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【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(後編)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日本史最大のミステリー】本能寺の変はなぜ起きたのか(後編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

前回までの話はこちらから↓ 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 豊臣秀吉明智光秀、この2人は共に織田信長に仕える実力者としてメキメキと重臣にまで出世していきました。2人は主人信長様の愚痴を言い合い、共に励まし合う仲でした。そんな中、光秀は信長に謀反を決起。躍起になる光秀を止められないと悟った秀吉は信長に代わって天下統一を引き継ぐことを決意しました。

 1582年6月2日、まだ夜が明ける前の早朝のことでした。1万を超える明智光秀の軍勢がぞくぞくと京の都に入ってきました。

 軍勢はやがて本能寺を包囲しました。

 

 本能寺に宿泊していた信長は物音で目が覚めました。そして世話係の蘭丸に状況を報告させました。

「誰か喧嘩でもしておるのか?」

「いえ。寺が兵に包囲されています。」

「なんだと!?如何なる者の企てぞ。」

明智の配下のようです。」

「光秀!?謀反か・・・・?」

 信長は一瞬のうちに頭の中で様々な思考を巡らせました。

 それまでの光秀とのやりとりを思い返したのです。

 自分は光秀を嫌い、冷や飯を食わせるようなことをしてしまった。しかし、人間関係は双方向。光秀もまた自分を嫌っており、彼はそんな信長に反旗を翻したのだと・・・・。

 そして信長はようやく以下のことに気づきました。

「ワシは自ら死を招いたな・・・・。」

 蘭丸は信長に報告します。

「殿、もう逃げ場がありません。気付くのが遅すぎました。」

「分かっておる。ふん、光秀などにくれてやる首などないわ。寺に火を放て。」

信長は自ら弓を持って、応戦しました。

しかし、間もなく銃弾が信長の左肩に命中。応戦を断念しました。

「是非に及ばず。」

そう言い残し、信長は燃え盛る炎の中、自害しました。享年49歳でした。

 本能寺の近くにある妙覚寺に泊まっていた信長の長男・信忠は、騒ぎを聞きつけ、わずかな兵を集めて本能寺に救援に向かいました。

しかし、信長を救助しようにも本能寺はすでに炎上しており、中に入ることは出来ません。

「信忠様、お逃げください。明智軍は信忠様も狙っております。」

「たわけ!このまま逃げられるか。父上の仇を討つのだ。二条城に入れ!守りを固るのだ!」

 信忠は二条城で防戦態勢を取るも、1万3千の明智軍が相手では多勢に無勢、攻撃を受けて城は陥落。信忠も戦死してしまいました。

 京都は一時、大騒動になりましたが、戦闘が一部地域に限定されていたため、多くの人は何が起こったのかまだ知らぬままでした。

 

