)の分析により、山の幸、海の幸、川の幸など四季おりおりに多彩な食物を摂取していたことがわかっています。
縄文人が好んで食べていたものを以下の表にまとめました。

春から夏 秋から冬 冬から春
山菜 クリ ヤマイモ
若草 クルミ イノシシ
ハマグリ トチ シカ
アサリ ブドウ クジラ
サンマ アホウドリ  
アジ サケ  
アザラシ マス  
トド マグロ  

 春には、山で山菜や若草を採取。
 夏になると、浜辺や海に繰り出し、ハマグリやアサリを採取、海ではサンマやアジ、さらにはアザラシやトドのような海獣までも漁労していました。

 秋になると、クリやブドウ、クルミ、トチなどの山の幸を存分に、さらにサケやマスなどの海の幸を捕っていました。
 そして冬になると、ヤマイモを除くあらゆる植物性食物は不作シーズンとなるため、シカやイノシシのような哺乳動物を捕らえて食べていたようです。


 本格的な米つくりをしていなかったこの時代、主食になったのは木の実やイモ類などの植物性の食料です。これらは、縄文人の全摂取カロリーの8割以上を占めていたといわれ、特にクルミとクリとドングリが圧倒的に多かったようです。ドングリは簡単にそしてたくさん採取できるうえに栄養価も高く、保存も効くため、非常に重要な食料でした。

 もちろん、ドングリはそのままでは食べられません。石皿やすり石などを使ってドングリをすり潰していました。
 さらに、ドングリはアク抜きをしなければ食べられないので、当時すでに加熱処理や水さらしによるアク抜き術が発達していたことを物語っています。その役目を果たしたものこそ縄文土器というものです。

 食物の保存技術も進み、貯蔵穴に大量に木の実を保存したり、干物や塩漬けしたりもしています。そして先述のようにクルミやクリの粉に卵や肉汁をまぜ、塩味をつけて焼いたクッキーを保存食としていたようです。

 さて、貝塚から出土する獣骨の9割は、イノシシとシカであり、人々が好んで食べていたことがわかります。
 
 問題はその捕獲率ですが、それまでより格段にあがりました。縄文時代は考古学でいう新石器時代に属し、打製石器から磨製石器に変わった時代です。 縄文人は、鋭くとがった磨製石器を使って弓矢や石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)などの狩猟具を開発しました。特に弓矢は、それまでの投げ槍と比較すると、遠距離での捕獲が可能になり、獲物の捕獲率を格段に上げました。

 しかし、イノシシやシカは、現在のものよりもずっと大きく、弓矢や石斧だけでは上手く捕らえることができませんでした。そんな縄文人には実は最強のパートナーがいました。

 そう、イヌです。

 現在でも人間とイヌの深い絆はご周知のとおりですが、当時の縄文人とイヌの絆は強いものでした。
 ご主人様に忠誠を誓うイヌは、自分よりもはるかに大きく狂暴なシカやイノシシと命懸けで戦いました。縄文時代の遺跡からは丁重に埋葬されたイヌの骨が見つかっています。

 先述のとおり、縄文人にとってイヌは生活に密着した存在であり、かけがえのない存在であったからこそ、怪我した後も手厚く保護し、死後は丁寧に埋葬していたのです。

 しかし、狩猟は冬から春に限定されており、幼獣は殺さなかったことがわかりました。動物を取りつくしてしまうことはなく、節度ある狩りを行っていたようです。

 漁労も飛躍的に進化しました。
 縄文人は、現代のものとほとんど変わらない釣針やヤスなどの骨角器、さらに石錘(せきすい)、土錘(どすい)の使用もみられます。これらの漁労具を駆使してサンマやアジ、サケ、マスなど実に豊富な海の幸を得ていました。

 さらに回転式離頭モリも発明されました。このモリは、獲物に刺さると柄から外れ、両方をつなぐ紐を引くと、矢尻が回転して深く食い込んで離れない。おかげで大型の魚やイルカ、クジラなどの海獣の捕獲率も高まっていました。

