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【どう違う?】縄文文化と弥生文化 

こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】縄文文化弥生文化」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 まず、縄文時代とはどんな時代だったのか。また、弥生時代とはどんな時代だったのか。それぞれわかりやすく解説したいと思います。

縄文時代 弥生時代
狩猟・採取経済 水稲農耕経済
移住生活 定住生活
東日本で栄える 西日本で栄える
平等社会 奴隷制社会
平和な時代 争いの時代

1万年以上も続いた平等で平和な縄文時代に対し、弥生時代は稲作の普及とともに身分と貧富の差が生まれ、各地で争いが起こるようになった時代です。

 旧石器時代、今よりもずっと気温が低かった頃、日本人は、少数で洞窟や洞穴を移住としながら、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物を捕らえる狩猟中心の生活を十数万年もの間過ごしてきました。

 やがて1万3000年前、地球の気候も温暖化し、現在に近い自然環境になりました。植物は亜寒帯性の針葉樹林にかわり、東日本ではブナやナラなどの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がりました。動物も大型動物が絶滅し、動きの早いニホンシカとイノシシなどが多くなりました。

 こうした自然環境の変化に対応するように、人々の生活も大きく変わりました。縄文時代は約1万3000年前から水稲農耕をともなう弥生時代が始まる約2500年前頃までの約1万年間続きますが、狩猟具が改良されたことも相まって、獲物の捕獲率が格段に高まりました。さらに、土器が発明されたことで植物性食物の煮沸やあく抜きが可能になり、クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどの根菜も主食になるなど人々の暮らしは、とてつもなく豊かなものになりました。

 このような縄文時代狩猟・採取経済照葉樹林の西日本よりも木の実が豊かな落葉広葉樹林帯の東日本の方が生活しやすく、狩猟も俊敏なイノシシやクマよりも捕獲が容易なサケ・マスなどの魚介類が中心で、その遡上(そじょう)も東日本に多かったため、縄文文化は東日本で栄えました。

 縄文時代とは1万年以上も続いた長い長い時代ですが、人間同士が互いに武器をとって争ったり、殺し合う戦争はなく、互いに協力しながら獲物を倒し、仲良く獣肉を分け合う素朴な縄文人達はまことにのどかで平和な日々を過ごしていました。それは縄文時代貝塚がゴミ捨て場とともに共同の埋葬施設であることや竪穴式住居の跡から伺い知ることができます。

 

 
 そんな平和な時代を壊したのが、縄文晩期に導入された稲作技術です。稲作はそれまでの日本社会を根本的に変えました。今から約2500年前の弥生時代の始まりです。

 弥生時代は、それまで狩猟・採取経済から水稲農耕という生産経済に移行しました。それは当時の品種改良されていない直播きの稲が生育できる温暖さと水利、外来文化である稲作の伝搬ルートに近いことから西日本の低地で栄えました。
 余った米は高床倉庫に保管するなど食料の貯蔵ができるようになったことで、人々は定住生活をするようになりました。そう、縄文時代弥生時代の最大の違いは人々が移住生活からの定住生活を送るようになったことです。

 そして、良い水田を持つものと、持たざる者、高い稲作技術を有する者とそうでない者の間に歴然とした貧富の差が生まれ、それはやがて身分の差へと発展していきました。

 その結果、他人の収穫物や土地、富や労働力を奪おうとする人々が現れるようになり、各地で戦争がはじまり、それに勝ったものが王(支配者)となり、負けたものが奴隷となる奴隷制社会になりました。弥生時代の支石墓、『魏志倭人伝での卑弥呼の塚(古墳)はその具体例と言えるでしょう。

 まだ文字が普及していないこの時代、日本にはこの時代の様子を記す歴史書は残されていませんが、幸い、隣国の中国の歴史書にその様子が記されています。弥生時代中期の日本は生国に分立し、大変な争乱状態でした。小国の王たちは土地をめぐって戦いに明け暮れるとともに、競って中国に使者を遣わし、その政治的威光を後ろ盾にして、勢力を拡大を図ったようです。

 3世紀に入ると、日本列島にある小国は、滅亡や統合によって拡大整理されています。中でも30か国を支配下に置く邪馬台国が、最大級の国家であったとされています。
女王・卑弥呼が支配するこの国の様子では、人々の間には歴然とした尊卑の差があり、庶民が道で支配者とすれ違うときは、すぐさま端に飛びついてひざまずき、身体を地にすりつけて礼拝したとされています。
 その光景はかつて協力しながら獲物を倒し、平等にその肉を分け合った縄文時代の様子は完全に消失してしまっていました。

旧石器時代と縄文・弥生時代の最大の違い、それは土器という利器を発明したことです。これによって食物の煮炊きが可能になりました。

縄文土器 弥生土器
木の実の煮沸 米の炊飯
低温で焼かれた より高温で焼かれた
厚手 薄手
黒褐色 赤褐色
文様を持つ 文様を持たない

 縄文時代はまだ狩猟・採取経済であり、落葉広葉樹林を中心に採取した植物性食物を主食としていました。そのため、縄文土器は主食である木の実の煮沸やあく抜きのための道具として使われました。

 一方、弥生時代になると、水稲農耕(稲作)が始まり、生産した米や穀物が主食に変わったことで、土器は煮炊き(炊飯)用に改良されました。

 縄文土器の特徴は、低温で焼かれた厚手のもので黒褐色のものが多いです。縄文とよばれる文様もあります。これに対して弥生土器は、より高温で焼かれたため赤褐色をしています。それは堅くて薄く、呪術的で神秘的な文様のないものであるなど弥生時代は土器の製造技術が向上しています。