 その頃、中国地方の備中高松城では羽柴秀吉の軍が城を包囲していました。城の周囲を水で満たし、兵糧尽きるまで待つという「水攻め」をしていました。

「お!官兵衛殿、今、城の中に美人が見えたぞ!側室として迎えても良いのう。ムフフッ」

「殿、いい加減にしないと、また信長様に怒られますぞ。」

「しかし、早く降伏してくれんかのう。このままじゃ城の中の女も子供もすべて無駄死にじゃ。」

 毛利方は和睦を申し出たものの、秀吉はこれを拒否。大将・信長の援軍が到着するのは今か今かと待っていました。

 援軍が到着すれば毛利方5万との正面衝突は避けられません。一同はまさに一触即発の空気の中にいました。

 そんな時でした。6月3日、一片の悲報が事態を急変させました。

「殿、大変です。」

「どうした!?」

「親方様が・・・・信長様が・・・・・」

すぐに事態を察した秀吉の眼にはすでに涙が出ていました。

明智殿が本能寺にて信長様を襲撃、信長様はご自害されたとのこと・・・・」

「それは真か?・・・」

「先程、明智方から毛利軍に送った諜報員が我が軍の警戒網に引っ掛かりまして。これはその諜報員より奪った密書でございます。おそらく真かと・・・・」

「光秀殿、なぜ・・・・・。」

 秀吉は激しく後悔しました。やはりあの時、光秀を阻止しておくべきだったと。自分を支えていた強固は足場が、はかいまでに崩壊してしまったのです。

 泣き崩れる秀吉を官兵衛は説得します。

「殿、しっかりしてください。親方様が亡くなった今、天下を取るのは秀吉様、あなたです。」

「たわけ!!天下などどうでも良いわ。それより今は、一刻を争う事態だ。」

秀吉はすぐに立ち上がり、全軍に言いました。

「毛利とは和睦申し入れをせよ。そして全軍、京へ戻れ!!!!」

「どうするおつもりで!?」

「決まっているだろう。光秀を討ち取るのじゃ。信長様の弔い合戦じゃ!!」

「オオーーーッ」

 なんと、講和申し入れをしていた毛利に対し、逆に秀吉軍の方から講和を申しいれるカタチとなりました。

「輝元様、あの羽柴軍が講和の申し入れをしてきました。」

「一体、どうしたというのだ。」

「主君・信長が横死したそうです。」

「なんと・・・・。でもそれは絶好の機会ではないか。これで信長の援軍はなくなったわけだ。ワシらにも武運が開けたわけだ。」

「殿、冷静になってください。我が軍はこれまで散々、羽柴軍の切り崩しに遭ってきました。その結果、多くの重臣達が羽柴軍に寝返ってしまいました。もはや毛利家中は崩壊寸前です。」

「うん、そうだったな・・・・。」

「実力で羽柴軍に勝ち目はありません。今後のことを考えると、ここはひとつ奴らに恩を売っておいたほうが賢明かと・・・。」

 こうして毛利氏は秀吉からの講和申し入れを即時に受け入れました。そしてこの決断は後に毛利氏の窮状を救うことになるのでした・・・。

 6月4日、毛利と和睦を成立させた秀吉は2万の軍勢を率いて中国から全速力で京へ戻りました。(中国大返し

 しかし、鎧や武器を持った兵士達の足どりは遅すぎました。おまけに長期に及ぶ毛利との戦闘で兵達は酷く疲弊していました。

「駄目だ。この速度では遅すぎる。」

7日沼城城に到着した一同に対し、司令官の秀吉は思わぬことを命じます。

「全軍、甲冑を脱げ!最低限の武器だけ持って再出発じゃ。」

甲冑を脱いだことで身軽になった兵士達は猛スピードで再出発しました。

 その頃、光秀はどうなったのでしょうか。

本能寺の事件から2~3日も経つと各地に「織田信長重臣明智光秀の謀反のよって討たれた」という情報が流れていきました。事件発生当日よりもさらに大きな混乱と衝撃が波及していきました。

 そして6月5日、光秀は京都周辺を掌握するようになりました。光秀は天皇や公家に金銀を献上するなどして朝廷工作に乗り出しました。そして天皇は、光秀の行動を高く評価し、光秀を征夷大将軍に任命しました。

 以降、光秀は全国の諸大名に「信長横死」の手紙を送りました。

「諸大名の皆さん、従来の武家社会をもう一度再建していきましょう。」

 全国の諸大名にそう呼びかけたのです。

 しかし、光秀の意向に反し、信長征討は全国の諸大名をはじめ、多くの領主・領民から反感を買うこととなりました。意外にも織田信長という人物は庶民から絶大な人気を誇っていたのです。

 室町時代から続く「座」や「関所」は庶民の自由な商売を大きく阻害し、一部の特権階級にのみ利益が集中する状態になっていました。信長の代表的な政策の1つです。

「楽市・楽座」と呼ばれる自由な商業政策は、中世の悶々とした封建的な閉鎖的な社会制度を取っ払い、近世の合理的で開放的な社会制度を作り上げるための政策だったのです。

 信長の偉業とは一言でいうと、「日本のルネサンス」と言えるでしょう。

 光秀はそんな先進的なリーダーを殺してしまったのです。

 そして、極めつけは光秀の重臣達すらも光秀に協力しようとしなかったことです。
光秀の重臣である細川藤孝は一足先に秀吉軍の援軍として中国地方へ遠征していました。
「光秀の謀反による信長横死」を聞いた細川は光秀に大きく失望、そして光秀からの協力要請に対し、こう答えました。
「今は君主・信長公の追悼をあげるだけです。」