 さて、ここで少し気になるのは、縄文人の航海術です。丸舟木が各地で見つかっており、伊豆大島や南の八丈島にまで縄文時代の遺跡がみられることから、縄文人は遠洋に繰り出せるほどの航海技術を持っていたのではないかと考えられています。ここでも鋭い刃を持つ磨製石器が舟づくりに大いに役立ったようです。

 さて、先術のような主食のクリは、縄文時代前期から人の手で栽培されていた可能性が高いです。
 さらに中期に入ると、焼き畑農耕でソバ、ウリ、アズキ、エゴマなどが作られました。しかし、水路を有する本格的な水田が現れるのは縄文晩期のことで、水田で稲作が行われたことにより、社会構造に大きな変革をきたし、弥生時代へと移り変わっていくのでした。

 このように縄文人は、自然のしくみをよく知り、その恵を存分に味わっていました。
 しかし、自然とは不確かなものです。豊作の時期もあれば、不作の時期もあります。だからこそ、当時の人々は自然のあらゆるものに神が宿っているとする八百万の神を信仰し、山の神や海の神に豊穣祈願を捧げ、豊作となったときには感謝の意をしめしたのです。

以上。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
早わかり日本史          河合敦=著  日本実業出版社
アナウンサーが読む山川日本史 笹山春生=著 山川出版社 
もう一度読む山川日本史 五味文彦=著 山川出版社

【縄文文化】土偶は何のためにつくられた?

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【縄文文化土偶は何のためにつくられた?」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 アニミズムという言葉をご存知だろうか。

 これはあらゆる自然物や自然現象には神や霊魂などの力が作用しているとする思想で、日本ではこれを八百万(やおろず)の神と言います。

 日本人は古来、豊かな自然と四季の明瞭さの中で暮らすうちに、自分達を取り巻く自然のあらゆるものに神が宿っていると信じてきました。

 例えば山には山の神が、川には川の神が、畑には畑の神が、さらには米粒の中にさえも神が宿っていると信じていました。そして豊作となれば、人々は手を合わせ、神に感謝の意を示したのです。

 現在でも日本国内には、もの凄く沢山の神社がありますよね。また、「便所の神様」とか「台所の神様」、「お天とさんが見ている」などという言葉もありますが、それらはすべて八百万の神が由来しています。

 以上の知識を踏まえたうえで、土偶はなぜつくられたのかを見ていきたいと思います。

 

 縄文文化を象徴する出土品といえば、間違いなく土偶があげられると思います。

 土偶とは、縄文時代につくられた土製の人形で、縄文早期に初めて現れました。その頃の土偶は腕を水平に広げ、足をそろえた比較的シンプルなものが多いが、やがてその形状は多彩化し、地方によってもその形状は異なります。特に遮光器とよばれる土偶のように前衛芸術のような宇宙人を連想させるものさえあります。

 

 出土件数は現在まで1万5000点以上にも及び、縄文早期の出土件数は東日本が圧倒的に多く、縄文晩期になると、東北地方がその中心になっていきます。

 そんな多種多様な土偶ですが、これらは一体何のためにつくられたのでしょうか。
それについて様々な説が出ているものの、はっきりとしたことはわかっていないことが実情です。

 しかし、興味深い事実は、土偶のほとんどが完全な形で出土していないということです。手、足、顔、腹など、どこかしら恣意的に壊された部分が必ずあり、しかも壊された部分は本体と一緒には出てきません。さらには、最初から身体の一部をつくらないものさえ存在します。

 すなわち、確かなのは、土偶とは壊されるためにつくられたのだということです。
なぜ壊すのか。この解釈の仕方によって土偶は何のためにつくられたのかを伺い知ることができます。

 今回は様々な説の中で最も有力視されているものをご紹介します。
 

 それは豊穣祈願説というものです。

 『古事記』に登場するオオゲツヒメは、スサノオの怒りに触れて殺されるが、その死体から稲や麦などの穀物や蚕が発生したという。また、『日本書紀』にも、殺害された女神ウケモチの遺骸から作物が出てくるという同様の神話が残されています。

 そのことから、縄文人土偶を女神に見立ててこれを破壊(殺害)し、作物の豊穣を祈ったのではないかということです。稲作は弥生時代に始まりますが、植物栽培そのものは縄文早期にすでに始まっています。

