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【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(中編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(中編)」というお話です。

 

 大正時代に勃発した第一次世界大戦は人類史上類を見ない大量の戦死者を出す悲惨なものでした。

 したがって戦後、二度とこんな悲惨な戦争が起きないように列強諸国が中心となり、世界の平和秩序に関する取り決めを行い、ヴェルサイユ・ワシントン体制が作られました。

 しかし、この体制は昭和に入って、維持することが難しくなる出来事がおきました。

 世界恐慌が起きたのです。

 これにより、世界の平和秩序はもろくも崩壊していきました。

 

 世界恐慌は日本にも波及し、昭和恐慌として日本を苦しめました。これによって、日本は満州事変を起こし、満州国を建国し、経済回復と国力強化を図りました。

 しかし、国際連盟は1933(昭和8)年2月の臨時総会で、リットン報告書にもとづき、満州国の建国を認めず、松岡洋右率いる日本全権団は、総会の場から退場し、同年3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を発表しました。

 

 日本が満州事変を起こし、ワシントン体制を揺さぶっている頃、ヨーロッパでは、ファシズム全体主義)という暴力的な方法で民主主義や人権を無視する全体主義が台頭します。

 世界恐慌に苦しんでいたドイツは、同1933(昭和8)年に全体主義体制(ナチズム)を樹立するとともに、ヒトラー率いるナチス党はヴェルサイユ体制の打破を唱えて、国際連盟を脱退しました。

 同じく世界恐慌に苦しむイタリアでもムッソリーニ率いるファシスタ党による一党独裁政治が始まり、エチオピア侵攻をきっかけに国際連盟と対立するようになりました。
これら国際的に孤立を深めた日本、ドイツ、イタリアは後に手を組み、枢軸国を形成するのでした・・・。

 

 この頃、日本国内では1932(昭和7)年の血盟団事件五・一五事件などの国家改造運動を唱えたテロやクーデター未遂事件などが続く中、政党政治の影響力はどんどん小さくなり、遂にはその思想的な弾圧も始まりました。

 斎藤内閣に続く岡田啓介内閣のもと、美濃部達吉天皇機関説が国体に反すると批判されるようになりました。

 天皇機関説はそれまでの大日本帝国憲法を支えてきたいわば正統学説でした。

 しかし、1935(昭和10)年、貴族院で軍人出身の菊池武夫が批判したのをきっかけに、現状打破を望む陸軍、立憲政友会の一部、右翼、在郷軍人会などが全国的に激しい排撃運動を展開しました。

 岡田体制内閣はこの批判に負け、天皇機関説は誤りで、天皇主権説という声明を発表します(国体明徴声明)。同時に美濃部の著書は発禁となり、美濃部は貴族院議員を辞職しました。

 こうして政党政治や政党内閣制は、民本主義と並ぶ理論的支柱を失いました。

 

 政治的発言力を増した軍部(特に陸軍)は、現状打破を掲げ、これに一部の官僚(革新官僚)や政党人が同調するようになりました。

 陸軍にとって、斎藤実岡田啓介と、2代の海軍穏健派内閣が続いたことは、彼らの不満を募らせることになりました。1934(昭和9)年に陸軍省が発行したパンフレット「国防と本義と其の強化の提唱」は、陸軍が政治・経済の運営に関与する意欲を示したものとして、当時の右翼や国家主義者から注目を集めました。

 この頃、陸軍の内部では、20代の青年将校を中心に、直接行動による既成支配層(官僚や財閥)を打倒しようとする勢力(皇道派)と、30代~40代の中堅幕僚将校を中心に、既成支配層をむしろ利用し、強力な総力戦体制樹立を目指す勢力(統制派)が生まれました。

天皇主権説が唱えられた今こそ、決起すべきだ。」

 岡田内閣による国体明徴声明は国家改造運動に格好の口実を与えてしましました。

 

 そして遂に事件が起きました。

 

 1936(昭和11)年2月26日早朝、軍事政権樹立を目指した陸軍の急進派(皇道派)の青年将校たちが、約1400名の兵を率いて首相官邸や警視庁を襲撃し、斎藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害しました(二・二六事件)。

 これに対して昭和天皇は断固として彼らを反乱軍として鎮圧せよと指示する厳戒令が発告されました。

 このクーデターは国家改造・軍部政権樹立を目指したものでしたが、天皇が厳罰を示したことにより、反乱軍は、陸軍(統制派)と海軍により鎮圧されました。反乱軍の首謀者は死刑となり、彼らの理論的指導者であった北一輝も死刑に処せられます。

 

 この結果、皇道派は陸軍から完全に排除され、皇道派と対立していた陸軍の主流派(統制派)が陸軍を牛耳るようになり、陸軍は一致団結して、さらに強硬な要求を政府に突きつけるようになります。

 岡田内閣は二・二六事件後に総辞職し、広田弘毅が首相として内閣を作ります。

 この広田内閣は、軍部の要求を受け入れるカタチでかろうじて成立した内閣で、ほとんど軍部の傀儡的な内閣でした。

 この広田内閣のとき、日本は内政および、外交において軍国主義へと歩むようになります。

 内政においては、軍部大臣現役武官制度が復活しました。これは陸海軍大臣は、もはや現役の軍人に務めてもらわないと国内のクーデターを抑えることが出来ないと判断したからで、1913(大正2)年以来の軍事国家としての日本が復活しました。

 また、外交においても、国際的に孤立していた日本とドイツが互いに手を組み、1936年、日独防共協定が結ばれました。
イタリアは、翌年、これに参加し(日独伊三国防共協定)、続いて国際連盟を脱退しました。

 この背景には、あの大国への警戒がありました。

 その大国とは、ソビエト社会主義共和国連邦ソ連)です。

 大正時代に起こったロシア革命を達成したロシアは、それまでの帝政を廃し、社会主義国として5ヵ年計画を実施。重工業化と農業集団化を促進し、急速にその国力を高めました。

 こうしたソ連社会主義に対抗するために広田内閣は、ドイツやイタリアと手を組んだのです。

 そして、1936年、日本はワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約を失効するため、それに伴い、帝国国防方針の改定を行い、広田内閣は「国策の基準」を示しました。
「国策の基準」とは、陸軍は北進論(対ソ戦)、海軍は南進論(南洋諸島および東南アジアへの進出)をとるという2つの意見が出たため、それらを折衷した新たな日本の軍事的方向性を示したものです。

 つまり、陸軍は「大陸」で戦争を、海軍は「海」で戦争を始めようというのです。戦争への方向性が決まったことで、海軍は戦艦大和(やまと)・武蔵(むさし)を含む大建艦計画を進めました。

 しかし、広田内閣の国内改革は不徹底なもので、これに不満を覚えた運部と、大軍拡に反対する政党の双方から反発を買い、1937年1月、広田内閣は総辞職しました。
元老の西園寺は次の組閣を陸軍の穏健派の宇垣一成(うがきかずしげ)に大命を下しました。しかし、これに反発する陸軍が陸相を推挙しなかったため、宇垣は組閣を断念しました。

 結局、陸軍大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)に組閣を命じるも、これも短命に終わりました。

 元老の西園寺は、何とか戦争を回避しようと希望を託したのは、藤原氏から分かれた摂関家の一つで天皇家を近くで衛(まも)ると書く近衛家の当主である近衛文麿でした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうござました。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史 笹山晴夫=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史  石川昌康=著        旺文社