 光秀の認識は甘かった。

 朝廷や公家を取り込めば自分が天下を担うことが出来ると考えていたが、単なる一領主に過ぎない光秀にとってそれは極めて困難なことでした。光秀は思ったほど多くの勢 力から支持を得ることが出来なかったのです。

 光秀はただ、室町時代以来の伝統的で秩序ある国家を再建したかっただけだった。しかし、今では「君主殺しの逆賊」のレッテルを貼られるという秀吉の予測通りの結果となってしまいました。

 6月6日、京を目指す秀吉軍は途中、本拠地である姫路城に入り、2日ほどの休息を取ることにしました。

「信長様の仇を討つため、光秀との戦いには絶対勝たなくてはいけない。」

 そこで秀吉は、現在の価値でいう80億円相当の金銀を将校クラスの武将達に。そして8万石の備蓄米を全ての兵隊に分け与えたのです。

「勝つ前にこれだけくれるのだから、勝った後はどれだけくれるのだろう。」

 部下達の士気は最高潮にまで高まりました。

 食ったことでエネルギーが出て来た武将達は9日、全速力で京へ向かいました。
 
 そして6月12日の朝、秀吉軍は尼崎に到着。この頃、秀吉軍の動向を明智軍も察知するようになります。

「殿、大変です!秀吉軍がこちらに向かっております。」

「なんだと!」

「その数およそ3万!もの凄い速さです。」

 京に戻る途中、秀吉軍に加担する勢力は増えていました。信長の弔い合戦という秀吉の大義名分は多くの勢力の共感を呼んだのです。

「秀吉め・・・やっぱり来たか。」

「殿、大至急、兵の召集を願います。」

「いいだろう。奴らを迎え討て!!!!」

 これから合戦だというのに、光秀の表情はどこか清々しいものがありました。3万という数を聞いた瞬間、光秀は悟ったのでしょう。「自分は秀吉に圧倒される。自分は最期、秀吉と戦い、精も根も尽き果てよう。」そう光秀は決心したのかもしれません。

 6月13日、秀吉軍と光秀軍は京都と大阪の県境に位置する山崎で対峙しました。秀吉軍3万に対し、光秀軍は1万余り、もはや光秀に勝ち目はありません。

 合戦の火ぶたがきられたのは午後4時頃です。数で劣る光秀軍は多少健闘するも間もなく総崩れ、合戦は2時間ほどで終結しました。

「殿、光秀を取り逃しました。只今より追撃し、早急に首を持って参ります。」

 慌てる官兵衛を秀吉は制止しました。

「放っておけ。どうせ奴に味方する者などいるはずもない。世の中には殺して良い君主と殺してはいけない君主が存在する。光秀殿は明らかに殺してはいけない君主を殺してしまった。こうした摂理を彼は見抜けなったのだ。」

 秀吉は光秀を断罪しました。一方で、秀吉は光秀に共感もしています。

「まぁ光秀殿の気持ちもわからんでもない。信長公は、勇将ではあっても良将とは程遠いものだった。目的達成ばかり優先し、人から好かれるということを生涯に渡り怠ってきたのだ。」

 秀吉は、主君信長の「失敗の本質」をしっかり見抜いていました。社会的成功には、信長のような「剛の精神」だけでは達成できず、「柔の精神」も必要だったのです。

 だからこそ、秀吉は天皇や有力大名に懐柔しながら天下統一事業を進めました。秀吉は他人の力を借りて天下統一を達成したのです。

 
 戦いに敗れた光秀は坂本城へ向かうべく京都市内の竹やぶの中を移動中、百姓からなる落ち武者狩りに襲われて竹槍で突かれ、あえなく落命してしまいました。

 光秀を破った秀吉は天に向かって信長に詫びました。

「信長様、大変申し訳ございませんでした。ワシは光秀の暴走を止めることが出来ませんでした。こんなことになってしまって、許してくれなど言いません。ワシに出来ることは信長様の無念を晴らすことです。」

 秀吉は信長の達成出来なかった天下統一を何としても成し遂げることを誓ったのでした。

 以上、今回は本能寺の変をご紹介いたしました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
「秀吉」をたっぷり楽しむ法      高野冬彦=著        五月書房
マンガで一気に読める日本史      金谷俊一郎=監修      西東社
詳細図説 信長記           小和田哲男=著       新人物往来社
信長は本当に天才だったのか      工藤健策=著        草思社