 先述のとおり、日本には古代から八百万の神という思想があり、多種多様な土偶はそれぞれの神に見立てて作られたのではないかと考えることができます。

 さらに土偶の中には、石囲いをして丁重に埋葬された例がみられ、確実に精霊や女神のような神々しい扱いをしている点もこの説を補強しています。

 この女神に見立てたという部分も有力視される理由の一つです。
 土偶の大半は乳房がついていたり、煌びやかな装飾であるなど女性に見立てられており、特に妊婦の姿をかたどっていると思われます。また、男性の生殖器を表現したと思われる石棒(せきぼう)も出土していることから、生命の誕生、すなわち‘創造‘を表現しているのではないかと伺い知ることができます。

 したがって、縄文人は生命を生み出す神秘的な力を有する女性と男性の生殖器を土でこしらえることで、その豊穣を祈ったということです。

 

 その他にも、土偶の用途には他にも様々な説が出ています。
 例えば、疾病治療説というものがあり、病や傷の平癒を祈って、土偶を自分自身に見立て、患部をもぎ取って身代わりにすることで再生をはたすといもの。

 また、これとは逆に呪人形説もあり、憎い相手を土偶になぞらえ、その不幸を祈って像を破壊するという考え方をとるものです。
 

 姿カタチが多様である土偶は、その用途を明確に特定することはかなり困難です。
だから良いのでしょう。そういった不可思議こそが私達をそそり、古代の神秘とロマンが時を超えて現在に伝わってくるのです。土偶とは代表的な出土品であるといえるでしょう。

以上。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

本宮貴大でした。
それでは。

 

参考文献
早わかり日本史          河合敦=著  日本実業出版社
アナウンサーが読む山川日本史 笹山春生=著 山川出版社 

【どう違う?】縄文文化と弥生文化 

こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】縄文文化弥生文化」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 まず、縄文時代とはどんな時代だったのか。また、弥生時代とはどんな時代だったのか。それぞれわかりやすく解説したいと思います。

縄文時代 弥生時代
狩猟・採取経済 水稲農耕経済
移住生活 定住生活
東日本で栄える 西日本で栄える
平等社会 奴隷制社会
平和な時代 争いの時代

1万年以上も続いた平等で平和な縄文時代に対し、弥生時代は稲作の普及とともに身分と貧富の差が生まれ、各地で争いが起こるようになった時代です。

 旧石器時代、今よりもずっと気温が低かった頃、日本人は、少数で洞窟や洞穴を移住としながら、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物を捕らえる狩猟中心の生活を十数万年もの間過ごしてきました。

 やがて1万3000年前、地球の気候も温暖化し、現在に近い自然環境になりました。植物は亜寒帯性の針葉樹林にかわり、東日本ではブナやナラなどの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がりました。動物も大型動物が絶滅し、動きの早いニホンシカとイノシシなどが多くなりました。

 こうした自然環境の変化に対応するように、人々の生活も大きく変わりました。縄文時代は約1万3000年前から水稲農耕をともなう弥生時代が始まる約2500年前頃までの約1万年間続きますが、狩猟具が改良されたことも相まって、獲物の捕獲率が格段に高まりました。さらに、土器が発明されたことで植物性食物の煮沸やあく抜きが可能になり、クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどの根菜も主食になるなど人々の暮らしは、とてつもなく豊かなものになりました。

 このような縄文時代狩猟・採取経済照葉樹林の西日本よりも木の実が豊かな落葉広葉樹林帯の東日本の方が生活しやすく、狩猟も俊敏なイノシシやクマよりも捕獲が容易なサケ・マスなどの魚介類が中心で、その遡上(そじょう)も東日本に多かったため、縄文文化は東日本で栄えました。

 縄文時代とは1万年以上も続いた長い長い時代ですが、人間同士が互いに武器をとって争ったり、殺し合う戦争はなく、互いに協力しながら獲物を倒し、仲良く獣肉を分け合う素朴な縄文人達はまことにのどかで平和な日々を過ごしていました。それは縄文時代貝塚がゴミ捨て場とともに共同の埋葬施設であることや竪穴式住居の跡から伺い知ることができます。

 

 
 そんな平和な時代を壊したのが、縄文晩期に導入された稲作技術です。稲作はそれまでの日本社会を根本的に変えました。今から約2500年前の弥生時代の始まりです。

 弥生時代は、それまで狩猟・採取経済から水稲農耕という生産経済に移行しました。それは当時の品種改良されていない直播きの稲が生育できる温暖さと水利、外来文化である稲作の伝搬ルートに近いことから西日本の低地で栄えました。
 余った米は高床倉庫に保管するなど食料の貯蔵ができるようになったことで、人々は定住生活をするようになりました。そう、縄文時代弥生時代の最大の違いは人々が移住生活からの定住生活を送るようになったことです。

 そして、良い水田を持つものと、持たざる者、高い稲作技術を有する者とそうでない者の間に歴然とした貧富の差が生まれ、それはやがて身分の差へと発展していきました。

 その結果、他人の収穫物や土地、富や労働力を奪おうとする人々が現れるようになり、各地で戦争がはじまり、それに勝ったものが王(支配者)となり、負けたものが奴隷となる奴隷制社会になりました。弥生時代の支石墓、『魏志倭人伝での卑弥呼の塚(古墳)はその具体例と言えるでしょう。

 まだ文字が普及していないこの時代、日本にはこの時代の様子を記す歴史書は残されていませんが、幸い、隣国の中国の歴史書にその様子が記されています。弥生時代中期の日本は生国に分立し、大変な争乱状態でした。小国の王たちは土地をめぐって戦いに明け暮れるとともに、競って中国に使者を遣わし、その政治的威光を後ろ盾にして、勢力を拡大を図ったようです。

 3世紀に入ると、日本列島にある小国は、滅亡や統合によって拡大整理されています。中でも30か国を支配下に置く邪馬台国が、最大級の国家であったとされています。
女王・卑弥呼が支配するこの国の様子では、人々の間には歴然とした尊卑の差があり、庶民が道で支配者とすれ違うときは、すぐさま端に飛びついてひざまずき、身体を地にすりつけて礼拝したとされています。
 その光景はかつて協力しながら獲物を倒し、平等にその肉を分け合った縄文時代の様子は完全に消失してしまっていました。

旧石器時代と縄文・弥生時代の最大の違い、それは土器という利器を発明したことです。これによって食物の煮炊きが可能になりました。

縄文土器 弥生土器
木の実の煮沸 米の炊飯
低温で焼かれた より高温で焼かれた
厚手 薄手
黒褐色 赤褐色
文様を持つ 文様を持たない

 縄文時代はまだ狩猟・採取経済であり、落葉広葉樹林を中心に採取した植物性食物を主食としていました。そのため、縄文土器は主食である木の実の煮沸やあく抜きのための道具として使われました。

 一方、弥生時代になると、水稲農耕(稲作)が始まり、生産した米や穀物が主食に変わったことで、土器は煮炊き(炊飯)用に改良されました。

 縄文土器の特徴は、低温で焼かれた厚手のもので黒褐色のものが多いです。縄文とよばれる文様もあります。これに対して弥生土器は、より高温で焼かれたため赤褐色をしています。それは堅くて薄く、呪術的で神秘的な文様のないものであるなど弥生時代は土器の製造技術が向上しています。

【どう違う?】南北朝文化と北山文化、そして東山文化

こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【どう違う?】南北朝文化北山文化、そして東山文化」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 室町時代とは、日本の伝統文化である茶の湯、生け花、能・狂言などが確立された時代です。それは室町時代の時期区分によって南北朝文化北山文化、東山文化の3つの文化に分けられます。

南北朝文化 北山文化 東山文化
南北朝期の将軍 3代将軍足利義満 8代将軍足利義政
質実剛健 華やか 簡素
天皇が2人いる時代 室町幕府全盛期 下剋上の風潮が強まる
歴史書や軍記物が多い 金閣寺 銀閣

 南北朝文化では動乱の時代を背景に、様々な歴史書や軍記物語が登場しました。この時代を描いた『太平記』は講釈の形で世に広まりました。また、喫茶の習慣が定着したことで、茶を飲んで判別する闘茶が流行しています。

 南北朝時代は、足利尊氏鎌倉幕府を滅ぼし、自らは北朝を擁護に、後醍醐天皇南朝として南北朝の動乱が始まりました。その動乱期の最中に室町幕府が発足され、その礎を徐々に創っていきます。
 
 天皇が2人いるという未だかつてない不安定な情勢から歴史に答えを求め歴史書が読まれたり、戦乱が続くなかで軍記物もさかんに書かれています。そんな南北朝時代に生まれた質実剛健な文化を南北朝文化といいます。

 
 その後、北山文化が生まれ、そして東山文化が生まれます。しかし、両者は全く雰囲気の異なる対照的な文化であり、公家と武家が融合し、壮大で華やか北山文化に対し、簡素で庶民文化に根ざした文化です。

 北山文化とは14世紀末、3代将軍・足利義満が京都北山につくった別荘に因んでつけられた名前です。
 義満の頃になると、南北朝の動乱も終わり、鎌倉時代の守護は守護大名と呼ばれるようになるなど、室町幕府の組織体制もほぼ完成します。

 北山文化を象徴する建築物には、鹿苑寺金閣金閣寺が挙げられます。その建築様式は、伝統的な寝殿造風に禅宗様が加わっており、義満の広大な邸宅の敷地に築かれたものです。北山第と呼ばれたこの場所は、義満の「大内裏」のようなものであり、天皇に勝る権威の象徴でした。

 義満は寺社の格式の整備も行い、臨済宗南禅寺を頂点とする五山十殺の制を確立しました。そして禅の世界を具現化した水墨画が広まり、義満に庇護された観阿弥世阿弥父子などによる能もさかんに演じられました。
 

 
 北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化の中に取り込まれていき、新しい独自の文化として広く根付いていきました。
 それは東山文化として8代将軍・足利義政の時代に開化します。7代将軍で義政の兄である足利義教(よしのり)の若死により、棚ぼた式に将軍になったものの、義政の政治運営力は最低ランクでした。

 義政の優柔不断によって、応仁の乱が勃発。京都はあっという間に焼け野原になってしまいました。応仁の乱は、その後11年間続き、それがきっかけで強い者が勝ち、力のないものは身分に関わらず容赦なく排除される下剋上の風潮が強まってきます。

 そんな足利義政ですが、文化人としては大変優秀で、応仁の乱に疲れ切った義政は京都東山に隠居し、義満にならって慈照寺銀閣銀閣寺)を建てました。簡素で幽玄のおもむきの強い書院造風は、現在の和風住宅の原型となっています。
 
 義政は銀閣を建てるのに7年も費やしていますが、財政難のため銀箔を貼る計画も遂に実現できませんでした。このことからもわかるように、東山文化には北山文化をつくりあげたほどの富はなかったが、そのかわり、庶民の生活に根差した文化が発達しました。

 東山文化を特徴付ける質素さ、幽玄、侘びの美意識は、枯山水雪舟らによる日本的な水墨画の確立などにも通じています。侘茶や茶道の基礎もこの時期に作られました。
 この時代に盛んになった庶民の文化も、現在に受け継がれています。庶民文化の代表とは何より「一寸法師」や「浦島太郎」などの御伽草子
正月や盆に着飾った人達が踊る風流踊りと念仏踊りが結びついた盆踊りが流行したのも室町時代のことです。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
オールカラーでわかりやすい 日本史         西東社
もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

【豊臣秀吉4】なぜ秀吉は農民から天下人になれたのか

こんにちは。本宮 貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【豊臣秀吉4】なぜ秀吉は農民から天下人になれたのか」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 

「この茶を用意したのはお前か?」

「はい。そうです。」

「歳はいくつじゃ?」

「14歳です。」

秀吉は小僧の頭をワシワシと撫でながら言いました。

「はっはっはっ。おみゃ~さんは歳の割に賢い子じゃ。」

「名は何という?」

「・・・。佐吉と申します。」

「ふふ。そんなに緊張せんでも良い。ワシは長浜城羽柴秀吉という。よろしくな。」

「え?・・・城主様ですか!?」

「そうじゃ。ワシはおぬしが気に入ったぞ!のう佐吉や。ワシの家臣になってみんか?まぁ、悪いようにはせんよ。」

「え・・・・・あ・・ははっ。」


 長浜城主となった秀吉は、鷹狩りの途中、近江国観音寺(おうみのくにかんのんじ)という寺に立ち寄り、寺小僧の佐吉にお茶を出してもらいました。すると、そのお茶の絶妙な量と温度に感嘆した秀吉は佐吉を家臣に迎え入れることに成功しました。佐吉とは石田三成の幼名です。

 

 木下秀吉から羽柴と名乗るようになった秀吉は、信長から拝領した小谷の城から今浜の地に移り、長浜城を築き、1576年、無事41歳の新年を迎えました。
今回も、秀吉はなぜ天下人になれたのかを見ていきたいと思います。

 


 1573年1573年、浅井・朝倉攻めにおける一連の活躍を評価された木下秀吉は、近江の国(滋賀県)の小谷城主として 長浜城主として12万石の領地と3千人ほどの家来が与えられました。

 秀吉は近江の国を支配する大名になったのです。

 現代でいうところの、近江の国の営業所長兼子会社社長になったのです。
この頃になると、坂本城を得た明智光秀佐和山城をもらった丹羽長秀など信長に仕える有力家臣がぞくぞくと頭角を現してきた時期です。秀吉も彼らと並ぶ地位に登りつめたのです。

 

 しかし、秀吉のような農民出身の武将が大名に上がるとなると、周囲からの嫉妬や妬みを買ってしまいます。

羽柴秀吉だと?木下から随分と重々しい響きのある名に変えたな。サル、羽柴の由来は何だ?」

「はい。我が織田家の先輩家臣の中でも剛毅果断の柴田勝家殿、温情忠実な丹羽長秀殿、このお二方を見習うために、その一文字ずつをいただいたのでございます。」

 

 柴田勝家といえば、織田家にとって最古参の実力者です。

「秀吉?ふん、あやつは、ゴマすりとおべっかで成り上がっただけの大名だ。」

 勝家は昔ながらの身分と序列を守る保守的な性格であり、秀吉のような出世を続けるような跳ね返り者をすごく嫌います。なので機会さえあれば、出る杭の頭に痛撃を加えてやろうと、鴨の目鷹の目、失策を見つけだそうと考えている。

 そんな勝家に秀吉は言いました。
「勝家殿、そなたの姓より‘柴‘の文字を拝借したいと存じます。」
「何だって?全く変わった奴じゃのう。まぁ好きにせい。」
 勝家は苦笑いしながらも、悪い気もせず、姓の使用を許可しました。

 

 一方、丹羽長秀は、温情な長者、秀吉の足軽時代から様々な面で目をかけてもらった人物です。

「秀吉殿、本当に立派になられましたのう。流れ者の身からよくぞここまで。大したものじゃ。」
「いやいや、おかげ様で、神仏の加護、いや、それもこれも長秀殿のおかげじゃ。是非とも姓の拝借許可を願い申し上げます。」

 自己啓発の分野ではよく、秀吉が羽柴の名を冠したのは、出世術のとしての嫉妬対策だったと紹介されています。

 しかし、秀吉自身は出世したいとは微塵も思っていませんでした。

 ただ信長様が好きで、上様の天下統一のため障害となるであろう要素を取り除いただけなのです。


「殿が構想する天下の世は、もはや時間の問題になられた。この大切な時期に部下達の嫉視反目など、あって良いはずがないであろう。」

「常に上様の心を自分の心として、物事を考える。」

 当時のような身分や家柄が重視される時代に、信長のような能力主義者によって武士として立身出来た秀吉は常にそのような態度でした。


「ではサル、なぜに小谷の地から今浜の地に城を移したのだ。」

「いや~殿から拝領しました小谷の城は、由緒は深いものの、古風な山城で舟運の便も悪い。」

「さようか。」

「しかし、ワシが殿から近江の国を任されたのは、地侍の反乱を恐れてひっそりとたてこもるためではありません。」

 

 領主たるもの、領民の生活を安定させ、物資の流通を活性化、そして信長の構想する新しい社会への希望と展望を抱かせる。これこそ秀吉のモットー。

 そのためには、城は平地で、道路・交通の要地であり、その上、琵琶湖の岸近く、舟運の便に恵まれた土地に築かれなくてはならないとして選ばれたのが今浜の地でした。

 「繁栄の長久と、信長様の名にあやかり、‘長浜‘と改名させてもらいました。」

 秀吉はいつもこんな調子でした。

 大名になったことで、それまでの足軽頭のような小規模な組織では済まなくなります。これまで派遣社員から中堅規模の子会社を経営するようになったのですから。
戦闘の作戦だけではなく、年貢の取り立てから治安維持や訴訟の解決まですべて秀吉の組織でやらねばなりません。

 秀吉は組織づくりと人材探しに努めました。幸い、領土である北近江には商業が盛んな土地で行政財政に詳しい者も多かった。秀吉は近江の民衆の中から有能な者や、利口そうな少年を探しては召し抱えるようになっていきました。

 かつて自分が信長様にしてもらったように、秀吉もまた自分の領地より身分に関わらず有能な者を見つけ、才能を発掘し、どんどん登用していったのです。
それは、先ほどの石田三成、さらに長束正家や益田長盛など、後に豊臣家の内閣機能として豊臣家を支える中心人物に近江出身者がいかに多いかを見れば、一目瞭然です。

 

 1576年。この頃になると信長の支配圏は一気に拡大していきます。前年の長篠の戦い武田勝頼を下し、当面の危機を脱した信長のその勢力圏は尾張・美濃・近江・京都をはじめ、伊勢から紀州、越前そのほか北陸路を合わせれば石高400万石にまで達していました。

 もはや戦国大名の範囲を超え、中央集権的な一種の近世国家が出来上がりつつありました。

 自信をつけた信長は天下統一への道を加速させていきます。

「天下を拒むのは、もはや越後の上杉と中国の毛利のみ。」

 上杉に関しては越前の柴田勝家が司令官として担当しています。柴田は北陸方面統括部長になったのです。そこで問題は毛利になりました。その領土は山陽・山陰・そして九州にまでおよび、瀬戸内海の船運を押さえている経済力豊かな大大名です。

「中国の毛利攻めの総大将、我こそはと思う者は名乗り出よ。」

家臣団が黙りこく中、一人の重臣が名乗り出ました。

「中国攻めはワシにやらせてください。」

それは羽柴秀吉であり、秀吉は毛利こそ織田家にとって最大の敵と考え、一番困難な仕事を自ら願い出たのです。

「危険ばかり多くて、馬鹿な生き方じゃ。」
と冷たく見る人も多かったかも知れない。でも世間は常に{盲千人、目明き千人」、秀吉の生き方に感動と共鳴を覚え、そうした仕事の手助けをしたいと思った男達も数多くいました。その典型人物こそ、乱世の名参謀と呼ばれた黒田官兵衛でしょう。

「サル、これは一世一代の大仕事だ。覚悟は出来ているのか。」
「もはや、我が織田家に恐れるものは何もありません。喜んで引き受け申し上げます。」

 これ以降、織田家は軍事組織としてその体裁を整えていきます。

 総司令官の織田信長以下、北陸方面を統括する柴田勝家、近畿方面の明智光秀、関東方面の滝川一益、四国方面の丹羽長秀、そして中国方面の羽柴秀吉
織田信長の天下統一は目前まできていました。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「秀吉」をたっぷり楽しむ法     高野冬彦=著  五月書房
戦国時代の組織戦略        堺屋太一=著  集英社
マンガで一気に読める!日本史 金谷俊一郎=著 西東社

【日本のあけぼの】日本人はどこからやってきたのか。

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日本のあけぼの】日本人はどこからやってきたのか。」というお話です。

今から約200万~1万年前の洪積世、この時代はいわゆる旧石器時代と呼ばれています。
まだ日本列島の北海道や九州がユーラシア大陸とつながっており、日本海が大きな湖になっていた頃の話です。
ナウマンゾウやオオツノジカといった大きな獣を求めて朝鮮半島華北など東アジア方面から歩いて日本列島に移り住みました。
また、インドシナや台湾などの東南アジア方面からも人間が渡ってきました。
さらに、沿海州やシベリアなどの樺太方面からも列島に移り住むなど日本列島は多民族の地域となりました。
彼らは最初、同種族同士が10人前後の集団で一定の範囲を移動しながら生活していました。なので、住居も簡単なテント式のものか洞穴を利用し、狩猟だけでなく、採取によって植物性の食糧も確保していました。
やがて異なる種族が互いに接触し合うようになりました。
彼らは争いを経て、互いに共存して生活するようになりました。
そこには身分や地位、差別、貧富の差などなく、皆が平等で、平和で、のんびりとした生活が広がっていました
そんな彼らが混血された結果、やがて日本人の原型である縄文人として誕生しました。
しかし、これがのち(弥生時代)になると、北アジア朝鮮半島から多数の渡来人が来航、彼らによって日本列島には稲作が伝えられたものの、領土をめぐって各地で争いをはじめ、縄文人は辺境へと追いやられたり、彼らの奴隷となったりしました。
その後の日本列島は古来の縄文人と新参の弥生人が共存する二種構造社会とりました。
つまり、現代の日本人は縄文人弥生人の混血であるのです。


 以上が、現在最も有力な説とされている「日本のあけぼの」です。

 ところで、人類はこの地球城にいつどこに誕生したのでしょうか。

 人類は化石人類の研究により、猿人・原人・旧人・新人の順に出現したことが知られています。
 
 しかし、猿人(アウストラロピテクスなど)の化石はアフリカにしか発見されておらず、人類はまず、500万年前にアフリカで誕生したと考えるのが妥当とされています。以下の表は人類の進化と年代を表したものです。

B.C.500万年 人類の出現
B.C.200万年 猿人(アウストラロピテクス、ホモハビリス)
B.C.100万年前 ジャワ原人
B.C.70万年 北京原人
B.C.13万年 旧人ネアンデルタール人
B.C.13万2千 新人(山下町洞人)
B.C.3万年 新人(クロマニヨン人
B.C.1万8千 港川人
B.C.1万3千 浜北人
B.C.1万年 日本列島の成立


 私たちの住む日本列島にも、およそ10万年前の地層から打ち欠いただけの打製石器が見つかっており、明らかな生活痕跡が見つかっています。したがって、少なくてもその頃までには日本列島に人が生活していたことが分かっています。

 10万年前ならば、旧人が使っていたのではないかと考えられましたが、私たちの直接の祖先である新人(ホモ=サピエンス)も10万年前から登場し始めているので、この石器を使用していたのが旧人なのか、新人なのかを判断するのは難しいです。

 日本の土壌は酸性が強く人骨は溶けてしまいますが、旧石器が出土することでそれがわかります。

 しかし、日本列島にも旧石器時代の人骨が見つかっていないわけではありません。

 例えば、沖縄県の土壌は石灰質なので、港川人(みなとかわじん)や山下町洞人(やましたちょうどうじん)といった人骨が出土していますし、静岡県でも浜北人(はまきたじん)が発見されています。しかし、これらはいずれも新人段階のものです。

 最初のストーリーで、日本人は東アジア方面、東南アジア方面、樺太方面から移り住んだ説明しましたが、港川人の特徴は、小柄で顔が四角く立体的であるなどオーストラリアの先住民と非常によく似ているといわれています。そのことから南方方面からの渡来もあったのではないかと考えられています。
いずれにしても日本列島には様々な地域で生活していた人間が移り住み、彼らの混血が私たちの直接的な祖先であることが間違いない事実であるとされています。

つづく。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうござます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
アナウンサーが読む山川日本史   笹山晴生=著 山川出版社
マンガでわかる日本史       河合敦=著  池田書店
早わかり日本史          河合敦=著 日本実業出版社